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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第十話 雨の日の少女

 雨の日には、街の輪郭が少し変わる。


 アスファルトは空を映し、傘の花が歩道を流れ、普段なら気にも留めない側溝(そっこう)から水音が聞こえてくる。


 その朝、俺、真柴朔(ましばさく)は、大学へ向かう道で何度も足を止めていた。


 怪異が見えるからではない。


 昨日の夜、こはくと交わした言葉を思い出してしまうからだ。


 『幼馴染って、いつまで幼馴染なのかな』。


 あのあと、俺たちは手をつないで雨上がりの道を歩いた。


 恋人になったわけでも、答えが出たわけでもない。


 ただ、今まで当たり前だった距離に、名前をつけ直さなければいけない気がしていた。


 スマートフォンが震える。


 稲守(いなもり)こはくからだ。


 『朔、ちゃんと傘持った?』。


 俺は頭上の紺色の傘を見て、『持った』と返した。


 『昨日みたいに自分の肩だけ濡らさないでね』。


 すぐに次の文が来る。


 『あと、今日の講義がんばって!』。


 画面を見て、思わず笑ってしまった。


 昨夜あれだけ真剣な話をしても、こはくはこはくだ。


 そのことが、嬉しかった。


 続いて、白瀬灯里(しらせあかり)からも通知が来た。


 『現像の順番、来週になりそう。写真、楽しみにしててね』。


 俺は『了解。雨の写真も撮れそうだな』と返した。


 『今日なら、水たまりがきれいかも』。


 写真を撮る人の目は、やっぱり少し違うらしい。


 俺はスマートフォンをしまい、大学へ向かって歩き始めた。


 六月に入ったばかりの夕凪市(ゆうなぎし)には、朝から細い雨が降り続いている。


 梅雨入りが近いのか、空は明るい灰色のままだった。


 通学路の角にあるバス停には、何人かの学生が並んでいた。


 その少し外側。


 小さな水たまりの真ん中に、一人の女の子が立っていた。


 ……いや、女の子というより、俺と同じくらいの年ごろの女性だろうか。


 細い肩に、灰青色の長い髪。


 紺色のワンピースに、薄い上着を羽織っている。


 傘は持っていない。


 雨に打たれているのに、寒そうにもしなかった。


 ただ、空を見上げていた。


 その姿が、妙に静かだった。


 周りでは学生たちが濡れた靴を気にしている。


 バスが来ると、列が動いた。


 けれど誰も、彼女のほうを見ない。


 まるで、そこに人がいないみたいに。


「……あ」


 俺は小さく声を漏らした。


 彼女の足元には水たまりがあるのに、靴の形をした波紋ができていなかった。


 代わりに、雨粒が落ちる場所だけが、淡い光を帯びている。


 見慣れた現象ではない。


 けれど、最近の俺は、こういうときに目をそらせなくなっていた。


 目の前にいる相手が、誰にも見えていないかもしれない。


 それが、どれほど寂しいことなのかを知ってしまったから。


 俺は歩み寄った。


「……おはようございます」


 彼女の肩が、ぴくりと動いた。


 ゆっくりとこちらを向く。


 灰色がかった瞳が、俺の顔を見つめた。


「……私に、言っていますか」


 小さな声だった。


 雨音に消えてしまいそうなのに、なぜかはっきりと届く。


「はい。ほかに誰も、こっちを見てなかったので」


 彼女はしばらく口を開けたまま、俺を見つめた。


「……見えるのですか」


「見えます」


「……本当に?」


「本当に」


 俺が頷くと、彼女は自分の手を見下ろした。


 指先の周りで、雨粒がゆっくり渦(うず)を巻いている。


 まるで透明な糸で結ばれているみたいだった。


「……珍しい人」


 彼女はぽつりと言う。


「私を見つけた人は、久しぶりです」


 その言葉には、驚きよりも、何かを確かめるような慎重さがあった。


「えっと、突然話しかけてごめんなさい。俺、大学に行くところで」


 俺は通学鞄を少し持ち上げた。


「雨に濡れてるから、大丈夫かなと思ったんです」


 彼女は自分の髪を見た。


 雨粒が何度も触れているのに、髪は不思議なくらい重たくならない。


「……平気です」


「そうなんですか」


「はい。雨は、私の一部みたいなものなので」


 予想していた答えとは、少し違った。


 俺はもう一度、彼女の足元の水たまりを見た。


「……もしかして、人間じゃない?」


 彼女の表情が、少し硬くなる。


 俺は慌てて付け足した。


「嫌だったら、答えなくていいです。俺には、普通の人に見えないものが見えることがあって」


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……私は、雨に寄るものです」


「雨に?」


「降っているあいだだけ、こうして形を持てます。人に近い姿をしているときもありますが、人間ではありません」


 言葉を選びながら、彼女は説明した。


「……怖いですか」


