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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第十一話 雨宿りの約束

 六月の大学では、天気予報を見る回数が増える。


 洗濯物を外に干せるか。


 講義棟まで傘が必要か。


 帰り道に寄りたい店まで、濡れずに歩けるか。


 みんながそんなことを話している中で、俺、真柴朔(ましばさく)には、もう一つ気になることがあった。


 ――今日は、雨宮雫(あまみやしずく)さんに会えるだろうか。


 雨の中で出会った、灰青色の髪の女性。


 周囲の人には見えない、雨の怪異。


 同じ傘に入って大学を歩いたとき、彼女は初めて見たものの名前を一つずつ確かめていた。


 時計台。


 大学の売店。


 友達という関係。


 俺にとっては何でもない言葉が、雫さんには新しい世界の入口だった。


 最後に彼女は、雨が降ればまた会えるかもしれないと言ってくれた。


 けれど、次にどこへ現れるのかは分からない。


 だからといって、毎日同じ場所で待ってもらう約束もしていない。


 俺は自分の都合だけで彼女を呼び出すつもりはなかった。


 ただ、雨が降ると、つい周りを探してしまう。


「……真柴くん、また空を見てる」


 基礎演習の教室で、相沢拓海(あいざわたくみ)が笑った。


「そんなに雨が気になる?」


「洗濯物がな」


「昨日、俺も取り込むの忘れたよ」


 相沢が鞄(かばん)を机に置く。


 その表情は、以前と変わらず明るかった。


 名前を奪われたことについては、まだ曖昧な部分があるらしい。


 けれど、教室へ来れば誰かが声をかけ、彼も自分の名前で返事をする。


 それが今は、何よりありがたかった。


「それで、今日の授業のあと時間ある?」


 相沢が尋ねる。


「どうした?」


「写真サークルの展示、見に行かない? 白瀬さんが教えてくれたんだ」


「灯里が?」


「うん。雨の日の写真が並ぶらしい」


 俺は少し考えた。


 雫さんは、人間の晴れた日を見たことがほとんどないと言っていた。


 なら、写真を通してなら、少しは見せられるのだろうか。


「……行こう」


 俺が答えると、相沢は嬉しそうに笑った。


「よし。今日は迷わないから任せて!」


「その宣言、あんまり信用できないんだけど」


「ひどい!」


 俺たちは笑いながら、講義の準備を始めた。


     ◇


 昼休み、写真サークルの展示スペースには、小さな額がいくつも並んでいた。


 白瀬灯里(しらせあかり)が撮った写真もある。


 数日前、灯里から展示に使ってもいいかと連絡があり、俺もこはくも了承していた。


 濡れた石畳。


 葉先に残った水滴。


 川沿いの橋の上で笑う、俺とこはく。


 現像された写真を見ると、あの日の湿った風まで思い出せる気がした。


「……これ、いいな」


 俺が言うと、灯里が隣で笑った。


「でしょ? 二人とも、亀を見てたときの顔だよ」


「亀、写ってないのに」


「撮りたかったのは、そっちじゃないから」


 灯里は少し得意げだった。


 展示を見に来た学生たちが、写真の前で立ち止まる。


 そのうち一人が、橋の写真を指して言った。


「この二人、付き合ってるの?」


 俺は思わず顔を上げる。


「えっ、いや……」


「ふふ。どうかな」


 灯里がいたずらっぽく笑った。


「白瀬さんまで!」


 相沢が楽しそうに笑っている。


 俺だけが少し居心地悪い。


 けれど、写真の中のこはくを見つめると、そんな気持ちも少し薄れた。


 彼女は俺のほうを見て笑っていた。


