第五話 妖狐の忠告
朝、目を覚まして最初に確かめたのは、自分の名前ではなかった。
机に開いたノートの、一番上の行。
相沢拓海。
昨夜、俺が何度も書いた友人の名前だ。
「……残ってる」
思わず息を吐いた。
東雲大学の基礎演習で出会った相沢は、昨日、出席表と周囲の記憶から消えてしまった。
教員も学生も彼を覚えていない。
四人で撮ったはずの写真は、三人だけのものに変わっている。
なのに俺だけは、あいつの声も、笑い方も、妙にはっきり覚えていた。
自分の記憶が正しいという証拠はない。
それでも、名前が紙の上に残っているだけで、少し救われた気がした。
スマートフォンを開く。
昨夜、こはくと別れたあとに撮った、ノートの写真も残っていた。
そこには同じ字が並んでいる。
もし明日、これまで消えてしまったら。
そんなことを考えて、俺は首を振った。
「……まずは朝飯だな」
冷蔵庫から卵を取り出す。
こはくに教わった通り、火を弱めて、ゆっくり混ぜる。
今度は焦げなかった。
小さな成功に、少しだけ笑う。
大学生活は、まだ始まったばかりだ。
だからこそ、一人の友人がいなくなったことを、何となく流してしまいたくなかった。
◇
大学へ着くと、中央広場のベンチに白瀬さんがいた。
白瀬灯里は、膝の上にノートを広げ、カメラケースを隣へ置いていた。
「おはよう、真柴くん」
「おはよう。昨日のことなんだけど」
「うん。私も、それを話したかった」
彼女はノートをこちらへ向けた。
昨日、俺が話した相沢のことが、几帳面な字で書かれている。
名前。
初回の基礎演習で同じ班だったこと。
青いペンで『迷ったら時計台』と書いた地図。
そして、四人で撮ったという集合写真。
「消えてないんだな」
「うん。でも……」
白瀬さんは少し俯いた。
「私自身の記憶は、やっぱり戻らない」
「そっか」
「相沢くんって名前を読んでも、顔が浮かばないんだ。真柴くんが話してくれたことは覚えてる。でも、自分が本人と話した記憶はない」
彼女はノートの端を指で押さえた。
「不思議だよね。人の話を聞いた記憶はあるのに、その人に会った記憶がないなんて」
「……うん」
「だから、書いておいてよかったと思う」
白瀬さんは顔を上げた。
「少なくとも、昨日の私が何を考えてたかは分かるから」
俺は頷いた。
過去の記憶が奪われても、今から新しく書いた記録は残る。
それがいつまで続くのかは分からない。
でも、今の俺たちには大切な手がかりだった。
「それでね、昨日のあと、写真をもう一度見たんだ」
白瀬さんは封筒から集合写真を出した。
俺、こはく、白瀬さん。
三人の間に、広すぎる空白。
そして、誰のものでもない一本の影。
「ここ」
彼女が指したのは、石壁の足元だった。
「白い札みたいなの、写ってるでしょ」
「俺も昨日、気づいた」
「最初は光の反射かと思ったけど、拡大すると縁が妙にはっきりしてる」
「文字は?」
「何も見えない。小さすぎて、分からないだけかもしれないけど」
白瀬さんは写真を封筒に戻した。
「私、大学の古い資料を見てみようと思うんだ」
「古い資料?」
「写真サークルの先輩に聞いたの。図書館に、昔の大学新聞とか、卒業記念の冊子が置いてあるって」
「それなら、何か分かるかもしれないな」
「うん。今の写真と似たものがないか、探してみたい」
彼女はカメラケースを持ち上げた。
「真柴くん、一緒に行かない?」
「もちろん」
答えると、白瀬さんは少しだけ安心したように笑った。
◇
図書館の資料室は、一般の閲覧席から少し離れた場所にあった。
受付で利用方法を聞き、閲覧できる古い大学新聞や記念誌を出してもらう。
厚い冊子の表紙には、今とは違う大学の名前のロゴが印刷されている。
「こんなにあるんだ」
「創立からずっと残してるみたい」
白瀬さんは古い新聞を慎重にめくった。
紙は少し黄ばんでいて、写真の印刷も今ほど鮮明ではない。
昔の学園祭、部活動の大会、講義棟の増築。
どのページにも、誰かの大学生活が詰まっていた。
「写真って、こういうところでも役に立つんだな」
俺が言うと、白瀬さんが笑った。
