第二話 合鍵を持つ妖狐
大学生になって、俺は一つの真理を知った。
一人暮らしの部屋は、放っておいても片付かない。
当たり前だと思うだろう。俺だって、頭では分かっていた。
でも、昨日の夜に脱いだ上着が今朝も椅子の背に引っかかり、使った食器が流しに残り、靴下が片方だけ行方不明になっている光景を見ると、誰かがひそかに片付けていた実家という場所の偉大さを思い知る。
入学式から四日目の朝。
俺、真柴朔は、フライパンの中にできた謎の固まりを見つめていた。
「……卵焼きになる予定だったんだけどな」
黄色い部分と焦げ茶色の部分が、まだらに混ざっている。卵二個と塩少々。材料は合っていたはずだ。
スマートフォンに表示されたレシピは、最初の一行で「フライパンを適温に温める」と言っていた。
その適温を誰か教えてほしい。
玄関のチャイムが鳴った。
「朔ー。入ってもいい?」
聞き慣れた声に、俺は思わず顔を上げる。
「いいけど、ちょっと待って!」
火を止め、急いで玄関を開けた。
稲守こはくが、にこにこしながら立っている。
今日は薄い青のシャツに、柔らかな色のロングスカート。腕には食品の入ったエコバッグが掛かっていた。
「おはよう。何か焦げた匂いがするね」
「大学生の挑戦の匂いだ」
「失敗の匂いじゃなくて?」
「言い換えればそうともいう」
こはくは台所をのぞくなり、声を立てて笑った。
「朔、卵は焼く前にちゃんと混ぜた?」
「混ぜた」
「油は?」
「……少し」
「火加減は?」
「最初は強火だった」
「はい、犯人見つけた」
まるで事件の真相を見抜いた探偵みたいな顔をする。
俺はため息をつき、フライパンを流しへ運んだ。
「今日は学食で済ませるか」
「朝ご飯、まだなんでしょ。私が作るよ」
「こはくだって一限あるだろ」
「今日は二限から。朔もそうだったよね?」
「なんで俺の時間割まで把握してるんだ」
「一緒に履修登録したから」
それはそうだった。
大学に入った途端、単位だの選択科目だの、聞いたことのない言葉が大量に押し寄せてきた。俺が案内冊子とにらめっこしている横で、こはくは器用に時間割を組み立てていたのだ。
「で、今日は卵焼きの補習授業?」
「お願いできますか、先生」
「よろしい。まずは火を弱くしてください」
こはくは得意げに腕まくりをする。
俺は素直に場所を譲った。
台所は狭い。二人並ぶと肩が触れ、引き出しを開けるたびに相手に一歩よけてもらわなければならない。
それでも、こはくは実家の台所にいるみたいに自然だった。
「朔、お皿を出して」
「了解」
「あと、お箸二膳」
「お前、朝飯食べてないの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけって?」
「朔と食べる分を残してきた」
そういうことを、彼女は何でもない顔で言う。
きれいな卵焼きが皿に並ぶ頃には、俺の失敗作も小さく切り分けられていた。
「これは私が食べるね」
「いや、作ったのは俺だから俺が責任を」
「半分こ。朔だけまずい思いするのも、なんだか悔しいし」
「……そこまでひどくはないと思うぞ」
二人で一切れずつ口に入れた。
しょっぱくて、少し苦い。
「……うん」
「……うん」
目が合った瞬間、同時に吹き出した。
大学生活の四日目にして、俺の自炊は前途多難らしい。
◇
朝食のあと、こはくは部屋の隅に積まれた段ボールを指さした。
「ねえ、まだ開けてない箱、三つあるよね」
「あるな」
「一番下の箱、底が湿ってる」
「えっ?」
かがんでみると、たしかに角が少しふやけていた。
引っ越しの日に降った雨が、どこかで染み込んだらしい。
「中身、本だろ。まずいな」
「だから、今日のうちに片付けよ。授業まで時間あるし」
「こはくにばかり手伝わせるのは悪いって」
「手伝いたいから来てるんです」
「でも」
「私が来たら、迷惑?」
こはくが箱の向こうからこちらをのぞき込む。
「……迷惑なわけないだろ」
「じゃあ決まり」
困ったな、と思う。
彼女はこの言い方をすると俺が弱いことを、昔からよく知っている。
結局、本の入った箱を二人で開け、棚を組み立て、空き箱をまとめることになった。
こはくは俺が小学生の頃に読んでいた怪談集を見つけて、懐かしそうに表紙を撫でた。
