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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第五話 妖狐の忠告

 朝、目を覚まして最初に確かめたのは、自分の名前ではなかった。


 机に開いたノートの、一番上の行。


 相沢拓海(あいざわたくみ)。


 昨夜、俺が何度も書いた友人の名前だ。


「……残ってる」


 思わず息を吐いた。


 東雲大学(しののめだいがく)の基礎演習で出会った相沢は、昨日、出席表と周囲の記憶から消えてしまった。


 教員も学生も彼を覚えていない。


 四人で撮ったはずの写真は、三人だけのものに変わっている。


 なのに俺だけは、あいつの声も、笑い方も、妙にはっきり覚えていた。


 自分の記憶が正しいという証拠はない。


 それでも、名前が紙の上に残っているだけで、少し救われた気がした。


 スマートフォンを開く。


 昨夜、こはくと別れたあとに撮った、ノートの写真も残っていた。


 そこには同じ字が並んでいる。


 もし明日、これまで消えてしまったら。


 そんなことを考えて、俺は首を振った。


「……まずは朝飯だな」


 冷蔵庫から卵を取り出す。


 こはくに教わった通り、火を弱めて、ゆっくり混ぜる。


 今度は焦げなかった。


 小さな成功に、少しだけ笑う。


 大学生活は、まだ始まったばかりだ。


 だからこそ、一人の友人がいなくなったことを、何となく流してしまいたくなかった。


     ◇


 大学へ着くと、中央広場のベンチに白瀬さんがいた。


 白瀬灯里(しらせあかり)は、膝の上にノートを広げ、カメラケースを隣へ置いていた。


「おはよう、真柴くん」


「おはよう。昨日のことなんだけど」


「うん。私も、それを話したかった」


 彼女はノートをこちらへ向けた。


 昨日、俺が話した相沢のことが、几帳面な字で書かれている。


 名前。


 初回の基礎演習で同じ班だったこと。


 青いペンで『迷ったら時計台』と書いた地図。


 そして、四人で撮ったという集合写真。


「消えてないんだな」


「うん。でも……」


 白瀬さんは少し俯(うつむ)いた。


「私自身の記憶は、やっぱり戻らない」


「そっか」


「相沢くんって名前を読んでも、顔が浮かばないんだ。真柴くんが話してくれたことは覚えてる。でも、自分が本人と話した記憶はない」


 彼女はノートの端を指で押さえた。


「不思議だよね。人の話を聞いた記憶はあるのに、その人に会った記憶がないなんて」


「……うん」


「だから、書いておいてよかったと思う」


 白瀬さんは顔を上げた。


「少なくとも、昨日の私が何を考えてたかは分かるから」


 俺は頷いた。


 過去の記憶が奪われても、今から新しく書いた記録は残る。


 それがいつまで続くのかは分からない。


 でも、今の俺たちには大切な手がかりだった。


「それでね、昨日のあと、写真をもう一度見たんだ」


 白瀬さんは封筒から集合写真を出した。


 俺、こはく、白瀬さん。


 三人の間に、広すぎる空白。


 そして、誰のものでもない一本の影。


「ここ」


 彼女が指したのは、石壁の足元だった。


「白い札みたいなの、写ってるでしょ」


「俺も昨日、気づいた」


「最初は光の反射かと思ったけど、拡大すると縁が妙にはっきりしてる」


「文字は?」


「何も見えない。小さすぎて、分からないだけかもしれないけど」


 白瀬さんは写真を封筒に戻した。


「私、大学の古い資料を見てみようと思うんだ」


「古い資料?」


「写真サークルの先輩に聞いたの。図書館に、昔の大学新聞とか、卒業記念の冊子が置いてあるって」


「それなら、何か分かるかもしれないな」


「うん。今の写真と似たものがないか、探してみたい」


 彼女はカメラケースを持ち上げた。


「真柴くん、一緒に行かない?」


「もちろん」


 答えると、白瀬さんは少しだけ安心したように笑った。


     ◇


 図書館の資料室は、一般の閲覧席から少し離れた場所にあった。


 受付で利用方法を聞き、閲覧できる古い大学新聞や記念誌を出してもらう。