「でしょ。文章だけだと分からない、そのときの雰囲気が見えるから」
「白瀬さんが写真を好きになったのも、そういう理由?」
「うん。小さい頃、祖父に古いアルバムを見せてもらってね。今はもう建て替わった商店街とか、若い頃のおばあちゃんとか、私が知らないものがいっぱい写ってたの」
白瀬さんは記念誌の表紙を優しく撫でた。
「会ったことのない人なのに、写真を見て話を聞くと、少しだけ知り合えた気がするんだ」
「……分かる気がする」
「だから、相沢くんのことも気になって。私が本人を覚えていなくても、写真を撮った時間までなかったことにはしたくない」
俺は頷いた。
白瀬さんには、俺と違う理由がある。
記憶を奪われたからこそ、何かを残したいと思っているのだ。
それは、俺一人では思いつかなかった向き合い方だった。
机の上には、何十年分もの学生たちの笑顔がある。
この中の一人が突然消えても、誰も気づかないのだろうか。
そんな想像が頭をよぎり、背筋が冷たくなった。
俺は何冊かの記念誌を開き、校舎の配置図を見比べた。
古い地図には、現在のキャンパスにはない通路が描かれている。
今は『旧講義棟』と呼ばれている建物が、当時は授業の中心だったらしい。
見比べているうちに、別のことも分かった。
旧講義棟の裏側には、現在の案内図に載っていない小さな中庭がある。
古い地図には渡り廊下でつながる道が描かれているが、今の地図では建物の輪郭が途中で切れていた。
「改修で塞いだのかな」
俺が呟くと、白瀬さんが地図をのぞき込んだ。
「そうかもしれない。古い建物って、安全のために一部を閉めることもあるし」
「確かに。これだけじゃ怪異とは限らないよな」
「うん。分からないことを全部怪しいって決めつけたら、何も確かめられなくなる」
白瀬さんはそう言って、新旧の地図に違う色の付箋を貼った。
その丁寧さが、今はありがたかった。
「この建物、今よりずっと大きく使われてたんだな」
「え?」
「ほら、ここ。今は閉まってる廊下の先にも、教室がある」
白瀬さんが身を乗り出す。
「ほんとだ。撮影会のとき、窓が並んでたところかな」
「たぶん」
そのとき、彼女の指が古い新聞の一角で止まった。
「……真柴くん、これ」
記事の見出しは、『旧講義棟の利用記録を再調査』。
今から二十数年前のものだった。
老朽化した校舎を改修する際、過去の授業記録に食い違いが見つかったという短い記事だ。
履修した学生の人数と、提出された課題の数が合わない。
当時のゼミ写真にも、妙に不自然な空間が残っている。
だが、記事はそれ以上詳しく書いていなかった。
「……似てる」
俺は呟いた。
「名簿と実際の人数が合わないんだろ」
「うん。でも、この記事だと事務的な記録ミスとして扱われてる」
白瀬さんは指先で文字を追った。
「当時は、こんなことが起きてたって誰も思わなかったのかもしれない」
俺は写真の小さな枠を見た。
古い講義室の前に並ぶ学生たち。
右端には、一人が立てそうな幅の空白がある。
それだけなら、偶然かもしれない。
けれど、相沢の写真を見たあとでは、簡単に見過ごせなかった。
「この写真、拡大できないかな」
「資料室の人に、複写できるか聞いてみよう」
白瀬さんが手を挙げて職員を呼んだ。
許可された範囲で資料を複写し、記事の年月と掲載ページをメモする。
白瀬さんの手つきは、写真を撮るときと同じくらい丁寧だった。
「真柴くん、もう一つ気になることがある」
「何?」
「旧講義棟の記事、この時期だけ続いてるの」
彼女が示したのは、次の号に載った小さな訂正欄だった。
最初の記事の『学生一人分の記録に不足』という表現が、後の号では『集計の誤差』に修正されている。
「訂正した人の名前は?」
「編集部名義になってる。担当者までは分からないね」
俺は二つの記事を並べた。
最初の記事では、調査した教員が『人数の差については確認中』と話したことになっている。
ところが、訂正欄には調査が終わった日付も、確認に使った資料も載っていない。
「これだけだと、ただの訂正なのか、何かあったのか分からないな」
「うん。むしろ、今の私たちが相沢くんの件を知ってるから、気になるのかもしれない」
