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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第六話 三人の夜間調査

 夜の大学には、昼間と違う顔がある。


 講義棟の窓は暗く、中央広場を行き交う学生もまばらだ。


 自動販売機の明かりだけが妙に白く、遠くで閉まる扉の音が、いつもより大きく響く。


 そんなキャンパスの奥へ、俺たちは三人で向かっていた。


「……本当に、今日でいいんだよね?」


 俺が尋ねると、白瀬灯里(しらせあかり)が持っていた紙を掲げた。


「うん。施設管理の人から、正式に許可をもらってるよ」


 そこには旧講義棟の資料閲覧と撮影について、利用できる区域と時間が書かれていた。


 先日の話し合いのあと、俺たちは大学の窓口に相談し、立ち入り可能な資料室を確認してもらった。


 学生の調査活動として閲覧申請を出し、担当部署の確認を経て、ようやく今日の夕方に許可が下りたのだ。


 利用できるのは一階の閲覧室、二階の資料保管室、そこへ続く廊下まで。


 午後八時までには退館し、受付で必ず帰ったことを報告する。


 閉鎖された教室や立入禁止区域には入らない。


 当たり前の条件ばかりだけれど、今夜の俺たちには大切な約束だった。


「ちゃんと時間も守ろうね」


 灯里が言う。


「ああ」


 俺、真柴朔(ましばさく)は、スマートフォンの時計を確認した。


 午後六時四十二分。


 まだ余裕はある。


 許可が下りるまでの数日間、俺たちは大学の窓口へ何度も足を運んだ。


 旧講義棟の写真を撮るだけなら、昼間に外からでもできる。


 けれど、昔の授業資料を確認するには、保管室の利用申請が必要だった。


 担当の人は最初、夜間の利用に難色を示した。俺たちが事情を説明すると、夜間講座のある日に限り、管理職員のいる時間帯に閲覧を認めてもらえた。


 何も特別扱いをしてもらったわけではない。


 見ていい資料と、入っていい場所が決まっているだけだ。


 その範囲で確かめられることを確かめて、それでも分からなければ次を考える。


 それが、三人で決めた方針だった。


「確認しておくけど、途中で変なことが起きたら引き返そうね」


 灯里が言った。


「うん。携帯の充電もしてきたし、受付の連絡先も控えてある」


 俺はスマートフォンを見せた。


「私は予備のライトと水を持ってきたよ」


 こはくがバッグを軽く叩く。


「準備いいね、こはくちゃん」


「ふふ。朔は忘れ物が多いから」


「最近は減っただろ」


「昨日、学生証を机に置きっぱなしにした人が言う?」


「……あれはすぐ気づいた」


 灯里が笑った。


「二人って、本当に長い付き合いなんだね」


 こはくは少しだけ胸を張る。


「うん。朔のことなら、だいたい分かるよ」


「じゃあ、朔くんが無理しようとしたら、こはくちゃんが止めてね」


「任せて」


「俺、そんなに無茶するつもりないんだけど」


 二人から同時に「ほんと?」と聞かれた。


 思わず黙る。


 少し笑えたことで、さっきまでの緊張がほんの少し薄れた。


「……緊張するね」


 隣で、稲守(いなもり)こはくが小さく言った。


 彼女の表情はいつもより硬い。


 大学の正門を通ったときにはいつもの笑顔だったのに、旧講義棟が近づくにつれ、口数が減っていた。


「こはく、大丈夫か?」


「うん。朔こそ、無理しないでね」


「分かってる」


 彼女がそっと俺の袖をつまむ。


 その手に、少しだけ力が入っていた。


 旧講義棟の入口には、古い真鍮(しんちゅう)の銘板(めいばん)が掛かっている。


 新しい校舎とは違う、厚い石壁と細長い窓。


 昼間に見ると静かな建物なのに、夜は奥行きが深くなったように見えた。


「入ろう」


 灯里が言う。


 俺たちは顔を見合わせ、重いガラス扉を押した。


     ◇


 受付にいた管理担当の職員は、俺たちの学生証と許可書を確認した。


「今夜は二階の資料室までですね。廊下の照明は点いていますが、使っていない部屋も多いので足元に気をつけてください」


「分かりました」


「それから、資料は指定された閲覧台で扱い、持ち出さないこと。必要なら閲覧台で写真を撮ってください」


「はい」


 灯里が丁寧に頷く。


 職員は入退館記録に三人の名前を記入し、案内図を渡してくれた。