 昨日の夜、幼馴染という言葉の意味を真剣に考えた、その同じ人が。


「……朔くん」


 灯里が小声で呼んだ。


「何?」


「こはくちゃん、写真を見たら喜んでくれるかな」


「絶対に喜ぶ」


「よかった」


 灯里はほっとしたように笑う。


「あとでデータも送るね。展示の写真は、本人の了解を取ってから飾ってるから大丈夫」


「ありがとう」


 俺はもう一度、展示を見渡した。


 晴れたキャンパスを撮った写真もある。


 雲の少ない青空と、強い日差しの下で白く光る時計台。


 その写真の前で、俺は少し長く立ち止まった。


「……この写真、もらうことってできる?」


 灯里が首を傾げる。


「気に入ったの?」


「うん。ちょっと、見せたい人がいて」


「そうなんだ」


 灯里は何も追及せず、笑った。


「作者の先輩に聞いてみるね。展示期間が終わってからなら、プリントを分けてもらえるかも」


「助かる」


 晴れた日の写真を、雨の日にしか歩けない人へ。


 そんなことを考えるのは、少し不思議だった。


 でも、雫さんがあの空を見たら、どんな顔をするだろう。


 そう思うと、胸が少し弾んだ。


     ◇


 午後の講義が終わるころには、空がまた曇り始めていた。


 窓ガラスに、細い雨粒が一つ、二つとついていく。


 俺は傘を持ち、校舎を出た。


 雨はまだ弱い。


 けれど、大学の門へ続く小道には、あの日と同じ静けさがあった。


 木々の葉から雫が落ちる音。


 濡れた石畳に靴が触れる音。


 遠くで走る車の音。


 そこに、もう一つ、聞き覚えのある声が重なった。


「……朔さん?」


 振り向く。


 街路樹の下に、灰青色の髪が見えた。


「雫さん!」


 俺が声を上げると、彼女は驚いたように瞬きをした。


 そして、ゆっくり笑った。


「……また、見つけてくれたのですね」


「はい。会えてよかった」


 そう言うと、雫さんは少しだけ頬を赤くした。


「……私も、です」


 彼女は雨の届く場所に立っている。


 傘を持っていないのは、前と同じだ。


 でも、今日は最初から俺のほうを見ていた。


「……ここで待ってたんですか?」


 俺が尋ねる。


「……待っていた、というより」


 雫さんは少し言葉を探した。


「前に歩いた道を、もう一度見たくなりました」


 彼女は木の葉を見上げる。


「あのとき、ここで雨の音を聞いたので」


「覚えててくれたんですね」


「……はい」


 雫さんは小さく頷いた。


「朔さんが教えてくれたもの、できるだけ覚えていたいです」


 俺はその言葉に、少しだけ照れた。


「じゃあ、今日は別の場所も見に行きます?」


「……いいのですか」


「今日はもう授業がないので。雫さんが見たいところなら」


 彼女は少し考えた。


「……この前、話してくれた、食堂」


「食堂?」


「みなさんが、一緒に食べる場所……見てみたいです」


「分かりました。一般に見られる外側からなら案内できますよ」


 雫さんは嬉しそうに頷いた。


 俺は傘を開き、彼女へ差し出す。


 彼女はもう、初めてのときほど驚かなかった。


 ただ、そっと俺の隣へ入った。


「……相合い傘(あいあいがさ)、ですね」


「覚えてたんですね」


「……はい。名前が、かわいらしかったので」


 そう言って、ほんの少し笑った。


     ◇


 食堂の建物は、午後になると少し空いていた。


 ガラス越しに、遅い昼食をとる学生が見える。


 皿を持って席を探す人。


 友達と笑いながら飲み物を飲む人。


 一人で本を読みながら食べている人もいた。