「いいえ」


 俺は即答した。


 彼女が目を瞬かせる。


「どうして?」


「怖がる理由が、まだないから」


 少し考えてから、言い直した。


「怪異にも、いろんな人がいるって知ってるので」


 彼女の口元が、ごくわずかに動いた。


 笑いかけたのかもしれない。


 けれど、まだその表情は雨の向こうに隠れていた。


     ◇


「……あそこは、何をするところでしょう」


 彼女は突然、困ったように言った。


「え?」


「さっきから、あの建物に入る人を見ていました」


 指先が、大学の正門のほうを向く。


 学生たちは傘を畳み、門の中へ吸い込まれるように進んでいく。


「みなさん、どこへ行くのですか」


「大学です。授業を受けたり、友達と会ったりする場所」


「……授業」


 彼女はその言葉を繰り返した。


「学ぶ場所、ですか」


「そうです。俺も、今日は午前から講義があって」


 スマートフォンの時計を見る。


 まだ少し余裕がある。


「行ってみたいんですか?」


 彼女はすぐに答えなかった。


 雨の向こうにある校門を、じっと見つめる。


「……少しだけ」


「入ってはいけない理由があるとか?」


「いいえ。怖いだけです」


 その答えは、驚くほど人間らしかった。


「みなさん、私を見ません。気づかないところを歩いていくので、近づくと……自分がいないみたいに思えて」


 俺は、名前のない講義室のことを思い出した。


 そこにいた学生たちも、自分が誰なのか分からなくなっていた。


 でも、彼女は違う。


 名前を奪われたわけではなく、最初から見つけてもらえる機会が少ないのだ。


「……よかったら、一緒に門まで歩きませんか」


 俺は言った。


「外から見られる場所なら、少し案内できます」


 彼女の瞳が揺れる。


「……私と、ですか」


「はい」


「でも、人間の方には、私が見えないのでしょう」


「そうみたいですね」


「あなたが、一人で話しているように見えるかもしれません」


「ああ……それは、たまにあります」


 俺は苦笑した。


「慣れてるとは言いませんけど、何とかします」


 彼女は少し考え、ようやく頷いた。


「……では、少しだけ」


 その声が、さっきより柔らかく聞こえた。


 俺は歩き始めようとして、ふと思い出す。


「そういえば、まだ名前を聞いてませんでしたね」


 彼女の足が止まった。


 俺も一瞬、言葉を失う。


 名前。


 つい先日まで、俺はその二文字が奪われる恐ろしさと向き合っていた。


 無理に聞くべきではないのかもしれない。


「……言いたくなかったら、大丈夫です」


 俺が言うと、彼女は首を振った。


「……名前を聞いてくれる人が、いると思わなかっただけです」


 彼女は雨の中で、ゆっくり口を開いた。


「雨宮雫(あまみやしずく)といいます」


「雨宮……雫さん」


「はい」


 呼び返すと、彼女が小さく頷いた。


 その仕草が、初めて少し嬉しそうに見えた。


「俺は真柴朔です。大学一年生」


「……真柴、朔さん」


「朔でいいですよ。雨宮さん、俺と同じくらいに見えるので」


「……年齢は、よく分からないのです。雨を見ていた時間なら、長いのですが」


「あ、そうか」


 雫さんは少しだけ首を傾げる。


「あなたは、十八歳くらい?」


「ちょうど十八です」


「……では、私も同じくらいに見えるのですね」


「ええ。大学生に見えます」


 彼女は自分の袖を見下ろした。


「……それは、少し嬉しいです」


 声に、初めてはっきりした温度が宿った。


     ◇


 正門へ向かい始めてすぐ、俺は傘を少し横へ動かした。


「雫さんも、入ります?」


 彼女は傘を見上げる。


「……私が?」


「雨は平気って言ってましたけど、一緒に歩くなら」


「……濡れませんか、あなたが」


「大丈夫です。二人で入れるくらいの大きさはあります」


 雫さんはしばらく傘を見つめ、恐る恐る一歩近づいた。


 雨粒が傘の縁を伝い、細い線になって落ちる。


 彼女の髪が、その内側へ入った。


 肩が触れるほどではない。


 けれど、一人で歩くときとは少し違う空間が生まれた。


「……変です」


 雫さんが言う。


「何がですか?」


「雨の下にいるのに、雨が直接触れません」


 俺は彼女を見た。


「傘ですからね」


「知っています。道具としては、見たことがあります」


 真面目な顔で答える。


「でも、この中に入ったことはありませんでした」


「初めての相合い傘ってことですか」


 口にしてから、自分で少し照れた。


 雫さんは知らない言葉を聞いたように、目を瞬かせた。


「……あいあいがさ?」


「二人で一本の傘を使うことです」


「……そういう名前なのですね」


 彼女は傘の柄へ視線を落とした。


「名前があると、少し分かりやすいです」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 俺たちは歩き始めた。


