第一話 狐の幼馴染と大学生活
俺の幼馴染には、尻尾がある。
ふわふわで、金色で、機嫌がいいと勝手に揺れる尻尾だ。
ただし、本人はそれを秘密にしている。人間が大勢いるところでうっかり出そうものなら、たぶん俺のほうが怒られる。
そんな幼馴染が、大学の入学式当日の朝、俺の部屋の前で仁王立ちしていた。
「朔! 起きてる? 返事がないなら、寝坊したってことにするよ!」
「起きてる! 今、開ける!」
時計は午前七時十二分。
目覚ましを六時半に設定したはずなのに、俺はなぜか布団の中にいた。しかも昨日の引っ越しで出した段ボールに、右足がすっぽり入っている。
慌てて玄関へ向かい、鍵を回す。
「おはよう、朔。大学生初日の感想は?」
「今のところ、寝坊しそうで怖い」
「正直でよろしい」
そこに立っていたのは、稲守こはく。
肩のあたりで揺れる淡い茶色の髪に、琥珀色の瞳。桜色のブラウスと白いカーディガンを合わせた姿は、今朝の陽射しによく似合っていた。
手には買い物袋。背中には小さなショルダーバッグ。
そして、俺にしか見えないわけではないけれど、今は俺にしか見せていない、ぴんと立った狐の耳。
「……耳、出てるぞ」
「あっ」
こはくは頭を押さえた。
ぽん、と小さな音がしそうな勢いで耳が消える。ついでに、カーディガンの裾からのぞいていた尻尾も引っ込んだ。
「朔しかいないと思って、油断した」
「アパートの廊下は共用部分だからな」
「はいはい。じゃあ、入ってもいい?」
「どうぞ。足元、気をつけて」
俺が真柴朔。十八歳。この春から東雲大学に通う一年生だ。
つい三日前、夕凪市の大学近くにある、この小さなアパートへ引っ越してきた。
一人暮らしという言葉には、もっと自由で、もっと格好いい響きがあると思っていた。現実には、床を占領する段ボールと、どこにしまったか分からない靴下の山が待っている。
こはくは部屋へ入るなり、その惨状を見渡した。
「わあ」
「その『わあ』、何点の意味?」
「百点満点で、引っ越し直後っぽさ百二十点」
「褒められてないな」
「当たり。朝ご飯、食べた?」
「まだ」
「だと思った」
こはくが袋から取り出したのは、ラップに包まれたおにぎり二つと、温かい卵焼きだった。
海苔の巻き方が少しだけ不揃いで、卵焼きには甘い匂いがする。
「作ってきたのか?」
「うん。朔、緊張すると朝ご飯を忘れるでしょ」
「そんなことない」
「中学の入学式、高校の入学式。両方とも忘れた人が言う?」
「……記憶力がいいな」
「朔のことだもん」
当たり前みたいに言われて、返事が一拍遅れた。
こはくは気づいていないのか、ちゃぶ台代わりの折り畳みテーブルに朝食を並べる。
昔からそうだ。
こはくは俺の好きなものを覚えている。忘れた傘を持ってきてくれるし、風邪を引けば薬より先に温かいものを差し出す。そして、ときどき、何でもない一言で俺を黙らせる。
「……おいしい」
「でしょ。梅と、もう一個は鮭だよ」
「こはくは?」
「私は食べてきた。朔が食べ終わるまで監督する係」
「何の監督だよ」
「ちゃんとした大学生になれるかどうか」
くすくす笑う彼女の頬には、朝の光が落ちていた。
俺たちは子どもの頃から、ずっとこんな調子だ。
ただ一つ、普通の幼馴染と違うところがある。
こはくは人間ではない。
妖狐――人の姿に化け、長い年月を生きる狐の怪異だ。
本人に言わせれば「ちゃんと大学に合格した、立派な新入生」なのだけれど。
そして俺には、生まれつき怪異が見える。
道の角に立つ影も、電柱の上で歌う小さなものも、普通の人には見えない相手も、俺には昔から同じ景色の中にいた。
不思議な力で戦えるわけじゃない。ただ見えて、ときには触れられて、話せることがある。それだけだ。
それでも、こはくにとっては大きなことだったらしい。
小学生の頃、初めて彼女の狐耳を見たとき、俺はただ「似合ってるな」と言った。
こはくは今でも、あのときの俺の顔を覚えているという。
「朔、ぼーっとしてる。ネクタイ、曲がってるよ」
「えっ」
立ち上がろうとした俺の前に、こはくが回り込んだ。
「動かないで」
細い指が襟元に伸びる。
俺の鼻先で、彼女の髪がふわりと揺れた。懐かしい石鹸の香りがする。
「大学生なんだから、初日くらい格好つけないと」
「……近くないか」
「ネクタイ直してるんだから、近くなるでしょ」
「それはそうだけど」