白瀬さんは落ち着いていた。
俺も彼女の言葉に頷く。
証拠がほしいあまり、何でも同じ事件に見えてしまうのは危険だ。
「でも、調べる価値はあると思う」
白瀬さんは写真の隅を指さした。
「この集合写真。少し端が切れたとか、撮影の間隔が広いだけなら説明できる。でも、こっちの人たち、みんな真ん中の空白へ顔を向けてるように見えるんだ」
よく見ると、確かに何人かの学生の視線が、空いている場所へ集まっていた。
そこに誰かが立っているつもりで、撮影されたみたいに。
「……気のせいかもしれないけど」
「うん。でも、記録しておこう」
俺たちは『配置と視線が不自然』とだけ、ノートに書き足した。
「わざわざ言い換えてるんだな」
「うん。何があったのかは分からないけど」
俺は記事の見出しをノートに書き写した。
二十数年前の、旧講義棟。
人数の食い違い。
一人分の空白。
まるで、相沢の事件を先に経験した誰かがいたみたいだった。
◇
昼過ぎ、こはくからメッセージが届いた。
『朔、今どこ? 少し話したいことがある』
俺たちは図書館を出て、近くのベンチで待ち合わせた。
稲守こはくは、少し大きめの布袋を抱えてやってきた。
「お待たせ」
「それ、何?」
「古いノート。家にあったものを、借りてきたんだ」
彼女は隣へ座り、表紙が色褪せた一冊を取り出した。
何代も前から書き継がれてきたという、稲守の家の覚え書きらしい。
「私も昔、少し読んだことはあったんだけど。もう一回確かめたくて」
「何が書いてあるの?」
「人間と怪異の間で起きたこと。仲よく暮らしていた話も、うまくいかなかった話も」
こはくはページをめくった。
細い筆文字が並んでいる。
ところどころ、古い言い回しが残っていて俺には読みづらい。
「この辺り」
彼女が指さした一節には、こう書かれていた。
『名を失う者、帰る道を見失う』
「名前を失うと、帰れなくなる?」
「そう。家も、友達も、自分を呼んでくれる人も分からなくなる。そんな怪異の言い伝えがあるの」
白瀬さんが息を呑んだ。
「それって、相沢くんのこと?」
「まだ、そうとは言えない」
こはくは慎重に答えた。
「昔の言葉は、いろんな意味に読めるから。似た話があるというだけ」
「でも、名簿から消えることと関係があるかもしれないんだね」
「……うん」
こはくはページを閉じた。
「それから、場所の話もある」
「場所?」
「人がたくさん集まって、名前を呼ばれる場所。学校とか、役所とか。そういうところで起きやすい、って」
「大学も……そうか」
俺は顔を上げた。
「白瀬さん、さっきの旧講義棟の記事」
「うん。こはくちゃん、これ見て」
白瀬さんは資料の複写を取り出した。
こはくが記事を読み進めるにつれ、表情が曇っていく。
「……旧講義棟」
「何か知ってる?」
俺が聞く。
「あの建物、昔から変な話が多かった。人がいない教室から返事がするとか、廊下の数が合わないとか」
「怪談みたいだな」
「怪談だよ。だけど、全部が作り話とは限らない」
こはくはノートを見つめた。
「この町では昔、人と怪異が互いの存在を認め合う約束があったの。だけど、今はその約束を覚えている人がほとんどいない」
「神社の石碑に書かれてたこと?」
「……たぶん、そう」
彼女はそれ以上言わなかった。
でも、俺は急かさなかった。
今は無理に聞き出すより、分かっていることを少しずつ重ねるべきだと思ったからだ。
◇
「つまり、次は旧講義棟を見に行けばいいんだね」
白瀬さんが言った。
その一言に、こはくの表情が変わった。
「……待って」
「え?」
「灯里ちゃんは、ここまでにしておいたほうがいい」
白瀬さんが目を瞬いた。
「どうして?」
「危ないかもしれないから」
「私だって、危ないかもって思ってるよ」
「そういう意味じゃなくて」
こはくは言いかけて、口をつぐんだ。
俺には理由が分かる。
こはくは妖狐で、俺には怪異が見える。
でも白瀬さんは、普通の人間だ。
もし本当に危険な怪異が関わっているなら、彼女を守りきれる保証はない。
「こはく、落ち着いて」
俺が言うと、こはくは小さく首を振った。