 厚い冊子の表紙には、今とは違う大学の名前のロゴが印刷されている。


「こんなにあるんだ」


「創立からずっと残してるみたい」


 白瀬さんは古い新聞を慎重にめくった。


 紙は少し黄ばんでいて、写真の印刷も今ほど鮮明ではない。


 昔の学園祭、部活動の大会、講義棟の増築。


 どのページにも、誰かの大学生活が詰まっていた。


「写真って、こういうところでも役に立つんだな」


 俺が言うと、白瀬さんが笑った。


「でしょ。文章だけだと分からない、そのときの雰囲気が見えるから」


「白瀬さんが写真を好きになったのも、そういう理由?」


「うん。小さい頃、祖父に古いアルバムを見せてもらってね。今はもう建て替わった商店街とか、若い頃のおばあちゃんとか、私が知らないものがいっぱい写ってたの」


 白瀬さんは記念誌の表紙を優しく撫でた。


「会ったことのない人なのに、写真を見て話を聞くと、少しだけ知り合えた気がするんだ」


「……分かる気がする」


「だから、相沢くんのことも気になって。私が本人を覚えていなくても、写真を撮った時間までなかったことにはしたくない」


 俺は頷いた。


 白瀬さんには、俺と違う理由がある。


 記憶を奪われたからこそ、何かを残したいと思っているのだ。


 それは、俺一人では思いつかなかった向き合い方だった。


 机の上には、何十年分もの学生たちの笑顔がある。


 この中の一人が突然消えても、誰も気づかないのだろうか。


 そんな想像が頭をよぎり、背筋が冷たくなった。


 俺は何冊かの記念誌を開き、校舎の配置図を見比べた。


 古い地図には、現在のキャンパスにはない通路が描かれている。


 今は『旧講義棟』と呼ばれている建物が、当時は授業の中心だったらしい。


 見比べているうちに、別のことも分かった。


 旧講義棟の裏側には、現在の案内図に載っていない小さな中庭がある。


 古い地図には渡り廊下でつながる道が描かれているが、今の地図では建物の輪郭が途中で切れていた。


「改修で塞いだのかな」


 俺が呟くと、白瀬さんが地図をのぞき込んだ。


「そうかもしれない。古い建物って、安全のために一部を閉めることもあるし」


「確かに。これだけじゃ怪異(かいい)とは限らないよな」


「うん。分からないことを全部怪しいって決めつけたら、何も確かめられなくなる」


 白瀬さんはそう言って、新旧の地図に違う色の付箋を貼った。


 その丁寧さが、今はありがたかった。


「この建物、今よりずっと大きく使われてたんだな」


「え?」


「ほら、ここ。今は閉まってる廊下の先にも、教室がある」


 白瀬さんが身を乗り出す。


「ほんとだ。撮影会のとき、窓が並んでたところかな」


「たぶん」


 そのとき、彼女の指が古い新聞の一角で止まった。


「……真柴くん、これ」


 記事の見出しは、『旧講義棟の利用記録を再調査』。


 今から二十数年前のものだった。


 老朽化(ろうきゅうか)した校舎を改修する際、過去の授業記録に食い違いが見つかったという短い記事だ。


 履修した学生の人数と、提出された課題の数が合わない。


 当時のゼミ写真にも、妙に不自然な空間が残っている。


 だが、記事はそれ以上詳しく書いていなかった。


「……似てる」


 俺は呟いた。


「名簿と実際の人数が合わないんだろ」


「うん。でも、この記事だと事務的な記録ミスとして扱われてる」


 白瀬さんは指先で文字を追った。


「当時は、こんなことが起きてたって誰も思わなかったのかもしれない」


 俺は写真の小さな枠を見た。


 古い講義室の前に並ぶ学生たち。


 右端には、一人が立てそうな幅の空白がある。


 それだけなら、偶然かもしれない。


 けれど、相沢の写真を見たあとでは、簡単に見過ごせなかった。


「この写真、拡大できないかな」


「資料室の人に、複写できるか聞いてみよう」


 白瀬さんが手を挙げて職員を呼んだ。


 許可された範囲で資料を複写し、記事の年月と掲載ページをメモする。


 白瀬さんの手つきは、写真を撮るときと同じくらい丁寧だった。


「真柴くん、もう一つ気になることがある」


「何?」


「旧講義棟の記事、この時期だけ続いてるの」


