第六話 三人の夜間調査
夜の大学には、昼間と違う顔がある。
講義棟の窓は暗く、中央広場を行き交う学生もまばらだ。
自動販売機の明かりだけが妙に白く、遠くで閉まる扉の音が、いつもより大きく響く。
そんなキャンパスの奥へ、俺たちは三人で向かっていた。
「……本当に、今日でいいんだよね?」
俺が尋ねると、白瀬灯里が持っていた紙を掲げた。
「うん。施設管理の人から、正式に許可をもらってるよ」
そこには旧講義棟の資料閲覧と撮影について、利用できる区域と時間が書かれていた。
先日の話し合いのあと、俺たちは大学の窓口に相談し、立ち入り可能な資料室を確認してもらった。
学生の調査活動として閲覧申請を出し、担当部署の確認を経て、ようやく今日の夕方に許可が下りたのだ。
利用できるのは一階の閲覧室、二階の資料保管室、そこへ続く廊下まで。
午後八時までには退館し、受付で必ず帰ったことを報告する。
閉鎖された教室や立入禁止区域には入らない。
当たり前の条件ばかりだけれど、今夜の俺たちには大切な約束だった。
「ちゃんと時間も守ろうね」
灯里が言う。
「ああ」
俺、真柴朔は、スマートフォンの時計を確認した。
午後六時四十二分。
まだ余裕はある。
許可が下りるまでの数日間、俺たちは大学の窓口へ何度も足を運んだ。
旧講義棟の写真を撮るだけなら、昼間に外からでもできる。
けれど、昔の授業資料を確認するには、保管室の利用申請が必要だった。
担当の人は最初、夜間の利用に難色を示した。俺たちが事情を説明すると、夜間講座のある日に限り、管理職員のいる時間帯に閲覧を認めてもらえた。
何も特別扱いをしてもらったわけではない。
見ていい資料と、入っていい場所が決まっているだけだ。
その範囲で確かめられることを確かめて、それでも分からなければ次を考える。
それが、三人で決めた方針だった。
「確認しておくけど、途中で変なことが起きたら引き返そうね」
灯里が言った。
「うん。携帯の充電もしてきたし、受付の連絡先も控えてある」
俺はスマートフォンを見せた。
「私は予備のライトと水を持ってきたよ」
こはくがバッグを軽く叩く。
「準備いいね、こはくちゃん」
「ふふ。朔は忘れ物が多いから」
「最近は減っただろ」
「昨日、学生証を机に置きっぱなしにした人が言う?」
「……あれはすぐ気づいた」
灯里が笑った。
「二人って、本当に長い付き合いなんだね」
こはくは少しだけ胸を張る。
「うん。朔のことなら、だいたい分かるよ」
「じゃあ、朔くんが無理しようとしたら、こはくちゃんが止めてね」
「任せて」
「俺、そんなに無茶するつもりないんだけど」
二人から同時に「ほんと?」と聞かれた。
思わず黙る。
少し笑えたことで、さっきまでの緊張がほんの少し薄れた。
「……緊張するね」
隣で、稲守こはくが小さく言った。
彼女の表情はいつもより硬い。
大学の正門を通ったときにはいつもの笑顔だったのに、旧講義棟が近づくにつれ、口数が減っていた。
「こはく、大丈夫か?」
「うん。朔こそ、無理しないでね」
「分かってる」
彼女がそっと俺の袖をつまむ。
その手に、少しだけ力が入っていた。
旧講義棟の入口には、古い真鍮の銘板が掛かっている。
新しい校舎とは違う、厚い石壁と細長い窓。
昼間に見ると静かな建物なのに、夜は奥行きが深くなったように見えた。
「入ろう」
灯里が言う。
俺たちは顔を見合わせ、重いガラス扉を押した。
◇
受付にいた管理担当の職員は、俺たちの学生証と許可書を確認した。
「今夜は二階の資料室までですね。廊下の照明は点いていますが、使っていない部屋も多いので足元に気をつけてください」
「分かりました」
「それから、資料は指定された閲覧台で扱い、持ち出さないこと。必要なら閲覧台で写真を撮ってください」
「はい」
灯里が丁寧に頷く。
職員は入退館記録に三人の名前を記入し、案内図を渡してくれた。
「何かあれば受付へ。閉館前には一度こちらから確認します」
俺たちは礼を言って廊下へ進んだ。
足音が、思ったより遠くまで響く。