「はい、できた」
こはくは一歩離れ、俺を上から下まで眺めた。
「うん。今日の朔、ちょっと格好いい」
「ちょっとか」
「すごく、って言ったほうがよかった?」
「言わなくていい」
「あ、照れた」
「照れてない」
彼女は楽しそうに笑った。
俺は残ったおにぎりを急いで口に運ぶ。
こんな調子で大学生活が始まるなら、退屈だけはしないだろう。
◇
アパートを出ると、春の風が思ったより冷たかった。
通りの先には、大学へ向かう学生らしい人影がいくつも見える。新しい靴、まだ硬そうな鞄、地図を確かめながら歩く顔。
俺たちも、その中の二人になった。
「ねえ、朔」
「ん?」
「大学って、自由なんだよね」
「授業を自分で選べるとか、そういう意味なら」
「夜まで一緒にいても、門限で怒られない?」
「こはくの家の決まりは知らないけど」
「休日に遠くへ行ったりもできる?」
「できると思う」
「じゃあ、楽しみだね」
こはくは俺の一歩前に出て、くるりと振り返った。
「四年間、いろんなところ行こうよ」
「授業にも行けよ」
「行くってば」
幼い頃は、放課後に神社の裏山を走り回った。
高校生になってからは、テスト前に図書館へ通ったり、帰り道に肉まんを半分こしたりした。
これからも変わらない。
そのはずだった。
「おはようございます」
横断歩道の手前で、俺は街路樹の下へ小さく頭を下げた。
植え込みの隙間に、手のひらほどの背丈をした老人が腰かけている。
灰色の蓑を着て、頭には大きな葉っぱ。毎朝、通る人の靴を眺めている妙なじいさんだ。
『ほっ。若いの、今日はめかしこんだな』
「入学式なんです」
『ほう。ならば転ぶでないぞ』
「気をつけます」
老人は葉っぱをひらひらさせた。
隣でこはくが、俺の袖を引く。
「また挨拶してる」
「目が合ったから」
「普通の人には、植え込みに向かって話しかけてるように見えるよ?」
「それは困るな」
「ほんと、朔って昔から変わらない」
呆れたような口調なのに、こはくの声はどこか嬉しそうだった。
信号が青になる。
俺たちは横断歩道を渡り、大学へ続く坂道に入った。
坂の途中には古い神社がある。
大通りから少し奥まったところに赤い鳥居が立ち、その向こうに石段が続いている。新しいマンションとコンビニに挟まれ、うっかりすると見落としそうな場所だ。
けれど俺は、この神社の前を通るたびに足を緩めてしまう。
鳥居の脇にある石碑が、いつも気になるからだ。
苔の浮いた石には古い文字が刻まれている。何年も雨風にさらされ、俺には全部を読めない。
それでも、この町に住む人と、人ならざるものに関わる何かだということは、子どもの頃にこはくから聞いていた。
「なあ、あの石碑」
声をかけると、こはくが足を止めた。
「どうしたの?」
「あそこ、前からあんなに白かったっけ」
石碑の中央。
黒ずんだ文字の列に混じって、指で拭ったように白い部分があった。
汚れが落ちたというより、石の表面だけが新しく削られたように見える。
こはくの表情が、ほんの一瞬、変わった。
「……よく見てるね」
「毎日見てたわけじゃないけど」
「古い石だから。雨とか風とか、いろいろあるんだよ」
「そういうものか?」
「そういうもの」
彼女は軽く笑って、俺の手首を引いた。
「ほら。入学式、遅れちゃう」
「まだ時間あるぞ」
「初日から寄り道するつもり?」
「そっちが早く来たんだろ」
「朔を起こすためですー」
口を尖らせた彼女に引っ張られ、俺は歩き出す。
振り返ったときには、石碑は桜の枝の向こうに隠れていた。
◇
東雲大学の正門には、巨大な「入学おめでとう」の横断幕が掲げられていた。
門の両側にはサークルの勧誘看板。スーツ姿の新入生と、その家族らしい人たち。スマートフォンを掲げる学生、友達を見つけて駆け寄る声。
さっきまで少し静かだった坂道とは、まるで別の世界だ。
「わあ……」
こはくが立ち止まった。
「広いね、朔!」
「資料で見てたより広いな」
「迷子になりそう」
「学内の地図は取ったよな?」
「取ったけど、朔がいるから大丈夫」
「俺だって初めてなんだけど」
「じゃあ、一緒に迷子になろう」
「嫌な誘いだな」
そう言うと、こはくは俺の腕に自分の腕を絡めた。
ごく自然な動きだった。
小さい頃、祭りの人混みではぐれそうになるたびに、彼女はこうして俺をつかんだ。
でも、今は二人とも十八歳だ。