 彼女が示したのは、次の号に載った小さな訂正欄だった。


 最初の記事の『学生一人分の記録に不足』という表現が、後の号では『集計の誤差』に修正されている。


「訂正した人の名前は?」


「編集部名義になってる。担当者までは分からないね」


 俺は二つの記事を並べた。


 最初の記事では、調査した教員が『人数の差については確認中』と話したことになっている。


 ところが、訂正欄には調査が終わった日付も、確認に使った資料も載っていない。


「これだけだと、ただの訂正なのか、何かあったのか分からないな」


「うん。むしろ、今の私たちが相沢くんの件を知ってるから、気になるのかもしれない」


 白瀬さんは落ち着いていた。


 俺も彼女の言葉に頷く。


 証拠がほしいあまり、何でも同じ事件に見えてしまうのは危険だ。


「でも、調べる価値はあると思う」


 白瀬さんは写真の隅を指さした。


「この集合写真。少し端が切れたとか、撮影の間隔が広いだけなら説明できる。でも、こっちの人たち、みんな真ん中の空白へ顔を向けてるように見えるんだ」


 よく見ると、確かに何人かの学生の視線が、空いている場所へ集まっていた。


 そこに誰かが立っているつもりで、撮影されたみたいに。


「……気のせいかもしれないけど」


「うん。でも、記録しておこう」


 俺たちは『配置と視線が不自然』とだけ、ノートに書き足した。


「わざわざ言い換えてるんだな」


「うん。何があったのかは分からないけど」


 俺は記事の見出しをノートに書き写した。


 二十数年前の、旧講義棟。


 人数の食い違い。


 一人分の空白。


 まるで、相沢の事件を先に経験した誰かがいたみたいだった。


     ◇


 昼過ぎ、こはくからメッセージが届いた。


『朔、今どこ? 少し話したいことがある』


 俺たちは図書館を出て、近くのベンチで待ち合わせた。


 稲守(いなもり)こはくは、少し大きめの布袋を抱えてやってきた。


「お待たせ」


「それ、何?」


「古いノート。家にあったものを、借りてきたんだ」


 彼女は隣へ座り、表紙が色褪(いろあ)せた一冊を取り出した。


 何代も前から書き継がれてきたという、稲守の家の覚え書きらしい。


「私も昔、少し読んだことはあったんだけど。もう一回確かめたくて」


「何が書いてあるの?」


「人間と怪異の間で起きたこと。仲よく暮らしていた話も、うまくいかなかった話も」


 こはくはページをめくった。


 細い筆文字が並んでいる。


 ところどころ、古い言い回しが残っていて俺には読みづらい。


「この辺り」


 彼女が指さした一節には、こう書かれていた。


『名を失う者、帰る道を見失う』


「名前を失うと、帰れなくなる?」


「そう。家も、友達も、自分を呼んでくれる人も分からなくなる。そんな怪異の言い伝えがあるの」


 白瀬さんが息を呑(の)んだ。


「それって、相沢くんのこと?」


「まだ、そうとは言えない」


 こはくは慎重に答えた。


「昔の言葉は、いろんな意味に読めるから。似た話があるというだけ」


「でも、名簿から消えることと関係があるかもしれないんだね」


「……うん」


 こはくはページを閉じた。


「それから、場所の話もある」


「場所?」


「人がたくさん集まって、名前を呼ばれる場所。学校とか、役所とか。そういうところで起きやすい、って」


「大学も……そうか」


 俺は顔を上げた。


「白瀬さん、さっきの旧講義棟の記事」


「うん。こはくちゃん、これ見て」


 白瀬さんは資料の複写を取り出した。


 こはくが記事を読み進めるにつれ、表情が曇っていく。


「……旧講義棟」


「何か知ってる?」


 俺が聞く。


「あの建物、昔から変な話が多かった。人がいない教室から返事がするとか、廊下の数が合わないとか」


「怪談みたいだな」


「怪談だよ。だけど、全部が作り話とは限らない」


 こはくはノートを見つめた。


「この町では昔、人と怪異が互いの存在を認め合う約束があったの。だけど、今はその約束を覚えている人がほとんどいない」


「神社の石碑に書かれてたこと?」


「……たぶん、そう」


 彼女はそれ以上言わなかった。


 でも、俺は急かさなかった。


