第三話 写真サークルの少女
大学に入って初めて覚えたことが、二つある。
一つ。教室の番号は、建物ごとに規則が違う。
もう一つ。初対面の相手に自己紹介するのは、思っていたより難しい。
「それでは順番に、お名前と、大学でやってみたいことを一つずつ話してください」
東雲大学の小さな演習室で、担当教員が穏やかに言った。
四月も半ばに差しかかろうとしている。
窓の外には、入学式の日より少し葉の増えた桜の木が見えた。
今日は基礎演習の初回授業だ。
十数人の新入生が、机を四角く並べて座っている。
俺、真柴朔は、順番が回ってくるまで配布資料の端を折ったり戻したりしていた。
「真柴くん、次どうぞ」
「はい」
椅子から立つ。
途端に、十数人分の視線が集まった。
「真柴朔です。夕凪市に住んでます。ええと、大学では……」
どうしよう。
やってみたいことなら、いくつかある。
図書館で気になる本を片っ端から読むこと。知らない町を歩くこと。人と怪異が、同じ場所でどう暮らしてきたのかを調べること。
最後の話をそのまま言うわけにはいかない。
なぜなら、普通の人は怪異が見えないからだ。
それに今、教室の天井近くでは、薄い紙のような小鳥が一羽、照明の周りをひらひら飛んでいる。
誰も気づいていない。
俺だけが、それを目で追ってしまう。
「……この町の、知らない場所を歩いてみたいです。よろしくお願いします」
拍手が起きる。
何とか座ると、隣の席の男子が小さく親指を立てた。
「いいじゃん。俺もまだ全然、町を知らない」
「ありがとう」
彼は相沢拓海と名乗った。
少し癖のある短い髪に、明るい笑顔。大学へは市外から通っていて、昨日も駅から教室までの道を間違えたという。
「この建物、入口が二つあるだろ。片方、階段が反対側にあるんだよ」
「分かる。俺もさっき迷った」
「だよな! 俺だけじゃなくてよかった」
あまりにも安心した顔で笑うので、俺もつられて笑った。
その先の席で、一人の女子学生が立ち上がる。
「白瀬灯里です。写真を撮るのが好きです。大学では、自分がまだ知らない景色をたくさん撮りたいと思っています」
よく通る、明るい声だった。
肩にかかる黒髪を耳にかけ、少しだけ首を傾げて笑う。
その机の横には、使い込まれた革のカメラケースが置かれていた。
「趣味はフィルムカメラです。撮ったその場で確認できないところも含めて、好きなんです」
教員が「現像するまでのお楽しみですね」と頷く。
「はい。失敗することもありますけど、それも面白いです」
白瀬さんは楽しそうに答えた。
俺は少し、不思議に思った。
写真なんて、スマートフォンなら何枚でも撮れる。なのに、一度シャッターを切ったら結果を見るまで時間がかかる道具を、わざわざ選ぶ。
今まで考えたことのない楽しみ方だった。
全員の紹介が終わり、授業は学内の施設を使った簡単な課題に移った。
四人一組で図書館や資料室の位置を調べ、最後に大学の地図へ書き込むというものだ。
相沢と白瀬さん、それからもう一人の学生が、俺と同じ班になった。
「真柴くん、歩くの好きって言ってたよね」
白瀬さんが資料を広げる。
「案内役、お願いしてもいい?」
「初めて来る建物ばかりだけど、それでもよければ」
「大丈夫。一緒に探そう」
彼女はためらいなく笑った。
こはくとは違う種類の、まっすぐな笑顔だと思った。
◇
基礎演習の課題で校内を歩いていると、大学は思った以上に複雑な形をしていると分かった。
新しいガラス張りの図書館の隣に、蔦の絡まる古い建物がある。
階段の途中で行き止まりになる廊下があり、渡り廊下の先には、地図にも小さくしか載っていない中庭があった。
「何だか、探検してるみたいだな」
相沢が言う。
「ね。大学って、こんなに建物が多いんだ」
白瀬さんは首からカメラを下げ、光の当たり方を確かめるように窓の外を見た。
