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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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3/13

第三話 写真サークルの少女

 大学に入って初めて覚えたことが、二つある。


 一つ。教室の番号は、建物ごとに規則が違う。


 もう一つ。初対面の相手に自己紹介するのは、思っていたより難しい。


「それでは順番に、お名前と、大学でやってみたいことを一つずつ話してください」


 東雲大学(しののめだいがく)の小さな演習室で、担当教員が穏やかに言った。


 四月も半ばに差しかかろうとしている。


 窓の外には、入学式の日より少し葉の増えた桜の木が見えた。


 今日は基礎演習の初回授業だ。


 十数人の新入生が、机を四角く並べて座っている。


 俺、真柴朔(ましばさく)は、順番が回ってくるまで配布資料の端を折ったり戻したりしていた。


「真柴くん、次どうぞ」


「はい」


 椅子から立つ。


 途端に、十数人分の視線が集まった。


「真柴朔です。夕凪(ゆうなぎ)市に住んでます。ええと、大学では……」


 どうしよう。


 やってみたいことなら、いくつかある。


 図書館で気になる本を片っ端から読むこと。知らない町を歩くこと。人と怪異が、同じ場所でどう暮らしてきたのかを調べること。


 最後の話をそのまま言うわけにはいかない。


 なぜなら、普通の人は怪異(かいい)が見えないからだ。


 それに今、教室の天井近くでは、薄い紙のような小鳥が一羽、照明の周りをひらひら飛んでいる。


 誰も気づいていない。


 俺だけが、それを目で追ってしまう。


「……この町の、知らない場所を歩いてみたいです。よろしくお願いします」


 拍手が起きる。


 何とか座ると、隣の席の男子が小さく親指を立てた。


「いいじゃん。俺もまだ全然、町を知らない」


「ありがとう」


 彼は相沢拓海(あいざわたくみ)と名乗った。


 少し癖のある短い髪に、明るい笑顔。大学へは市外から通っていて、昨日も駅から教室までの道を間違えたという。


「この建物、入口が二つあるだろ。片方、階段が反対側にあるんだよ」


「分かる。俺もさっき迷った」


「だよな! 俺だけじゃなくてよかった」


 あまりにも安心した顔で笑うので、俺もつられて笑った。


 その先の席で、一人の女子学生が立ち上がる。


「白瀬灯里(しらせあかり)です。写真を撮るのが好きです。大学では、自分がまだ知らない景色をたくさん撮りたいと思っています」


 よく通る、明るい声だった。


 肩にかかる黒髪を耳にかけ、少しだけ首を傾げて笑う。


 その机の横には、使い込まれた革のカメラケースが置かれていた。


「趣味はフィルムカメラです。撮ったその場で確認できないところも含めて、好きなんです」


 教員が「現像するまでのお楽しみですね」と頷く。


「はい。失敗することもありますけど、それも面白いです」


 白瀬さんは楽しそうに答えた。


 俺は少し、不思議に思った。


 写真なんて、スマートフォンなら何枚でも撮れる。なのに、一度シャッターを切ったら結果を見るまで時間がかかる道具を、わざわざ選ぶ。


 今まで考えたことのない楽しみ方だった。


 全員の紹介が終わり、授業は学内の施設を使った簡単な課題に移った。


 四人一組で図書館や資料室の位置を調べ、最後に大学の地図へ書き込むというものだ。


 相沢と白瀬さん、それからもう一人の学生が、俺と同じ班になった。


「真柴くん、歩くの好きって言ってたよね」


 白瀬さんが資料を広げる。


「案内役、お願いしてもいい?」


「初めて来る建物ばかりだけど、それでもよければ」


「大丈夫。一緒に探そう」


 彼女はためらいなく笑った。


 こはくとは違う種類の、まっすぐな笑顔だと思った。


     ◇