「これ、まだ持ってたんだ」
「捨てられなくて」
「私が読んであげたやつだよね」
「そう。お前、怖いところだけ妙に上手に読んでた」
「だって、朔が目を丸くして聞いてくれるの、楽しかったんだもん」
「本人が本物の妖狐だとは思わなかったけどな」
「今さら?」
こはくは笑う。
普通の人間には見えないものが見える俺にとって、彼女の正体はずっと特別で、同時に当たり前でもあった。
ただ、大学の教室に座り、学生証を持っているこはくを見ると、世界の不思議なところに改めて気づく。
人間のふりをする妖狐が、サークルの案内を読んでいる。
不思議なのに、本人はごく真剣だ。
「……あ」
引き出しの奥から、銀色の鍵が出てきた。
部屋を借りたときに渡された、予備の一本だった。
「合鍵?」
「そう。まだ使ってない」
「へえ」
こはくは鍵を見つめ、何かを言いかけてやめた。
俺はしばらく考えてから、それを手のひらに載せた。
「……こはく、預かってくれないか」
「え?」
「俺、鍵を失くしそうだし。こっちで具合が悪くなったら、連絡できる相手が近くにいたほうがいいと思って」
「私でいいの?」
「他に誰がいるんだよ」
こはくはすぐには答えなかった。
いつもなら「やった!」と飛びついてきそうなのに、鍵と俺の顔を交互に見ている。
「でも、これ、朔のお部屋の鍵だよ?」
「知ってる。だから、勝手に入るんじゃなくて、まず連絡してほしい。俺も都合が悪いときはちゃんと言う」
「……うん」
「それでよければ」
こはくは両手を差し出した。
小さな銀色の鍵を、そっと受け取る。
「分かった。朔が困ったときに使う。普段はちゃんと聞いてからにする」
「ありがとう」
「……ありがとう、は私の台詞だよ」
彼女は鍵を胸の前で握りしめた。
「大事にするね」
ただの金属片なのに、こはくはまるで宝物を渡されたような顔をしていた。
俺は照れくさくなって、組み立てたばかりの棚へ本を並べ始める。
背後で、かすかに衣擦れの音がした。
振り向くと、こはくのスカートの裾から金色の尻尾がふわりとのぞいていた。
「こはく、尻尾」
「あっ」
「嬉しいと出るの、相変わらずだな」
「朔のせいです」
「俺のせいなのか」
「そう。責任取ってよね」
「どう取ればいいんだ」
「……今は、そこまで決めてない」
こはくは赤くなった頬を隠すように、くるりと背を向けた。
その尻尾が、まだ嬉しそうに揺れていた。
◇
昼前の大学は、先日の入学式よりずっと賑やかだった。
正門から中央広場へ続く通路には色とりどりの看板が並び、サークルの勧誘をする先輩たちの声が響いている。
「新入生さん、軽音楽部どうですかー!」
「運動経験ゼロでも歓迎です!」
「映画研究会、今日の上映会は無料ですよ!」
俺とこはくは授業の時間まで、一緒に広場を歩くことにした。
同じ大学とはいっても学部は別だ。入学式のあと、彼女と顔を合わせる時間は意外と少ない。
だからこそ、校内で待ち合わせて歩くというだけで、少し新鮮な気分になる。
「朔、何か入りたいサークルある?」
「まだ決めてない。授業に慣れてから考えようかと」
「そう言ってたら、いつまでも決まらないよ」
「お前は?」
「私は、いろいろ見たい。せっかく大学生になったんだし」
こはくは配られるチラシを一枚ずつ丁寧に受け取った。
写真サークルのポスターの前では、古いフィルムカメラの写真に目を輝かせていた。
「こういうカメラ、きれいだね」
「スマホとは違う感じがするな」
「時間が残る、って感じ」
「難しいこと言うな」
「だって、写真って、そのときの朔の顔とか、ちゃんと残せるんでしょ」
「俺の顔ばかり撮る気か?」
「景色も撮るよ。朔が一緒に見た景色」
チラシの隅には、来週開かれる見学会の日程が書かれていた。
「気になるなら行ってみれば?」
「うん。朔も一緒にね」
「それ、俺の入部が先に決まってないか」
「見学だけならいいでしょ」
別のブースでは、地域の子どもたちに本を読み聞かせるボランティアサークルが活動を紹介していた。
こはくはそこで長いこと説明を聞き、自分からいくつも質問をした。
幼い子どもにどう話しかけるか。活動場所はどこか。試験期間は休めるのか。
その横顔を見て、少し驚いた。
