第四話 名簿から消えた学生
写真の中に、いるはずのない五人目の影があった。
それが何なのか、俺には分からなかった。
ただ一つ、はっきりしている。
その写真を撮ったとき、あの場所に立っていたのは四人だけだった。
「……やっぱり、おかしいよな」
東雲大学の写真サークルに所属する白瀬灯里から送られてきた画像を、俺は何度も拡大した。
石壁の前で笑う俺たち。
俺、こはく、白瀬さん、そして相沢拓海。基礎演習で知り合ったばかりの友人だ。
四人の足元に、五本の影。
影の先には誰も写っていない。
スマートフォンが震えた。
『真柴くん、気づいた?』
白瀬さんからのメッセージだった。
『うん。影が一本多い』
『だよね。撮ったとき、近くに他の人がいたかな』
『覚えてる限り、いなかったと思う』
送信してから、俺はあの日の光景を思い返した。
三脚を立てた白瀬さん。
右側で俺の袖をつまんだこはく。
左側で変な顔をした相沢。
セルフタイマーの小さな音。
あのとき、他に誰かいた気配はなかった。
『フィルムの傷とか、光の具合かもしれないけど、形が人っぽいんだよね』
白瀬さんの文が続く。
『現像したネガも、今度見てみる。気になるから』
『ありがとう。俺も何か思い出したら連絡する』
やり取りが終わっても、胸のざわつきは消えなかった。
写真を閉じ、窓の外を見る。
春の夜の夕凪市には、街灯の明かりが細く伸びていた。
普通の人には見えないものが、夜の町を通り過ぎていくことがある。
だから、俺には分かる。
見えないものがある、という事実だけで何でも怪異のせいにしてはいけない。
見間違いも、偶然も、ただの撮影ミスもある。
それでも、神社の石碑から消えた文字と、古い講義棟の窓に貼りついた白い紙片を思い出すと、単なる偶然だとは思いきれなかった。
玄関のチャイムが鳴った。
「朔、起きてる?」
聞き慣れた声に、俺は立ち上がる。
そこにいたのは、稲守こはくだった。
片手には紙袋。もう片方には、例の合鍵が付いた鈴の飾りを持っている。
「今日はちゃんとチャイム鳴らしたよ」
「いつも鳴らしてるだろ」
「そうだけど。鍵、持ってるのに偉いでしょ?」
「偉い偉い」
「あっ、適当!」
いつも通りのやり取りに、少しだけ気が緩んだ。
こはくは部屋に入ると、テーブルの上に紙袋を置いた。
「商店街でコロッケ買ってきた。夕飯、まだだよね?」
「うん。助かる」
「……どうしたの?」
こはくは俺の顔を見て、笑みを引っ込めた。
「何かあった?」
「白瀬さんから写真が届いたんだけど」
俺はスマートフォンを見せた。
こはくは最初、四人の笑顔に目を細めた。
「わあ、よく撮れてるね。相沢くんの顔、おもしろい」
「そうだな。……足元を見て」
指で画像を拡大する。
こはくは一瞬、息を止めた。
「……五本」
「やっぱり、そう見えるよな」
「朔、この写真、他の人には見せた?」
「白瀬さんとやり取りしただけ」
「そっか」
彼女はしばらく画面を見つめた。
その横顔が、入学式の日に石碑を見たときのものと重なる。
「こはく、何か分かる?」
「……まだ。影だけじゃ、何とも言えない」
「怪異なのか?」
「そういう可能性もある。でも、全部をそれで説明するのは危ないよ」
こはくはゆっくりと顔を上げた。
「今は写真を消さずに残しておいて。気づいたことも、できれば書いておいて」
「分かった」
「それと、朔」
「ん?」
「少しでも怖いと思ったら、私に言ってね」
冗談めかした口調ではなかった。
俺は頷いた。
こはくはようやく笑い、コロッケの袋を開けた。
「はい。それじゃあ、まずはご飯。空腹だと考えも暗くなるから」
「お前らしいな」
「大事なことです」
温かいコロッケを分け合っているうちに、奇妙な写真のことは少しだけ遠ざかった。
その晩、俺は何度か画面を見返したあと、眠りについた。
翌日、自分の知っている世界が一人分だけ欠けることになるとは、考えもしなかった。
◇
月曜日の朝。
基礎演習の教室へ入ると、窓際の席に白瀬さんが座っていた。
「おはよう、真柴くん」
「おはよう。写真のことなんだけど」