 基礎演習の課題で校内を歩いていると、大学は思った以上に複雑な形をしていると分かった。


 新しいガラス張りの図書館の隣に、蔦(つた)の絡まる古い建物がある。


 階段の途中で行き止まりになる廊下があり、渡り廊下の先には、地図にも小さくしか載っていない中庭があった。


「何だか、探検してるみたいだな」


 相沢が言う。


「ね。大学って、こんなに建物が多いんだ」


 白瀬さんは首からカメラを下げ、光の当たり方を確かめるように窓の外を見た。


「今、撮ってもいいの?」


 俺が尋ねる。


「人が写らない景色なら大丈夫って、事前に確認してあるんだ。授業の邪魔にならない範囲でね」


「ちゃんとしてるな」


「写真サークルに入るつもりだから。ルールは覚えておきたくて」


「写真サークル?」


「うん。昨日、見学の申し込みをしたの」


 俺はこはくと一緒に見た、中央広場のポスターを思い出した。


 フィルムカメラが並んだ、あの一枚だ。


「この間、幼馴染とポスターを見てたんだ」


「へえ。真柴くんにも気になるところがあった?」


「俺というより、幼馴染が」


「なら二人とも、見学に来てよ」


 白瀬さんは、もう話が決まったような顔をした。


「今週、見学者向けにキャンパスの撮影会があるの。先輩たちが一緒だから、初めての人でも大丈夫」


「でも俺、ちゃんとしたカメラ持ってないよ」


「スマホでもいいし、見るだけでもいいよ。それに、被写体になってくれる人がいると助かる」


「被写体?」


「そう。自然な表情の写真を撮りたくて」


 白瀬さんはカメラケースを軽く叩いた。


「真柴くんと、その幼馴染さん。仲がいいなら、きっといい写真になると思う」


 俺は、入学式の日に撮られた写真を思い出した。


 俺だけ緊張した顔をして、こはくだけが満面の笑みだった一枚。


「……自然にできるかどうかは、分からないけど」


「大丈夫。頑張って笑わなくてもいいから」


 その言い方が妙に優しくて、俺は思わず頷いた。


「じゃあ、幼馴染にも聞いてみる」


「やった。ありがとう!」


 その横で相沢が、配られた大学の地図を逆さまに持っていた。


「なあ、話が盛り上がってるところ悪いけど、この中庭ってどこ?」


「今いる場所だよ」


「えっ」


「地図、逆」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。


 新しい友達ができるのは、こういう小さな瞬間なのかもしれない。


 教室に戻る途中、俺は古い講義棟の窓に目を留めた。


 誰もいないはずの二階の窓辺に、白い紙片がひとつ貼りついている。


 さっき天井にいた小鳥と、どこか似た形だった。


 風もないのに、紙片がゆっくり裏返る。


 俺が足を止めると、白瀬さんが振り返った。


「どうしたの?」


「あの窓、何か……」


 もう一度見る。


 窓には、青い空しか映っていなかった。


「……いや、光が反射してただけみたい」


「反射?」


 白瀬さんも窓を見上げ、少し首を傾げた。


「古い窓ガラスって、光が変なふうに曲がることがあるよね。そういうのも撮ってみたいな」


 彼女はポケットから小さなメモ帳を出し、何かを書き留めた。


 俺はもう一度、二階の窓を見た。


 何もいない。


 それなのに、なぜか誰かに見送られている気がした。


     ◇


 その日の昼休み。


 俺が学食の入り口でこはくを待っていると、彼女は手を振りながら走ってきた。


「朔、お待たせ!」


「まだ三分くらいだよ」


「よかった。授業がちょっと延びちゃって」


 こはくは今日は淡いクリーム色の服に、紺のカーディガンを合わせていた。


 耳はもちろん隠れている。


 それでも俺には、機嫌がいいときの尻尾の揺れが見えるような気がした。


「何かいいことあった?」


「うん。隣の席の子と話せた。今度、一緒に図書館へ行くことになったんだ」


「すごいじゃん」


「朔は?」


「基礎演習で何人かと仲良くなったよ」


「へえ。どんな人?」


「相沢って男子と、白瀬さんって女子。あと――」