俺といるときのこはくは甘えん坊で、よくいたずらをする。でも、知らない人と話す彼女は落ち着いていて、相手の言葉に丁寧に耳を傾けていた。
俺の知らないこはくが、まだいる。
それが寂しいというより、なんだか誇らしかった。
「朔?」
「ん?」
「何、にやにやしてるの?」
「別に」
「絶対、何か考えてた」
「こはくもちゃんと大学生なんだなって」
「ひどい! 今まで何だと思ってたの?」
「しょっちゅう俺の部屋に来る狐」
「それはそれで合ってるけど!」
笑い合っていると、背の高い男子学生に声をかけられた。
「そこの二人! ボードゲームサークル、見ていかない?」
首から「二年生」と書いた札を下げた先輩は、テーブルに並べたカードを手際よく広げる。
「二人一組で遊べるゲームもあるよ。恋人同士でも楽しめるやつ!」
「恋人じゃないです」
俺が答えるより早く、こはくが「へえ」と小さく声を上げた。
「じゃあ、恋人じゃなくても、二人で参加していいですか?」
「もちろん。あれ、でも彼氏さんじゃないの?」
「幼馴染です」
俺は正直に答えた。
先輩は俺たちの距離を見て、口元を緩める。
「なるほど。そういうところから始まるやつね」
「何が始まるんですか」
「さあ?」
こはくが隣で肩を震わせている。
どうやらこの誤解は、大学に入ってもついて回るらしい。
「とりあえず、一回遊んでいってよ」
先輩に勧められ、俺たちは簡単な協力型のゲームに挑戦した。
限られた手札を出し合い、互いの考えを読みながら目標を達成するという内容だ。
「こはく、次は左から二枚目だと思う」
「分かってる。でも今は右を残したほうがいいよ」
「いや、そっちを出すと最後が」
「朔、私を信じて」
言われるままにカードを出すと、見事に最後の一枚までつながった。
「おお、すごい! 初見で成功する人、なかなかいないよ」
先輩が拍手する。
こはくは胸を張った。
「ね。相性いいでしょ?」
「昔からこういうときだけは息が合うんです」
「こういうときだけ?」
「普段はだいたい、俺が振り回されてる」
「えへへ」
「そこ、否定してくれ」
先輩は笑いながら、入部届の見本を見せてくれた。
名前、学部、連絡先。
新しい場所へ入るたびに、自分の名前を書く。
こんなに当たり前のことを、俺はこれまで意識したことがなかった。
「入部は持ち帰って考えます」
「了解。二人で来てくれたら歓迎するよ!」
ブースを離れたところで、こはくが俺の顔をのぞき込んだ。
「ねえ。さっきの先輩のこと、どう思った?」
「いい人そうだった」
「違う。恋人って言われたこと」
「……またか、とは思った」
「嫌だった?」
その質問に、足が少しだけ止まった。
「嫌、ではないけど」
「けど?」
「本当のことと違うから、訂正したほうがいいだろ」
「そっか」
こはくは前を向いた。
表情を見せないまま、俺の歩幅に合わせて歩く。
「……じゃあ、いつか本当になったら、訂正しなくていいね」
「え?」
「なんでもない!」
こはくは一気に歩く速度を上げた。
俺は慌てて追いかける。
昼の光の下で、彼女の耳が出ていないか、つい頭を確認してしまった。
◇
午後の授業が終わる頃、空が急に暗くなった。
春の天気は気まぐれだ。朝は青空だったのに、講義棟を出ると大きな雨粒が地面を叩き始めていた。
「うわ。傘、持ってきてない」
俺が立ち尽くしていると、後ろから声がした。
「朔!」
こはくが走ってくる。
片手には折り畳み傘。もう片方には午前中にもらったチラシが詰まった袋。
「一本あるよ。一緒に帰ろう」
「助かった」
「ほら、入って」
傘は二人で使うには少し小さかった。
こはくを濡らさないように傾けると、今度は俺の肩が濡れる。
「朔、こっち」
「そっちが濡れるだろ」
「私は平気」
「平気でも風邪は引くだろ」
「妖狐だもん」
「妖狐でも濡れたら寒いだろ」
「……うん、少し」
俺たちは顔を見合わせ、同時に笑った。
結局、肩を寄せ合うようにして歩くしかなかった。
細い傘の骨を伝う雨音が、二人の間に小さな部屋を作っているみたいだった。
そのとき、通りの向こうから大きな車が走ってきた。
「あっ、朔!」
道路脇の水たまりが、ばしゃっと跳ねた。
反射的にこはくを引き寄せたものの、間に合わなかった。
俺のズボンと、こはくのスカートに泥水がかかる。
「……うわあ」
「大丈夫か?」