俺の腕に触れる彼女の体温が、昔よりずっとはっきり意識される。
「……歩きにくくない?」
「ぜんぜん」
「周り、人が多いぞ」
「だから、はぐれないように」
「小学生じゃないんだから」
「朔は、私とはぐれたい?」
「そんなことは言ってない」
「じゃあ決まり」
悪戯っぽく笑われて、俺は反論する言葉をなくした。
門の前では、学生スタッフらしい先輩が記念撮影の手伝いをしていた。
「そこのお二人、写真撮りましょうか?」
「お願いします!」
こはくが即答する。
「二人とも新入生? いいですね、カップルで同じ大学なんて」
「えっ、いや、俺たちは――」
「そう見えます?」
俺の言葉を遮って、こはくが先輩に笑いかけた。
「見える見える。すごく仲よさそう」
「ありがとうございます」
「いや、違うんです。こはくは幼馴染で」
先輩は「ああ、そうなんだ」と頷いたものの、その顔には、なるほどそういう言い方をするのか、と書いてあった。
絶対に誤解が解けていない。
「じゃあ、撮りますよ。もう少し寄って!」
こはくが俺の腕をきゅっと引いた。
「朔、笑って」
「これ以上寄るのか?」
「写真なんだから」
「分かった、分かった」
シャッター音が鳴る。
画面に映った俺は妙に緊張していたが、隣のこはくは春の日差しに負けないくらい満面の笑みだった。
「送ってね、その写真」
「はいはい」
「大学生活、最初の思い出だよ」
そう言われると、消すわけにもいかない。
俺は写真を保存して、ポケットへスマートフォンをしまった。
「それで、どこ集合だっけ」
「朔は本館の講堂。私は別の受付」
「やっぱり、学部が違うと別行動か」
「入学式が終わったら、ここで待ち合わせしよう?」
こはくが指したのは、正門の内側にある大きな時計台だった。
「うん。分かりやすい」
「よし。じゃあ約束」
差し出されたのは、小指だった。
「それ、今でもやるのか」
「大学生は指切りしちゃいけないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「なら、早く」
仕方なく指を絡める。
こはくの手は、春の風のせいか少し冷たかった。
「絶対だよ」
「こんなに大きな時計台、見失わないって」
「場所の話じゃないもん」
彼女はそう言い、小指を解いた。
「じゃ、あとで!」
人混みの中へ駆けていく背中を、俺は少しの間見送った。
場所の話じゃない。
あれは、どういう意味だったんだろう。
◇
入学式は、思った以上にあっという間だった。
学長の祝辞、新入生代表の挨拶、大学生活の案内。
周りには初対面の学生ばかりで、少し緊張した。けれど、隣の席の男子が「履修登録って、何から始めたらいいんだろうな」と小声で言ったおかげで、俺も笑うことができた。
みんな同じように不安なのだ。
高校までの毎日とは違う。
決まった教室へ行けば知っている顔がそろっているわけじゃない。授業も、友達も、これから自分で見つけていく。
少し怖い。でも、少し楽しみでもあった。
式が終わって時計台へ戻ると、こはくはもう待っていた。
近くのベンチに座り、パンフレットを真剣に読んでいる。
その姿を見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
「待たせた?」
「ううん。いま来たところ」
「絶対、先に来てたろ」
「どうして分かるの?」
「パンフレットに付箋が三枚ついてる」
「ばれちゃった」
こはくは立ち上がって、俺に冊子を見せた。
「ねえねえ、大学祭って秋にあるんだって。それと、学食に季節限定のパフェがあるみたい」
「式の間にそこまで調べたのか」
「大学生になったら、やりたいこといっぱいあるから」
「例えば?」
「いろんな授業を受ける。友達を作る。学食のメニューを全部食べる」
「最後だけ難易度が違うな」
「あとは……」
こはくは一度言葉を切った。
さっきまでの明るい声が、少しだけ小さくなる。
「朔と、今まで行けなかったところに行きたい」
「どこ?」
「夜景のきれいなレストランとか。映画のレイトショーとか。ちょっと遠い町とか」
「いいな。学生のうちなら、時間も作れそうだし」
「……それからね」
こはくは俺の隣へ寄った。
周りの話し声に紛れるくらいの、小さな声になる。
「大学生になったら、ちょっと大人っぽいデートもしたいな」
「――っ」
危うく、手に持っていた案内冊子を落とすところだった。
