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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第四話 名簿から消えた学生

 写真の中に、いるはずのない五人目の影があった。


 それが何なのか、俺には分からなかった。


 ただ一つ、はっきりしている。


 その写真を撮ったとき、あの場所に立っていたのは四人だけだった。


「……やっぱり、おかしいよな」


 東雲大学(しののめだいがく)の写真サークルに所属する白瀬灯里(しらせあかり)から送られてきた画像を、俺は何度も拡大した。


 石壁の前で笑う俺たち。


 俺、こはく、白瀬さん、そして相沢拓海(あいざわたくみ)。基礎演習で知り合ったばかりの友人だ。


 四人の足元に、五本の影。


 影の先には誰も写っていない。


 スマートフォンが震えた。


『真柴くん、気づいた?』


 白瀬さんからのメッセージだった。


『うん。影が一本多い』


『だよね。撮ったとき、近くに他の人がいたかな』


『覚えてる限り、いなかったと思う』


 送信してから、俺はあの日の光景を思い返した。


 三脚を立てた白瀬さん。


 右側で俺の袖をつまんだこはく。


 左側で変な顔をした相沢。


 セルフタイマーの小さな音。


 あのとき、他に誰かいた気配はなかった。


『フィルムの傷とか、光の具合かもしれないけど、形が人っぽいんだよね』


 白瀬さんの文が続く。


『現像したネガも、今度見てみる。気になるから』


『ありがとう。俺も何か思い出したら連絡する』


 やり取りが終わっても、胸のざわつきは消えなかった。


 写真を閉じ、窓の外を見る。


 春の夜の夕凪(ゆうなぎ)市には、街灯の明かりが細く伸びていた。


 普通の人には見えないものが、夜の町を通り過ぎていくことがある。


 だから、俺には分かる。


 見えないものがある、という事実だけで何でも怪異のせいにしてはいけない。


 見間違いも、偶然も、ただの撮影ミスもある。


 それでも、神社の石碑から消えた文字と、古い講義棟の窓に貼りついた白い紙片を思い出すと、単なる偶然だとは思いきれなかった。


 玄関のチャイムが鳴った。


「朔、起きてる?」


 聞き慣れた声に、俺は立ち上がる。


 そこにいたのは、稲守(いなもり)こはくだった。


 片手には紙袋。もう片方には、例の合鍵が付いた鈴の飾りを持っている。


「今日はちゃんとチャイム鳴らしたよ」


「いつも鳴らしてるだろ」


「そうだけど。鍵、持ってるのに偉いでしょ?」


「偉い偉い」


「あっ、適当!」


 いつも通りのやり取りに、少しだけ気が緩んだ。


 こはくは部屋に入ると、テーブルの上に紙袋を置いた。


「商店街でコロッケ買ってきた。夕飯、まだだよね?」


「うん。助かる」


「……どうしたの?」


 こはくは俺の顔を見て、笑みを引っ込めた。


「何かあった?」


「白瀬さんから写真が届いたんだけど」


 俺はスマートフォンを見せた。


 こはくは最初、四人の笑顔に目を細めた。


「わあ、よく撮れてるね。相沢くんの顔、おもしろい」


「そうだな。……足元を見て」


 指で画像を拡大する。


 こはくは一瞬、息を止めた。


「……五本」


「やっぱり、そう見えるよな」


「朔、この写真、他の人には見せた?」


「白瀬さんとやり取りしただけ」


「そっか」


 彼女はしばらく画面を見つめた。


 その横顔が、入学式の日に石碑を見たときのものと重なる。


「こはく、何か分かる?」


「……まだ。影だけじゃ、何とも言えない」


「怪異なのか?」


「そういう可能性もある。でも、全部をそれで説明するのは危ないよ」


 こはくはゆっくりと顔を上げた。


「今は写真を消さずに残しておいて。気づいたことも、できれば書いておいて」


「分かった」


「それと、朔」


「ん?」


「少しでも怖いと思ったら、私に言ってね」


 冗談めかした口調ではなかった。


 俺は頷いた。


 こはくはようやく笑い、コロッケの袋を開けた。


「はい。それじゃあ、まずはご飯。空腹だと考えも暗くなるから」


「お前らしいな」


「大事なことです」


 温かいコロッケを分け合っているうちに、奇妙な写真のことは少しだけ遠ざかった。


 その晩、俺は何度か画面を見返したあと、眠りについた。