 校門へ続く道には、水たまりがいくつもできている。


 途中、傘を差した自転車押しの学生が向こうから来た。


 俺はぶつからないように傘を寄せ、道の端へ避ける。


「……あ」


 雫さんの肩が、俺の肩へそっと触れた。


 濡れた服越しなのに、妙に冷たくはなかった。


 むしろ、雨上がりの石に手を置いたときのような、不思議な温度がした。


「すみません、狭かったですよね」


 俺が言うと、雫さんは目を伏せた。


「……いいえ。嫌では、ありません」


 少しだけ、声が小さくなる。


「……傘の下に、二人いるのだと分かりました」


 その言い方に、俺まで照れてしまった。


 通り過ぎた学生がいなくなっても、雫さんはすぐには離れなかった。


 俺も、傘の位置を変えずに歩いた。


 雫さんの足がそこへ近づくと、水面が小さく揺れた。


 誰かの足跡ではなく、雨そのものが挨拶しているようだった。


「……朔さん」


「はい」


「この傘の中は、外より静かですね」


「そうですね。音が上で止まるからかな」


「でも、雨の音は聞こえます」


「うん」


 彼女はほんの少しだけ笑った。


「……不思議。雨の中に、もう一つ小さな部屋があるみたい」


 俺は頭上を見た。


 確かに、傘の内側は狭い部屋に似ていた。


 二人分の呼吸と、雨の音だけが聞こえる。


「雫さん、詩みたいなこと言いますね」


「……詩?」


「言葉で景色をきれいに見せることです」


 雫さんは恥ずかしそうに目を伏せた。


「そんなつもりは、なかったのですが」


「褒めたつもりです」


「……そう、でしたか」


 その頬に、雨の色とは違う薄い赤みが差した気がした。


     ◇


 大学の門をくぐるころ、学生の数が増えてきた。


 傘が行き交い、靴音が濡れた地面を叩く。


 俺は人とぶつからないように道の端へ寄った。


 雫さんは少し遅れ、俺の背中に隠れるように歩く。


「……大丈夫ですか?」


 声を落として聞く。


「……はい。でも、少し怖いです」


「人が多いですからね」


「みなさん、私のいる場所を気にしません」


 彼女は、すれ違う学生を見た。


 確かに誰も彼女を避けない。


 視線も向けない。


 雫さんが自分から道を譲らなければ、相手はそのまま通り過ぎてしまう。


 人間には彼女が見えないのだ。


 俺は傘を持ち替えた。


「こっちを歩きましょう。少し遠回りだけど、人が少ない道があります」


 雫さんが俺を見る。


「……あなたは、私がいる場所を分かってくれるのですね」


「見えてますから」


「それだけで、随分違います」


 静かな声だった。


 俺たちは正門横の小道へ入った。


 そこには背の高い木が並び、葉から落ちる雨粒が地面を細かく叩いている。


 学生たちの声は少し遠くなった。


「……ありがとうございます」


 雫さんが言った。


「いえ。俺もこっちの道、好きなんです」


「……私も、好きになりそうです」


 雫さんは樹上を見上げた。


「葉の先から落ちる雨は、空からまっすぐ落ちる雨と音が違います」


「そうなんですか?」


「はい。屋根は深い音、葉は細い音。石に落ちると、短く跳ねる音がします」


 彼女は目を閉じて、少し耳を澄ませた。


「……今日は、どれも静かです。風が弱いので」


 俺も聞いてみる。


 確かに、雨粒がどこへ落ちるかで、音が違っていた。