「朔も、分かってるでしょ」
「分かってる。でも、白瀬さんの話も聞こう」
白瀬さんは二人を見比べた。
「……何か、私だけ知らないことがある?」
しばらく、誰も答えなかった。
風がベンチの脇の葉を揺らす。
遠くで、サークルの勧誘の声が聞こえた。
普通の昼休みの中で、この場所だけが静かだった。
「灯里ちゃん」
こはくが口を開いた。
「私は、危ないものを知ってる。だから、軽い気持ちで近づいてほしくないの」
「軽い気持ちじゃないよ」
白瀬さんはすぐに答えた。
「怖いのは本当。でも、写真を撮ったのは私だし、異変に気づいたのも私なんだ」
彼女は膝の上の封筒を握った。
「真柴くんが言う相沢くんのこと、私は覚えてない。でも、写真には一人分の空白がある。見なかったことにはできないよ」
「……灯里ちゃん」
「もし危険なら、ちゃんと方法を考えよう。勝手に建物へ入ったりしないし、無理もしない」
白瀬さんの声は震えていた。
それでも、目をそらさなかった。
「私は、自分で決めたい」
白瀬さんはまっすぐ、こはくを見ていた。
いつもなら笑って場を和ませる彼女が、今日は笑っていない。
俺は考える。
こはくの心配は正しい。怪異が相手なら、俺たちに何が起こるか分からない。
だけど白瀬さんは、ただ面白そうだから首を突っ込んでいるわけではない。
写真を残した責任と、自分の記憶を信じられなくなった怖さを、ちゃんと引き受けようとしている。
彼女の意思を無視して守ったつもりになるのは、きっと違う。
その一方で、本人が望むからといって、無条件に危険な場所へ連れていくのも違う。
俺たちには、話し合う時間が必要だった。
こはくは何も言わなかった。
俺は二人の間で、ゆっくり息を吐いた。
「……こはく」
「うん」
「俺も、白瀬さんを危険に巻き込みたくない。でも、もう写真のことを知ってるし、本人が調べたいって言ってる」
こはくは唇を噛んだ。
「それに、俺だけじゃ何も分からなかった。白瀬さんが写真を残してくれたから、ここまで来られたんだ」
「……分かってる」
「だから、三人で話し合って決めよう」
長い沈黙があった。
やがて、こはくは目を伏せた。
「……ごめん」
白瀬さんが驚いたように顔を上げる。
「私、灯里ちゃんの気持ちをちゃんと聞かずに、決めようとしてた」
「ううん。心配してくれたんだよね」
「……うん」
こはくは少しだけ笑った。
「じゃあ、約束して。危ないと思ったら、その場で引き返すこと」
「分かった」
「一人で行動しないこと。あと、無理に何かを触ったりしないこと」
「うん。守る」
「それと……」
こはくは言葉を探し、最後に小さく付け加えた。
「分からないことがあったら、ちゃんと聞いて。私も、言えることは話すから」
白瀬さんは柔らかく笑った。
「ありがとう、こはくちゃん」
こはくも頷いた。
その瞬間、俺たちの間にあった見えない壁が、少しだけ低くなった気がした。
◇
次に何をするか、三人で具体的に話し合った。
旧講義棟は現在、一部の部屋が資料保管用に使われている。
立ち入りには大学側の許可が必要で、勝手に入ることはできない。
「まずは管理してる部署に相談してみよう」
俺が言うと、白瀬さんが頷いた。
「写真サークルの活動として、見学できる範囲を聞くのもいいかも。もちろん、理由は正直に伝えて」
「夜にしか見えないものがある、って言うわけにはいかないけどね」
こはくが苦笑する。
「でも、古い校舎の記録を調べたいっていうのは本当だろ」
「うん。資料室の利用についても聞けるかもしれない」
白瀬さんはノートに予定を書き込んだ。
次の空き時間に管理窓口へ問い合わせる。
許可が取れるまでは、公開されている資料だけを調べる。
写真とネガは保管し、変化があれば記録する。
そして、行動するときは三人で連絡を取り合う。
「……何だか、ちゃんとした調査みたい」
白瀬さんが少し笑った。
「ちゃんとしないと危ないんだろ」
「そうだね」
こはくも微笑む。
俺は二人を見て、ようやく少しだけ前へ進める気がした。
相沢がどこにいるのかは分からない。
怪異が関わっているのかどうかも、まだ確かではない。
