第十話 雨の日の少女
雨の日には、街の輪郭が少し変わる。
アスファルトは空を映し、傘の花が歩道を流れ、普段なら気にも留めない側溝から水音が聞こえてくる。
その朝、俺、真柴朔は、大学へ向かう道で何度も足を止めていた。
怪異が見えるからではない。
昨日の夜、こはくと交わした言葉を思い出してしまうからだ。
『幼馴染って、いつまで幼馴染なのかな』。
あのあと、俺たちは手をつないで雨上がりの道を歩いた。
恋人になったわけでも、答えが出たわけでもない。
ただ、今まで当たり前だった距離に、名前をつけ直さなければいけない気がしていた。
スマートフォンが震える。
稲守こはくからだ。
『朔、ちゃんと傘持った?』。
俺は頭上の紺色の傘を見て、『持った』と返した。
『昨日みたいに自分の肩だけ濡らさないでね』。
すぐに次の文が来る。
『あと、今日の講義がんばって!』。
画面を見て、思わず笑ってしまった。
昨夜あれだけ真剣な話をしても、こはくはこはくだ。
そのことが、嬉しかった。
続いて、白瀬灯里からも通知が来た。
『現像の順番、来週になりそう。写真、楽しみにしててね』。
俺は『了解。雨の写真も撮れそうだな』と返した。
『今日なら、水たまりがきれいかも』。
写真を撮る人の目は、やっぱり少し違うらしい。
俺はスマートフォンをしまい、大学へ向かって歩き始めた。
六月に入ったばかりの夕凪市には、朝から細い雨が降り続いている。
梅雨入りが近いのか、空は明るい灰色のままだった。
通学路の角にあるバス停には、何人かの学生が並んでいた。
その少し外側。
小さな水たまりの真ん中に、一人の女の子が立っていた。
……いや、女の子というより、俺と同じくらいの年ごろの女性だろうか。
細い肩に、灰青色の長い髪。
紺色のワンピースに、薄い上着を羽織っている。
傘は持っていない。
雨に打たれているのに、寒そうにもしなかった。
ただ、空を見上げていた。
その姿が、妙に静かだった。
周りでは学生たちが濡れた靴を気にしている。
バスが来ると、列が動いた。
けれど誰も、彼女のほうを見ない。
まるで、そこに人がいないみたいに。
「……あ」
俺は小さく声を漏らした。
彼女の足元には水たまりがあるのに、靴の形をした波紋ができていなかった。
代わりに、雨粒が落ちる場所だけが、淡い光を帯びている。
見慣れた現象ではない。
けれど、最近の俺は、こういうときに目をそらせなくなっていた。
目の前にいる相手が、誰にも見えていないかもしれない。
それが、どれほど寂しいことなのかを知ってしまったから。
俺は歩み寄った。
「……おはようございます」
彼女の肩が、ぴくりと動いた。
ゆっくりとこちらを向く。
灰色がかった瞳が、俺の顔を見つめた。
「……私に、言っていますか」
小さな声だった。
雨音に消えてしまいそうなのに、なぜかはっきりと届く。
「はい。ほかに誰も、こっちを見てなかったので」
彼女はしばらく口を開けたまま、俺を見つめた。
「……見えるのですか」
「見えます」
「……本当に?」
「本当に」
俺が頷くと、彼女は自分の手を見下ろした。
指先の周りで、雨粒がゆっくり渦を巻いている。
まるで透明な糸で結ばれているみたいだった。
「……珍しい人」
彼女はぽつりと言う。
「私を見つけた人は、久しぶりです」
その言葉には、驚きよりも、何かを確かめるような慎重さがあった。
「えっと、突然話しかけてごめんなさい。俺、大学に行くところで」
俺は通学鞄を少し持ち上げた。
「雨に濡れてるから、大丈夫かなと思ったんです」
彼女は自分の髪を見た。
雨粒が何度も触れているのに、髪は不思議なくらい重たくならない。
「……平気です」
「そうなんですか」
「はい。雨は、私の一部みたいなものなので」
予想していた答えとは、少し違った。
俺はもう一度、彼女の足元の水たまりを見た。
「……もしかして、人間じゃない?」
彼女の表情が、少し硬くなる。
俺は慌てて付け足した。
「嫌だったら、答えなくていいです。俺には、普通の人に見えないものが見えることがあって」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「……私は、雨に寄るものです」
「雨に?」
「降っているあいだだけ、こうして形を持てます。人に近い姿をしているときもありますが、人間ではありません」