「うん。あとで話そう」
彼女はバッグからノートを出しながら、小さく頷いた。
俺はいつもの席へ向かう。
隣には、相沢が座るはずだった。
少なくとも、前の授業ではそうだった。
けれど今日は、机の上に何も置かれていない。
「……相沢、遅れてるのかな」
独り言のつもりで呟くと、前の席の男子が振り向いた。
「誰?」
「相沢。先週、ここに座ってたやつ」
「え? 知らないけど」
聞き間違いかと思った。
「ほら、俺と同じ班で、地図をよく逆さに持ってる」
「……ごめん。分かんない」
彼は困ったように笑い、前を向いた。
俺は鞄を机に置いたまま、しばらく動けなかった。
相沢は昨日まで、確かにいた。
少なくとも写真が届いた夜には、こはくもその顔を見て笑っていた。
教室の時計は、いつも通りの速度で進んでいる。
他の学生たちは雑談をし、教科書を出し、眠そうにあくびをしている。
その普通さが、急に怖くなった。
授業が始まった。
担当教員が出席表を開き、順番に名前を呼んでいく。
俺の名前が呼ばれる。
「はい」
そのあとも何人かが返事をした。
でも、相沢の名前は最後まで呼ばれなかった。
「先生、すみません」
気づけば手を挙げていた。
「相沢拓海がまだ来てないみたいなんですけど」
教員が出席表から顔を上げた。
「相沢……?」
「はい。先週、俺の隣に座ってた学生です」
教員はもう一度、出席表を確かめた。
ページをめくり、名前の列を指で追う。
「このクラスに、相沢さんという学生は登録されていませんね」
「えっ」
「別のクラスと間違えていませんか?」
「そんなはずないです」
声が思ったより大きくなった。
教室が静まる。
俺は慌てて言い直した。
「……すみません。でも、初回授業の自己紹介で、確かに話したんです」
教員は少し困ったように眉を寄せた。
「今日はこのまま進めましょう。終わったあとで確認しますから」
「……分かりました」
俺は座った。
手のひらが冷たい。
誰かの視線が気になって、顔を上げられなかった。
授業は、前回作った学内施設の地図を使う課題だった。
机に回ってきた班の提出用紙には、三人分の名前が書かれている。
俺と白瀬さん、それから同じ班のもう一人。
相沢の名前がない。
前回、四人で歩いたはずなのに。
「白瀬さん」
小さく呼びかける。
「……この班、四人だったよね」
彼女は用紙を見た。
「三人じゃなかった?」
「相沢がいた。俺たちと一緒に図書館へ行っただろ」
「相沢くん……?」
白瀬さんは考え込んだ。
長い沈黙のあと、首を振る。
「ごめん。思い出せない」
その声には、ふざけた響きが一つもなかった。
俺は用紙を見下ろした。
名前が一つ減っただけだ。
でも、それは名簿の修正なんかではなかった。
みんなの記憶から、相沢拓海という人間が抜け落ちている。
◇
授業が終わると、俺は教員に声をかけた。
「さっきの相沢のこと、もう一度確認してもらえませんか」
教員は出席表と、先週の提出物の控えを見せてくれた。
登録人数は十五人。
初回から、ずっと十五人だという。
「でも、俺は相沢と話しました。自己紹介も聞きました」
「真柴さんが嘘をついているとは思いませんよ。ただ、この授業の名簿には載っていないんです」
穏やかな言葉だった。
それが、かえって逃げ場をなくした。
俺には記憶がある。
けれど、それを裏づけるものが一つもない。
「他の授業の学生が、見学に来ていた可能性は?」
「初回は履修者だけで進めました。もし心配なら、学生相談の窓口で確認してみてください。ただ、他の学生の登録情報を勝手に教えることはできませんから」
「……はい」
当然の答えだと思った。
相沢の個人情報を、俺が自由に調べていいわけではない。
それでも、何もしないで帰ることはできなかった。
俺は一度、学生支援の窓口へ向かった。
受付には、授業の相談をする新入生や、書類を持った学生が並んでいた。
順番を待っている間、何度も頭の中で説明を組み立てる。
友人が来なくなった。
名前が名簿にない。
でも、みんなその友人を覚えていない。
最後の一つを言えば、きっと怪訝な顔をされる。