床は古い木材で、歩くたびに小さく軋んだ。
壁には歴代の大学祭のポスターや、昔の講義風景を写した写真が飾られている。
そのうち一枚に、俺は見覚えがあった。
「灯里、これ」
俺が指したのは、古い講義室の前で学生たちが並んだ写真だった。
前に図書館で見た、大学新聞の記事に載っていたものと似ている。
「あ、本当だ。もっと大きく印刷されてる」
灯里は壁の前に立ち、構図をじっくり見た。
「……やっぱり、間が空いてるね」
「うん」
写真の中央には、一人が立てそうな幅の空白がある。
周りの学生たちは笑顔なのに、その空いた場所へ視線を向けている人もいた。
「これ、元は何人で撮ったんだろう」
「分からない。でも、今の人数だけで撮ったなら、もっと左右を詰めそう」
灯里は自分のカメラを持ち上げかけたが、すぐに許可書を確認した。
「展示物の撮影はいいって書いてある。フラッシュなしで撮るね」
小さなシャッター音が響く。
「こうして古い写真を撮り直すのって、変な感じだな」
俺が言うと、灯里は頷いた。
「写真の中の人たちは、今はもうここにいないかもしれない。でも、ここに写ってる間は、誰かが見つけられる」
彼女はしばらく、写真から目を離さなかった。
「……相沢くんも、そうだったはずなんだよね」
「うん」
俺は写真の空白を見つめた。
もし、ここにも名前を失った人がいたのなら。
その人を覚えている誰かは、まだいるのだろうか。
答えはなかった。
遠くで、別棟の夜間講座が終わったらしい学生たちの笑い声が聞こえた。
普通の時間が流れている場所と、ここだけが少しずつ離れていくような気がした。
「……すごい。時間が止まってるみたい」
灯里が小声で言った。
「新しい校舎と、全然違うな」
「こういう場所、写真に撮りたくなる」
彼女はカメラを持ち上げかけ、すぐに下ろした。
「でも、まずは許可された場所を確認してからだね」
「さすが」
「ふふ。今日は慎重にいくって決めたから」
灯里が笑う。
その声に、少しだけ普段の空気が戻った。
だが、こはくは廊下の奥を見つめたままだった。
「……朔」
「何?」
「ここ、匂いが違う」
「匂い?」
「古い紙とか木の匂いじゃなくて。もっと、境目みたいな感じ」
俺には分からなかった。
ただ、廊下の突き当たりが、普通の建物より少し暗く見える。
同じ照明が点いているはずなのに、そこだけ光が届きにくいような気がした。
「……こはくちゃん?」
灯里が声をかける。
「何か分かったの?」
こはくは振り向いた。
しばらく迷ってから、ゆっくり息を吐く。
「灯里ちゃん。先に、話しておきたいことがあるの」
「うん?」
「私、人間じゃないんだ」
灯里は目を瞬いた。
「……え?」
こはくは俺を見た。
俺は小さく頷いた。
今夜、何かが起こるかもしれない。
その前に、灯里には知るかどうかを自分で選ぶ権利がある。
こはくは人の来ない廊下の一角で、そっと目を閉じた。
ふわりと金色の狐耳が現れる。
続いて、スカートの後ろから大きな尻尾が一本、ゆっくり広がった。
「……!」
灯里が息を呑む。
目を丸くして、こはくの耳と尻尾を交互に見つめた。
「本物……?」
「うん。触ってみる?」
こはくが少し笑う。
灯里は慌てて首を振った。
「あ、いや! いきなり触るのは失礼かなって」
「ふふ。優しいね」
こはくは尻尾を抱えるようにして立った。
「私は妖狐。人の姿で暮らせる狐の怪異なの」
「妖狐……」
灯里はその言葉を繰り返した。
すぐには笑わなかった。
驚いたまま、何度も呼吸を整えている。
「……ちょっと待ってね。頭が追いつかない」
「うん。待つよ」
こはくは耳を伏せ、灯里の返事を待った。
その間、俺は何も言わなかった。
こはくの正体を知ったとき、俺はまだ子どもだった。
普通の人がいきなり目の前で狐耳と尻尾を見たら、驚くのが当然だ。
「……朔くんは、知ってたの?」
灯里が俺を見る。
「うん。小さい頃から」
「だから、二人ってあんなに自然なんだ」
「まあ、そうかもしれない」
灯里はこはくへ向き直った。