言葉を選びながら、彼女は説明した。
「……怖いですか」
「いいえ」
俺は即答した。
彼女が目を瞬かせる。
「どうして?」
「怖がる理由が、まだないから」
少し考えてから、言い直した。
「怪異にも、いろんな人がいるって知ってるので」
彼女の口元が、ごくわずかに動いた。
笑いかけたのかもしれない。
けれど、まだその表情は雨の向こうに隠れていた。
◇
「……あそこは、何をするところでしょう」
彼女は突然、困ったように言った。
「え?」
「さっきから、あの建物に入る人を見ていました」
指先が、大学の正門のほうを向く。
学生たちは傘を畳み、門の中へ吸い込まれるように進んでいく。
「みなさん、どこへ行くのですか」
「大学です。授業を受けたり、友達と会ったりする場所」
「……授業」
彼女はその言葉を繰り返した。
「学ぶ場所、ですか」
「そうです。俺も、今日は午前から講義があって」
スマートフォンの時計を見る。
まだ少し余裕がある。
「行ってみたいんですか?」
彼女はすぐに答えなかった。
雨の向こうにある校門を、じっと見つめる。
「……少しだけ」
「入ってはいけない理由があるとか?」
「いいえ。怖いだけです」
その答えは、驚くほど人間らしかった。
「みなさん、私を見ません。気づかないところを歩いていくので、近づくと……自分がいないみたいに思えて」
俺は、名前のない講義室のことを思い出した。
そこにいた学生たちも、自分が誰なのか分からなくなっていた。
でも、彼女は違う。
名前を奪われたわけではなく、最初から見つけてもらえる機会が少ないのだ。
「……よかったら、一緒に門まで歩きませんか」
俺は言った。
「外から見られる場所なら、少し案内できます」
彼女の瞳が揺れる。
「……私と、ですか」
「はい」
「でも、人間の方には、私が見えないのでしょう」
「そうみたいですね」
「あなたが、一人で話しているように見えるかもしれません」
「ああ……それは、たまにあります」
俺は苦笑した。
「慣れてるとは言いませんけど、何とかします」
彼女は少し考え、ようやく頷いた。
「……では、少しだけ」
その声が、さっきより柔らかく聞こえた。
俺は歩き始めようとして、ふと思い出す。
「そういえば、まだ名前を聞いてませんでしたね」
彼女の足が止まった。
俺も一瞬、言葉を失う。
名前。
つい先日まで、俺はその二文字が奪われる恐ろしさと向き合っていた。
無理に聞くべきではないのかもしれない。
「……言いたくなかったら、大丈夫です」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「……名前を聞いてくれる人が、いると思わなかっただけです」
彼女は雨の中で、ゆっくり口を開いた。
「雨宮雫といいます」
「雨宮……雫さん」
「はい」
呼び返すと、彼女が小さく頷いた。
その仕草が、初めて少し嬉しそうに見えた。
「俺は真柴朔です。大学一年生」
「……真柴、朔さん」
「朔でいいですよ。雨宮さん、俺と同じくらいに見えるので」
「……年齢は、よく分からないのです。雨を見ていた時間なら、長いのですが」
「あ、そうか」
雫さんは少しだけ首を傾げる。
「あなたは、十八歳くらい?」
「ちょうど十八です」
「……では、私も同じくらいに見えるのですね」
「ええ。大学生に見えます」
彼女は自分の袖を見下ろした。
「……それは、少し嬉しいです」
声に、初めてはっきりした温度が宿った。
◇
正門へ向かい始めてすぐ、俺は傘を少し横へ動かした。
「雫さんも、入ります?」
彼女は傘を見上げる。
「……私が?」
「雨は平気って言ってましたけど、一緒に歩くなら」
「……濡れませんか、あなたが」
「大丈夫です。二人で入れるくらいの大きさはあります」
雫さんはしばらく傘を見つめ、恐る恐る一歩近づいた。
雨粒が傘の縁を伝い、細い線になって落ちる。
彼女の髪が、その内側へ入った。
肩が触れるほどではない。
けれど、一人で歩くときとは少し違う空間が生まれた。
「……変です」
雫さんが言う。
「何がですか?」
「雨の下にいるのに、雨が直接触れません」
俺は彼女を見た。
「傘ですからね」
「知っています。道具としては、見たことがあります」
真面目な顔で答える。
「でも、この中に入ったことはありませんでした」
「初めての相合い傘ってことですか」
口にしてから、自分で少し照れた。