 雫さんは、雨の届く外の通路から中を見つめていた。


「……みなさん、同じものを食べていないのですね」


「好きなものを選べますから」


「……選ぶ」


 彼女は、メニューの写真を見た。


「これと、これ。色が違います」


「こっちはカレーで、こっちはうどんです」


「……うどん」


「小麦粉で作った細長い麺です。温かい汁に入っていて」


 説明しながら、俺は少し可笑しくなった。


 普段何も考えずに食べているものを、こんなに真剣に説明したことはない。


 雫さんは一つずつ頷き、写真を見比べている。


「……食べることは、楽しいのですか」


「楽しいですよ。おいしいものを食べると元気が出るし」


 俺はガラスの向こうで笑う学生たちを見た。


「誰かと一緒なら、話す時間にもなります」


「……もし、私がここで一つ選べるなら」


 雫さんが小さく言った。


「……温かい、うどんにしてみたいです」


「どうしてうどん?」


「白い麺が、雨の線に少し似ています。だけど、温かいと聞いたので……不思議です」


 俺は思わず笑った。


「雨みたいで、でも温かい。確かに気になりますね」


 雫さんも、少し笑う。


「……食べられるかは、まだ分かりません。でも、選んでみるだけでも楽しいのですね」


「そうです。選ぶことから始めてもいいと思います」


 彼女はもう一度メニューを見て、今度は自分で指を動かした。


「……では、私はうどんが好き、かもしれません」


 その慎重な言い方が、雫さんらしかった。


 雫さんはふいに、手のひらへ落ちる雨を見た。


「……食べ物の味は分からないけれど、雨の味なら分かります」


「雨の味?」


「場所によって、少し違うのです。木のそばと、川のそばでも」


 俺は思わず感心した。


「じゃあ、雫さんは雨の味に詳しいんですね」


「……詳しい、でしょうか」


「俺よりずっと」


 雫さんは少しだけ胸を張った。


 その仕草がかわいらしくて、俺はつい笑ってしまう。


「……笑いましたね」


「ごめんなさい。嬉しそうだったから」


「……嬉しい、です」


 彼女は素直に認めた。


「私にも、知っていることがあるのだと思えたので」


 食堂を見学していたはずなのに、いつの間にか俺のほうが教えられていた。


 雨が木の葉に落ちる音も、地面を伝う速さも。


 人間には分からないことを、雫さんはたくさん知っている。


「……今度、雨のことをもっと教えてください」


 俺が言うと、彼女は目を見開いた。


「……私が、教えるのですか」


「はい。大学では、知らないことを教え合うのも勉強ですから」


 雫さんはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷く。


「……はい。私に分かることなら」


     ◇


 それから数日、雨が降るたびに、俺は少し遠回りをするようになった。


 必ず雫さんに会えるわけではない。


 小雨の日には、通学路の角を探しても姿が見えなかった。


 別の日には、川沿いの橋の下で、灰青色の髪が雨に揺れているのを見つけた。


 彼女は川面を見つめていて、俺に気づくと少しだけ笑った。


「……また、会えましたね」


「偶然、ですね」


「……はい。でも、嬉しい偶然です」


 俺も笑ってしまった。


 会えた日は、大学の話をした。


 講義で出された課題のこと。


 学生がなぜ急いで歩いているのか。


 サークルという集まりが、何をする場所なのか。


 雫さんは一つずつ聞き、思いがけないところで質問してきた。


「……提出が遅れると、どうなるのですか」


「授業によって違いますけど、困ることが多いです」


「……急ぐ理由が、あるのですね」