「怖くない、とはすぐに言えない。びっくりしたし、知らないことも多いから」
「……うん」
「でも、こはくちゃんがこはくちゃんじゃなくなるわけじゃないよね」
こはくの耳が、ぴくりと動いた。
「写真を撮って、一緒にケーキを食べて、朔くんのことでちょっと拗ねてたこはくちゃんでしょ?」
「……最後のは、言わなくても」
灯里は小さく笑った。
「だから、嫌いになる理由はないよ。ただ、少しずつ教えてほしい」
こはくはしばらく目を見開いていた。
それから、ほっとしたように笑う。
「……ありがとう、灯里ちゃん」
「ううん。こちらこそ、話してくれてありがとう」
灯里はもう一度、狐耳を見た。
「……写真、撮ってもいい?」
こはくは少し考え、首を振った。
「今日は、やめておきたい。人間の姿じゃない写真、まだ慣れてなくて」
「分かった。勝手には撮らない」
灯里はすぐにカメラを下ろした。
「……もう一つだけ聞いてもいい?」
灯里が言った。
「朔くんが、前から誰もいない場所を見てたのって、こういうこと?」
「うん。子どもの頃から、他の人には見えないものが見えるんだ」
「じゃあ、基礎演習の日に古い窓を見てたのも?」
「あそこに、紙みたいな小鳥がいた。普通の鳥じゃなかったと思う」
「……そっか」
灯里はゆっくり頷いた。
「私、反射の仕方が変なのかと思ってた」
「それも間違いじゃないかもしれない。俺の見間違いだってあるし」
「でも、朔くんには見えて、私には見えないものがあるんだね」
「そういうことになる」
灯里は自分のカメラを見下ろした。
「カメラって、誰が見ても同じものを写すと思ってた。でも、そうとも限らないのかな」
「分からない。だから、俺も確かめてみたい」
「……うん」
彼女は小さく笑った。
「怖いけど、少しだけわくわくもしてる。そんな自分が変かな」
「変じゃないよ」
こはくが答える。
「ただ、お願いがあるの。私のこと、他の人には勝手に話さないでほしい」
「もちろん。こはくちゃんの秘密だもん」
「ありがとう」
「それと、危なくなったら私だけ置いて逃げて、って言わないでね」
こはくが目を瞬いた。
灯里はまっすぐ続ける。
「助けてもらうことはあると思う。でも私も、できることを考えたい」
「……うん。分かった」
こはくは少しだけ照れくさそうに笑った。
「じゃあ、三人で帰ろうね」
「うん」
俺も頷く。
何があっても、誰か一人を取り残さない。
今夜の約束が、一つ増えた。
そのやり取りを見て、俺は少しだけ安心した。
二人は互いに違うところがあっても、ちゃんと話せる。
それが分かっただけで、今夜ここへ来た意味があった気がした。
◇
二階の資料保管室へ向かう階段は、途中で一度折れ曲がっていた。
壁には古い掲示板があり、何年も前の案内が貼られたままになっている。
「……教室番号、昔と違うんだね」
灯里が許可書の図面と壁の案内を見比べた。
「今の地図だと、この先は資料室だけだけど、古い図面にはもう二つ教室がある」
「改修で閉めたんだろうな」
「うん。だからって勝手に行けないけど」
俺たちは許可された廊下を進んだ。
資料室の扉には管理用の札があり、隣には非常口の案内が貼られている。
こはくは扉の前で足を止めた。
「……変な感じがする」
「さっきの匂い?」
「うん。でも、もっと近い」
俺は取っ手へ手を伸ばした。
「入ってみよう」
扉を開けると、古い紙の匂いが流れ出した。
室内には大きな棚がいくつも並び、箱やファイルが整然と積まれている。
閲覧用の机の上には、資料を置くための柔らかい布が敷かれていた。
「暗いね」
灯里が言う。
「照明、点いてるけど奥まで届いてない」
天井の蛍光灯が、一度だけちらついた。
こはくが小さく息を吸う。
「……少しだけ、明るくしてもいい?」
「え?」
灯里が振り向く。
こはくは指先を持ち上げた。
青白い小さな炎が、ふわりと灯る。
「狐火だよ。熱くないから、大丈夫」
炎は宙に浮かび、棚の奥を淡く照らした。
灯里が目を丸くする。
「……すごい」
「こはく、資料に近づけすぎるなよ」