雫さんは知らない言葉を聞いたように、目を瞬かせた。
「……あいあいがさ?」
「二人で一本の傘を使うことです」
「……そういう名前なのですね」
彼女は傘の柄へ視線を落とした。
「名前があると、少し分かりやすいです」
その言葉が、妙に胸に残った。
俺たちは歩き始めた。
校門へ続く道には、水たまりがいくつもできている。
途中、傘を差した自転車押しの学生が向こうから来た。
俺はぶつからないように傘を寄せ、道の端へ避ける。
「……あ」
雫さんの肩が、俺の肩へそっと触れた。
濡れた服越しなのに、妙に冷たくはなかった。
むしろ、雨上がりの石に手を置いたときのような、不思議な温度がした。
「すみません、狭かったですよね」
俺が言うと、雫さんは目を伏せた。
「……いいえ。嫌では、ありません」
少しだけ、声が小さくなる。
「……傘の下に、二人いるのだと分かりました」
その言い方に、俺まで照れてしまった。
通り過ぎた学生がいなくなっても、雫さんはすぐには離れなかった。
俺も、傘の位置を変えずに歩いた。
雫さんの足がそこへ近づくと、水面が小さく揺れた。
誰かの足跡ではなく、雨そのものが挨拶しているようだった。
「……朔さん」
「はい」
「この傘の中は、外より静かですね」
「そうですね。音が上で止まるからかな」
「でも、雨の音は聞こえます」
「うん」
彼女はほんの少しだけ笑った。
「……不思議。雨の中に、もう一つ小さな部屋があるみたい」
俺は頭上を見た。
確かに、傘の内側は狭い部屋に似ていた。
二人分の呼吸と、雨の音だけが聞こえる。
「雫さん、詩みたいなこと言いますね」
「……詩?」
「言葉で景色をきれいに見せることです」
雫さんは恥ずかしそうに目を伏せた。
「そんなつもりは、なかったのですが」
「褒めたつもりです」
「……そう、でしたか」
その頬に、雨の色とは違う薄い赤みが差した気がした。
◇
大学の門をくぐるころ、学生の数が増えてきた。
傘が行き交い、靴音が濡れた地面を叩く。
俺は人とぶつからないように道の端へ寄った。
雫さんは少し遅れ、俺の背中に隠れるように歩く。
「……大丈夫ですか?」
声を落として聞く。
「……はい。でも、少し怖いです」
「人が多いですからね」
「みなさん、私のいる場所を気にしません」
彼女は、すれ違う学生を見た。
確かに誰も彼女を避けない。
視線も向けない。
雫さんが自分から道を譲らなければ、相手はそのまま通り過ぎてしまう。
人間には彼女が見えないのだ。
俺は傘を持ち替えた。
「こっちを歩きましょう。少し遠回りだけど、人が少ない道があります」
雫さんが俺を見る。
「……あなたは、私がいる場所を分かってくれるのですね」
「見えてますから」
「それだけで、随分違います」
静かな声だった。
俺たちは正門横の小道へ入った。
そこには背の高い木が並び、葉から落ちる雨粒が地面を細かく叩いている。
学生たちの声は少し遠くなった。
「……ありがとうございます」
雫さんが言った。
「いえ。俺もこっちの道、好きなんです」
「……私も、好きになりそうです」
雫さんは樹上を見上げた。
「葉の先から落ちる雨は、空からまっすぐ落ちる雨と音が違います」
「そうなんですか?」
「はい。屋根は深い音、葉は細い音。石に落ちると、短く跳ねる音がします」
彼女は目を閉じて、少し耳を澄ませた。
「……今日は、どれも静かです。風が弱いので」
俺も聞いてみる。
確かに、雨粒がどこへ落ちるかで、音が違っていた。
「今まで、全部まとめて雨音だと思ってました」
雫さんが小さく笑う。
「……私も、人の足音を全部同じだと思っていました。でも、急いでいる人と、待っている人では違いますね」
「そうかもしれません」
俺は頷いた。
「お互い、知らないことだらけですね」
「……はい。それが、少し面白いです」
「どうして?」
「静かだから。あと、大学って意外と広いので、混んでる道を通ると遠回りになることもあるし」
雫さんは真剣に頷いた。
「……道は、短ければいいわけではないのですね」
「たまには、そうかもしれません」
彼女は足元の水面を見つめた。
「私も、雨の道なら分かります。でも、晴れている道は、よく知らないのです」
「晴れてる道?」
「……私が見ていられるのは、雨が降るあいだだけなので」
彼女は空を見上げた。
「雲が切れると、私は薄くなります。雨のない場所へ遠く行くのは、難しい」