「びっくりした。朔は?」
「見事にやられた」
こはくは濡れた裾を見下ろし、困った顔で笑った。
「大学生活、思ったより事件が多いね」
「まだ四日目なんだけどな」
急いで俺のアパートへ戻ることにした。
玄関を開け、タオルを持ってくる。
「こはく、先に使って。風呂場も空いてるから」
「いいの?」
「そのままだと冷えるだろ」
「ありがとう。着替え、今日たまたま持っててよかった」
彼女は授業用の荷物とは別に、薄い布の袋を取り出した。
午前中のサークル勧誘で体験活動に参加するつもりだったので、予備の服を入れてきたらしい。
「じゃあ、借りるね。しばらく、こっち見ちゃだめだよ」
「見ないって。扉も閉めてくれ」
「ふふ。真面目だね」
こはくが浴室の戸を閉める。
俺はその間に濡れた靴下を脱ぎ、替えのズボンを探した。
なぜか見つからない。
そういえば、最後の段ボールにしまったままだった。
「……片付けておけばよかった」
朝の自分に言ってやりたい。
こはくが出てきたときには、俺もどうにか着替えを終えていた。
「濡れた服、ここで洗ってもいい?」
「もちろん。洗濯機、使って」
「朔のも一緒に洗おうか?」
「助かる。洗剤は棚の上」
「了解」
互いに洗うものを洗濯かごへ入れ、こはくが必要なものを洗濯ネットに分けてくれた。
俺は洗濯機を回し、部屋に戻る。
雨はすぐに小降りになったが、外にはまだ厚い雲があった。
「今日は部屋干しか」
「そうだね。明日晴れたら外に出そう」
「ありがとう。何から何まで」
「いいって。私も洗わせてもらったし」
こはくは窓辺に腰かけ、雨が弱くなっていくのを眺めた。
「それに、朔の部屋、落ち着くんだ」
「まだ段ボールあるぞ」
「だからかな。これから二人でいろいろ置いていけそう」
「二人で?」
彼女ははっとしたようにこちらを向いた。
「あ、えっと。私も手伝える、って意味!」
「分かってる」
「ほんと?」
「うん」
でも、分かったつもりの俺も、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
自分の部屋に、誰かの着替えや飲みかけのお茶がある。
今日までの俺には、なかった景色だ。
◇
翌日の午後、雨はすっかり上がっていた。
俺がベランダに干した洗濯物を取り込もうとしていると、こはくが訪ねてきた。
いつものようにチャイムを鳴らし、俺の返事を待ってから入ってくる。
合鍵を持ったからといって、そのあたりはちゃんと約束を守ってくれるらしい。
「おじゃまします。昨日の服、乾いたかな?」
「だいたい乾いた。今、取り込むところ」
「手伝う!」
こはくは袖をまくり、窓を開けた。
春の風が、柔軟剤のほのかな香りを部屋へ運んでくる。
洗濯物を一枚ずつ外し、かごに入れていく。
「これ、朔のシャツ。こっちは私の」
「ああ」
「靴下、左右そろったね」
「やっと行方不明事件が解決した」
「犯人は洗濯機の奥でした」
そんなことを話しながら、二人で畳んでいた。
何枚目かのタオルを取ったとき、見慣れない薄桃色の布が、ぱさりと落ちた。
「……ん?」
手が止まる。
それが俺のものではないことは、見れば分かった。
昨日、こはくが洗濯ネットに入れた着替えの一つだろう。
小さな女性用の下着だった。
俺は慌てて目をそらした。
「ご、ごめん!」
「え?」
こはくが振り向き、床に落ちたものを見た。
その瞬間、彼女の顔が真っ赤になった。
「あっ、それ、私の!」
「分かった! 分かったから!」
「なんで朔が持ってるの!」
「タオルだと思って取ったら、くっついてきたんだよ!」
「そ、そうだよね! ごめん!」
こはくは下着を拾い、ものすごい速さで自分のバッグにしまった。
しん、と静かになる。
窓の外から、近所の子どもの笑い声が聞こえてきた。
俺は畳みかけのタオルを見つめる。
こはくはバッグの口を握ったまま、床の木目を見つめる。
「……見た?」
「一瞬だけ」
「……そっか」
「ごめん」
「ううん。洗ってもらったの、私だもん」
彼女は顔を上げようとして、また下を向いた。
長い付き合いなのに、こんな気まずさは初めてだった。
小さい頃は、手をつないで走っていても何も考えなかった。
でも今は、互いに大人だ。
相手の持ち物にも、身体にも、当たり前に守られるべき距離がある。