「何かあれば受付へ。閉館前には一度こちらから確認します」


 俺たちは礼を言って廊下へ進んだ。


 足音が、思ったより遠くまで響く。


 床は古い木材で、歩くたびに小さく軋(きし)んだ。


 壁には歴代の大学祭のポスターや、昔の講義風景を写した写真が飾られている。


 そのうち一枚に、俺は見覚えがあった。


「灯里、これ」


 俺が指したのは、古い講義室の前で学生たちが並んだ写真だった。


 前に図書館で見た、大学新聞の記事に載っていたものと似ている。


「あ、本当だ。もっと大きく印刷されてる」


 灯里は壁の前に立ち、構図をじっくり見た。


「……やっぱり、間が空いてるね」


「うん」


 写真の中央には、一人が立てそうな幅の空白がある。


 周りの学生たちは笑顔なのに、その空いた場所へ視線を向けている人もいた。


「これ、元は何人で撮ったんだろう」


「分からない。でも、今の人数だけで撮ったなら、もっと左右を詰めそう」


 灯里は自分のカメラを持ち上げかけたが、すぐに許可書を確認した。


「展示物の撮影はいいって書いてある。フラッシュなしで撮るね」


 小さなシャッター音が響く。


「こうして古い写真を撮り直すのって、変な感じだな」


 俺が言うと、灯里は頷いた。


「写真の中の人たちは、今はもうここにいないかもしれない。でも、ここに写ってる間は、誰かが見つけられる」


 彼女はしばらく、写真から目を離さなかった。


「……相沢くんも、そうだったはずなんだよね」


「うん」


 俺は写真の空白を見つめた。


 もし、ここにも名前を失った人がいたのなら。


 その人を覚えている誰かは、まだいるのだろうか。


 答えはなかった。


 遠くで、別棟の夜間講座が終わったらしい学生たちの笑い声が聞こえた。


 普通の時間が流れている場所と、ここだけが少しずつ離れていくような気がした。


「……すごい。時間が止まってるみたい」


 灯里が小声で言った。


「新しい校舎と、全然違うな」


「こういう場所、写真に撮りたくなる」


 彼女はカメラを持ち上げかけ、すぐに下ろした。


「でも、まずは許可された場所を確認してからだね」


「さすが」


「ふふ。今日は慎重にいくって決めたから」


 灯里が笑う。


 その声に、少しだけ普段の空気が戻った。


 だが、こはくは廊下の奥を見つめたままだった。


「……朔」


「何?」


「ここ、匂いが違う」


「匂い?」


「古い紙とか木の匂いじゃなくて。もっと、境目みたいな感じ」


 俺には分からなかった。


 ただ、廊下の突き当たりが、普通の建物より少し暗く見える。


 同じ照明が点いているはずなのに、そこだけ光が届きにくいような気がした。


「……こはくちゃん?」


 灯里が声をかける。


「何か分かったの?」


 こはくは振り向いた。


 しばらく迷ってから、ゆっくり息を吐く。


「灯里ちゃん。先に、話しておきたいことがあるの」


「うん?」


「私、人間じゃないんだ」


 灯里は目を瞬いた。


「……え?」


 こはくは俺を見た。


 俺は小さく頷いた。


 今夜、何かが起こるかもしれない。


 その前に、灯里には知るかどうかを自分で選ぶ権利がある。


 こはくは人の来ない廊下の一角で、そっと目を閉じた。


 ふわりと金色の狐耳が現れる。


 続いて、スカートの後ろから大きな尻尾が一本、ゆっくり広がった。


「……!」


 灯里が息を呑(の)む。


 目を丸くして、こはくの耳と尻尾を交互に見つめた。


「本物……?」


「うん。触ってみる?」


 こはくが少し笑う。


 灯里は慌てて首を振った。


「あ、いや! いきなり触るのは失礼かなって」


「ふふ。優しいね」


 こはくは尻尾を抱えるようにして立った。


「私は妖狐(ようこ)。人の姿で暮らせる狐の怪異(かいい)なの」


「妖狐……」


 灯里はその言葉を繰り返した。


 すぐには笑わなかった。


 驚いたまま、何度も呼吸を整えている。


「……ちょっと待ってね。頭が追いつかない」


「うん。待つよ」


 こはくは耳を伏せ、灯里の返事を待った。


 その間、俺は何も言わなかった。


 こはくの正体を知ったとき、俺はまだ子どもだった。


 普通の人がいきなり目の前で狐耳と尻尾を見たら、驚くのが当然だ。


「……朔くんは、知ってたの?」