「消えるんですか?」
「……なくなるわけではありません。ただ、こうして歩けなくなるだけです」
雫さんは少し考え、言い直した。
「水が乾いて見えなくなっても、どこかへ行くでしょう。それに似ています」
俺は頷いた。
完全に理解できたわけではない。
でも、彼女が今ここにいる時間には、限りがあるらしい。
「……晴れの日に、見たいものがあるんですか?」
尋ねると、彼女はしばらく黙った。
「……分からないのです」
その答えは、少し意外だった。
「晴れの日を、ちゃんと見たことがないから」
彼女は小さな水たまりを見た。
「みなさんが、雨のない日にどんな顔をするのか。何を見上げるのか。……それを知りたいです」
俺はすぐに答えられなかった。
雨の日だけの存在に、晴れの日の景色をどう説明すればいいのか。
言葉だけでは、足りない気がした。
それでも俺は、考えながら言った。
「晴れの日は、空が高く見えます」
「……高く」
「雲が少なくて、遠くまで見える。あと、地面の影が濃くなるかな」
「影……」
「でも、雨の日にもいいところはあります。今日みたいに、街が空を映したり」
雫さんは目を上げた。
「……雨の日にも、いいところが?」
「もちろん」
俺は頷く。
「俺は好きです。雨の日の音も、匂いも」
彼女は何かを言いかけ、口を閉じた。
それから、傘の外を見た。
雨粒が木の葉を滑り、細い糸になって落ちている。
「……嬉しいです」
小さな声だった。
◇
少し歩くと、大学の中央広場が見えてきた。
雨の日なので、ベンチは空いている。
時計台は灰色の空を背に立ち、濡れた石畳にその姿を映していた。
「……あれは?」
雫さんが指さす。
「時計台です。大学の待ち合わせ場所みたいなもの」
「時計……」
「あそこに行けば、だいたい誰かに会えます。友達と待ち合わせるときにも使うんです」
彼女はしばらく時計を見つめた。
「……待っていれば、会える場所」
「そうです」
「……いいですね」
その声が少し寂しそうに聞こえた。
俺は、相沢拓海を連れ戻した夜のことを思い出した。
あいつも、あの場所へ帰ろうとしていた。
人が名前を持ち、誰かと会う約束を持つこと。
それは、思っていたよりずっと大切なのかもしれない。
「……雫さんも、待ち合わせしてみたいですか?」
俺が聞くと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「……私が?」
「誰かと、会う約束をして」
「……考えたことが、ありませんでした」
彼女は両手を胸の前で重ねる。
「雨が降ると、人は急いで屋根の下へ行きます。私は、いつもその反対へ歩いていくので」
「そうなんですね」
「同じ場所にいても、向かう先が違うのです」
俺は傘の外を見た。
何人もの学生が時計台の前を通り過ぎる。
その中に、傘を差し出して誰かを迎える人もいた。
雫さんは、その様子を熱心に見ていた。
「……あの人たちは、どうして一緒に笑っているのですか」
「友達なんじゃないかな」
「友達……」
「嬉しいことがあったのかもしれない」
雫さんは少し考えた。
「……友達は、同じものを見て笑う人ですか」
「それも一つだと思います」
俺は答えた。
「でも、違うものが見えても、話して分かり合えることもある」
雫さんが俺を見る。
「……今の私たちみたいに?」
予想していなかった問いだった。
「……そうかもしれません」
俺が答えると、彼女は目を伏せた。
「……それなら、少し嬉しいです」
雨音に紛れるほど小さな声だった。
◇
広場の端に、屋根のある休憩スペースがあった。
俺は少し歩き疲れ、そこで鞄を持ち直した。
「ここで少し休みます?」
雫さんは屋根を見上げた。
「……少しだけなら」
俺たちは、屋根の外側に近いベンチへ座った。
雨粒がすぐそばまで落ちてくる。
休憩スペースの向こうを、紙袋を持った学生が二人通り過ぎた。
焼きたてのパンらしく、袋の口から白い湯気が見える。
雫さんが、そっと目で追った。
「……あれは、何ですか」
「パンです。学内の売店で買ったんじゃないかな」
「……買う」
「お金を払って、食べ物を受け取るんです」
俺は自分の昼食を思い浮かべた。
「大学には食堂もありますよ。友達と一緒に昼飯を食べる学生も多いです」
雫さんは不思議そうに首を傾げる。