それでも、一人で抱え込むよりずっといい。
誰かと考え、誰かと確かめ、分からないことを分からないと言える。
それだけで、恐怖の形が少し変わった。
「……あのさ」
白瀬さんが、遠慮がちに手を挙げた。
「一つだけ、お願いしてもいい?」
「何?」
「これからは、灯里って呼んでくれないかな。三人で調べるのに、私だけずっと苗字だと、ちょっと距離がある気がして」
こはくがぱっと笑った。
「うん。私はもう灯里ちゃんって呼んでるもんね」
「そう。真柴くんも、よかったら」
「……分かった。灯里、でいい?」
「うん!」
灯里は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、私も朔くんって呼ぼうかな」
「それは……好きにしていいけど」
「やった」
隣で、こはくが小さく咳払いをした。
「……朔のこと、下の名前で呼ぶんだ」
「だめ?」
「だめじゃないよ。ただ、ちょっとだけ新鮮」
こはくは笑顔を作ったが、俺にはその頬が少し膨らんで見えた。
灯里も気づいたのか、困ったように微笑む。
さっきまで張りつめていた空気が、ほんの少し緩んだ。
俺は思わず笑い、二人から同時に「何がおかしいの?」と聞かれることになった。
◇
夕方、調査の話を終えて解散すると、こはくは俺の袖を引いた。
「朔。今夜、神社に来られる?」
「神社?」
「うん。少し、二人で話したい」
声がいつもより静かだった。
「分かった。何時?」
「八時くらい。人が少ない時間がいい」
「……大丈夫なのか?」
「うん。私がいるから」
こはくは笑った。
けれどその笑顔には、昼間とは違う緊張が残っていた。
◇
夜の神社は、昼間とは別の場所みたいだった。
石段の上から提灯の淡い光がこぼれ、木々の間では虫の声が響いている。
通りの車の音も、ここまではほとんど届かない。
俺は鳥居の前で一度立ち止まり、古い石碑を見た。
中央に残る、一文字分の白い空白。
その形は、相沢の写真に残っていた不自然な隙間と、どこか似ていた。
「朔」
振り向くと、こはくが石段の上に立っていた。
「来てくれたんだ」
「約束しただろ」
「……うん」
彼女はゆっくり石段を下りてくる。
今夜は淡い色のワンピースに、薄手の上着を羽織っていた。
月明かりの下で、その髪が柔らかく光っている。
「こっち」
こはくは俺を社の裏手へ案内した。
いつもの、木々に囲まれた小さな場所。
周りに人の気配がないことを確かめると、彼女は静かに息を吐いた。
頭の上に金色の狐耳が現れ、背中から大きな尻尾がふわりと広がる。
「……やっぱり、こっちのほうが落ち着く」
「大学じゃ隠してるもんな」
「うん。今日は特に疲れた」
こはくは木の根元に腰を下ろした。
俺も少し離れたところへ座る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風が葉を揺らし、足元を小さな影が横切っていく。
俺には、それが人間ではない小さなものだと分かった。
でも、今は追いかける気になれなかった。
「……灯里ちゃん、強いね」
先に口を開いたのは、こはくだった。
「うん」
「怖いのに、自分で決めたいって言えるんだもん」
「こはくも、ちゃんと謝ってたろ」
「……あれは、私が悪かったから」
「心配してたんだろ」
「うん。でも、心配だからって、勝手に決めるのは違うよね」
こはくは尻尾を膝の上に載せた。
「朔のことも、灯里ちゃんのことも、大事にしたいのに。怖いと思うと、つい自分だけで何とかしようとする」
「……怖いのか?」
俺が尋ねると、こはくは少しだけ目を伏せた。
「怖いよ」
その答えは、とても小さかった。
いつも明るく笑っている彼女が、こんなふうに弱さを見せるのは珍しい。
「私、長く生きてるから。人が忘れていくものも、消えていくものも、たくさん見てきた」
「……うん」
「でも、慣れないんだ。大切なものが、なくなるのは」
こはくは目を伏せたまま、右手をそっと持ち上げた。
人差し指の先に、青白い小さな炎が灯る。
「……狐火?」
「うん。ちょっと、明るくしたくて」