 灯里が俺を見る。


「うん。小さい頃から」


「だから、二人ってあんなに自然なんだ」


「まあ、そうかもしれない」


 灯里はこはくへ向き直った。


「怖くない、とはすぐに言えない。びっくりしたし、知らないことも多いから」


「……うん」


「でも、こはくちゃんがこはくちゃんじゃなくなるわけじゃないよね」


 こはくの耳が、ぴくりと動いた。


「写真を撮って、一緒にケーキを食べて、朔くんのことでちょっと拗ねてたこはくちゃんでしょ?」


「……最後のは、言わなくても」


 灯里は小さく笑った。


「だから、嫌いになる理由はないよ。ただ、少しずつ教えてほしい」


 こはくはしばらく目を見開いていた。


 それから、ほっとしたように笑う。


「……ありがとう、灯里ちゃん」


「ううん。こちらこそ、話してくれてありがとう」


 灯里はもう一度、狐耳を見た。


「……写真、撮ってもいい?」


 こはくは少し考え、首を振った。


「今日は、やめておきたい。人間の姿じゃない写真、まだ慣れてなくて」


「分かった。勝手には撮らない」


 灯里はすぐにカメラを下ろした。


「……もう一つだけ聞いてもいい?」


 灯里が言った。


「朔くんが、前から誰もいない場所を見てたのって、こういうこと?」


「うん。子どもの頃から、他の人には見えないものが見えるんだ」


「じゃあ、基礎演習の日に古い窓を見てたのも?」


「あそこに、紙みたいな小鳥がいた。普通の鳥じゃなかったと思う」


「……そっか」


 灯里はゆっくり頷いた。


「私、反射の仕方が変なのかと思ってた」


「それも間違いじゃないかもしれない。俺の見間違いだってあるし」


「でも、朔くんには見えて、私には見えないものがあるんだね」


「そういうことになる」


 灯里は自分のカメラを見下ろした。


「カメラって、誰が見ても同じものを写すと思ってた。でも、そうとも限らないのかな」


「分からない。だから、俺も確かめてみたい」


「……うん」


 彼女は小さく笑った。


「怖いけど、少しだけわくわくもしてる。そんな自分が変かな」


「変じゃないよ」


 こはくが答える。


「ただ、お願いがあるの。私のこと、他の人には勝手に話さないでほしい」


「もちろん。こはくちゃんの秘密だもん」


「ありがとう」


「それと、危なくなったら私だけ置いて逃げて、って言わないでね」


 こはくが目を瞬いた。


 灯里はまっすぐ続ける。


「助けてもらうことはあると思う。でも私も、できることを考えたい」


「……うん。分かった」


 こはくは少しだけ照れくさそうに笑った。


「じゃあ、三人で帰ろうね」


「うん」


 俺も頷く。


 何があっても、誰か一人を取り残さない。


 今夜の約束が、一つ増えた。


 そのやり取りを見て、俺は少しだけ安心した。


 二人は互いに違うところがあっても、ちゃんと話せる。


 それが分かっただけで、今夜ここへ来た意味があった気がした。


     ◇


 二階の資料保管室へ向かう階段は、途中で一度折れ曲がっていた。


 壁には古い掲示板があり、何年も前の案内が貼られたままになっている。


「……教室番号、昔と違うんだね」


 灯里が許可書の図面と壁の案内を見比べた。


「今の地図だと、この先は資料室だけだけど、古い図面にはもう二つ教室がある」


「改修で閉めたんだろうな」


「うん。だからって勝手に行けないけど」


 俺たちは許可された廊下を進んだ。


 資料室の扉には管理用の札があり、隣には非常口の案内が貼られている。


 こはくは扉の前で足を止めた。


「……変な感じがする」


「さっきの匂い?」


「うん。でも、もっと近い」


 俺は取っ手へ手を伸ばした。


「入ってみよう」


 扉を開けると、古い紙の匂いが流れ出した。


 室内には大きな棚がいくつも並び、箱やファイルが整然と積まれている。


 閲覧用の机の上には、資料を置くための柔らかい布が敷かれていた。


「暗いね」


 灯里が言う。


「照明、点いてるけど奥まで届いてない」


 天井の蛍光灯が、一度だけちらついた。


 こはくが小さく息を吸う。


「……少しだけ、明るくしてもいい?」


「え?」


 灯里が振り向く。


 こはくは指先を持ち上げた。


 青白い小さな炎が、ふわりと灯る。


「狐火(きつねび)だよ。熱くないから、大丈夫」