 翌日、自分の知っている世界が一人分だけ欠けることになるとは、考えもしなかった。


     ◇


 月曜日の朝。


 基礎演習の教室へ入ると、窓際の席に白瀬さんが座っていた。


「おはよう、真柴くん」


「おはよう。写真のことなんだけど」


「うん。あとで話そう」


 彼女はバッグからノートを出しながら、小さく頷いた。


 俺はいつもの席へ向かう。


 隣には、相沢が座るはずだった。


 少なくとも、前の授業ではそうだった。


 けれど今日は、机の上に何も置かれていない。


「……相沢、遅れてるのかな」


 独り言のつもりで呟くと、前の席の男子が振り向いた。


「誰?」


「相沢。先週、ここに座ってたやつ」


「え? 知らないけど」


 聞き間違いかと思った。


「ほら、俺と同じ班で、地図をよく逆さに持ってる」


「……ごめん。分かんない」


 彼は困ったように笑い、前を向いた。


 俺は鞄を机に置いたまま、しばらく動けなかった。


 相沢は昨日まで、確かにいた。


 少なくとも写真が届いた夜には、こはくもその顔を見て笑っていた。


 教室の時計は、いつも通りの速度で進んでいる。


 他の学生たちは雑談をし、教科書を出し、眠そうにあくびをしている。


 その普通さが、急に怖くなった。


 授業が始まった。


 担当教員が出席表を開き、順番に名前を呼んでいく。


 俺の名前が呼ばれる。


「はい」


 そのあとも何人かが返事をした。


 でも、相沢の名前は最後まで呼ばれなかった。


「先生、すみません」


 気づけば手を挙げていた。


「相沢拓海がまだ来てないみたいなんですけど」


 教員が出席表から顔を上げた。


「相沢……?」


「はい。先週、俺の隣に座ってた学生です」


 教員はもう一度、出席表を確かめた。


 ページをめくり、名前の列を指で追う。


「このクラスに、相沢さんという学生は登録されていませんね」


「えっ」


「別のクラスと間違えていませんか?」


「そんなはずないです」


 声が思ったより大きくなった。


 教室が静まる。


 俺は慌てて言い直した。


「……すみません。でも、初回授業の自己紹介で、確かに話したんです」


 教員は少し困ったように眉を寄せた。


「今日はこのまま進めましょう。終わったあとで確認しますから」


「……分かりました」


 俺は座った。


 手のひらが冷たい。


 誰かの視線が気になって、顔を上げられなかった。


 授業は、前回作った学内施設の地図を使う課題だった。


 机に回ってきた班の提出用紙には、三人分の名前が書かれている。


 俺と白瀬さん、それから同じ班のもう一人。


 相沢の名前がない。


 前回、四人で歩いたはずなのに。


「白瀬さん」


 小さく呼びかける。


「……この班、四人だったよね」


 彼女は用紙を見た。


「三人じゃなかった?」


「相沢がいた。俺たちと一緒に図書館へ行っただろ」


「相沢くん……?」


 白瀬さんは考え込んだ。


 長い沈黙のあと、首を振る。


「ごめん。思い出せない」


 その声には、ふざけた響きが一つもなかった。


 俺は用紙を見下ろした。


 名前が一つ減っただけだ。


 でも、それは名簿の修正なんかではなかった。


 みんなの記憶から、相沢拓海という人間が抜け落ちている。


     ◇


 授業が終わると、俺は教員に声をかけた。


「さっきの相沢のこと、もう一度確認してもらえませんか」


 教員は出席表と、先週の提出物の控えを見せてくれた。


 登録人数は十五人。


 初回から、ずっと十五人だという。


「でも、俺は相沢と話しました。自己紹介も聞きました」


「真柴さんが嘘をついているとは思いませんよ。ただ、この授業の名簿には載っていないんです」


 穏やかな言葉だった。


 それが、かえって逃げ場をなくした。


 俺には記憶がある。


 けれど、それを裏づけるものが一つもない。


「他の授業の学生が、見学に来ていた可能性は?」


「初回は履修者だけで進めました。もし心配なら、学生相談の窓口で確認してみてください。ただ、他の学生の登録情報を勝手に教えることはできませんから」


「……はい」


 当然の答えだと思った。


 相沢の個人情報を、俺が自由に調べていいわけではない。


 それでも、何もしないで帰ることはできなかった。


 俺は一度、学生支援の窓口へ向かった。


 受付には、授業の相談をする新入生や、書類を持った学生が並んでいた。