「今、撮ってもいいの?」
俺が尋ねる。
「人が写らない景色なら大丈夫って、事前に確認してあるんだ。授業の邪魔にならない範囲でね」
「ちゃんとしてるな」
「写真サークルに入るつもりだから。ルールは覚えておきたくて」
「写真サークル?」
「うん。昨日、見学の申し込みをしたの」
俺はこはくと一緒に見た、中央広場のポスターを思い出した。
フィルムカメラが並んだ、あの一枚だ。
「この間、幼馴染とポスターを見てたんだ」
「へえ。真柴くんにも気になるところがあった?」
「俺というより、幼馴染が」
「なら二人とも、見学に来てよ」
白瀬さんは、もう話が決まったような顔をした。
「今週、見学者向けにキャンパスの撮影会があるの。先輩たちが一緒だから、初めての人でも大丈夫」
「でも俺、ちゃんとしたカメラ持ってないよ」
「スマホでもいいし、見るだけでもいいよ。それに、被写体になってくれる人がいると助かる」
「被写体?」
「そう。自然な表情の写真を撮りたくて」
白瀬さんはカメラケースを軽く叩いた。
「真柴くんと、その幼馴染さん。仲がいいなら、きっといい写真になると思う」
俺は、入学式の日に撮られた写真を思い出した。
俺だけ緊張した顔をして、こはくだけが満面の笑みだった一枚。
「……自然にできるかどうかは、分からないけど」
「大丈夫。頑張って笑わなくてもいいから」
その言い方が妙に優しくて、俺は思わず頷いた。
「じゃあ、幼馴染にも聞いてみる」
「やった。ありがとう!」
その横で相沢が、配られた大学の地図を逆さまに持っていた。
「なあ、話が盛り上がってるところ悪いけど、この中庭ってどこ?」
「今いる場所だよ」
「えっ」
「地図、逆」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
新しい友達ができるのは、こういう小さな瞬間なのかもしれない。
教室に戻る途中、俺は古い講義棟の窓に目を留めた。
誰もいないはずの二階の窓辺に、白い紙片がひとつ貼りついている。
さっき天井にいた小鳥と、どこか似た形だった。
風もないのに、紙片がゆっくり裏返る。
俺が足を止めると、白瀬さんが振り返った。
「どうしたの?」
「あの窓、何か……」
もう一度見る。
窓には、青い空しか映っていなかった。
「……いや、光が反射してただけみたい」
「反射?」
白瀬さんも窓を見上げ、少し首を傾げた。
「古い窓ガラスって、光が変なふうに曲がることがあるよね。そういうのも撮ってみたいな」
彼女はポケットから小さなメモ帳を出し、何かを書き留めた。
俺はもう一度、二階の窓を見た。
何もいない。
それなのに、なぜか誰かに見送られている気がした。
◇
その日の昼休み。
俺が学食の入り口でこはくを待っていると、彼女は手を振りながら走ってきた。
「朔、お待たせ!」
「まだ三分くらいだよ」
「よかった。授業がちょっと延びちゃって」
こはくは今日は淡いクリーム色の服に、紺のカーディガンを合わせていた。
耳はもちろん隠れている。
それでも俺には、機嫌がいいときの尻尾の揺れが見えるような気がした。
「何かいいことあった?」
「うん。隣の席の子と話せた。今度、一緒に図書館へ行くことになったんだ」
「すごいじゃん」
「朔は?」
「基礎演習で何人かと仲良くなったよ」
「へえ。どんな人?」
「相沢って男子と、白瀬さんって女子。あと――」
「白瀬さん?」
こはくの返事が、ほんの少しだけ早くなった。
「写真が好きな人でさ。こはくと写真サークルのポスターを見たって話をしたら、見学会に誘ってくれた」
「ふうん」
「こはくもどうかって」
「……行く」
「まだ日程も言ってないけど」
「行きたい!」
勢いがいい。
俺は少し驚いたが、こはくはもう学食のメニュー表を見ていた。