 炎は宙に浮かび、棚の奥を淡く照らした。


 灯里が目を丸くする。


「……すごい」


「こはく、資料に近づけすぎるなよ」


「分かってる。燃え移らないけど、気をつけるね」


 こはくは炎を手元へ引き寄せた。


 その光に照らされた彼女の横顔は、昼間の大学生とは少し違って見えた。


 長い時間を生きてきた妖狐の顔。


 でも、俺にはいつものこはくだった。


「朔くん」


 灯里が小声で言う。


「君って、昔からこういうの見てたの?」


「うん。全部がこんなにはっきり見えるわけじゃないけど」


「そっか……」


 彼女は炎を見つめ、少し考えたあと、カメラではなくノートを取り出した。


「今は、ちゃんと見て覚えようと思う」


 俺は頷いた。


 資料室の棚には、昔の授業記録や、大学祭のパンフレットが並んでいた。


 俺たちは許可された箱だけを机へ移し、日付と内容を確認していく。


「これ、旧講義棟の改修記録」


 灯里が見つけたファイルには、二十数年前の工事に関する資料がまとめられていた。


 工事の前後で、教室の数が一つ減っている。


「閉鎖した部屋があるのかな」


「そうだと思う。図面にも線が引かれてる」


 俺はページをめくった。


 部屋番号の一覧がある。


 けれど、途中に一行だけ、妙に広い余白があった。


「……ここ」


 こはくが指さす。


「何?」


「番号が飛んでる」


 確かに、前後の数字が一つ離れていた。


「欠番ってこと?」


 灯里が尋ねる。


「そうかもしれない。でも、消し忘れた空白みたいにも見える」


 俺は写真を撮る前に、資料室の利用条件を思い出した。


「これ、記録していい範囲だったよな」


「うん。撮影可って書いてある」


 灯里は許可書を確かめ、ファイルのページを丁寧に撮影した。


「こっちにも、当時の授業案内がある」


 俺は閲覧台の端に置かれた別の冊子を開いた。


 学部ごとの時間割と、講義室の配置がまとめられている。


 今の大学の案内よりずっと細かく、教室の定員や机の数まで書かれていた。


「……こはく。さっきの欠番、これには載ってる」


「どこ?」


「ここ。第二演習室の隣に、もう一つ小さな教室があるはずなんだ」


 こはくが資料をのぞき込む。


「今は、そこに壁しかないの?」


「図面だとそうなってる」


 灯里が新しい案内図を広げた。


「改修前の通路が、途中で消えてるみたい」


「工事で塞いだだけかもしれない」


「うん。だから、そこは記録だけしておこう」


 灯里はペンの色を変え、確かなことと推測を別々に書いた。


 俺たちは先ほど見つけた記事の複写と、ここにある図面を並べる。


 二十数年前、旧講義棟の記録に一人分の不足があった。


 その頃の写真には、妙に広い空白が残っていた。


 改修後の図面からは、教室が一つ減っている。


 これらが全部つながっているかは分からない。


 でも、何かを見落としている気がした。


「名前が消えるのって、人だけなのかな」


 灯里がぽつりと言った。


「どういうこと?」


「もし教室にも名前があって、それが消えたら。みんな、その部屋があったことまで忘れちゃうのかなって」


 俺は答えに詰まった。


 こはくは険しい顔で、資料の余白を見つめていた。


「……灯里ちゃん、今のは覚えておいて」


「え?」


「ただの思いつきかもしれない。でも、大事なことかもしれないから」


 灯里は頷き、ノートに大きく『教室の名前も消える?』と書いた。


 その字を見た途端、背後の棚が小さく鳴った。


 きしり。


 誰も触っていないはずなのに、木材が一度だけ軋んだ。


「……今の」


「古い建物だから、木が動くこともあるよ」


 俺はそう言った。


 自分に言い聞かせるような声だった。


 こはくは何も言わず、狐火を少し手元へ寄せた。


 そのとき、廊下の向こうで何かが鳴った。


 かつん。


 乾いた音だった。


 俺たちは同時に顔を上げる。


「……誰かいる?」


 灯里が小声で言う。


「職員の人かもしれない」


 俺が答えると、こはくは首を振った。


「違う」


「どうして分かる?」


「足音が、一つじゃない」


 俺は耳を澄ませた。


 廊下の向こうで、こつ、こつ、と何かが歩いている。


 でも、その音の間隔が妙に不規則だった。


 人間の足音なら、もっと同じリズムになるはずだ。