 順番を待っている間、何度も頭の中で説明を組み立てる。


 友人が来なくなった。


 名前が名簿にない。


 でも、みんなその友人を覚えていない。


 最後の一つを言えば、きっと怪訝(けげん)な顔をされる。


 それでも、隠してしまったら、本当に何も始まらない気がした。


「知り合いの学生が見当たらなくて、心配なんです」


 俺は窓口の職員へ、できるだけ落ち着いて話した。


 相沢拓海という名前。同じ基礎演習にいたこと。最後に会ったのは写真サークルの見学会の日だったこと。


 職員は話を最後まで聞いてくれた。


「ご相談は記録しておきます。ただ、在籍の有無や連絡先は、ご本人以外にはお伝えできません」


「……そうですよね」


「身の危険があるなど、急を要する事情が分かれば、改めてお知らせください。必要な相談先もご案内できます」


 職員は丁寧にそう言った。


 俺は礼を言って窓口を離れた。


 相談の記録は残る。


 今のところ、俺ができたのはそれだけだ。


 もし明日、そこに書かれた名前まで消えていたら。


 そんな考えが浮かび、慌てて振り払った。


 教室へ戻ると、相沢が座っていた席は空のままだった。


 机の中には何もない。


 前回、彼が広げていた青い線入りの地図も、消しゴムも、書きかけのメモも。


 もともと何も置かれていなかったみたいに、きれいだった。


 俺は自分の席に座り、初回授業のことを順番に思い出してみた。


 自己紹介のとき、相沢は俺の隣で小さく親指を立てた。


 校内を歩いたとき、地図を逆さに持って笑われた。


 撮影会で再会して、四人で写真を撮った。


 どの場面にも、あいつは確かにいた。


 ところが、思い出の中の机や景色だけは鮮明なのに、相沢が最後に着ていた服の色を思い出そうとすると、少しだけ曖昧(あいまい)になる。


 俺の記憶まで、何かに触れられているのだろうか。


 それとも、怖くなっているだけなのか。


 自分の両手を見た。


 いつもと同じ手だ。


 ただ、指先が細かく震えていた。


「真柴くん、大丈夫?」


 教室を出ようとしていた同級生が声をかけてくる。


「……うん。ありがとう」


「その相沢って人、本当にこの大学の学生なの?」


「俺は、そう聞いた」


「そっか。何か分かるといいね」


 悪意のない言葉だった。


 だからこそ、返す言葉が見つからなかった。


 窓の外で、白いものがひらりと舞った。


 あの紙の小鳥だ。


 基礎演習の初回授業で見た、薄い紙を折ったような姿。


 小鳥はガラスにぶつかることなく、ふっと消えた。


「……何なんだよ」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 そのとき、背後から呼びかけられた。


「真柴くん」


 振り向くと、白瀬さんが立っていた。


 いつもの明るい顔ではない。


「少し、話せる?」


     ◇


 俺たちは図書館の奥にある、自習用の小さなテーブルへ移動した。


 周囲には静かに勉強する学生がいる。


 白瀬さんはバッグから、薄い封筒を取り出した。


「これ、撮影会の写真」


 中には何枚かのプリントと、透明な袋に入ったフィルムのネガがあった。


「今日、持ってきたんだ」


「どうして?」


「昨日の影が気になって。先輩にも見てもらおうと思ってたから」


 白瀬さんは最後の集合写真をテーブルへ置いた。


 俺は息を呑(の)んだ。


「……相沢が、いない」


 写真には、三人しか写っていなかった。


 俺とこはくと白瀬さん。


 左側にいたはずの相沢拓海だけが、きれいに消えている。


 彼の笑顔も、服も、持っていた地図も。


 ただ、そこには妙に広い空間が残っていた。


 三人で撮ったのなら、最初からもう少し寄って立っているはずの距離だ。


「白瀬さん。これ、昨日送ってくれた写真と違う」


「違うって?」


「昨日は四人だった。相沢がここにいたんだ」


 指で空白を示す。


 白瀬さんは何度か写真を見返した。


「……私は、三人で撮ったと思ってた」


「でも、昨日は俺たち四人を見て、笑ってた。相沢の顔がおもしろいって」


 彼女は驚いたように目を上げた。


「私が?」


「うん」


「……ごめん。覚えてない」


 俺は言葉を失った。


 白瀬さんは嘘をついていない。


 嘘をついているなら、こんなに戸惑った顔にはならないだろう。