「そういうことです」


 彼女は真剣に頷く。


 その真面目さが、少し可笑しくもあり、嬉しくもあった。


 別の日には、俺が雨の音について教わった。


 大きな葉に落ちる雨は低い音。


 細い枝に当たる雨は高い音。


 風が強いと、雨は横へ流れて、音の向きまで変わる。


 雫さんは目を閉じてそれを聞き分ける。


「……今日は、川のほうから雨が来ています」


「そんなことまで分かるんですか」


「……はい。雨は、私にいろんなことを教えてくれるので」


 彼女は少しだけ微笑んだ。


 俺たちは、同じ景色を違う角度から見ていた。


 それが、少しずつ面白くなっていた。


     ◇


 ある日の昼休み、稲守(いなもり)こはくから電話があった。


「朔、今どこ?」


「大学の中庭。これから昼飯」


「そっか。今日は一緒に食べられるかなって思ったんだけど」


 俺は時計を見た。


「あと三十分くらいなら大丈夫。こはくは?」


「もう別学部の講義棟を出たところ」


「じゃあ、時計台前で待ち合わせようか」


「うん!」


 こはくの声が明るくなる。


 そのあと、少しだけ間があった。


「……朔、最近雨の日に寄り道してる?」


「ああ。前に話した不思議な人と、何度か会えて」


「……そうなんだ」


 こはくの声が、ほんの少し落ち着いたものになる。


「危ないこと、ない?」


「今のところは。無理に何か聞き出そうともしてないよ」


「うん。朔がそう言うなら、信じる」


 それから、いつもの明るさが戻った。


「でも、ちゃんとご飯食べてね。会いたい人が増えても、お昼抜いたら駄目だよ」


「分かってるって」


「本当?」


「今日は一緒に食べる約束をしただろ」


「……そうだった」


 こはくが笑った。


 電話が切れたあと、俺は少し考えた。


 こはくは、雫さんのことをまだ知らない。


 でも、俺が誰かと会っていることは知っている。


 隠しているわけではないけれど、出会ったばかりの相手のことを勝手に広めたくもなかった。


 だから、いつか雫さんが望んだら、ちゃんと紹介できるといい。


 そう思った。


     ◇


 週の終わり、雨は朝から強く降っていた。


 窓の外では街路樹が大きく揺れ、雨粒が斜めに落ちている。


 講義が終わるころになっても、空は暗いままだった。


 俺は傘を持ち、大学の門へ向かった。


 雨が強い日は、雫さんの姿がいつもよりはっきり見えることがある。


 けれど、今日も会えるとは限らない。


 会えなければ、そのまま帰ろう。


 そう思いながら歩いていると、門の外のバス停に見慣れた人影があった。


 灰青色の髪。


 雨の中でも濡れた重さを感じさせない、静かな姿。


「雫さん!」


 俺が声をかけると、彼女は振り向いた。


 そして、今までで一番はっきりと笑った。


「……朔さん」


 その声に、思わず足が速くなる。


「会えてよかった」


「……私も、です」


 雫さんは少し照れたように目を伏せた。


「今日は、ここに来れば会えるかもしれないと思って……」


「俺を待っててくれたんですか?」


「……はい」


 彼女は小さく頷いた。


「前に、時計台は待ち合わせ場所だと教えてくれました。でも、あそこは雨の届かない場所が多いので」


「それで、バス停?」


「……はい。ここなら、雨が降っていても人が来ます」


 俺は少し驚いた。


 雫さんは、自分で考えて、この場所を選んだのだ。


 ただ雨の中を漂っていた人が、誰かに会うために行き先を決めた。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