「今まで、全部まとめて雨音だと思ってました」


 雫さんが小さく笑う。


「……私も、人の足音を全部同じだと思っていました。でも、急いでいる人と、待っている人では違いますね」


「そうかもしれません」


 俺は頷いた。


「お互い、知らないことだらけですね」


「……はい。それが、少し面白いです」


「どうして?」


「静かだから。あと、大学って意外と広いので、混んでる道を通ると遠回りになることもあるし」


 雫さんは真剣に頷いた。


「……道は、短ければいいわけではないのですね」


「たまには、そうかもしれません」


 彼女は足元の水面を見つめた。


「私も、雨の道なら分かります。でも、晴れている道は、よく知らないのです」


「晴れてる道?」


「……私が見ていられるのは、雨が降るあいだだけなので」


 彼女は空を見上げた。


「雲が切れると、私は薄くなります。雨のない場所へ遠く行くのは、難しい」


「消えるんですか?」


「……なくなるわけではありません。ただ、こうして歩けなくなるだけです」


 雫さんは少し考え、言い直した。


「水が乾いて見えなくなっても、どこかへ行くでしょう。それに似ています」


 俺は頷いた。


 完全に理解できたわけではない。


 でも、彼女が今ここにいる時間には、限りがあるらしい。


「……晴れの日に、見たいものがあるんですか?」


 尋ねると、彼女はしばらく黙った。


「……分からないのです」


 その答えは、少し意外だった。


「晴れの日を、ちゃんと見たことがないから」


 彼女は小さな水たまりを見た。


「みなさんが、雨のない日にどんな顔をするのか。何を見上げるのか。……それを知りたいです」


 俺はすぐに答えられなかった。


 雨の日だけの存在に、晴れの日の景色をどう説明すればいいのか。


 言葉だけでは、足りない気がした。


 それでも俺は、考えながら言った。


「晴れの日は、空が高く見えます」


「……高く」


「雲が少なくて、遠くまで見える。あと、地面の影が濃くなるかな」


「影……」


「でも、雨の日にもいいところはあります。今日みたいに、街が空を映したり」


 雫さんは目を上げた。


「……雨の日にも、いいところが?」


「もちろん」


 俺は頷く。


「俺は好きです。雨の日の音も、匂いも」


 彼女は何かを言いかけ、口を閉じた。


 それから、傘の外を見た。


 雨粒が木の葉を滑り、細い糸になって落ちている。


「……嬉しいです」


 小さな声だった。


     ◇


 少し歩くと、大学の中央広場が見えてきた。


 雨の日なので、ベンチは空いている。


 時計台は灰色の空を背に立ち、濡れた石畳にその姿を映していた。


「……あれは?」


 雫さんが指さす。


「時計台です。大学の待ち合わせ場所みたいなもの」


「時計……」


「あそこに行けば、だいたい誰かに会えます。友達と待ち合わせるときにも使うんです」


 彼女はしばらく時計を見つめた。


「……待っていれば、会える場所」


「そうです」


「……いいですね」


 その声が少し寂しそうに聞こえた。


 俺は、相沢拓海(あいざわたくみ)を連れ戻した夜のことを思い出した。


 あいつも、あの場所へ帰ろうとしていた。


 人が名前を持ち、誰かと会う約束を持つこと。


 それは、思っていたよりずっと大切なのかもしれない。