「でもね」


 彼女は写真の端に指を置いた。


「変なんだ」


「何が?」


「私は三人の写真を撮るなら、絶対にこういう構図にはしない」


 その声が、少し強くなる。


「左に大きな空白ができてる。三脚を立てた場所も、タイマーを使った時間も覚えてるのに、何でこんなに不自然な並びにしたんだろうって」


 彼女は写真を回し、光の当たる角度を変えた。


「しかも、影が一本多い」


 俺は写真を見つめた。


 昨日は、四人に対して五本の影だった。


 今は、三人に対して四本。


 一人分の姿と影だけが消え、誰のものでもない影が一本、残っている。


「これ、見て」


 白瀬さんがネガを透明な袋ごと持ち上げた。


 窓からの光に透かすと、小さな四角い像が並んでいる。


「ネガのほうも同じなの。人が写っていない場所にだけ、変な濃淡がある」


「写真の傷じゃなくて?」


「傷なら、もっと違う出方をすると思う。もちろん、私もまだ詳しくないけど」


 白瀬さんは深呼吸した。


「さっき授業で真柴くんが言ってたこと、最初は思い違いかと思った。でも、この写真を見てると……」


「俺が言ってること、信じられないよな」


「そうじゃない」


 彼女はすぐに首を振った。


「分からないの。だから、ちゃんと確かめたい」


 まっすぐな目だった。


「真柴くんは、相沢くんがいたって覚えてるんでしょ?」


「うん」


「なら、何を覚えてるのか、全部聞かせて」


 俺は静かに息を吐いた。


 ようやく、足元に床が戻ってきたような気がした。


「相沢は、明るいやつだった。地図を読むのが苦手で、何度も教室を間違えてた」


「うん」


「青いペンで、キャンパスマップに『迷ったら時計台』って書いてた」


「……その言葉、なんかいいね」


「写真を撮ったとき、家にも見せたいって言ってた」


 口にした瞬間、胸が苦しくなった。


 もし相沢が本当に消えているなら、その家族はどうなっているんだろう。


 誰が彼の帰りを待っているんだろう。


 それとも、もう誰も待っていないのだろうか。


「真柴くん」


 白瀬さんが静かに言った。


「今の話、メモしておこう。忘れないように」


 彼女はノートを開き、俺が話したことを一つずつ書き留め始めた。


 相沢拓海。


 基礎演習の同じ班。


 青いペンの地図。


 図書館前での集合写真。


 小さな文字が、ページに増えていく。


「……書けるんだな」


 俺が呟くと、白瀬さんは顔を上げた。


「え?」


「いや。名簿から名前が消えたって聞いたから、書いても消えるのかと思って」


 白瀬さんはペン先を見つめた。


「分からない。でも、書けるうちに書いておきたい」


 俺は頷いた。


 このノートが明日どうなるかは分からない。


 それでも、何もしないよりはずっといい。


「白瀬さん、どうしてここまでしてくれるの?」


 俺が尋ねると、彼女はペンを置いた。


「どうして、って?」


「俺の話はおかしいだろ。会ったばかりのやつが、誰も知らない人のことをずっと話してるんだから」


「……正直に言えば、怖いよ」


 白瀬さんは隠さずに答えた。


「昨日までは、変わった影が写っただけだと思ってた。でも今日は、撮った写真そのものが変わってる。自分の記憶も信用できないかもしれないって、すごく怖い」


「……うん」


「でも、写真を撮ったのは私なの。そこに写った人が、初めからいなかったことになってるなら、ちゃんと知りたい」


 彼女は写真を封筒に戻す前に、もう一度見た。


「それに、真柴くんが本気で困ってるのも分かるから」


 胸の奥が、きゅっと痛くなった。


「ありがとう」


「ううん。まだ何も分かってないよ」


「それでも」


 俺は言葉を探した。


「誰かに話せただけで、少し楽になった」


 白瀬さんは小さく笑った。


「じゃあ、よかった。……写真とネガは私が大切に保管するね。真柴くんも、送った画像を残しておいて」


「うん。昨日のメッセージも消さない」


「私も残す。あとで比べられるように」


 彼女はノートのページに日付を書き足した。


 今日、何が分かっていて、何が分かっていないのか。


 感覚と事実を分けて並べようとする姿が、頼もしかった。


 ただ怖がるだけではなく、少しずつ確かめる。


 俺にはそれが必要だった。


     ◇


 図書館を出る頃には、昼休みが終わりかけていた。