「……いい場所ですね」


 俺が言うと、雫さんはほっとしたように笑った。


「……よかった」


 バス停の屋根は小さく、雨が風に流されて端まで入り込んでいる。


 ほかの学生は、少し離れた場所でスマートフォンを見ていた。


 雫さんの存在には、誰も気づいていない。


 俺は傘を畳み、彼女の隣へ立った。


「……今日は、どこか行きたいところありますか」


 尋ねると、雫さんは少し考えた。


「……今日は、ここにいたいです」


「ここに?」


「はい。人が来て、どこかへ行く場所を、もう少し見ていたい」


 彼女は目の前を通るバスを見た。


「バスに乗る人は、行き先を決めているのでしょう」


「だいたいは、そうですね」


 雫さんは停留所(ていりゅうじょ)の案内板に目を向けた。


 そこには行き先と時刻が、細い文字で並んでいる。


「……あの数字は、雨の降る時間ではないのですね」


「バスが来る予定の時間です」


「……予定。まだ来ていないものの、時間が分かる」


 彼女は感心したように目を見開いた。


「遅れることもありますけどね。だから、早めに待ってる人もいるんです」


「……私は、雲を見て雨を待ちます。みなさんは、数字を見て人や乗り物を待つのですね」


 そう言って、彼女は小さく笑った。


「……どちらも、待つことなのに」


 俺は隣に座る彼女を見た。


 雨を待っていた人が、今日は俺を待っていてくれた。


 その違いが、少しずつ彼女の日常を変えているのかもしれない。


「……私は、雨がどこへ行くかは分かります。でも、人がどこへ行くのか、まだよく分からないのです」


 俺は頷いた。


 雨の音が、屋根を大きく叩いている。


 その音に包まれながら、俺たちはバス停の端へ座った。


     ◇


「……朔さんは、どうして大学へ来たのですか」


 雫さんが尋ねた。


 俺は少し考える。


「勉強したかったから、っていうのが一番近いかな。でも、それだけじゃないかもしれません」


「……ほかにも?」


「知らない人と会って、いろんな話をしてみたかったんです」


 雫さんは静かに頷いた。


「……それなら、もう叶っていますね」


「そうですね」


 俺は笑った。


「雫さんとも、こうして話してるし」


 彼女は驚いたように目を見開いた。


「……私も、数に入れてくれるのですか」


「もちろん」


「……人間ではないのに」


「それは、話す相手かどうかと関係ないでしょう」


 俺が言うと、雫さんはしばらく俺を見つめた。


 それから、胸の前で手を重ねる。


「……嬉しいです」


 彼女は雨へ視線を戻した。


「私は、雨が降るたびに、人の町を見ていました」


 初めて聞く話だった。


「みなさん、濡れない場所へ急ぎます。雨が止むと笑う人もいます」


「そうですね」


「……私は、その笑顔を遠くから見ることしかできませんでした」


 雫さんの声が、少しだけ小さくなる。


「私がいるあいだ、みなさんは雨から逃げていくので」


 俺は何も言えなかった。


 雨を嫌うことが悪いわけではない。


 濡れたくない日も、晴れてほしい日もある。


 ただ、彼女にとっては、それがずっと別れの合図だったのだ。


「……でも、朔さんは」


 雫さんが俺を見た。


「雨が降ると、私を探してくれました」


「……会いたかったから」


 俺は正直に答えた。


 彼女の頬に、淡い色が差す。


「……私も、会いたかったです」


 雨音が少し強くなる。


 その中で、彼女の声だけがはっきり聞こえた。


「朔さんに、晴れの日のことを教えてもらえるから……だけじゃありません」


「え?」


「……私の話を、聞いてくれるから」


 彼女は膝の上に手を置いた。


「雨の音の違いも、知らない食べ物のことも。……どれも、ちゃんと聞いてくれます」


 俺は少し照れた。


「雫さんの話、面白いですから」


「……それが、嬉しいのです」


 雫さんは静かに微笑んだ。


 俺たちはしばらく、何も言わずに雨を見ていた。


     ◇


 バスが一台、ゆっくり停まった。


 傘を畳んだ学生たちが乗り込んでいく。


 ドアが閉まり、バスが走り出す。


 屋根に残った雨粒が、車道へ落ちる。


「……みなさん、帰る場所があるのですね」


 雫さんがぽつりと言った。


「そうですね。家だったり、友達のところだったり」


「……私には、家という場所がありません」


 彼女は淡々と言った。


 悲しみを隠しているというより、事実を説明する声だった。


「雨が降るところに、私はいます。雲が流れれば、私も動きます」


「……ずっと、そうなんですか」