「白瀬さん?」


 こはくの返事が、ほんの少しだけ早くなった。


「写真が好きな人でさ。こはくと写真サークルのポスターを見たって話をしたら、見学会に誘ってくれた」


「ふうん」


「こはくもどうかって」


「……行く」


「まだ日程も言ってないけど」


「行きたい!」


 勢いがいい。


 俺は少し驚いたが、こはくはもう学食のメニュー表を見ていた。


「その白瀬さん、どんな子なの?」


「明るくて、写真に詳しくて、話しやすい人」


「……へえ」


「こはく?」


「何でもない。今日のおすすめ定食、何かな」


 声は普段と同じなのに、メニュー表を持つ指先に少しだけ力が入っている。


 俺は不思議に思いながら、食券販売機の前に並んだ。


 まさか、それが嫉妬(しっと)という感情に近いものだとは、まだ考えもしなかった。


     ◇


 翌々日の午後、俺たちは写真サークルの見学会に参加した。


 集合場所は、図書館前の広場。


 参加者は十人ほどで、サークルの先輩が撮影していい場所や、他の学生の迷惑にならないための注意点を説明してくれた。


「じゃあ、二人か三人ずつで回って、最後にここへ戻ってきてください」


 説明が終わると、白瀬さんが俺たちを見つけて駆け寄ってきた。


「真柴くん! 来てくれたんだ」


「うん。誘ってくれてありがとう」


「こちらが幼馴染さん?」


「稲守(いなもり)こはくです。よろしくお願いします」


 こはくが丁寧に頭を下げる。


「白瀬灯里です。灯里でいいよ。私もこはくちゃんって呼んでいい?」


「もちろん」


 こはくはにっこり笑った。


 互いに感じがいい。


 俺は少し安心した。


 白瀬さんは首から下げたカメラを持ち上げる。


「二人を撮る前に、少しだけキャンパスを歩かない? 光のきれいな場所を見つけたいの」


「いいよ」


「私も!」


 こうして俺たちは、三人で校内を回ることになった。


 最初に向かったのは、図書館の横にある並木道だ。


 桜の花はだいぶ散っていたが、枝に残る淡い色と新しい葉が、春の終わりを知らせていた。


 白瀬さんはしばらく空を見上げ、日陰と光の境目を探していた。


「真柴くん、ちょっとそこに立ってみて」


「こう?」


「うん。顔はこっち向けなくてもいいよ。今、すごくいい光」


 カメラを構える彼女の表情が変わる。


 さっきまでよく笑っていたのに、今は目の前の景色に全神経を向けているようだった。


 ぱしゃり、と乾いた音がした。


「撮れた?」


「撮れた、と思う。現像するまで分からないけど」


「難しいな」


「だから面白いんだよ」


 白瀬さんはカメラを下ろして笑う。


「あっ、こはくちゃんもそこに来て」


「うん!」


 こはくが俺の隣へ並んだ。


「もっと自然にしてていいよ。会話してるところが撮りたい」


「何を話せばいいの?」


「いつも通りで大丈夫」


 こはくは俺を見た。


「ねえ、朔。朝のコーヒー、苦すぎなかった?」


「まだ言うのか。今日はちゃんと量ったぞ」


「でも、お砂糖入れ忘れてたでしょ」


「あれはブラックに挑戦したんだ」


「飲み終わったあと、すごい顔してたくせに」


「俺の顔の話はやめろ」


「ふふっ」


 ぱしゃり。


 白瀬さんが笑いながらシャッターを切った。


「あ、今のいい!」


「これでよかったのか?」


「うん。すごく二人らしいと思う」


 こはくは嬉しそうに俺の腕へ軽く触れた。


 白瀬さんはその様子を見て、何かに気づいたように首を傾げた。


「ねえ。もしかして二人って、付き合ってる?」


「違うよ」


 俺は反射的に答えた。


 こはくの手が止まる。


「……朔、即答しなくても」


「いや、聞かれたから」


「そ、そうだけど」


 白瀬さんは俺とこはくを見比べ、目を丸くした。


「ええっ。こんなに仲よさそうなのに?」


「子どもの頃からの幼馴染なんだ。だから距離が近いだけで」


「へえ……そうなんだ」


 彼女は一度考える顔をしてから、ぱっと笑った。