「その白瀬さん、どんな子なの?」
「明るくて、写真に詳しくて、話しやすい人」
「……へえ」
「こはく?」
「何でもない。今日のおすすめ定食、何かな」
声は普段と同じなのに、メニュー表を持つ指先に少しだけ力が入っている。
俺は不思議に思いながら、食券販売機の前に並んだ。
まさか、それが嫉妬という感情に近いものだとは、まだ考えもしなかった。
◇
翌々日の午後、俺たちは写真サークルの見学会に参加した。
集合場所は、図書館前の広場。
参加者は十人ほどで、サークルの先輩が撮影していい場所や、他の学生の迷惑にならないための注意点を説明してくれた。
「じゃあ、二人か三人ずつで回って、最後にここへ戻ってきてください」
説明が終わると、白瀬さんが俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
「真柴くん! 来てくれたんだ」
「うん。誘ってくれてありがとう」
「こちらが幼馴染さん?」
「稲守こはくです。よろしくお願いします」
こはくが丁寧に頭を下げる。
「白瀬灯里です。灯里でいいよ。私もこはくちゃんって呼んでいい?」
「もちろん」
こはくはにっこり笑った。
互いに感じがいい。
俺は少し安心した。
白瀬さんは首から下げたカメラを持ち上げる。
「二人を撮る前に、少しだけキャンパスを歩かない? 光のきれいな場所を見つけたいの」
「いいよ」
「私も!」
こうして俺たちは、三人で校内を回ることになった。
最初に向かったのは、図書館の横にある並木道だ。
桜の花はだいぶ散っていたが、枝に残る淡い色と新しい葉が、春の終わりを知らせていた。
白瀬さんはしばらく空を見上げ、日陰と光の境目を探していた。
「真柴くん、ちょっとそこに立ってみて」
「こう?」
「うん。顔はこっち向けなくてもいいよ。今、すごくいい光」
カメラを構える彼女の表情が変わる。
さっきまでよく笑っていたのに、今は目の前の景色に全神経を向けているようだった。
ぱしゃり、と乾いた音がした。
「撮れた?」
「撮れた、と思う。現像するまで分からないけど」
「難しいな」
「だから面白いんだよ」
白瀬さんはカメラを下ろして笑う。
「あっ、こはくちゃんもそこに来て」
「うん!」
こはくが俺の隣へ並んだ。
「もっと自然にしてていいよ。会話してるところが撮りたい」
「何を話せばいいの?」
「いつも通りで大丈夫」
こはくは俺を見た。
「ねえ、朔。朝のコーヒー、苦すぎなかった?」
「まだ言うのか。今日はちゃんと量ったぞ」
「でも、お砂糖入れ忘れてたでしょ」
「あれはブラックに挑戦したんだ」
「飲み終わったあと、すごい顔してたくせに」
「俺の顔の話はやめろ」
「ふふっ」
ぱしゃり。
白瀬さんが笑いながらシャッターを切った。
「あ、今のいい!」
「これでよかったのか?」
「うん。すごく二人らしいと思う」
こはくは嬉しそうに俺の腕へ軽く触れた。
白瀬さんはその様子を見て、何かに気づいたように首を傾げた。
「ねえ。もしかして二人って、付き合ってる?」
「違うよ」
俺は反射的に答えた。
こはくの手が止まる。
「……朔、即答しなくても」
「いや、聞かれたから」
「そ、そうだけど」
白瀬さんは俺とこはくを見比べ、目を丸くした。
「ええっ。こんなに仲よさそうなのに?」
「子どもの頃からの幼馴染なんだ。だから距離が近いだけで」
「へえ……そうなんだ」
彼女は一度考える顔をしてから、ぱっと笑った。
「じゃあ、私も真柴くんと仲良くなれるね」
「え?」
「だって、同じ基礎演習のクラスだし。こはくちゃんとも友達になりたいし」
「もちろん、嬉しいけど」
「よかった!」
白瀬さんはにこにことしている。
隣を見ると、こはくは唇を小さく尖らせていた。
「……私とも、ね」
「うん。こはくちゃんとも」