 俺は白瀬さんと別れ、講義棟の外へ出た。


 まっすぐ次の授業へ向かうつもりだったが、足が勝手に図書館前の広場へ向いた。


 撮影会で集合写真を撮った石壁が、そこにある。


 人の行き交う通路から少し離れた、何の変哲もない場所だった。


 俺はスマートフォンの写真と、実際の景色を見比べる。


 白瀬さんが三脚を立てた位置。


 俺たちが肩を並べた場所。


 背後に写った古い講義棟の窓。


 壁の前に四人で立ったなら、影は同じ方向へ伸びるはずだ。


 俺は試しに石壁へ近づき、自分の足元を見た。


 今日の太陽は撮影した日より少し高い。


 それでも、どこから影が生まれたのかを考える手がかりにはなる。


 五人目の影があった場所には、誰もいない。


 小さな紙片が、風に転がされてきた。


 拾い上げると、白紙だった。


 講義棟の窓で見た紙の小鳥とは違う。ただの紙くずだ。


 分かっているのに、指先が冷たくなる。


「……相沢」


 俺は小さく名前を呼んだ。


 答えはなかった。


 広場では学生たちが笑いながら写真を撮っている。


 俺たちも、つい数日前まで同じだった。


 その当たり前の景色のすぐ隣に、誰かが消えてしまう場所がある。


 そう思うと、大学全体が少し違って見えた。


 頭の中で、相沢の声が何度も繰り返される。


『最初、友達できるかちょっと心配だったんだ』


『家にも見せたいんだ』


 たった数日前の会話だ。


 声の高さも、笑い方も、妙にはっきり思い出せる。


 どうして俺だけが覚えているのか。


 それが自分でも分からなかった。


 生まれつき、普通の人には見えないものが見える。


 その体質と関係があるのだろうか。


 俺には怪異を祓(はら)う力なんてない。


 ただ、見えて、触れられて、ときには声が聞こえるだけだ。


 誰かを消してしまうような相手がいるとして、どうすればいいのか分からない。


 スマートフォンを取り出す。


 こはくに電話した。


『もしもし、朔?』


「今、話せる?」


『大丈夫。どうしたの?』


「……相沢が、いなくなった」


 電話の向こうで、こはくが息を止めたのが分かった。


『……どういうこと?』


「誰も覚えてない。先生も白瀬さんも。出席表からも名前が消えてる」


 言いながら、声が震えた。


「昨日、写真を一緒に見ただろ。相沢が変な顔してるって、こはくも笑ってた」


 長い沈黙があった。


『……ごめん、朔』


 こはくの声は、ひどく小さかった。


『私も、その子の顔が思い出せない』


「……そっか」


『でも、朔が嘘をついてるとは思わない』


 俺は立ち止まった。


『今、どこにいる?』


「図書館の外」


『そこにいて。すぐ行く』


「授業は?」


『ちょうど空き時間。大丈夫』


 電話が切れた。


 俺は近くのベンチへ座り、息をついた。


 誰にも覚えてもらえないまま、一人分の人生が消えていく。


 そんなことが、本当に起きるのか。


 普通の大学生活を送っているはずだった。


 履修登録に悩み、学食のメニューを選び、こはくと他愛もないことで笑う。


 その延長に、こんな日が来るなんて思わなかった。


     ◇


「朔!」


 呼ばれて顔を上げると、こはくが走ってきた。


 俺の前で立ち止まり、息を整える。


「……大丈夫?」


「大丈夫、とは言いにくいかな」


「そっか」


 こはくは隣に座った。


 何か言おうとして、やめる。


 それから、俺の手をそっと握った。


「冷たい」


「……そうかな」


「ずっと怖かったんでしょ」


 言われて初めて、俺は自分が怖がっていたことに気づいた。


 相沢がいなくなったこと。


 誰も覚えていないこと。


 そして、いつか自分の記憶まで間違っていると言われるかもしれないこと。


 こはくは握った手に少しだけ力を込めた。


「怖いなら、怖いって言っていいんだよ」


「……うん」


 春の風が、二人の間を通り過ぎる。


「こはく、ひとつ聞いてもいい?」


「うん」


「人の名前を、奪うような怪異っているのか?」


 彼女の指が、ぴくりと動いた。


「……昔話なら、聞いたことがある」


「本当に?」


「うん。名前を失うと、周りから忘れられたり、自分が誰なのか分からなくなったりするって」


「じゃあ、相沢は……」


「まだ決めつけないで。似たような話はいくつもあるし、今起きてることと同じとは限らない」