「……食べるために、誰かと待ち合わせるのですか」
「それもあります。食べながら、今日の授業の話をしたり」
「……楽しそうですね」
彼女は少し照れたように呟いた。
「食べ物の味は、雨とは違うのでしょうか」
「たぶん、かなり違います」
「……いつか、知ってみたいです」
俺はその言葉を覚えておこうと思った。
雨が降る日にだって、大学の楽しみを一つずつ知る方法はあるはずだ。
雫さんは雨の届く縁に手を置き、指先で水の流れを確かめていた。
「……ここなら、大丈夫です」
「よかった」
俺は濡れた傘を畳み、脇に置いた。
そのとき、鞄の中のノートが少し濡れていることに気づく。
「あ、しまった」
「……どうしました?」
「さっき、傘を開けるときに水が入ったみたいで」
ノートの端が湿っていた。
「授業のメモなのに……」
俺が困っていると、雫さんがノートを見つめた。
「……紙は、水が苦手なのですね」
「そうですね。濡れると文字が滲んだりします」
「……文字が、消える?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
彼女はノートではなく、俺の顔を見ていた。
「……雨が、消してしまうことがあるのですね」
「雨は悪くないですよ。俺が濡らしただけです」
雫さんは小さく首を振る。
「……私も、ときどき思います。雨は、残った足跡や文字を薄くしてしまうから」
彼女の指が、ベンチの端に落ちる雨粒を受け止める。
「誰かの書いたものを、消してしまっているのではないかと」
「……でも、雨があるから残るものもありますよね」
俺は考えながら言った。
「植物が育ったり、川に水が流れたり。今日だって、雨が降ってたから雫さんに会えた」
彼女が、ゆっくり顔を上げる。
「……会えた」
「はい」
「……私に?」
「そうです」
雫さんは何も言わなかった。
ただ、指先にあった雨粒が、しばらく小さな球の形を保っていた。
やがて、ぽとりと地面へ落ちる。
「……今の、雫さんが?」
俺が尋ねる。
彼女は少し困ったように頷いた。
「……驚くと、水がまとまってしまうことがあります」
「へえ。きれいですね」
雫さんの目が見開かれる。
「……怖くないですか」
「怖くないです。さっきも言ったでしょう」
「……そう、でしたね」
彼女の口元に、今度こそ小さな笑みが浮かんだ。
それは、雨雲の隙間から光が差したような、ほんの短い笑顔だった。
◇
「……大学では、何を学ぶのですか」
雫さんが聞いた。
「いろいろです。授業によって違いますけど、俺は文章を読んだり、考えたことを話したりする授業が多いかな」
「……話す」
「はい。先生の話を聞くだけじゃなくて、学生同士で意見を出すこともあります」
「……違う考えを、言ってもいいのですか」
「もちろん。むしろ、同じじゃないほうが面白いこともあります」
雫さんは驚いた顔をした。
「……みんなで、同じことを覚えるのではないのですね」
「覚えることもあります。でも、それだけじゃないです」
俺は少し考えた。
「俺もまだ一年生だから、分からないことばかりですけど」
「……分からなくても、入れるのですか」
「分からないことを学びに来る場所ですからね」
雫さんが、ゆっくり頷いた。
「……それなら、私にも学びたいことがあります」
「何ですか?」
彼女は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……晴れの日のこと」
俺は思わず笑ってしまった。
馬鹿にしたわけじゃない。
あまりにまっすぐな答えが、嬉しかったのだ。
「……変ですか?」
雫さんが不安そうに聞く。
「いいえ。すごくいいと思います」
俺は慌てて答えた。
「知らないことを知りたいって、ちゃんと大学生みたいです」
「……大学生」
彼女は、ゆっくりその言葉を繰り返す。
「……私も、そんなふうに見えますか」
「見えますよ」
彼女は少しだけ笑った。
そのとき、頭上の雨音が弱くなった。
空の一部が明るくなり、厚い雲の向こうに白い光が見える。
雫さんの指先が、ふっと薄くなった。
「……あ」
彼女は自分の手を見つめた。
「雨が……弱くなっています」
俺は空を見上げた。
「本当だ。もうすぐ止むのかな」
雫さんは立ち上がった。
その輪郭が、少しずつ透け始めている。
「……戻らないと」
「どこへ?」
「雨が、まだ降っている場所へ」