それでも、隠してしまったら、本当に何も始まらない気がした。
「知り合いの学生が見当たらなくて、心配なんです」
俺は窓口の職員へ、できるだけ落ち着いて話した。
相沢拓海という名前。同じ基礎演習にいたこと。最後に会ったのは写真サークルの見学会の日だったこと。
職員は話を最後まで聞いてくれた。
「ご相談は記録しておきます。ただ、在籍の有無や連絡先は、ご本人以外にはお伝えできません」
「……そうですよね」
「身の危険があるなど、急を要する事情が分かれば、改めてお知らせください。必要な相談先もご案内できます」
職員は丁寧にそう言った。
俺は礼を言って窓口を離れた。
相談の記録は残る。
今のところ、俺ができたのはそれだけだ。
もし明日、そこに書かれた名前まで消えていたら。
そんな考えが浮かび、慌てて振り払った。
教室へ戻ると、相沢が座っていた席は空のままだった。
机の中には何もない。
前回、彼が広げていた青い線入りの地図も、消しゴムも、書きかけのメモも。
もともと何も置かれていなかったみたいに、きれいだった。
俺は自分の席に座り、初回授業のことを順番に思い出してみた。
自己紹介のとき、相沢は俺の隣で小さく親指を立てた。
校内を歩いたとき、地図を逆さに持って笑われた。
撮影会で再会して、四人で写真を撮った。
どの場面にも、あいつは確かにいた。
ところが、思い出の中の机や景色だけは鮮明なのに、相沢が最後に着ていた服の色を思い出そうとすると、少しだけ曖昧になる。
俺の記憶まで、何かに触れられているのだろうか。
それとも、怖くなっているだけなのか。
自分の両手を見た。
いつもと同じ手だ。
ただ、指先が細かく震えていた。
「真柴くん、大丈夫?」
教室を出ようとしていた同級生が声をかけてくる。
「……うん。ありがとう」
「その相沢って人、本当にこの大学の学生なの?」
「俺は、そう聞いた」
「そっか。何か分かるといいね」
悪意のない言葉だった。
だからこそ、返す言葉が見つからなかった。
窓の外で、白いものがひらりと舞った。
あの紙の小鳥だ。
基礎演習の初回授業で見た、薄い紙を折ったような姿。
小鳥はガラスにぶつかることなく、ふっと消えた。
「……何なんだよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
そのとき、背後から呼びかけられた。
「真柴くん」
振り向くと、白瀬さんが立っていた。
いつもの明るい顔ではない。
「少し、話せる?」
◇
俺たちは図書館の奥にある、自習用の小さなテーブルへ移動した。
周囲には静かに勉強する学生がいる。
白瀬さんはバッグから、薄い封筒を取り出した。
「これ、撮影会の写真」
中には何枚かのプリントと、透明な袋に入ったフィルムのネガがあった。
「今日、持ってきたんだ」
「どうして?」
「昨日の影が気になって。先輩にも見てもらおうと思ってたから」
白瀬さんは最後の集合写真をテーブルへ置いた。
俺は息を呑んだ。
「……相沢が、いない」
写真には、三人しか写っていなかった。
俺とこはくと白瀬さん。
左側にいたはずの相沢拓海だけが、きれいに消えている。
彼の笑顔も、服も、持っていた地図も。
ただ、そこには妙に広い空間が残っていた。
三人で撮ったのなら、最初からもう少し寄って立っているはずの距離だ。
「白瀬さん。これ、昨日送ってくれた写真と違う」
「違うって?」
「昨日は四人だった。相沢がここにいたんだ」
指で空白を示す。
白瀬さんは何度か写真を見返した。
「……私は、三人で撮ったと思ってた」
「でも、昨日は俺たち四人を見て、笑ってた。相沢の顔がおもしろいって」
彼女は驚いたように目を上げた。
「私が?」
「うん」
「……ごめん。覚えてない」
俺は言葉を失った。
白瀬さんは嘘をついていない。
嘘をついているなら、こんなに戸惑った顔にはならないだろう。
「でもね」
彼女は写真の端に指を置いた。
「変なんだ」
「何が?」
「私は三人の写真を撮るなら、絶対にこういう構図にはしない」
その声が、少し強くなる。