 こはくは狐火を消した。


「……静かに」


 俺たちは息を潜めた。


     ◇


 足音は、資料室の前で止まった。


 扉の向こうに、誰かが立っている。


 そう感じた。


 でも、ドアノブは動かない。


 灯里が俺の袖をつかんだ。


「……どうしよう」


「ここ、許可された場所だ。無理に動く必要はない」


 俺は小さく答えた。


 こはくが棚の陰を指さす。


「一度、扉から離れよう」


 俺たちは足音を立てないよう、閲覧机の反対側へ移動した。


 資料室は狭く、棚と棚の間に人が並んで立てるほどの幅はない。


 灯里が扉の陰へ身を寄せる。


 俺もその隣へ入ろうとして、思ったより距離が近くなった。


「……あ」


 灯里の肩が、俺の胸元に触れた。


 古い紙の匂いに混じって、彼女の髪からほのかな石鹸の香りがした。


「ご、ごめん」


「ううん。私こそ……」


 灯里は顔を上げかけて、すぐに目をそらした。


 暗い室内でも、頬が赤くなっているのが分かった。


 こんな状況で、そんなことを意識している場合じゃない。


 分かっているのに、心臓がうるさい。


「……朔くん」


「何?」


「もう少しだけ、こっち寄っても大丈夫?」


「えっ」


「扉の隙間から見えそうだから」


「あ、ああ。いいよ」


 灯里は一歩近づいた。


 俺は反射的に背筋を伸ばした。


 それを見て、彼女が小さく笑いそうになる。


「……こんなときに、変だね」


「本当に」


 そのとき、背後からこはくの声がした。


「……朔」


「こはく?」


 彼女は俺たちの距離を見て、一瞬だけ目を細めた。


 それから、俺の手をぎゅっと握った。


「私もいるよ」


「知ってるって」


「……ちゃんと分かってて」


 こはくは少しだけ頬を膨らませた。


 灯里がその様子を見て、困ったように笑う。


「ごめん、こはくちゃん。狭くて」


「灯里ちゃんが悪いんじゃないよ」


 こはくはそう言いながら、俺の手を離さない。


 俺は両方の意味で落ち着かなくなった。


 廊下の足音は、いつの間にか消えていた。


「……行った?」


 灯里が囁く。


「たぶん」


 こはくが扉のほうを見る。


「でも、気をつけて。まだ近くにいるかもしれない」


 俺たちはしばらく待ち、何も聞こえないことを確かめてから扉を開けた。


 廊下には誰もいなかった。


 ただ、床の端に白い小さな紙片が落ちていた。


「……これ」


 俺がしゃがむと、こはくが手を伸ばして止めた。


「触らないで」


「分かった」


 灯里が少し離れた場所から、スマートフォンで紙片を写真に撮った。


 薄い長方形。


 何も書かれていない、白い札のようなもの。


 相沢の集合写真に写っていた、あの形と似ていた。


「……同じものかな」


 灯里が言う。


「分からない。でも、記録しておこう」


 俺は答えた。


 こはくは白い紙片を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「こはく、何か分かる?」


「……あれ、普通の紙には見えない」


「どういう意味?」


「ちゃんと説明できない。でも、ここに落ちてきたものじゃなくて、向こうから置かれたものみたいな感じがする」


 向こう。


 その言葉の意味を尋ねようとしたとき、灯里がスマートフォンの画面を見せた。


「……ねえ。さっきの写真、これなんだけど」


 画面には、廊下の床が写っている。


 俺たちの目には、白い札が確かにあった。


 けれど写真では、その位置に小さな黒い染みが残っているだけだった。


「……白くない」


 俺が言うと、灯里が頷く。


「うん。光の具合かもしれないけど、こんなふうに黒くなるのは変だと思う」


「フィルムじゃなくても、写り方が変わるんだな」


「だから、見たものも一緒にメモしておく。写真だけだと分からなくなるから」


 灯里はノートを開き、白い札の位置と、写真に写った色を書き留めた。


 こはくはその様子を見て、少しだけ笑った。


「灯里ちゃん、頼もしいね」


「こはくちゃんが危ないって言ってくれたから、触らずに済んだよ」


 灯里も笑い返す。


「さっき、びっくりして朔くんにくっついちゃったのは……ごめんね」


「えっ、いや、灯里ちゃんは悪くないよ」


 こはくは慌てて首を振った。