「……雫さんも、待ち合わせしてみたいですか?」


 俺が聞くと、彼女は驚いたように目を見開いた。


「……私が?」


「誰かと、会う約束をして」


「……考えたことが、ありませんでした」


 彼女は両手を胸の前で重ねる。


「雨が降ると、人は急いで屋根の下へ行きます。私は、いつもその反対へ歩いていくので」


「そうなんですね」


「同じ場所にいても、向かう先が違うのです」


 俺は傘の外を見た。


 何人もの学生が時計台の前を通り過ぎる。


 その中に、傘を差し出して誰かを迎える人もいた。


 雫さんは、その様子を熱心に見ていた。


「……あの人たちは、どうして一緒に笑っているのですか」


「友達なんじゃないかな」


「友達……」


「嬉しいことがあったのかもしれない」


 雫さんは少し考えた。


「……友達は、同じものを見て笑う人ですか」


「それも一つだと思います」


 俺は答えた。


「でも、違うものが見えても、話して分かり合えることもある」


 雫さんが俺を見る。


「……今の私たちみたいに?」


 予想していなかった問いだった。


「……そうかもしれません」


 俺が答えると、彼女は目を伏せた。


「……それなら、少し嬉しいです」


 雨音に紛(まぎ)れるほど小さな声だった。


     ◇


 広場の端に、屋根のある休憩スペースがあった。


 俺は少し歩き疲れ、そこで鞄を持ち直した。


「ここで少し休みます?」


 雫さんは屋根を見上げた。


「……少しだけなら」


 俺たちは、屋根の外側に近いベンチへ座った。


 雨粒がすぐそばまで落ちてくる。


 休憩スペースの向こうを、紙袋を持った学生が二人通り過ぎた。


 焼きたてのパンらしく、袋の口から白い湯気が見える。


 雫さんが、そっと目で追った。


「……あれは、何ですか」


「パンです。学内の売店で買ったんじゃないかな」


「……買う」


「お金を払って、食べ物を受け取るんです」


 俺は自分の昼食を思い浮かべた。


「大学には食堂もありますよ。友達と一緒に昼飯を食べる学生も多いです」


 雫さんは不思議そうに首を傾げる。


「……食べるために、誰かと待ち合わせるのですか」


「それもあります。食べながら、今日の授業の話をしたり」


「……楽しそうですね」


 彼女は少し照れたように呟(つぶや)いた。


「食べ物の味は、雨とは違うのでしょうか」


「たぶん、かなり違います」


「……いつか、知ってみたいです」


 俺はその言葉を覚えておこうと思った。


 雨が降る日にだって、大学の楽しみを一つずつ知る方法はあるはずだ。


 雫さんは雨の届く縁に手を置き、指先で水の流れを確かめていた。


「……ここなら、大丈夫です」


「よかった」


 俺は濡れた傘を畳み、脇に置いた。


 そのとき、鞄の中のノートが少し濡れていることに気づく。


「あ、しまった」


「……どうしました?」


「さっき、傘を開けるときに水が入ったみたいで」


 ノートの端が湿っていた。


「授業のメモなのに……」


 俺が困っていると、雫さんがノートを見つめた。


「……紙は、水が苦手なのですね」


「そうですね。濡れると文字が滲(にじ)んだりします」


「……文字が、消える?」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 彼女はノートではなく、俺の顔を見ていた。