 今は無理に聞き出すより、分かっていることを少しずつ重ねるべきだと思ったからだ。


     ◇


「つまり、次は旧講義棟を見に行けばいいんだね」


 白瀬さんが言った。


 その一言に、こはくの表情が変わった。


「……待って」


「え?」


「灯里ちゃんは、ここまでにしておいたほうがいい」


 白瀬さんが目を瞬いた。


「どうして?」


「危ないかもしれないから」


「私だって、危ないかもって思ってるよ」


「そういう意味じゃなくて」


 こはくは言いかけて、口をつぐんだ。


 俺には理由が分かる。


 こはくは妖狐で、俺には怪異が見える。


 でも白瀬さんは、普通の人間だ。


 もし本当に危険な怪異が関わっているなら、彼女を守りきれる保証はない。


「こはく、落ち着いて」


 俺が言うと、こはくは小さく首を振った。


「朔も、分かってるでしょ」


「分かってる。でも、白瀬さんの話も聞こう」


 白瀬さんは二人を見比べた。


「……何か、私だけ知らないことがある?」


 しばらく、誰も答えなかった。


 風がベンチの脇の葉を揺らす。


 遠くで、サークルの勧誘の声が聞こえた。


 普通の昼休みの中で、この場所だけが静かだった。


「灯里ちゃん」


 こはくが口を開いた。


「私は、危ないものを知ってる。だから、軽い気持ちで近づいてほしくないの」


「軽い気持ちじゃないよ」


 白瀬さんはすぐに答えた。


「怖いのは本当。でも、写真を撮ったのは私だし、異変に気づいたのも私なんだ」


 彼女は膝の上の封筒を握った。


「真柴くんが言う相沢くんのこと、私は覚えてない。でも、写真には一人分の空白がある。見なかったことにはできないよ」


「……灯里ちゃん」


「もし危険なら、ちゃんと方法を考えよう。勝手に建物へ入ったりしないし、無理もしない」


 白瀬さんの声は震えていた。


 それでも、目をそらさなかった。


「私は、自分で決めたい」


 白瀬さんはまっすぐ、こはくを見ていた。


 いつもなら笑って場を和ませる彼女が、今日は笑っていない。


 俺は考える。


 こはくの心配は正しい。怪異が相手なら、俺たちに何が起こるか分からない。


 だけど白瀬さんは、ただ面白そうだから首を突っ込んでいるわけではない。


 写真を残した責任と、自分の記憶を信じられなくなった怖さを、ちゃんと引き受けようとしている。


 彼女の意思を無視して守ったつもりになるのは、きっと違う。


 その一方で、本人が望むからといって、無条件に危険な場所へ連れていくのも違う。


 俺たちには、話し合う時間が必要だった。


 こはくは何も言わなかった。


 俺は二人の間で、ゆっくり息を吐いた。


「……こはく」


「うん」


「俺も、白瀬さんを危険に巻き込みたくない。でも、もう写真のことを知ってるし、本人が調べたいって言ってる」


 こはくは唇を噛んだ。


「それに、俺だけじゃ何も分からなかった。白瀬さんが写真を残してくれたから、ここまで来られたんだ」


「……分かってる」


「だから、三人で話し合って決めよう」


 長い沈黙があった。


 やがて、こはくは目を伏せた。


「……ごめん」


 白瀬さんが驚いたように顔を上げる。


「私、灯里ちゃんの気持ちをちゃんと聞かずに、決めようとしてた」


「ううん。心配してくれたんだよね」


「……うん」


 こはくは少しだけ笑った。


「じゃあ、約束して。危ないと思ったら、その場で引き返すこと」


「分かった」


「一人で行動しないこと。あと、無理に何かを触ったりしないこと」


「うん。守る」


「それと……」


 こはくは言葉を探し、最後に小さく付け加えた。


「分からないことがあったら、ちゃんと聞いて。私も、言えることは話すから」


 白瀬さんは柔らかく笑った。


「ありがとう、こはくちゃん」


 こはくも頷いた。


 その瞬間、俺たちの間にあった見えない壁が、少しだけ低くなった気がした。


     ◇


 次に何をするか、三人で具体的に話し合った。


 旧講義棟は現在、一部の部屋が資料保管用に使われている。


 立ち入りには大学側の許可が必要で、勝手に入ることはできない。


「まずは管理してる部署に相談してみよう」