「灯里ちゃん、朔の知らないこと、いっぱいあると思うよ」
「そうなの?」
「朝ご飯を忘れるとか、卵焼きを焦がすとか、道に迷うとか」
「待って。俺の弱点ばっかりじゃないか」
「ふふ。いいじゃん、知ってもらおうよ」
白瀬さんが楽しそうに笑う。
「真柴くん、思ったより隙が多いんだね」
「否定できない……」
「でも、そういう話を聞くと、もっと話してみたくなる」
そう言う彼女の顔には、からかいだけではない純粋な好奇心があった。
こはくはそれを見て、一瞬だけ黙った。
それから、白瀬さんへ小さく笑いかける。
「……私も、灯里ちゃんの話、聞きたいな」
「もちろん。じゃあ次は、私の恥ずかしい写真の話でもしようかな」
「どんなの?」
「現像したら、全部自分の指が写ってたことがあるんだ」
「えっ、全部?」
「全部!」
三人の笑い声が、並木道に広がった。
俺は少しだけ肩の力を抜く。
知らない人と話す時間が増えても、こはくとの時間が消えるわけではない。
そう思えたのが、嬉しかった。
◇
撮影の合間に、俺たちは学内のカフェへ立ち寄った。
大きな窓から中庭が見える、小さな店だ。
学食ほど混んでいないので、三人でゆっくり座ることができた。
「ここのチーズケーキ、おいしいんだって」
こはくがメニューを見て目を輝かせる。
「じゃあ、三人で分ける?」
白瀬さんが提案した。
「いいの?」
「うん。私も食べてみたいし」
俺はコーヒーを、二人は紅茶を頼んだ。
チーズケーキが運ばれてくると、こはくは一口食べて幸せそうに目を細めた。
「おいしい……!」
「ほんとだ。甘すぎなくていいね」
白瀬さんも笑う。
俺は二人の様子を見ながら、何となく安心していた。
こはくはさっき、一瞬だけ不機嫌そうだった。
でも今は、白瀬さんと写真の話で盛り上がっている。
「灯里ちゃん、そのカメラって昔のもの?」
「そう。祖父が使っていたカメラを譲ってもらったの」
「大切なものなんだね」
「うん。最初は難しくて、何度も失敗した。でも、きれいに撮れた一枚を見たら、やめられなくなっちゃって」
白瀬さんはカメラをテーブルの横に置き、革のケースをそっと撫でた。
「スマホなら、何枚でも撮り直せるでしょ。でもフィルムは一枚一枚が惜しいんだ。だから、シャッターを押す前にちゃんと見るようになる」
「何を?」
俺が聞く。
「光とか、影とか、そこにいる人の表情とか。あとで見返したとき、その日のことを思い出せるように」
「なるほど」
「変かな?」
「いや。いいなと思った」
「真柴くんは、写真を見て昔のことを思い出したりする?」
「するよ。小学生の頃のアルバムとか、見つけると止まらなくなる」
「分かる! 自分では忘れてた出来事が、写真を見た途端に戻ってくるんだよね」
「それに、撮ったときは気づかなかったものが写ってることもある」
何気なく言った俺に、白瀬さんが嬉しそうに身を乗り出した。
「そうなの。写真って、撮った人が見ていたものだけじゃなくて、その場にあったものまで残るでしょ。そこが好き」
「……その場にあったもの、か」
俺は思わず、カメラを見た。
自分にだけ見えるものが、他の人の記憶には残らなくても、写真には残るのだろうか。
そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに首を振った。
白瀬さんの大事な趣味を、不用意な好奇心で試すべきではないと思ったからだ。
俺は窓の外へ目を向けた。
中庭を横切る学生。木の陰で昼寝をする猫。遠くに見える古い講義棟。
そして、植え込みの上を走る、普通の人には見えない小さな影。
俺には、他の人とは違うものが見える。
でも、見えていることと、覚えていられることは同じではないのだろう。
「白瀬さんって、写真を撮ったあと、何を一番見返すの?」