「分かってる。燃え移らないけど、気をつけるね」
こはくは炎を手元へ引き寄せた。
その光に照らされた彼女の横顔は、昼間の大学生とは少し違って見えた。
長い時間を生きてきた妖狐の顔。
でも、俺にはいつものこはくだった。
「朔くん」
灯里が小声で言う。
「君って、昔からこういうの見てたの?」
「うん。全部がこんなにはっきり見えるわけじゃないけど」
「そっか……」
彼女は炎を見つめ、少し考えたあと、カメラではなくノートを取り出した。
「今は、ちゃんと見て覚えようと思う」
俺は頷いた。
資料室の棚には、昔の授業記録や、大学祭のパンフレットが並んでいた。
俺たちは許可された箱だけを机へ移し、日付と内容を確認していく。
「これ、旧講義棟の改修記録」
灯里が見つけたファイルには、二十数年前の工事に関する資料がまとめられていた。
工事の前後で、教室の数が一つ減っている。
「閉鎖した部屋があるのかな」
「そうだと思う。図面にも線が引かれてる」
俺はページをめくった。
部屋番号の一覧がある。
けれど、途中に一行だけ、妙に広い余白があった。
「……ここ」
こはくが指さす。
「何?」
「番号が飛んでる」
確かに、前後の数字が一つ離れていた。
「欠番ってこと?」
灯里が尋ねる。
「そうかもしれない。でも、消し忘れた空白みたいにも見える」
俺は写真を撮る前に、資料室の利用条件を思い出した。
「これ、記録していい範囲だったよな」
「うん。撮影可って書いてある」
灯里は許可書を確かめ、ファイルのページを丁寧に撮影した。
「こっちにも、当時の授業案内がある」
俺は閲覧台の端に置かれた別の冊子を開いた。
学部ごとの時間割と、講義室の配置がまとめられている。
今の大学の案内よりずっと細かく、教室の定員や机の数まで書かれていた。
「……こはく。さっきの欠番、これには載ってる」
「どこ?」
「ここ。第二演習室の隣に、もう一つ小さな教室があるはずなんだ」
こはくが資料をのぞき込む。
「今は、そこに壁しかないの?」
「図面だとそうなってる」
灯里が新しい案内図を広げた。
「改修前の通路が、途中で消えてるみたい」
「工事で塞いだだけかもしれない」
「うん。だから、そこは記録だけしておこう」
灯里はペンの色を変え、確かなことと推測を別々に書いた。
俺たちは先ほど見つけた記事の複写と、ここにある図面を並べる。
二十数年前、旧講義棟の記録に一人分の不足があった。
その頃の写真には、妙に広い空白が残っていた。
改修後の図面からは、教室が一つ減っている。
これらが全部つながっているかは分からない。
でも、何かを見落としている気がした。
「名前が消えるのって、人だけなのかな」
灯里がぽつりと言った。
「どういうこと?」
「もし教室にも名前があって、それが消えたら。みんな、その部屋があったことまで忘れちゃうのかなって」
俺は答えに詰まった。
こはくは険しい顔で、資料の余白を見つめていた。
「……灯里ちゃん、今のは覚えておいて」
「え?」
「ただの思いつきかもしれない。でも、大事なことかもしれないから」
灯里は頷き、ノートに大きく『教室の名前も消える?』と書いた。
その字を見た途端、背後の棚が小さく鳴った。
きしり。
誰も触っていないはずなのに、木材が一度だけ軋んだ。
「……今の」
「古い建物だから、木が動くこともあるよ」
俺はそう言った。
自分に言い聞かせるような声だった。
こはくは何も言わず、狐火を少し手元へ寄せた。
そのとき、廊下の向こうで何かが鳴った。
かつん。
乾いた音だった。
俺たちは同時に顔を上げる。
「……誰かいる?」
灯里が小声で言う。
「職員の人かもしれない」
俺が答えると、こはくは首を振った。
「違う」
「どうして分かる?」
「足音が、一つじゃない」
俺は耳を澄ませた。
廊下の向こうで、こつ、こつ、と何かが歩いている。
でも、その音の間隔が妙に不規則だった。
人間の足音なら、もっと同じリズムになるはずだ。
こはくは狐火を消した。
「……静かに」
俺たちは息を潜めた。
◇
足音は、資料室の前で止まった。