 俺が言うと、白瀬さんが頷いた。


「写真サークルの活動として、見学できる範囲を聞くのもいいかも。もちろん、理由は正直に伝えて」


「夜にしか見えないものがある、って言うわけにはいかないけどね」


 こはくが苦笑する。


「でも、古い校舎の記録を調べたいっていうのは本当だろ」


「うん。資料室の利用についても聞けるかもしれない」


 白瀬さんはノートに予定を書き込んだ。


 次の空き時間に管理窓口へ問い合わせる。


 許可が取れるまでは、公開されている資料だけを調べる。


 写真とネガは保管し、変化があれば記録する。


 そして、行動するときは三人で連絡を取り合う。


「……何だか、ちゃんとした調査みたい」


 白瀬さんが少し笑った。


「ちゃんとしないと危ないんだろ」


「そうだね」


 こはくも微笑む。


 俺は二人を見て、ようやく少しだけ前へ進める気がした。


 相沢がどこにいるのかは分からない。


 怪異が関わっているのかどうかも、まだ確かではない。


 それでも、一人で抱え込むよりずっといい。


 誰かと考え、誰かと確かめ、分からないことを分からないと言える。


 それだけで、恐怖の形が少し変わった。


「……あのさ」


 白瀬さんが、遠慮がちに手を挙げた。


「一つだけ、お願いしてもいい?」


「何?」


「これからは、灯里って呼んでくれないかな。三人で調べるのに、私だけずっと苗字だと、ちょっと距離がある気がして」


 こはくがぱっと笑った。


「うん。私はもう灯里ちゃんって呼んでるもんね」


「そう。真柴くんも、よかったら」


「……分かった。灯里、でいい?」


「うん!」


 灯里は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、私も朔くんって呼ぼうかな」


「それは……好きにしていいけど」


「やった」


 隣で、こはくが小さく咳払いをした。


「……朔のこと、下の名前で呼ぶんだ」


「だめ?」


「だめじゃないよ。ただ、ちょっとだけ新鮮」


 こはくは笑顔を作ったが、俺にはその頬が少し膨らんで見えた。


 灯里も気づいたのか、困ったように微笑む。


 さっきまで張りつめていた空気が、ほんの少し緩んだ。


 俺は思わず笑い、二人から同時に「何がおかしいの?」と聞かれることになった。


     ◇


 夕方、調査の話を終えて解散すると、こはくは俺の袖を引いた。


「朔。今夜、神社に来られる?」


「神社?」


「うん。少し、二人で話したい」


 声がいつもより静かだった。


「分かった。何時?」


「八時くらい。人が少ない時間がいい」


「……大丈夫なのか?」


「うん。私がいるから」


 こはくは笑った。


 けれどその笑顔には、昼間とは違う緊張が残っていた。


     ◇


 夜の神社は、昼間とは別の場所みたいだった。


 石段の上から提灯(ちょうちん)の淡い光がこぼれ、木々の間では虫の声が響いている。


 通りの車の音も、ここまではほとんど届かない。


 俺は鳥居の前で一度立ち止まり、古い石碑を見た。


 中央に残る、一文字分の白い空白。


 その形は、相沢の写真に残っていた不自然な隙間と、どこか似ていた。


「朔」


 振り向くと、こはくが石段の上に立っていた。


「来てくれたんだ」


「約束しただろ」


「……うん」


 彼女はゆっくり石段を下りてくる。


 今夜は淡い色のワンピースに、薄手の上着を羽織っていた。


 月明かりの下で、その髪が柔らかく光っている。


「こっち」


 こはくは俺を社の裏手へ案内した。


 いつもの、木々に囲まれた小さな場所。


 周りに人の気配がないことを確かめると、彼女は静かに息を吐いた。


 頭の上に金色の狐耳が現れ、背中から大きな尻尾がふわりと広がる。


「……やっぱり、こっちのほうが落ち着く」


「大学じゃ隠してるもんな」


「うん。今日は特に疲れた」


 こはくは木の根元に腰を下ろした。


 俺も少し離れたところへ座る。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 風が葉を揺らし、足元を小さな影が横切っていく。