「人かな」
「人?」
「表情。自分では気づかなかった顔が写ってると、面白いの」
彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
「だから、真柴くんとこはくちゃんも撮ってみたかったんだ。二人のこと、もっと知りたくて」
こはくが紅茶のカップを置いた。
「……私たちのこと?」
「うん。すごく自然に一緒にいるから。長い時間を一緒に過ごした人たちの空気って、写真に出る気がする」
「そっか」
こはくはしばらく考え、柔らかく笑った。
「灯里ちゃん、いい写真、撮ってくれそう」
「頑張る!」
そのやり取りを見て、俺は思った。
こはくは、これまでの二人の時間が急に変わってしまうことを、不安に思っていたのかもしれない。
だけど、白瀬さんは、俺たちの間に割り込もうとしているわけではない。
新しい友達として、そこへ自分の席を作ろうとしている。
俺もこはくも、少しずつそれを覚えていけばいい。
「ねえ、真柴くん」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「うん」
「さっき、古い講義棟のほうを見てたでしょ。何か気になるものがあった?」
俺は思わず、顔を上げた。
白瀬さんはカメラのストラップを指先に巻きながら、こちらを見ている。
「基礎演習のときも、窓をじっと見てたから」
「……よく見てるな」
「写真を撮る人の癖かも」
彼女は笑ったが、目は真剣だった。
「真柴くんが何を見つけたのか、少し気になって」
俺は答えに迷った。
正直に、普通の人には見えないものが見えると言ったら、どうなるだろう。
こはくなら最初から知っている。だから気にせず話せる。
でも白瀬さんは違う。
会ったばかりの相手に話していいことなのか、まだ分からない。
「……変わった光の映り方をしてたんだ」
結局、俺は嘘ではない言い方を選んだ。
「何かが動いたように見えて」
「へえ。じゃあ、今度一緒に見に行こうよ」
「えっ」
「写真に撮ったら、何が見えたのか分かるかもしれないし」
白瀬さんは気軽に言った。
その言葉に、俺の胸が少しだけざわついた。
写真に、怪異は写るのだろうか。
今まで確かめようと思ったことはなかった。
「……そうだな。機会があれば」
「約束ね」
白瀬さんが笑う。
こはくは俺と彼女を交互に見た。
そして、少しだけ唇を尖らせる。
「……私も行くからね」
「もちろん」
俺が答えると、こはくは満足そうに頷いた。
◇
撮影会が終わる少し前、図書館前の広場へ戻ると、相沢が階段の下で立ち止まっていた。
「あ、真柴!」
「相沢。どうした?」
「次の授業の教室を見に来たんだけど、また反対側から入っちゃってさ」
「相変わらずだな」
「笑うなよ。今日はちゃんと地図持ってるんだぞ」
彼は折り目だらけのキャンパスマップを広げた。
その端には、青いペンで小さく「迷ったら時計台」と書かれている。
「自分で書いたの?」
「うん。目印にしようと思って」
白瀬さんが、その文字をのぞき込んで笑う。
「相沢くん、これいいね。覚えやすい」
「だろ?」
「でもさ、こういう地図を作っておかないと、俺ほんとに迷うんだよ。高校までは駅から一本道だったし」
相沢は地図を畳みかけて、また広げた。
「大学って、知らない人ばっかりだろ。最初、友達できるかちょっと心配だったんだ」
「相沢でも?」
「何だよ、その言い方。俺だって緊張するって」
俺は笑った。
「でも、基礎演習で話せてよかった」
「俺も。真柴が最初に話してくれたから、少し気が楽になった」
相沢は照れ隠しのように地図を丸める。
「だから、写真も撮ってみたいんだ。大学でできた友達との、最初の一枚って感じで」
「いいな、それ」
俺が頷くと、相沢は嬉しそうに笑った。