「左に大きな空白ができてる。三脚を立てた場所も、タイマーを使った時間も覚えてるのに、何でこんなに不自然な並びにしたんだろうって」
彼女は写真を回し、光の当たる角度を変えた。
「しかも、影が一本多い」
俺は写真を見つめた。
昨日は、四人に対して五本の影だった。
今は、三人に対して四本。
一人分の姿と影だけが消え、誰のものでもない影が一本、残っている。
「これ、見て」
白瀬さんがネガを透明な袋ごと持ち上げた。
窓からの光に透かすと、小さな四角い像が並んでいる。
「ネガのほうも同じなの。人が写っていない場所にだけ、変な濃淡がある」
「写真の傷じゃなくて?」
「傷なら、もっと違う出方をすると思う。もちろん、私もまだ詳しくないけど」
白瀬さんは深呼吸した。
「さっき授業で真柴くんが言ってたこと、最初は思い違いかと思った。でも、この写真を見てると……」
「俺が言ってること、信じられないよな」
「そうじゃない」
彼女はすぐに首を振った。
「分からないの。だから、ちゃんと確かめたい」
まっすぐな目だった。
「真柴くんは、相沢くんがいたって覚えてるんでしょ?」
「うん」
「なら、何を覚えてるのか、全部聞かせて」
俺は静かに息を吐いた。
ようやく、足元に床が戻ってきたような気がした。
「相沢は、明るいやつだった。地図を読むのが苦手で、何度も教室を間違えてた」
「うん」
「青いペンで、キャンパスマップに『迷ったら時計台』って書いてた」
「……その言葉、なんかいいね」
「写真を撮ったとき、家にも見せたいって言ってた」
口にした瞬間、胸が苦しくなった。
もし相沢が本当に消えているなら、その家族はどうなっているんだろう。
誰が彼の帰りを待っているんだろう。
それとも、もう誰も待っていないのだろうか。
「真柴くん」
白瀬さんが静かに言った。
「今の話、メモしておこう。忘れないように」
彼女はノートを開き、俺が話したことを一つずつ書き留め始めた。
相沢拓海。
基礎演習の同じ班。
青いペンの地図。
図書館前での集合写真。
小さな文字が、ページに増えていく。
「……書けるんだな」
俺が呟くと、白瀬さんは顔を上げた。
「え?」
「いや。名簿から名前が消えたって聞いたから、書いても消えるのかと思って」
白瀬さんはペン先を見つめた。
「分からない。でも、書けるうちに書いておきたい」
俺は頷いた。
このノートが明日どうなるかは分からない。
それでも、何もしないよりはずっといい。
「白瀬さん、どうしてここまでしてくれるの?」
俺が尋ねると、彼女はペンを置いた。
「どうして、って?」
「俺の話はおかしいだろ。会ったばかりのやつが、誰も知らない人のことをずっと話してるんだから」
「……正直に言えば、怖いよ」
白瀬さんは隠さずに答えた。
「昨日までは、変わった影が写っただけだと思ってた。でも今日は、撮った写真そのものが変わってる。自分の記憶も信用できないかもしれないって、すごく怖い」
「……うん」
「でも、写真を撮ったのは私なの。そこに写った人が、初めからいなかったことになってるなら、ちゃんと知りたい」
彼女は写真を封筒に戻す前に、もう一度見た。
「それに、真柴くんが本気で困ってるのも分かるから」
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
「ありがとう」
「ううん。まだ何も分かってないよ」
「それでも」
俺は言葉を探した。
「誰かに話せただけで、少し楽になった」
白瀬さんは小さく笑った。
「じゃあ、よかった。……写真とネガは私が大切に保管するね。真柴くんも、送った画像を残しておいて」
「うん。昨日のメッセージも消さない」
「私も残す。あとで比べられるように」
彼女はノートのページに日付を書き足した。
今日、何が分かっていて、何が分かっていないのか。
感覚と事実を分けて並べようとする姿が、頼もしかった。
ただ怖がるだけではなく、少しずつ確かめる。
俺にはそれが必要だった。
◇
図書館を出る頃には、昼休みが終わりかけていた。
俺は白瀬さんと別れ、講義棟の外へ出た。