扉の向こうに、誰かが立っている。
そう感じた。
でも、ドアノブは動かない。
灯里が俺の袖をつかんだ。
「……どうしよう」
「ここ、許可された場所だ。無理に動く必要はない」
俺は小さく答えた。
こはくが棚の陰を指さす。
「一度、扉から離れよう」
俺たちは足音を立てないよう、閲覧机の反対側へ移動した。
資料室は狭く、棚と棚の間に人が並んで立てるほどの幅はない。
灯里が扉の陰へ身を寄せる。
俺もその隣へ入ろうとして、思ったより距離が近くなった。
「……あ」
灯里の肩が、俺の胸元に触れた。
古い紙の匂いに混じって、彼女の髪からほのかな石鹸の香りがした。
「ご、ごめん」
「ううん。私こそ……」
灯里は顔を上げかけて、すぐに目をそらした。
暗い室内でも、頬が赤くなっているのが分かった。
こんな状況で、そんなことを意識している場合じゃない。
分かっているのに、心臓がうるさい。
「……朔くん」
「何?」
「もう少しだけ、こっち寄っても大丈夫?」
「えっ」
「扉の隙間から見えそうだから」
「あ、ああ。いいよ」
灯里は一歩近づいた。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
それを見て、彼女が小さく笑いそうになる。
「……こんなときに、変だね」
「本当に」
そのとき、背後からこはくの声がした。
「……朔」
「こはく?」
彼女は俺たちの距離を見て、一瞬だけ目を細めた。
それから、俺の手をぎゅっと握った。
「私もいるよ」
「知ってるって」
「……ちゃんと分かってて」
こはくは少しだけ頬を膨らませた。
灯里がその様子を見て、困ったように笑う。
「ごめん、こはくちゃん。狭くて」
「灯里ちゃんが悪いんじゃないよ」
こはくはそう言いながら、俺の手を離さない。
俺は両方の意味で落ち着かなくなった。
廊下の足音は、いつの間にか消えていた。
「……行った?」
灯里が囁く。
「たぶん」
こはくが扉のほうを見る。
「でも、気をつけて。まだ近くにいるかもしれない」
俺たちはしばらく待ち、何も聞こえないことを確かめてから扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
ただ、床の端に白い小さな紙片が落ちていた。
「……これ」
俺がしゃがむと、こはくが手を伸ばして止めた。
「触らないで」
「分かった」
灯里が少し離れた場所から、スマートフォンで紙片を写真に撮った。
薄い長方形。
何も書かれていない、白い札のようなもの。
相沢の集合写真に写っていた、あの形と似ていた。
「……同じものかな」
灯里が言う。
「分からない。でも、記録しておこう」
俺は答えた。
こはくは白い紙片を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「こはく、何か分かる?」
「……あれ、普通の紙には見えない」
「どういう意味?」
「ちゃんと説明できない。でも、ここに落ちてきたものじゃなくて、向こうから置かれたものみたいな感じがする」
向こう。
その言葉の意味を尋ねようとしたとき、灯里がスマートフォンの画面を見せた。
「……ねえ。さっきの写真、これなんだけど」
画面には、廊下の床が写っている。
俺たちの目には、白い札が確かにあった。
けれど写真では、その位置に小さな黒い染みが残っているだけだった。
「……白くない」
俺が言うと、灯里が頷く。
「うん。光の具合かもしれないけど、こんなふうに黒くなるのは変だと思う」
「フィルムじゃなくても、写り方が変わるんだな」
「だから、見たものも一緒にメモしておく。写真だけだと分からなくなるから」
灯里はノートを開き、白い札の位置と、写真に写った色を書き留めた。
こはくはその様子を見て、少しだけ笑った。
「灯里ちゃん、頼もしいね」
「こはくちゃんが危ないって言ってくれたから、触らずに済んだよ」
灯里も笑い返す。
「さっき、びっくりして朔くんにくっついちゃったのは……ごめんね」