「ねえ、せっかくだから四人で写真撮らない?」
「四人?」
「うん。真柴くん、こはくちゃん、相沢くん、それから私」
こはくが明るく手を挙げた。
「撮りたい!」
「俺もいいよ。記念になるし」
相沢も頷く。
「じゃあ、先輩に三脚借りてくるね」
白瀬さんは急いでサークルの先輩のもとへ走っていった。
戻ってきた彼女は、三脚を手にしていた。
「このカメラ、セルフタイマーが使えるんだ。四人で並んで撮ろう」
撮影場所は、広場の端にある石壁の前に決まった。
古い講義棟が背後に少しだけ見え、午後の光が斜めに差し込む場所だ。
「相沢くん、もう少し右。こはくちゃん、真柴くんの隣でいい?」
「もちろん」
こはくが俺の右側へ来る。
相沢は左側に立ち、白瀬さんはカメラの位置を調整したあと、俺たちの間へ小走りで入った。
「いい? 十秒後に撮れるから」
「分かった」
「じゃあ、笑ってね!」
白瀬さんがタイマーをセットする。
小さな機械音が聞こえ、彼女が急いで並んだ。
相沢が変な顔をしようとして、俺は思わず笑ってしまう。
「ちょっと、相沢、何してるんだよ」
「緊張をほぐそうと思って」
「逆に笑うから!」
こはくが俺の袖をつまんだ。
「朔、こっち向いて」
「分かってるって」
ぱしゃり。
春の午後の光の中で、四人の笑顔が一枚のフィルムに収まった。
「撮れた?」
相沢が尋ねる。
「たぶん。現像できたら見せるね」
白瀬さんはカメラを大切そうに抱えた。
「楽しみ!」
こはくが言う。
俺も頷いた。
相沢は撮影が終わっても、しばらく石壁の前に立っていた。
「なあ、現像できたら俺にも送ってくれる?」
「もちろん。データにして送るね」
「ありがと。家にも見せたいんだ」
「いいね。私も祖父に見せようかな」
白瀬さんが笑った。
ほんの短い会話だったけれど、四人で並んでいた時間が、一つの思い出になっていく気がした。
そのときには、何もおかしなことはなかった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
◇
見学会のあと、俺たちは正門の外で別れた。
白瀬さんはフィルムを現像に出しに行くと言い、相沢は時計台を目印に駅へ向かった。
俺とこはくは、いつもの坂道を並んで歩く。
「今日は楽しかったね」
こはくが言う。
「うん。写真って、面白そうだな」
「灯里ちゃん、すごく真剣だった」
「好きなことがあるって、いいな」
こはくは少し黙った。
俺が横を見ると、彼女は足元の桜の花びらを見つめている。
「……朔、灯里ちゃんのこと、どう思った?」
「どうって?」
「かわいい、とか。話しやすい、とか」
「話しやすい人だとは思う」
「……かわいい?」
「えっ」
急に聞かれて、返事に困る。
白瀬さんがかわいいかと聞かれれば、そうだと思う。
でも、こはくにそう答えるのは、なぜか少し落ち着かない。
「……まあ、そうなんじゃないか」
「ふうん」
こはくは前を向いた。
そして、少し速足になる。
「こはく?」
「別に。何でもない」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「その言い方、怒ってるときのやつだ」
「朔って、そういうところだけ鋭いよね」
こはくはぴたりと足を止めた。
「……私、変だよね」
「何が?」
「朔に友達ができて、嬉しいはずなのに。灯里ちゃんもいい子なのに、何だか落ち着かない」
俺は黙って彼女の言葉を聞いた。
「朔が誰かと笑ってるのを見ると、嬉しい。でも私の知らない朔が増えると、ちょっと寂しい」
こはくは困ったように笑った。
「矛盾してるよね」
「……そうでもないと思う」
「ほんと?」
「俺も、こはくに新しい友達ができたって聞いたとき、嬉しかったけど、少しだけ変な気分になった」
「え?」