「で、デート?」
「うん。デート」
「誰と?」
「ここまで話して、それ聞いちゃう?」
こはくは俺を見上げた。
琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを向いている。
ふざけているときの顔だと思った。でも、頬にはうっすら赤みが差していた。
「……俺でいいのか?」
「朔がいいんだけど」
風が吹いた。
時計台の向こうで桜の花びらが舞い、こはくの髪に一枚引っかかる。
俺は取ってやろうとして手を上げ、途中で止まった。
昔なら、何も考えずに触れられたのに。
「……そっか」
「そっか、だけ?」
「いや、その……俺も、行ってみたい」
「ほんと?」
「ほんと」
こはくの顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ約束! まずはおいしいものを食べに行こう」
「結局、食べ物か」
「大人っぽいお店で食べるの!」
俺は笑った。
こはくも笑った。
ただ、その笑い方が、さっきまでとは少し違って見えた。
ずっと隣にいた相手なのに、知らない表情がある。
大学生になるというのは、こういうことなのかもしれない。
◇
帰り道、俺たちはもう一度、坂の途中の神社を通った。
午後の日差しが鳥居の影を長く伸ばしている。
「ちょっとだけ寄っていい?」
今度は、こはくのほうから言った。
「もちろん」
石段を上がると、町の音が遠くなった。
境内には誰もいない。風に揺れる木々と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
こはくは社の前で静かに手を合わせた。
俺も隣に立って頭を下げる。
「何をお願いした?」
「内緒」
「俺は、四年間無事に過ごせますように、って」
「いいお願いだね」
「こはくは?」
「内緒って言ったでしょ」
「はいはい」
境内を出る前に、俺は鳥居の脇の石碑へ目を向けた。
朝より日が高くなり、文字の溝がよく見える。
古い文字の列。
ところどころ欠けた線。
そして、真ん中に残る、不自然に白い空白。
「なあ、こはく」
「……うん」
「あれ、やっぱり一文字、消えてないか?」
こはくは答えなかった。
朝のように笑ってごまかすこともしない。
俺は石碑に近づき、指先でそっと表面をなぞった。
冷たい石の感触がある。
白い部分だけ、周囲よりも滑らかだった。
「削れたんじゃない」
思わず声が出た。
「ここにあった字だけ、抜け落ちたみたいだ」
「朔」
呼びかけるこはくの声は、いつもより低かった。
「今日はもう帰ろう」
「何か知ってる?」
こはくは少し迷ったあと、ゆっくり首を振った。
「今は、うまく言えない」
嘘をついている、とは思わなかった。
ただ、長い時間を生きてきた彼女の中には、俺の知らない記憶があるのだと、改めて感じた。
「分かった。無理に聞かない」
「……ありがと」
こはくが俺の袖をつまむ。
朝のように強引に引っ張るのではなく、そこにいることを確かめるみたいに。
「朔」
「ん?」
「大学が始まっても、私たち、変わらないよね」
意外な質問だった。
「学部が違うから、毎日ずっと一緒ってわけにはいかないだろうけど」
「そういう話じゃなくて」
こはくは俺を見つめた。
「……ちゃんと、私のこと見ててね」
人間のふりをして暮らす狐。
普通の人には見えないものが見える俺。
子どもの頃、二人だけで共有していた秘密は、今も変わらず俺たちの間にある。
「見てるよ」
俺は答えた。
「狐耳が出てたら、ちゃんと教えるし」
「もう。そうじゃなくて」
「分かってる」
今度は、ふざけずに言う。
「こはくがどこにいても、俺は見失わない」
こはくは一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「……うん。約束だからね」
彼女は俺の腕に、自分の腕をそっと絡める。
大学へ向かうときよりも、少しだけ控えめに。
俺たちは並んで石段を下りた。
背後では、風が石碑の上を通り過ぎていった。
消えたのは、まだ、たった一文字だった。
だからそのときの俺は、それがいずれ一人の人間の名前にまで及ぶなんて、考えもしなかった。
――第一話 了
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