 こはくの声には、慎重さがあった。


 それは俺を遠ざけるためではなく、軽々しく希望や恐怖を口にしないためなのだと思った。


「でも、名前が消えることは、ただの忘れ物とは違うんだよ」


「どういう意味?」


「人の名前って、誰かに呼ばれて、覚えてもらって、少しずつその人の居場所になるから」


 こはくは遠くの校舎を見つめた。


「そのつながりを切られたら、本人はどこへ行けばいいんだろうね」


 俺は返事ができなかった。


 相沢は、大学でできた友達との写真を家族に見せたいと言っていた。


 それを、誰が受け取るはずだったのか。


「俺、相沢を探したい」


 気づけば、言葉が出ていた。


「まだ、どこにいるのかも分からないけど」


「朔」


「あいつ、せっかく友達できたって喜んでたんだ。誰も覚えてないからって、なかったことにはしたくない」


 こはくは俺を見つめた。


 その目には、心配と、何か別の感情が浮かんでいた。


「……分かった」


「手伝ってくれる?」


「うん。でも、約束して」


「何?」


「危ないと思ったら、一人で先へ進まないこと。私にもちゃんと相談すること」


「分かった」


「絶対だよ」


「絶対」


 こはくはようやく、少しだけ笑った。


「……朔って、昔から変わらないね」


「何が?」


「誰かが困ってたら、放っておけないところ」


「そうかな」


「そうだよ。だから……」


 こはくは言葉を切った。


 耳を隠しているはずの頭に、目には見えない緊張が走った気がした。


「私も、ちゃんと隣にいる」


 彼女の手は温かかった。


 俺は、ようやく呼吸が少し楽になった。


「でも、こはく。俺たち、何から始めればいいんだろう」


「まずは分かっていることを整理しよう。昨日の写真と、今日変わったところ。それから、似た話が昔この町になかったか調べてみたい」


「神社の石碑も?」


「……うん。関係があるかもしれない」


「白瀬さんにも話したほうがいい?」


 こはくはすぐには答えなかった。


「灯里ちゃんは、人間だよ」


「俺も人間だけど」


「朔は、見えないものが見えるでしょ。それでも危険がないとは言えない。灯里ちゃんを巻き込んでいいのか、ちゃんと考えたい」


 俺は頷いた。


 白瀬さんはもう写真の異変に気づいている。


 でも、それ以上のことをどう伝えるかは、簡単に決められない。


「……俺が全部決めることじゃないな」


「そうだね。灯里ちゃんの気持ちもあるし」


 こはくは手を握り直した。


「だから急がないで。怖いときほど、一つずつ確かめよう」


「分かった」


 俺たちはしばらく並んで座った。


 周りを通り過ぎる学生たちは、誰も俺たちの話に気づかない。


 名前を一つ失っても、大学の一日は何事もなく進んでいく。


 そのことが、いちばん恐ろしかった。


     ◇


 その日の夕方、俺はアパートへ戻り、ノートを開いた。


 今日起きたことを、忘れないうちに書いておこうと思った。


 相沢拓海。


 基礎演習の学生。


 地図が苦手で、明るくて、友達ができたことを喜んでいた。


 そして、名簿と人々の記憶から消えた。


 ペンを置き、スマートフォンの写真を開く。


 白瀬さんから送られてきた集合写真は、やはり三人だけになっていた。


 昨日、俺が見た四人の写真は、もうどこにもない。


 写真に残るのは、不自然な空白と、誰のものでもない影。


 こはくの言葉を思い返す。


『名前って、誰かに呼ばれて、覚えてもらって、少しずつその人の居場所になるから』


 なら、俺が相沢の名前を覚えている限り、あいつの居場所は完全には消えていないのかもしれない。


 そう思いたかった。


 ふと、画面の端に白いものがあることに気づいた。


 石壁の足元。


 五人目の影が伸びていた場所に、小さな長方形が写っている。


 最初は光の反射かと思った。


 拡大してみると、それは細い紐のついた札のように見えた。


 文字はない。


 真っ白な札だった。


「……名札?」


 口にした瞬間、部屋の窓がかすかに鳴った。


 外には、誰もいない。


 俺は画面を閉じずに、相沢の名前をもう一度ノートへ書いた。


 消えた一人を、忘れないために。


 ――第四話 了


ここまで読んでくれてありがとうございました!


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