「じゃあ、私も真柴くんと仲良くなれるね」


「え?」


「だって、同じ基礎演習のクラスだし。こはくちゃんとも友達になりたいし」


「もちろん、嬉しいけど」


「よかった!」


 白瀬さんはにこにことしている。


 隣を見ると、こはくは唇を小さく尖らせていた。


「……私とも、ね」


「うん。こはくちゃんとも」


「灯里ちゃん、朔の知らないこと、いっぱいあると思うよ」


「そうなの?」


「朝ご飯を忘れるとか、卵焼きを焦がすとか、道に迷うとか」


「待って。俺の弱点ばっかりじゃないか」


「ふふ。いいじゃん、知ってもらおうよ」


 白瀬さんが楽しそうに笑う。


「真柴くん、思ったより隙が多いんだね」


「否定できない……」


「でも、そういう話を聞くと、もっと話してみたくなる」


 そう言う彼女の顔には、からかいだけではない純粋な好奇心があった。


 こはくはそれを見て、一瞬だけ黙った。


 それから、白瀬さんへ小さく笑いかける。


「……私も、灯里ちゃんの話、聞きたいな」


「もちろん。じゃあ次は、私の恥ずかしい写真の話でもしようかな」


「どんなの?」


「現像したら、全部自分の指が写ってたことがあるんだ」


「えっ、全部?」


「全部!」


 三人の笑い声が、並木道に広がった。


 俺は少しだけ肩の力を抜く。


 知らない人と話す時間が増えても、こはくとの時間が消えるわけではない。


 そう思えたのが、嬉しかった。


     ◇


 撮影の合間に、俺たちは学内のカフェへ立ち寄った。


 大きな窓から中庭が見える、小さな店だ。


 学食ほど混んでいないので、三人でゆっくり座ることができた。


「ここのチーズケーキ、おいしいんだって」


 こはくがメニューを見て目を輝かせる。


「じゃあ、三人で分ける?」


 白瀬さんが提案した。


「いいの?」


「うん。私も食べてみたいし」


 俺はコーヒーを、二人は紅茶を頼んだ。


 チーズケーキが運ばれてくると、こはくは一口食べて幸せそうに目を細めた。


「おいしい……!」


「ほんとだ。甘すぎなくていいね」


 白瀬さんも笑う。


 俺は二人の様子を見ながら、何となく安心していた。


 こはくはさっき、一瞬だけ不機嫌そうだった。


 でも今は、白瀬さんと写真の話で盛り上がっている。


「灯里ちゃん、そのカメラって昔のもの?」


「そう。祖父が使っていたカメラを譲ってもらったの」


「大切なものなんだね」


「うん。最初は難しくて、何度も失敗した。でも、きれいに撮れた一枚を見たら、やめられなくなっちゃって」


 白瀬さんはカメラをテーブルの横に置き、革のケースをそっと撫でた。


「スマホなら、何枚でも撮り直せるでしょ。でもフィルムは一枚一枚が惜しいんだ。だから、シャッターを押す前にちゃんと見るようになる」


「何を?」


 俺が聞く。


「光とか、影とか、そこにいる人の表情とか。あとで見返したとき、その日のことを思い出せるように」


「なるほど」


「変かな?」


「いや。いいなと思った」


「真柴くんは、写真を見て昔のことを思い出したりする?」


「するよ。小学生の頃のアルバムとか、見つけると止まらなくなる」


「分かる! 自分では忘れてた出来事が、写真を見た途端に戻ってくるんだよね」


「それに、撮ったときは気づかなかったものが写ってることもある」


 何気なく言った俺に、白瀬さんが嬉しそうに身を乗り出した。


「そうなの。写真って、撮った人が見ていたものだけじゃなくて、その場にあったものまで残るでしょ。そこが好き」


「……その場にあったもの、か」


 俺は思わず、カメラを見た。


 自分にだけ見えるものが、他の人の記憶には残らなくても、写真には残るのだろうか。


 そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに首を振った。


 白瀬さんの大事な趣味を、不用意な好奇心で試すべきではないと思ったからだ。


 俺は窓の外へ目を向けた。