 俺には、それが人間ではない小さなものだと分かった。


 でも、今は追いかける気になれなかった。


「……灯里ちゃん、強いね」


 先に口を開いたのは、こはくだった。


「うん」


「怖いのに、自分で決めたいって言えるんだもん」


「こはくも、ちゃんと謝ってたろ」


「……あれは、私が悪かったから」


「心配してたんだろ」


「うん。でも、心配だからって、勝手に決めるのは違うよね」


 こはくは尻尾を膝の上に載せた。


「朔のことも、灯里ちゃんのことも、大事にしたいのに。怖いと思うと、つい自分だけで何とかしようとする」


「……怖いのか?」


 俺が尋ねると、こはくは少しだけ目を伏せた。


「怖いよ」


 その答えは、とても小さかった。


 いつも明るく笑っている彼女が、こんなふうに弱さを見せるのは珍しい。


「私、長く生きてるから。人が忘れていくものも、消えていくものも、たくさん見てきた」


「……うん」


「でも、慣れないんだ。大切なものが、なくなるのは」


 こはくは目を伏せたまま、右手をそっと持ち上げた。


 人差し指の先に、青白い小さな炎が灯る。


「……狐火?」


「うん。ちょっと、明るくしたくて」


 炎は風に揺れながらも消えず、彼女の指先から離れて、二人の間へ浮かんだ。


 普通の火とは違う。近くにあっても熱くないし、落ち葉にも燃え移らない。


 それでも周りの石や木の根を、淡く照らしている。


「きれいだな」


「昔、朔もよく見たがったよね」


「そうだったっけ」


「小さい頃、この光で影絵を作ったの。覚えてない?」


 言われて、少しずつ思い出した。


 夏の夜。神社の石段。こはくが掌に灯した光で、俺たちが壁に狐や鳥の影を映したこと。


 俺が下手な犬の形を作ると、彼女は何度も笑っていた。


「……覚えてる。最後、こはくが大きな狐の影を作って、俺を驚かせた」


「ふふ。あれ、朔が本気で逃げるんだもん」


「突然、壁いっぱいに狐が出たら驚くだろ」


「でも、ちゃんと戻ってきてくれた」


 こはくは小さな炎を見つめた。


「私が待ってるところに」


 炎がゆっくり一回転する。


 俺はその光を見ながら、少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。


 忘れかけていた夜のことも、誰かが話してくれれば思い出せる。


 ただ、今起きている事件では、その誰かさえ忘れてしまうのだ。


 青白い炎が、静かに消えた。


 こはくの耳が、少しだけ伏せられた。


 俺はその横顔を見つめた。


 幼い頃からずっと一緒にいた。


 でも、彼女がどれだけ長い時間を生きてきたのか、俺は本当には知らない。


 知らない過去があることを、今さら寂しく思った。


「こはく」


「ん?」


「俺、全部を知らなくてもいいと思ってる」


 こはくが顔を上げる。


「話せないことがあるなら、無理に聞かない。でも、何かあったときは、一人で抱え込まないでほしい」


「……朔」


「俺にはできることが少ないかもしれないけど。それでも、隣にはいられるから」


 こはくはしばらく黙っていた。


 それから、ふっと笑った。


「……ずるいな」


「え?」


「そういうこと、さらっと言うところ」


「変なこと言った?」


「ううん。嬉しい」


 こはくは少し身を寄せた。


 俺たちの肩が、そっと触れる。


 その近さに、胸の奥が静かに熱くなった。


「ねえ、朔」


「うん」


「もし、私が消えたら……探してくれる?」


 俺は思わず、彼女を見た。


「消えるって、何でそんなこと」


「仮の話だよ」


 こはくは笑おうとした。


 でも、うまく笑えていなかった。


「もし、誰も私を覚えてなくなって。大学の名簿からも、写真からも、私の名前が消えたら」


 その言葉が、胸に重く落ちた。


 相沢の顔を思い出す。


 あいつも、ほんの数日前までは普通に笑っていた。


 誰も、消えるなんて考えていなかったはずだ。


「……探す」


 俺は答えた。


 こはくは目を丸くした。


「でも、どうやって?」


「分からない」


「……そっか」


「今は分からない。でも、方法を探す。知ってることを全部集めて、助けてくれる人にも頼んで」


 俺はこはくの手を取った。


 小さく、温かい手だった。


「絶対に見つける」


 こはくは息を止めた。


 その目に、月の光が映る。


「……本当に?」


「本当に」


「私の名前、忘れない?」


「忘れない。稲守こはく」


 彼女の名前を、はっきりと呼んだ。


 こはくの指が、俺の手を握り返す。


「……うん」


 声が少し震えていた。


 俺は何も言わず、彼女の手を握っていた。


 しばらくして、こはくが俺の肩に頭を寄せる。


 いつものようにからかうことも、笑ってごまかすこともしなかった。


 ただ、二人で静かな夜を過ごした。


 木々の向こうで、町の灯りが揺れている。


 明日も大学は、何事もなかったように始まるのだろう。


 相沢のいない教室で、いつも通り授業が続くのだろう。


 だからこそ、忘れない。


 あいつがいたことも、こはくがここにいることも。


 俺は握った手の温かさを、確かめるようにもう一度力を込めた。


 ――第五話 了


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