まっすぐ次の授業へ向かうつもりだったが、足が勝手に図書館前の広場へ向いた。
撮影会で集合写真を撮った石壁が、そこにある。
人の行き交う通路から少し離れた、何の変哲もない場所だった。
俺はスマートフォンの写真と、実際の景色を見比べる。
白瀬さんが三脚を立てた位置。
俺たちが肩を並べた場所。
背後に写った古い講義棟の窓。
壁の前に四人で立ったなら、影は同じ方向へ伸びるはずだ。
俺は試しに石壁へ近づき、自分の足元を見た。
今日の太陽は撮影した日より少し高い。
それでも、どこから影が生まれたのかを考える手がかりにはなる。
五人目の影があった場所には、誰もいない。
小さな紙片が、風に転がされてきた。
拾い上げると、白紙だった。
講義棟の窓で見た紙の小鳥とは違う。ただの紙くずだ。
分かっているのに、指先が冷たくなる。
「……相沢」
俺は小さく名前を呼んだ。
答えはなかった。
広場では学生たちが笑いながら写真を撮っている。
俺たちも、つい数日前まで同じだった。
その当たり前の景色のすぐ隣に、誰かが消えてしまう場所がある。
そう思うと、大学全体が少し違って見えた。
頭の中で、相沢の声が何度も繰り返される。
『最初、友達できるかちょっと心配だったんだ』
『家にも見せたいんだ』
たった数日前の会話だ。
声の高さも、笑い方も、妙にはっきり思い出せる。
どうして俺だけが覚えているのか。
それが自分でも分からなかった。
生まれつき、普通の人には見えないものが見える。
その体質と関係があるのだろうか。
俺には怪異を祓う力なんてない。
ただ、見えて、触れられて、ときには声が聞こえるだけだ。
誰かを消してしまうような相手がいるとして、どうすればいいのか分からない。
スマートフォンを取り出す。
こはくに電話した。
『もしもし、朔?』
「今、話せる?」
『大丈夫。どうしたの?』
「……相沢が、いなくなった」
電話の向こうで、こはくが息を止めたのが分かった。
『……どういうこと?』
「誰も覚えてない。先生も白瀬さんも。出席表からも名前が消えてる」
言いながら、声が震えた。
「昨日、写真を一緒に見ただろ。相沢が変な顔してるって、こはくも笑ってた」
長い沈黙があった。
『……ごめん、朔』
こはくの声は、ひどく小さかった。
『私も、その子の顔が思い出せない』
「……そっか」
『でも、朔が嘘をついてるとは思わない』
俺は立ち止まった。
『今、どこにいる?』
「図書館の外」
『そこにいて。すぐ行く』
「授業は?」
『ちょうど空き時間。大丈夫』
電話が切れた。
俺は近くのベンチへ座り、息をついた。
誰にも覚えてもらえないまま、一人分の人生が消えていく。
そんなことが、本当に起きるのか。
普通の大学生活を送っているはずだった。
履修登録に悩み、学食のメニューを選び、こはくと他愛もないことで笑う。
その延長に、こんな日が来るなんて思わなかった。
◇
「朔!」
呼ばれて顔を上げると、こはくが走ってきた。
俺の前で立ち止まり、息を整える。
「……大丈夫?」
「大丈夫、とは言いにくいかな」
「そっか」
こはくは隣に座った。
何か言おうとして、やめる。
それから、俺の手をそっと握った。
「冷たい」
「……そうかな」
「ずっと怖かったんでしょ」
言われて初めて、俺は自分が怖がっていたことに気づいた。
相沢がいなくなったこと。
誰も覚えていないこと。
そして、いつか自分の記憶まで間違っていると言われるかもしれないこと。
こはくは握った手に少しだけ力を込めた。
「怖いなら、怖いって言っていいんだよ」
「……うん」
春の風が、二人の間を通り過ぎる。
「こはく、ひとつ聞いてもいい?」
「うん」
「人の名前を、奪うような怪異っているのか?」
彼女の指が、ぴくりと動いた。
「……昔話なら、聞いたことがある」
「本当に?」
「うん。名前を失うと、周りから忘れられたり、自分が誰なのか分からなくなったりするって」
「じゃあ、相沢は……」
「まだ決めつけないで。似たような話はいくつもあるし、今起きてることと同じとは限らない」
こはくの声には、慎重さがあった。