それに気づいた途端、いつもの部屋が急に狭くなった。
「……お茶、淹れるよ」
「うん」
俺が立ち上がろうとすると、こはくが慌てて呼び止めた。
「ま、待って!」
「何?」
こはくは両手を頬に当て、何度か深呼吸した。
それから、いつものいたずらっぽい笑顔を作ろうとする。
「朔ってさ、そんなに私の下着が気になっちゃった?」
「はっ?」
「えっと、その……大人っぽかった、とか?」
「こはく」
「な、何?」
「顔、真っ赤」
「っ!」
こはくはとうとう両手で顔を覆った。
「もう! からかい返すつもりだったのに!」
「自分で言って照れるなよ」
「朔が変な顔するから!」
「俺、何もしてないだろ」
「してる。困った顔!」
笑いをこらえきれず、俺は肩を震わせた。
こはくも指の隙間から俺を見て、最後には噴き出した。
ようやく、部屋の空気が元に戻る。
それでも、完全に元通りというわけではなかった。
彼女の隣に座るとき、いつもより少しだけ距離を測ってしまう。
こはくも、たまにこちらを見ては目をそらす。
俺たちは、互いのことを何でも知っているつもりだったのに。
知らないことも、触れないでおいたほうがいいことも、これから増えていくのだろう。
「ねえ、朔」
お茶を飲み終えた頃、こはくが静かに言った。
「こういうの、嫌だった?」
「何が?」
「私がここに来たり、洗濯したり。自分のものまで置いていったりするの」
俺は少し考えた。
彼女が俺の生活へ入り込むのは、今に始まったことではない。
でも合鍵を預けた今、ただの幼馴染だから、で全部済ませていいとは思わなかった。
「嫌じゃない。むしろ助かってる」
「ほんとに?」
「ただ、気になることがあったら、その都度ちゃんと話そう。俺も言うから」
こはくは目を瞬いた。
「……うん。私も言う」
「それにさ」
「うん?」
「こはくも自分の大学生活、大事にしてほしい。俺の面倒を見るために進学したわけじゃないだろ」
彼女は、少し驚いたような顔をした。
「そうだね。私、ちゃんとやりたいことあるよ」
「読み聞かせのサークルとか?」
「うん。あと、大学の図書館で古い本も読んでみたい。知らないこと、たくさんあるから」
「いいじゃん」
「でもね」
こはくは湯飲みを両手で包み、小さく笑った。
「朔のところに来るのも、私が自分で選んだことなんだよ」
「……そっか」
「だから、たまには頼ってね」
「うん」
「たまにじゃなくても、いいけど」
「結局、そうなるのか」
「ふふ」
その笑顔を見ていると、不思議と胸が温かくなった。
いつも俺を引っ張っていくこはくが、今日は少し大人びて見える。
同じ十八歳の新入生、という言い方が、彼女にはぴったりではないかもしれない。
それでも彼女は、俺と一緒に新しい暮らしを覚えようとしているのだ。
◇
夕方、こはくが「少し歩きたい」と言い出した。
洗濯物を片付けたばかりで、外に出る理由は特にない。
でも彼女が窓の向こうを見つめる横顔には、何か考えているような静けさがあった。
「神社に寄ってもいい?」
俺が尋ねると、こはくは頷いた。
「私も、そう言おうと思ってた」
坂道には、雨上がりの土の匂いが残っていた。
夕日が建物の窓を赤く染め、通りを行く学生たちの影を長く伸ばしている。
神社へ続く鳥居の脇では、先日見た古い石碑が静かに立っていた。
文字の真ん中に残る、白い一文字分の空白。
あれから変わったようには見えない。
けれど、消えた文字のことがずっと頭から離れなかった。
こはくも同じなのか、石碑には目を向けず、まっすぐ石段を上がっていく。
境内には人の気配がなかった。
社の裏手へ回ると、小さな庭のような場所がある。町の喧騒から切り離された、木々に囲まれた空間だ。
「……よし」
こはくは周りを確かめ、深く息を吐いた。
次の瞬間、頭の上に金色の狐耳が現れる。
続いて、ふわりと大きな尻尾が一本、スカートの後ろに広がった。
「はあ。やっぱり、こっちのほうが楽」
「大学ではずっと隠してるもんな」
「うん。気を張ってると疲れるんだよね」
こはくは木の根元へ腰を下ろし、尻尾を抱えるようにして丸くなった。
金色の毛並みは、傾いた光を受けて柔らかく輝いている。