彼女は広場の向こうを見た。
木陰の下には、まだ細い雨が落ちている。
「……ここにいられないんですか」
「……いられます。でも、今の形を保つのが難しくなります」
彼女は少し困ったように笑った。
「……せっかく、お話しできたのに」
俺の胸が、少しだけ痛んだ。
「……また、会えますか」
聞いてから、少し慌てた。
出会ったばかりなのに、そんなことを言ってもいいのだろうか。
でも、雫さんは驚いたように俺を見つめたあと、小さく頷いた。
「……雨が降れば、きっと」
「そうですか」
「ただ、どこにいるかは……私にも分かりません」
「じゃあ、また見つけられたら声をかけます」
雫さんの口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「……はい」
彼女は一歩下がった。
屋根の外へ出ると、残った雨粒が彼女の髪をすり抜ける。
灰青色の輪郭が、薄い霧のように揺れた。
「……朔さん」
「はい」
「今日は、名前を呼んでくれて……ありがとうございました」
俺は頷いた。
「こちらこそ。話せてよかったです」
雫さんは、もう一度小さく笑った。
そして、雨の向こうへ歩いていった。
その姿は、木々のあいだに溶けるように見えなくなった。
◇
時計を見ると、講義まであと少しだった。
俺は急いで傘を畳み、教室へ向かった。
建物の入口に入ると、雨の音が遠くなる。
廊下の窓から見える外は、まだ薄い灰色だった。
俺はさっきまで歩いていた小道を振り返る。
もう、雫さんの姿は見えなかった。
代わりに、雨粒が葉の先から落ちている。
何でもない景色なのに、少し違って見えた。
「……真柴くん?」
教室の前で、相沢に呼び止められた。
「どうしたの、ぼーっとして」
「いや、ちょっと雨を見てた」
「雨? 珍しいな。俺なんて靴が濡れるのが嫌で仕方ないのに」
「今日は、雨も悪くないと思って」
相沢が首を傾げる。
「……何かいいことあった?」
「……少しだけ」
俺が答えると、彼はにやっと笑った。
「もしかして、また女の子?」
「何でそうなるんだ」
「真柴くん、最近そういう顔すること多いから」
「どんな顔だよ」
「うまく説明できないけど、ちょっと嬉しそうな顔」
俺は返事に困った。
相沢は笑いながら、教室へ入っていく。
俺も後を追った。
いつもの授業が始まる。
でも、ノートを開くと、さっき雫さんが言った言葉を思い出してしまった。
『分からなくても、入れるのですか』。
分からないことを学ぶ場所。
大学は、そんな場所だ。
だったら、雨の日にしか歩けない人にも、何か学べることがあるはずだ。
俺は窓の外を見た。
雨が、また少し強くなり始めている。
どこかで彼女も、同じ雨音を聞いているだろうか。
◇
夕方、アパートへ戻ると、こはくからメッセージが届いた。
『今日、雨すごかったね。濡れなかった?』。
俺は『大丈夫。傘使った』と返す。
少し考えてから、もう一文打った。
『今日は雨の中で、不思議な人と話した。まだ知り合ったばかりだけど』。
返事はすぐに来た。
『怪異の人? 危ないことはなかった?』。
こはくに心配をかけたくない。でも、隠したくもなかった。
俺は『危ないことはなかったよ。相手のことは、本人に聞いてから詳しく話したい』と返した。
少し間があって、こはくから『分かった。朔も気をつけてね。いつか紹介してもらえたら嬉しいな』と届く。
俺は『うん。ありがとう』と打った。
窓の外では、夕立のように雨が強くなっている。
昼間に見た灰青色の髪が、ふと頭に浮かんだ。
雨の下に立っていた女性。
誰にも見えていないと思いながら、大学の門を見つめていた人。
雨宮雫さん。
あの人が、晴れた日の空を知りたいと言ったときの声を、俺は覚えている。
見えるものが違っても、同じ道を歩ける。
傘の下に、二人分の場所を作ることだってできる。
そんな当たり前のことを、今日は初めて教えられた気がした。
雨音が、窓を静かに叩いている。
次にあの声を聞くのは、どんな雨の日だろう。
そう考えると、明日の天気が少しだけ楽しみになった。
――第十話 了
ここまで読んでくれてありがとうございました!
まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!
☆☆☆☆☆→★★★★★
評価して頂けると、ものすごく喜びます!