炎は風に揺れながらも消えず、彼女の指先から離れて、二人の間へ浮かんだ。
普通の火とは違う。近くにあっても熱くないし、落ち葉にも燃え移らない。
それでも周りの石や木の根を、淡く照らしている。
「きれいだな」
「昔、朔もよく見たがったよね」
「そうだったっけ」
「小さい頃、この光で影絵を作ったの。覚えてない?」
言われて、少しずつ思い出した。
夏の夜。神社の石段。こはくが掌に灯した光で、俺たちが壁に狐や鳥の影を映したこと。
俺が下手な犬の形を作ると、彼女は何度も笑っていた。
「……覚えてる。最後、こはくが大きな狐の影を作って、俺を驚かせた」
「ふふ。あれ、朔が本気で逃げるんだもん」
「突然、壁いっぱいに狐が出たら驚くだろ」
「でも、ちゃんと戻ってきてくれた」
こはくは小さな炎を見つめた。
「私が待ってるところに」
炎がゆっくり一回転する。
俺はその光を見ながら、少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
忘れかけていた夜のことも、誰かが話してくれれば思い出せる。
ただ、今起きている事件では、その誰かさえ忘れてしまうのだ。
青白い炎が、静かに消えた。
こはくの耳が、少しだけ伏せられた。
俺はその横顔を見つめた。
幼い頃からずっと一緒にいた。
でも、彼女がどれだけ長い時間を生きてきたのか、俺は本当には知らない。
知らない過去があることを、今さら寂しく思った。
「こはく」
「ん?」
「俺、全部を知らなくてもいいと思ってる」
こはくが顔を上げる。
「話せないことがあるなら、無理に聞かない。でも、何かあったときは、一人で抱え込まないでほしい」
「……朔」
「俺にはできることが少ないかもしれないけど。それでも、隣にはいられるから」
こはくはしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「……ずるいな」
「え?」
「そういうこと、さらっと言うところ」
「変なこと言った?」
「ううん。嬉しい」
こはくは少し身を寄せた。
俺たちの肩が、そっと触れる。
その近さに、胸の奥が静かに熱くなった。
「ねえ、朔」
「うん」
「もし、私が消えたら……探してくれる?」
俺は思わず、彼女を見た。
「消えるって、何でそんなこと」
「仮の話だよ」
こはくは笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「もし、誰も私を覚えてなくなって。大学の名簿からも、写真からも、私の名前が消えたら」
その言葉が、胸に重く落ちた。
相沢の顔を思い出す。
あいつも、ほんの数日前までは普通に笑っていた。
誰も、消えるなんて考えていなかったはずだ。
「……探す」
俺は答えた。
こはくは目を丸くした。
「でも、どうやって?」
「分からない」
「……そっか」
「今は分からない。でも、方法を探す。知ってることを全部集めて、助けてくれる人にも頼んで」
俺はこはくの手を取った。
小さく、温かい手だった。
「絶対に見つける」
こはくは息を止めた。
その目に、月の光が映る。
「……本当に?」
「本当に」
「私の名前、忘れない?」
「忘れない。稲守こはく」
彼女の名前を、はっきりと呼んだ。
こはくの指が、俺の手を握り返す。
「……うん」
声が少し震えていた。
俺は何も言わず、彼女の手を握っていた。
しばらくして、こはくが俺の肩に頭を寄せる。
いつものようにからかうことも、笑ってごまかすこともしなかった。
ただ、二人で静かな夜を過ごした。
木々の向こうで、町の灯りが揺れている。
明日も大学は、何事もなかったように始まるのだろう。
相沢のいない教室で、いつも通り授業が続くのだろう。
だからこそ、忘れない。
あいつがいたことも、こはくがここにいることも。
俺は握った手の温かさを、確かめるようにもう一度力を込めた。
――第五話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
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