「ずっと一緒だったからさ。別の場所で過ごす時間が増えるの、まだ慣れなくて」
こはくは目を丸くした。
「朔も?」
「うん」
そのあと、彼女はふっと笑った。
「そっか。私だけじゃないんだ」
「そういえば、読み聞かせのサークル、どうなった?」
「あ、来週の体験会に申し込んだよ。まだ何に入るかは決めてないけど」
「いいじゃん。楽しそうだな」
「うん。私、昔から物語を聞いたり読んだりするの、好きだったから」
「そうだな。俺もよく読んでもらった」
こはくは少し懐かしそうに笑った。
「次は、私が知らない子たちに読んであげたいな」
「きっと喜ぶよ」
「……ありがとう」
俺たちには、それぞれ新しい世界ができていく。
相手がそこへ一歩踏み出すことを、ちゃんと喜べる二人でいたいと思った。
再び歩き出す。
こはくが、そっと俺の袖をつまんだ。
「ねえ、朔。今度、灯里ちゃんと三人でまたお茶しようね」
「いいのか?」
「うん。私、ちゃんと仲良くなりたい」
「そっか」
「……でも、二人きりの時間も忘れないでね」
今度は俺のほうが足を止めた。
こはくは前を向いたまま、耳まで赤くなっている。
「忘れないよ」
「ほんと?」
「約束しただろ。大人っぽいデート、するって」
こはくが振り向く。
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけない」
言ったあとで、自分の声が思ったより真剣だったことに気づいた。
こはくはしばらく俺を見つめていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「じゃあ、楽しみにしてる」
坂道の上で、春の風が吹いた。
彼女の髪が揺れ、夕日が横顔を赤く染める。
俺は、今まで何度も見てきたその景色を、なぜか写真に残したいと思った。
◇
三日後。
夕方の講義が終わり、俺がアパートへ戻ると、スマートフォンに白瀬さんからメッセージが届いていた。
『写真、現像できたよ! 今から送るね』
続けて、何枚かの画像が送られてくる。
並木道で俺とこはくが笑っている写真。
こはくがカメラのほうを向き、俺が何かを言いかけている写真。
学内のカフェの窓に映る、午後の光。
どれも、スマートフォンで撮ったものとは少し違う柔らかさがあった。
「すごいな……」
俺は思わず声に出した。
最後に届いたのは、図書館前で撮った四人の集合写真だった。
俺、こはく、相沢、白瀬さん。
みんな、ちゃんと笑っている。
相沢だけが変な顔をしていて、それが妙におかしかった。
でも、画面を拡大した瞬間、俺の笑みが止まった。
石壁の前、四人の足元。
午後の陽射しで、影が長く伸びている。
右から一つ、二つ、三つ、四つ。
そして、その隣にもう一つ。
誰も立っていなかった場所から、細長い人影が伸びていた。
「……五人目?」
何度数えても、写真に写っているのは四人だけだ。
誰かが近くを通ったのかと思った。
けれど影は、俺たちと同じように石壁へ向かって伸び、誰かがその場に立っていたように見える。
その影の持ち主だけが、写真の中にいない。
スマートフォンが震えた。
白瀬さんから、もう一通。
『ねえ、真柴くん。最後の写真、ちょっと変じゃない?』
俺は返事を打とうとして、指を止めた。
窓の外では、いつの間にか風が強くなっていた。
あの日、古い講義棟の窓に貼りついていた白い紙片。
そして、神社の石碑から消えた一文字。
無関係なはずの二つの光景が、頭の中で重なった。
俺はもう一度、写真を見た。
四人の足元に、五人目の影。
そこに誰がいたのか、俺には思い出せなかった。
――第三話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
評価して頂けると、ものすごく喜びます!