それは俺を遠ざけるためではなく、軽々しく希望や恐怖を口にしないためなのだと思った。
「でも、名前が消えることは、ただの忘れ物とは違うんだよ」
「どういう意味?」
「人の名前って、誰かに呼ばれて、覚えてもらって、少しずつその人の居場所になるから」
こはくは遠くの校舎を見つめた。
「そのつながりを切られたら、本人はどこへ行けばいいんだろうね」
俺は返事ができなかった。
相沢は、大学でできた友達との写真を家族に見せたいと言っていた。
それを、誰が受け取るはずだったのか。
「俺、相沢を探したい」
気づけば、言葉が出ていた。
「まだ、どこにいるのかも分からないけど」
「朔」
「あいつ、せっかく友達できたって喜んでたんだ。誰も覚えてないからって、なかったことにはしたくない」
こはくは俺を見つめた。
その目には、心配と、何か別の感情が浮かんでいた。
「……分かった」
「手伝ってくれる?」
「うん。でも、約束して」
「何?」
「危ないと思ったら、一人で先へ進まないこと。私にもちゃんと相談すること」
「分かった」
「絶対だよ」
「絶対」
こはくはようやく、少しだけ笑った。
「……朔って、昔から変わらないね」
「何が?」
「誰かが困ってたら、放っておけないところ」
「そうかな」
「そうだよ。だから……」
こはくは言葉を切った。
耳を隠しているはずの頭に、目には見えない緊張が走った気がした。
「私も、ちゃんと隣にいる」
彼女の手は温かかった。
俺は、ようやく呼吸が少し楽になった。
「でも、こはく。俺たち、何から始めればいいんだろう」
「まずは分かっていることを整理しよう。昨日の写真と、今日変わったところ。それから、似た話が昔この町になかったか調べてみたい」
「神社の石碑も?」
「……うん。関係があるかもしれない」
「白瀬さんにも話したほうがいい?」
こはくはすぐには答えなかった。
「灯里ちゃんは、人間だよ」
「俺も人間だけど」
「朔は、見えないものが見えるでしょ。それでも危険がないとは言えない。灯里ちゃんを巻き込んでいいのか、ちゃんと考えたい」
俺は頷いた。
白瀬さんはもう写真の異変に気づいている。
でも、それ以上のことをどう伝えるかは、簡単に決められない。
「……俺が全部決めることじゃないな」
「そうだね。灯里ちゃんの気持ちもあるし」
こはくは手を握り直した。
「だから急がないで。怖いときほど、一つずつ確かめよう」
「分かった」
俺たちはしばらく並んで座った。
周りを通り過ぎる学生たちは、誰も俺たちの話に気づかない。
名前を一つ失っても、大学の一日は何事もなく進んでいく。
そのことが、いちばん恐ろしかった。
◇
その日の夕方、俺はアパートへ戻り、ノートを開いた。
今日起きたことを、忘れないうちに書いておこうと思った。
相沢拓海。
基礎演習の学生。
地図が苦手で、明るくて、友達ができたことを喜んでいた。
そして、名簿と人々の記憶から消えた。
ペンを置き、スマートフォンの写真を開く。
白瀬さんから送られてきた集合写真は、やはり三人だけになっていた。
昨日、俺が見た四人の写真は、もうどこにもない。
写真に残るのは、不自然な空白と、誰のものでもない影。
こはくの言葉を思い返す。
『名前って、誰かに呼ばれて、覚えてもらって、少しずつその人の居場所になるから』
なら、俺が相沢の名前を覚えている限り、あいつの居場所は完全には消えていないのかもしれない。
そう思いたかった。
ふと、画面の端に白いものがあることに気づいた。
石壁の足元。
五人目の影が伸びていた場所に、小さな長方形が写っている。
最初は光の反射かと思った。
拡大してみると、それは細い紐のついた札のように見えた。
文字はない。
真っ白な札だった。
「……名札?」
口にした瞬間、部屋の窓がかすかに鳴った。
外には、誰もいない。
俺は画面を閉じずに、相沢の名前をもう一度ノートへ書いた。
消えた一人を、忘れないために。
――第四話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
評価して頂けると、ものすごく喜びます!