 それから俺をちらりと見た。


「……朔が動揺してたのは、ちょっと面白かったけど」


「おい」


「ふふ。心臓の音、聞こえそうだった」


「それ、怖かったせいだからな」


「本当に?」


 こはくがいたずらっぽく笑う。


 灯里も頬を赤くして、視線をそらした。


「……私も怖かったから、そういうことにしておこうかな」


「……助かる」


 短い笑い声が、薄暗い廊下に消えた。


 張りつめていた空気が、ほんの一瞬緩む。


 だが、白い札は床に落ちたままだった。


 誰が置いたのかも分からないまま。


     ◇


 時刻は午後七時二十六分。


 退館まで、あと三十分ほどある。


 資料室に戻り、閲覧台の上を片付けた。


 出したファイルを元の場所へ戻し、閲覧記録を確認する。


 灯里は撮った写真の枚数を数え、俺はノートに時刻を書いた。


 こはくは扉の前に立ち、廊下の奥を見ていた。


「どう?」


 俺が尋ねると、彼女は首を振る。


「さっきより静か。でも、それがちょっと嫌」


「足音は聞こえないよな」


「うん。だから余計に」


 俺は出入口の案内図を見た。


 来たときと同じ道を戻れば、階段まではすぐだ。


 建物の中が静かすぎて、距離感がおかしくなっているだけかもしれない。


「まずは受付まで戻ろう。分かったことも報告できる範囲で伝えよう」


「賛成」


 灯里が言った。


「白い札のことは、あとで写真を比べればいいし」


「そうだな」


 俺たちは歩き始めた。


 けれど、数歩進んだところで、俺は足を止めた。


 廊下の壁にある非常口の矢印が、来たときと違う方向を指しているように見えた。


「……あれ」


「どうしたの?」


「この案内、さっきは右向きじゃなかったか?」


 灯里が写真を確認する。


「ちょっと待って。入口で撮った廊下の写真だと……右だね」


 目の前の矢印は、左を向いていた。


 俺たちは顔を見合わせた。


「貼り替えた人がいるのかな」


「こんな短い間に?」


 灯里の声が小さくなる。


 こはくが俺たちの前に出た。


「……今は矢印を信じないで。来た道を、自分たちで確かめよう」


 俺たちは壁の窓と、資料室の扉の位置を確認した。


 少なくとも、そこまでは変わっていない。


 俺は少しだけ安心した。


 帰る道が完全に分からなくなったわけではない。


 ただ、廊下の奥に広がる暗さだけが、さっきより濃くなった気がした。


「今日は、ここまでにする?」


 灯里が尋ねた。


「そうしたほうがいいかもしれない」


 俺は答えかけた。


 だが、そのとき、廊下の奥から小さな音が聞こえた。


 りん、と鈴のような音。


 続いて、どこか懐かしい声がした。


『……出席、取ります』


 俺は足を止めた。


「……今、何か聞こえた?」


 灯里が不安そうに言う。


「声がした」


 俺が答える。


 こはくは廊下の奥を見つめ、顔色を変えた。


「……朔。行かないで」


「でも」


「だめ。あの声に返事しちゃだめ」


 俺は息を呑んだ。


 廊下の突き当たりには、壁があるはずだった。


 資料室へ入る前、俺たちは確かに見た。


 その壁の向こうは、閉鎖された区域へ続くはずの場所で、図面にも通路は描かれていない。


 なのに今、そこに扉があった。


 古い木製の教室扉。


 上部には曇ったガラスがはまり、横には番号札を取り付けるための金具がある。


 番号札は、真っ白だった。


「……さっきまで、こんな扉なかったよね」


 灯里が震える声で言う。


「なかった」


 俺は答えた。


 こはくが俺の手を強く握る。


 その反対側から、灯里もそっと俺の手を取った。


「……朔くん。私も、ここにいるよ」


 俺は二人を見た。


 こはくは不安そうに、灯里は怖さをこらえながら、同じように俺を見つめている。


 心臓が早くなる。


 それは、二人の手の温かさだけが理由ではなかった。


 扉の向こうから、もう一度声がした。


『次の方。お名前を』


 白い番号札が、かすかに揺れた。


 俺たちは動けなかった。


 目の前にあるのは、大学の図面にも記録にも存在しない教室の扉だった。


 ――第六話 了


ここまで読んでくれてありがとうございました!


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