「えっ、いや、灯里ちゃんは悪くないよ」
こはくは慌てて首を振った。
それから俺をちらりと見た。
「……朔が動揺してたのは、ちょっと面白かったけど」
「おい」
「ふふ。心臓の音、聞こえそうだった」
「それ、怖かったせいだからな」
「本当に?」
こはくがいたずらっぽく笑う。
灯里も頬を赤くして、視線をそらした。
「……私も怖かったから、そういうことにしておこうかな」
「……助かる」
短い笑い声が、薄暗い廊下に消えた。
張りつめていた空気が、ほんの一瞬緩む。
だが、白い札は床に落ちたままだった。
誰が置いたのかも分からないまま。
◇
時刻は午後七時二十六分。
退館まで、あと三十分ほどある。
資料室に戻り、閲覧台の上を片付けた。
出したファイルを元の場所へ戻し、閲覧記録を確認する。
灯里は撮った写真の枚数を数え、俺はノートに時刻を書いた。
こはくは扉の前に立ち、廊下の奥を見ていた。
「どう?」
俺が尋ねると、彼女は首を振る。
「さっきより静か。でも、それがちょっと嫌」
「足音は聞こえないよな」
「うん。だから余計に」
俺は出入口の案内図を見た。
来たときと同じ道を戻れば、階段まではすぐだ。
建物の中が静かすぎて、距離感がおかしくなっているだけかもしれない。
「まずは受付まで戻ろう。分かったことも報告できる範囲で伝えよう」
「賛成」
灯里が言った。
「白い札のことは、あとで写真を比べればいいし」
「そうだな」
俺たちは歩き始めた。
けれど、数歩進んだところで、俺は足を止めた。
廊下の壁にある非常口の矢印が、来たときと違う方向を指しているように見えた。
「……あれ」
「どうしたの?」
「この案内、さっきは右向きじゃなかったか?」
灯里が写真を確認する。
「ちょっと待って。入口で撮った廊下の写真だと……右だね」
目の前の矢印は、左を向いていた。
俺たちは顔を見合わせた。
「貼り替えた人がいるのかな」
「こんな短い間に?」
灯里の声が小さくなる。
こはくが俺たちの前に出た。
「……今は矢印を信じないで。来た道を、自分たちで確かめよう」
俺たちは壁の窓と、資料室の扉の位置を確認した。
少なくとも、そこまでは変わっていない。
俺は少しだけ安心した。
帰る道が完全に分からなくなったわけではない。
ただ、廊下の奥に広がる暗さだけが、さっきより濃くなった気がした。
「今日は、ここまでにする?」
灯里が尋ねた。
「そうしたほうがいいかもしれない」
俺は答えかけた。
だが、そのとき、廊下の奥から小さな音が聞こえた。
りん、と鈴のような音。
続いて、どこか懐かしい声がした。
『……出席、取ります』
俺は足を止めた。
「……今、何か聞こえた?」
灯里が不安そうに言う。
「声がした」
俺が答える。
こはくは廊下の奥を見つめ、顔色を変えた。
「……朔。行かないで」
「でも」
「だめ。あの声に返事しちゃだめ」
俺は息を呑んだ。
廊下の突き当たりには、壁があるはずだった。
資料室へ入る前、俺たちは確かに見た。
その壁の向こうは、閉鎖された区域へ続くはずの場所で、図面にも通路は描かれていない。
なのに今、そこに扉があった。
古い木製の教室扉。
上部には曇ったガラスがはまり、横には番号札を取り付けるための金具がある。
番号札は、真っ白だった。
「……さっきまで、こんな扉なかったよね」
灯里が震える声で言う。
「なかった」
俺は答えた。
こはくが俺の手を強く握る。
その反対側から、灯里もそっと俺の手を取った。
「……朔くん。私も、ここにいるよ」
俺は二人を見た。
こはくは不安そうに、灯里は怖さをこらえながら、同じように俺を見つめている。
心臓が早くなる。
それは、二人の手の温かさだけが理由ではなかった。
扉の向こうから、もう一度声がした。
『次の方。お名前を』
白い番号札が、かすかに揺れた。
俺たちは動けなかった。
目の前にあるのは、大学の図面にも記録にも存在しない教室の扉だった。
――第六話 了
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