「……雨が、消してしまうことがあるのですね」


「雨は悪くないですよ。俺が濡らしただけです」


 雫さんは小さく首を振る。


「……私も、ときどき思います。雨は、残った足跡や文字を薄くしてしまうから」


 彼女の指が、ベンチの端に落ちる雨粒を受け止める。


「誰かの書いたものを、消してしまっているのではないかと」


「……でも、雨があるから残るものもありますよね」


 俺は考えながら言った。


「植物が育ったり、川に水が流れたり。今日だって、雨が降ってたから雫さんに会えた」


 彼女が、ゆっくり顔を上げる。


「……会えた」


「はい」


「……私に?」


「そうです」


 雫さんは何も言わなかった。


 ただ、指先にあった雨粒が、しばらく小さな球の形を保っていた。


 やがて、ぽとりと地面へ落ちる。


「……今の、雫さんが?」


 俺が尋ねる。


 彼女は少し困ったように頷いた。


「……驚くと、水がまとまってしまうことがあります」


「へえ。きれいですね」


 雫さんの目が見開かれる。


「……怖くないですか」


「怖くないです。さっきも言ったでしょう」


「……そう、でしたね」


 彼女の口元に、今度こそ小さな笑みが浮かんだ。


 それは、雨雲の隙間から光が差したような、ほんの短い笑顔だった。


     ◇


「……大学では、何を学ぶのですか」


 雫さんが聞いた。


「いろいろです。授業によって違いますけど、俺は文章を読んだり、考えたことを話したりする授業が多いかな」


「……話す」


「はい。先生の話を聞くだけじゃなくて、学生同士で意見を出すこともあります」


「……違う考えを、言ってもいいのですか」


「もちろん。むしろ、同じじゃないほうが面白いこともあります」


 雫さんは驚いた顔をした。


「……みんなで、同じことを覚えるのではないのですね」


「覚えることもあります。でも、それだけじゃないです」


 俺は少し考えた。


「俺もまだ一年生だから、分からないことばかりですけど」


「……分からなくても、入れるのですか」


「分からないことを学びに来る場所ですからね」


 雫さんが、ゆっくり頷いた。


「……それなら、私にも学びたいことがあります」


「何ですか?」


 彼女は少し恥ずかしそうに視線を落とした。


「……晴れの日のこと」


 俺は思わず笑ってしまった。


 馬鹿にしたわけじゃない。


 あまりにまっすぐな答えが、嬉しかったのだ。


「……変ですか?」


 雫さんが不安そうに聞く。


「いいえ。すごくいいと思います」


 俺は慌てて答えた。


「知らないことを知りたいって、ちゃんと大学生みたいです」


「……大学生」


 彼女は、ゆっくりその言葉を繰り返す。


「……私も、そんなふうに見えますか」


「見えますよ」


 彼女は少しだけ笑った。


 そのとき、頭上の雨音が弱くなった。


 空の一部が明るくなり、厚い雲の向こうに白い光が見える。


 雫さんの指先が、ふっと薄くなった。


「……あ」


 彼女は自分の手を見つめた。


「雨が……弱くなっています」


 俺は空を見上げた。


「本当だ。もうすぐ止むのかな」


 雫さんは立ち上がった。


 その輪郭が、少しずつ透け始めている。


「……戻らないと」


「どこへ?」


「雨が、まだ降っている場所へ」


 彼女は広場の向こうを見た。


 木陰の下には、まだ細い雨が落ちている。


「……ここにいられないんですか」


「……いられます。でも、今の形を保つのが難しくなります」


 彼女は少し困ったように笑った。


「……せっかく、お話しできたのに」


 俺の胸が、少しだけ痛んだ。


「……また、会えますか」


 聞いてから、少し慌てた。


 出会ったばかりなのに、そんなことを言ってもいいのだろうか。


 でも、雫さんは驚いたように俺を見つめたあと、小さく頷いた。


「……雨が降れば、きっと」


「そうですか」