 中庭を横切る学生。木の陰で昼寝をする猫。遠くに見える古い講義棟。


 そして、植え込みの上を走る、普通の人には見えない小さな影。


 俺には、他の人とは違うものが見える。


 でも、見えていることと、覚えていられることは同じではないのだろう。


「白瀬さんって、写真を撮ったあと、何を一番見返すの?」


「人かな」


「人?」


「表情。自分では気づかなかった顔が写ってると、面白いの」


 彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。


「だから、真柴くんとこはくちゃんも撮ってみたかったんだ。二人のこと、もっと知りたくて」


 こはくが紅茶のカップを置いた。


「……私たちのこと?」


「うん。すごく自然に一緒にいるから。長い時間を一緒に過ごした人たちの空気って、写真に出る気がする」


「そっか」


 こはくはしばらく考え、柔らかく笑った。


「灯里ちゃん、いい写真、撮ってくれそう」


「頑張る!」


 そのやり取りを見て、俺は思った。


 こはくは、これまでの二人の時間が急に変わってしまうことを、不安に思っていたのかもしれない。


 だけど、白瀬さんは、俺たちの間に割り込もうとしているわけではない。


 新しい友達として、そこへ自分の席を作ろうとしている。


 俺もこはくも、少しずつそれを覚えていけばいい。


「ねえ、真柴くん」


「何?」


「一つ聞いていい?」


「うん」


「さっき、古い講義棟のほうを見てたでしょ。何か気になるものがあった?」


 俺は思わず、顔を上げた。


 白瀬さんはカメラのストラップを指先に巻きながら、こちらを見ている。


「基礎演習のときも、窓をじっと見てたから」


「……よく見てるな」


「写真を撮る人の癖かも」


 彼女は笑ったが、目は真剣だった。


「真柴くんが何を見つけたのか、少し気になって」


 俺は答えに迷った。


 正直に、普通の人には見えないものが見えると言ったら、どうなるだろう。


 こはくなら最初から知っている。だから気にせず話せる。


 でも白瀬さんは違う。


 会ったばかりの相手に話していいことなのか、まだ分からない。


「……変わった光の映り方をしてたんだ」


 結局、俺は嘘ではない言い方を選んだ。


「何かが動いたように見えて」


「へえ。じゃあ、今度一緒に見に行こうよ」


「えっ」


「写真に撮ったら、何が見えたのか分かるかもしれないし」


 白瀬さんは気軽に言った。


 その言葉に、俺の胸が少しだけざわついた。


 写真に、怪異は写るのだろうか。


 今まで確かめようと思ったことはなかった。


「……そうだな。機会があれば」


「約束ね」


 白瀬さんが笑う。


 こはくは俺と彼女を交互に見た。


 そして、少しだけ唇を尖らせる。


「……私も行くからね」


「もちろん」


 俺が答えると、こはくは満足そうに頷いた。


     ◇


 撮影会が終わる少し前、図書館前の広場へ戻ると、相沢が階段の下で立ち止まっていた。


「あ、真柴!」


「相沢。どうした?」


「次の授業の教室を見に来たんだけど、また反対側から入っちゃってさ」


「相変わらずだな」


「笑うなよ。今日はちゃんと地図持ってるんだぞ」


 彼は折り目だらけのキャンパスマップを広げた。


 その端には、青いペンで小さく「迷ったら時計台」と書かれている。


「自分で書いたの?」


「うん。目印にしようと思って」


 白瀬さんが、その文字をのぞき込んで笑う。


「相沢くん、これいいね。覚えやすい」


「だろ?」


「でもさ、こういう地図を作っておかないと、俺ほんとに迷うんだよ。高校までは駅から一本道だったし」


 相沢は地図を畳みかけて、また広げた。


「大学って、知らない人ばっかりだろ。最初、友達できるかちょっと心配だったんだ」


「相沢でも?」


「何だよ、その言い方。俺だって緊張するって」


 俺は笑った。


「でも、基礎演習で話せてよかった」


「俺も。真柴が最初に話してくれたから、少し気が楽になった」