「触ってもいい?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ目を見開いた。
「……うん。朔なら、いいよ」
許可をもらってから、指先でそっと撫でる。
ふわふわで、温かい。
俺が思わず感心すると、こはくはくすぐったそうに肩をすくめた。
「昔より、丁寧に触るね」
「昔は何も考えてなかったから」
「小学生の朔、よく私の尻尾を枕にしてたよ」
「そんなこともあったな」
「寝ちゃったあと、動けなくて大変だったんだから」
「起こしてくれればよかったのに」
「……起こしたくなかったんだもん」
風に揺れる葉の音が、しばらく二人の間を満たした。
こはくは空を見上げる。
「大学、どう?」
「まだ始まったばかりだけど、思ったより忙しい」
「うん」
「知らない人ばかりだし、授業の教室を探すだけで一仕事だ」
「ふふ。朔、昨日も遠回りしてたもんね」
「見てたのか」
「たまたま」
「絶対たまたまじゃないだろ」
こはくは笑ったあと、少し真面目な声になった。
「でも、いいことだと思う」
「何が?」
「知らない人に会うこと。朔が、自分の世界を広げていくこと」
意外だった。
「こはくは嫌じゃないのか?」
「なんで?」
「小さい頃から、ずっと一緒だったし」
彼女は膝の上に尻尾を置き、指先で毛先を整えた。
「ちょっと寂しい日も、あると思うよ」
「……そっか」
「でも、朔がいろんな人と仲良くなって、いろんなことを知って。その話を私にしてくれたら、嬉しい」
俺は何も言えず、隣の木にもたれた。
「私だって、大学で友達を作りたいしね」
「そうだな」
「それで、たまに二人でここへ来て、今日あったことを話すの」
こはくは俺を見た。
「……そういうのが、いいな」
「俺も、そういうのがいい」
答えると、彼女はほっとしたように笑った。
狐耳が、ぴくりと小さく動く。
その仕草が昔と同じで、俺は少しだけ安心した。
「ねえ、朔」
「ん?」
「昨日、鍵を預けてもらえて嬉しかった」
「渡したときも言ってたろ」
「何度でも言うよ」
こはくはバッグから、小さな鍵を取り出した。
銀色の輪には、いつの間にか小さな鈴の飾りがついている。
「それ、付けたんだ」
「うん。落とさないように。音が鳴ると見つけやすいでしょ」
「いい考えだな」
「それと、朔に渡してもらった鍵だって、忘れないように」
「鍵の持ち主を忘れることはないだろ」
こはくは答えなかった。
鈴を指先で転がし、小さな音を鳴らす。
その横顔を見て、入学式の日の神社がふと頭に浮かんだ。
「こはく」
「なあに?」
「あの石碑の字のこと、まだ気になってる?」
彼女の耳が、わずかに伏せられた。
「……うん」
「俺に話せることがあったら、いつでも聞くよ」
「ありがとう」
こはくは空を見上げた。
「古い約束ってね。守ってるつもりでも、長い時間の間に、少しずつ形が変わることがあるんだ」
「約束?」
「人と、人じゃないものとの約束」
「……それが、石碑に書いてあったのか」
こはくは、はっきりとは頷かなかった。
「まだ全部は分からない。だから、いい加減なことを言いたくないんだ」
「分かった。待つよ」
「朔は、いつもそうだね」
「何が?」
「急かさないで、待ってくれる」
こはくは鍵をしまい、俺の肩にそっと頭を寄せた。
幼い頃なら何も考えなかった距離。
でも今は、木漏れ日の中で彼女の体温を感じるだけで、胸が少し早くなる。
「……朔」
「うん」
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
「朝ご飯は、ちゃんと弱火で焼くこと」
「最後にそれか」
「大事なことです」
こはくが笑う。
俺も笑った。
鳥居の向こうから、夕方の鐘が聞こえた。
いつか俺は、この二日間を思い返すのだろう。
初めて幼馴染に合鍵を渡し、笑ったり照れたりしながら過ごした、小さな春の思い出として。
そのときの俺は、鍵一つ預けるということが、誰かの居場所を守る約束にもなり得るのだと、まだ十分には分かっていなかった。
――第二話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
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