「ただ、どこにいるかは……私にも分かりません」


「じゃあ、また見つけられたら声をかけます」


 雫さんの口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。


「……はい」


 彼女は一歩下がった。


 屋根の外へ出ると、残った雨粒が彼女の髪をすり抜ける。


 灰青色の輪郭が、薄い霧のように揺れた。


「……朔さん」


「はい」


「今日は、名前を呼んでくれて……ありがとうございました」


 俺は頷いた。


「こちらこそ。話せてよかったです」


 雫さんは、もう一度小さく笑った。


 そして、雨の向こうへ歩いていった。


 その姿は、木々のあいだに溶けるように見えなくなった。


     ◇


 時計を見ると、講義まであと少しだった。


 俺は急いで傘を畳み、教室へ向かった。


 建物の入口に入ると、雨の音が遠くなる。


 廊下の窓から見える外は、まだ薄い灰色だった。


 俺はさっきまで歩いていた小道を振り返る。


 もう、雫さんの姿は見えなかった。


 代わりに、雨粒が葉の先から落ちている。


 何でもない景色なのに、少し違って見えた。


「……真柴くん?」


 教室の前で、相沢に呼び止められた。


「どうしたの、ぼーっとして」


「いや、ちょっと雨を見てた」


「雨? 珍しいな。俺なんて靴が濡れるのが嫌で仕方ないのに」


「今日は、雨も悪くないと思って」


 相沢が首を傾げる。


「……何かいいことあった?」


「……少しだけ」


 俺が答えると、彼はにやっと笑った。


「もしかして、また女の子?」


「何でそうなるんだ」


「真柴くん、最近そういう顔すること多いから」


「どんな顔だよ」


「うまく説明できないけど、ちょっと嬉しそうな顔」


 俺は返事に困った。


 相沢は笑いながら、教室へ入っていく。


 俺も後を追った。


 いつもの授業が始まる。


 でも、ノートを開くと、さっき雫さんが言った言葉を思い出してしまった。


 『分からなくても、入れるのですか』。


 分からないことを学ぶ場所。


 大学は、そんな場所だ。


 だったら、雨の日にしか歩けない人にも、何か学べることがあるはずだ。


 俺は窓の外を見た。


 雨が、また少し強くなり始めている。


 どこかで彼女も、同じ雨音を聞いているだろうか。


     ◇


 夕方、アパートへ戻ると、こはくからメッセージが届いた。


 『今日、雨すごかったね。濡れなかった?』。


 俺は『大丈夫。傘使った』と返す。


 少し考えてから、もう一文打った。


 『今日は雨の中で、不思議な人と話した。まだ知り合ったばかりだけど』。


 返事はすぐに来た。


 『怪異の人? 危ないことはなかった?』。


 こはくに心配をかけたくない。でも、隠したくもなかった。


 俺は『危ないことはなかったよ。相手のことは、本人に聞いてから詳しく話したい』と返した。


 少し間があって、こはくから『分かった。朔も気をつけてね。いつか紹介してもらえたら嬉しいな』と届く。


 俺は『うん。ありがとう』と打った。


 窓の外では、夕立のように雨が強くなっている。


 昼間に見た灰青色の髪が、ふと頭に浮かんだ。


 雨の下に立っていた女性。


 誰にも見えていないと思いながら、大学の門を見つめていた人。


 雨宮雫さん。


 あの人が、晴れた日の空を知りたいと言ったときの声を、俺は覚えている。


 見えるものが違っても、同じ道を歩ける。


 傘の下に、二人分の場所を作ることだってできる。


 そんな当たり前のことを、今日は初めて教えられた気がした。


 雨音が、窓を静かに叩いている。


 次にあの声を聞くのは、どんな雨の日だろう。


 そう考えると、明日の天気が少しだけ楽しみになった。


 ――第十話 了


ここまで読んでくれてありがとうございました!


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