 相沢は照れ隠しのように地図を丸める。


「だから、写真も撮ってみたいんだ。大学でできた友達との、最初の一枚って感じで」


「いいな、それ」


 俺が頷くと、相沢は嬉しそうに笑った。


「ねえ、せっかくだから四人で写真撮らない?」


「四人?」


「うん。真柴くん、こはくちゃん、相沢くん、それから私」


 こはくが明るく手を挙げた。


「撮りたい!」


「俺もいいよ。記念になるし」


 相沢も頷く。


「じゃあ、先輩に三脚借りてくるね」


 白瀬さんは急いでサークルの先輩のもとへ走っていった。


 戻ってきた彼女は、三脚を手にしていた。


「このカメラ、セルフタイマーが使えるんだ。四人で並んで撮ろう」


 撮影場所は、広場の端にある石壁の前に決まった。


 古い講義棟が背後に少しだけ見え、午後の光が斜めに差し込む場所だ。


「相沢くん、もう少し右。こはくちゃん、真柴くんの隣でいい?」


「もちろん」


 こはくが俺の右側へ来る。


 相沢は左側に立ち、白瀬さんはカメラの位置を調整したあと、俺たちの間へ小走りで入った。


「いい? 十秒後に撮れるから」


「分かった」


「じゃあ、笑ってね!」


 白瀬さんがタイマーをセットする。


 小さな機械音が聞こえ、彼女が急いで並んだ。


 相沢が変な顔をしようとして、俺は思わず笑ってしまう。


「ちょっと、相沢、何してるんだよ」


「緊張をほぐそうと思って」


「逆に笑うから!」


 こはくが俺の袖をつまんだ。


「朔、こっち向いて」


「分かってるって」


 ぱしゃり。


 春の午後の光の中で、四人の笑顔が一枚のフィルムに収まった。


「撮れた?」


 相沢が尋ねる。


「たぶん。現像できたら見せるね」


 白瀬さんはカメラを大切そうに抱えた。


「楽しみ!」


 こはくが言う。


 俺も頷いた。


 相沢は撮影が終わっても、しばらく石壁の前に立っていた。


「なあ、現像できたら俺にも送ってくれる?」


「もちろん。データにして送るね」


「ありがと。家にも見せたいんだ」


「いいね。私も祖父に見せようかな」


 白瀬さんが笑った。


 ほんの短い会話だったけれど、四人で並んでいた時間が、一つの思い出になっていく気がした。


 そのときには、何もおかしなことはなかった。


 少なくとも、俺はそう思っていた。


     ◇


 見学会のあと、俺たちは正門の外で別れた。


 白瀬さんはフィルムを現像に出しに行くと言い、相沢は時計台を目印に駅へ向かった。


 俺とこはくは、いつもの坂道を並んで歩く。


「今日は楽しかったね」


 こはくが言う。


「うん。写真って、面白そうだな」


「灯里ちゃん、すごく真剣だった」


「好きなことがあるって、いいな」


 こはくは少し黙った。


 俺が横を見ると、彼女は足元の桜の花びらを見つめている。


「……朔、灯里ちゃんのこと、どう思った?」


「どうって?」


「かわいい、とか。話しやすい、とか」


「話しやすい人だとは思う」


「……かわいい?」


「えっ」


 急に聞かれて、返事に困る。


 白瀬さんがかわいいかと聞かれれば、そうだと思う。


 でも、こはくにそう答えるのは、なぜか少し落ち着かない。


「……まあ、そうなんじゃないか」


「ふうん」


 こはくは前を向いた。


 そして、少し速足になる。


「こはく?」


「別に。何でもない」


「怒ってる?」


「怒ってない」


「その言い方、怒ってるときのやつだ」


「朔って、そういうところだけ鋭いよね」


 こはくはぴたりと足を止めた。


「……私、変だよね」


「何が?」


「朔に友達ができて、嬉しいはずなのに。灯里ちゃんもいい子なのに、何だか落ち着かない」


 俺は黙って彼女の言葉を聞いた。


「朔が誰かと笑ってるのを見ると、嬉しい。でも私の知らない朔が増えると、ちょっと寂しい」


 こはくは困ったように笑った。


「矛盾してるよね」


「……そうでもないと思う」


「ほんと?」


「俺も、こはくに新しい友達ができたって聞いたとき、嬉しかったけど、少しだけ変な気分になった」


「え?」


「ずっと一緒だったからさ。別の場所で過ごす時間が増えるの、まだ慣れなくて」


 こはくは目を丸くした。


「朔も?」


「うん」


 そのあと、彼女はふっと笑った。


「そっか。私だけじゃないんだ」


「そういえば、読み聞かせのサークル、どうなった?」


「あ、来週の体験会に申し込んだよ。まだ何に入るかは決めてないけど」


「いいじゃん。楽しそうだな」


「うん。私、昔から物語を聞いたり読んだりするの、好きだったから」


「そうだな。俺もよく読んでもらった」


 こはくは少し懐かしそうに笑った。


「次は、私が知らない子たちに読んであげたいな」


「きっと喜ぶよ」


「……ありがとう」


 俺たちには、それぞれ新しい世界ができていく。


 相手がそこへ一歩踏み出すことを、ちゃんと喜べる二人でいたいと思った。


 再び歩き出す。


 こはくが、そっと俺の袖をつまんだ。


「ねえ、朔。今度、灯里ちゃんと三人でまたお茶しようね」


「いいのか?」


「うん。私、ちゃんと仲良くなりたい」


「そっか」


「……でも、二人きりの時間も忘れないでね」


 今度は俺のほうが足を止めた。


 こはくは前を向いたまま、耳まで赤くなっている。


「忘れないよ」


「ほんと?」


「約束しただろ。大人っぽいデート、するって」


 こはくが振り向く。


「……覚えてたんだ」


「忘れるわけない」


 言ったあとで、自分の声が思ったより真剣だったことに気づいた。


 こはくはしばらく俺を見つめていたが、やがて嬉しそうに笑った。


「じゃあ、楽しみにしてる」


 坂道の上で、春の風が吹いた。


 彼女の髪が揺れ、夕日が横顔を赤く染める。


 俺は、今まで何度も見てきたその景色を、なぜか写真に残したいと思った。


     ◇


 三日後。


 夕方の講義が終わり、俺がアパートへ戻ると、スマートフォンに白瀬さんからメッセージが届いていた。


『写真、現像できたよ! 今から送るね』


 続けて、何枚かの画像が送られてくる。


 並木道で俺とこはくが笑っている写真。


 こはくがカメラのほうを向き、俺が何かを言いかけている写真。


 学内のカフェの窓に映る、午後の光。


 どれも、スマートフォンで撮ったものとは少し違う柔らかさがあった。


「すごいな……」


 俺は思わず声に出した。


 最後に届いたのは、図書館前で撮った四人の集合写真だった。


 俺、こはく、相沢、白瀬さん。


 みんな、ちゃんと笑っている。


 相沢だけが変な顔をしていて、それが妙におかしかった。


 でも、画面を拡大した瞬間、俺の笑みが止まった。


 石壁の前、四人の足元。


 午後の陽射しで、影が長く伸びている。


 右から一つ、二つ、三つ、四つ。


 そして、その隣にもう一つ。


 誰も立っていなかった場所から、細長い人影が伸びていた。


「……五人目?」


 何度数えても、写真に写っているのは四人だけだ。


 誰かが近くを通ったのかと思った。


 けれど影は、俺たちと同じように石壁へ向かって伸び、誰かがその場に立っていたように見える。


 その影の持ち主だけが、写真の中にいない。


 スマートフォンが震えた。


 白瀬さんから、もう一通。


『ねえ、真柴くん。最後の写真、ちょっと変じゃない?』


 俺は返事を打とうとして、指を止めた。


 窓の外では、いつの間にか風が強くなっていた。


 あの日、古い講義棟の窓に貼りついていた白い紙片。


 そして、神社の石碑から消えた一文字。


 無関係なはずの二つの光景が、頭の中で重なった。


 俺はもう一度、写真を見た。


 四人の足元に、五人目の影。


 そこに誰がいたのか、俺には思い出せなかった。


 ――第三話 了


ここまで読んでくれてありがとうございました!


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