「はい。でも、それが嫌だと思ったことは、あまりありませんでした」


 雫さんは少し考える。


「……最近までは」


 俺は彼女を見た。


「最近?」


「朔さんに会ってから、同じ場所へ戻ってきたいと思うようになりました」


 その言葉に、胸が静かに跳ねた。


「……それなら、戻ってきていいんですよ」


「……いいのですか」


「もちろん。バス停は、誰かを待っていい場所です」


 雫さんは屋根の端を見上げた。


「……待って、来なかったら?」


「そのときは、また別の日に。毎回会えるとは限りませんけど、会いたいと思ってることは変わりません」


 俺は言葉を選んだ。


 簡単に約束して、守れなかったら彼女を傷つける。


 でも、曖昧なまま終わらせたくもなかった。


「……俺も授業や用事があるから、いつも来られるとは言えません。それでも、雨が降ったらまた会いに来ます」


 雫さんがこちらを向く。


「……本当に?」


「はい。会える日を、ちゃんと作りたいです」


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「……約束、ですね」


「約束です」


 俺は頷いた。


 彼女の口元に、ゆっくり笑みが広がる。


 その顔は、最初に会ったときとはまるで違っていた。


     ◇


 雨は、まだ強く降っていた。


 バス停の屋根から、細い水の筋が落ちている。


 俺は少しだけ座り直した。


 雫さんも、隣で姿勢を変える。


 そのとき、彼女の肩が俺の腕へ触れた。


「……あ」


 雫さんが小さく声を漏らす。


「すみません」


「大丈夫ですよ」


 俺は笑った。


 彼女は少し迷い、それから、ゆっくり顔を上げた。


「……あの、朔さん」


「はい」


「……少しだけ、ここに寄りかかってもいいですか」


 彼女が俺の肩を指した。


 思わず心臓が速くなる。


「……もちろん。疲れました?」


「……疲れた、のとは違うと思います」


 雫さんは少し考えた。


「ここに、人がいるのを確かめていたいだけです」


 その答えが、何だか胸に響いた。


 俺は肩を少し彼女のほうへ向ける。


 雫さんは、そっと頭を預けてきた。


 肩に触れた髪は、冷たい雨粒のように柔らかかった。


 でも、体温がないわけではない。


 そこに誰かがいると、はっきり分かる重みがあった。


 俺たちは、何も言わずに雨を見つめた。


 屋根を叩く音。


 車が水を跳ねる音。


 遠くで誰かが傘を畳む音。


 そのすべてが、ゆっくりと静かになっていく気がした。


「……朔さん」


 雫さんが、小さく囁(ささや)いた。


「……はい」


「もう少し雨が続いてほしい」


 あまりに小さな声だったから、最初は聞き間違いかと思った。


 でも、雫さんは俺の肩にもたれたまま、続けた。


「雨が止むと、こうして話せなくなるから」


 俺は、空を見上げた。


 厚い雲は、少しずつ薄くなり始めている。


「……そうですね」


 俺は答えた。


「俺も、もう少し話していたいです」


 雫さんの肩が、ほんの少し揺れた。


「……嬉しいです」


 彼女は顔を上げない。


 ただ、俺の肩に預ける重みが、少しだけ増えた。


 それが彼女なりの返事なのだと思った。


 雨は、まだ止まなかった。


 俺たちは、約束をしたばかりの時間を、もう少しだけ大切にしていた。


     ◇


 やがて、雲の向こうが明るくなり始めた。


 雨音が弱くなる。


 雫さんは、名残惜しそうに肩から離れた。


「……そろそろ、行かないと」


「雨のある場所へ?」


「……はい。まだ、少し降っているところがあります」


 彼女は立ち上がった。


 その輪郭が、少しずつ薄くなっている。


「……今日は、ありがとう」


「こちらこそ」


 俺も立ち上がる。


「次に雨が降ったら、またここを見に来ます」


「……はい。私も、来られる雨ならここへ」


 雫さんは、そっと手を差し出した。


 俺は少し驚き、それから握った。


 手のひらには、雨上がりの石のような、不思議な温かさがあった。


「……また、会いましょう」


 彼女が言う。


「また」


 俺が返すと、雫さんは小さく笑った。


 そのまま、まだ雨の残る街路樹の下へ歩いていく。


 灰青色の髪が、少しずつ雨に溶けていった。


 見えなくなるまで、俺はその後ろ姿を見送った。


     ◇


「……朔」


 突然、背後から声がした。


 振り返ると、稲守こはくが立っていた。


 傘を持ち、少し濡れた髪を肩へ流している。


「こはく。どうしたんだ?」


「帰り道で、朔の姿が見えたから」


 こはくは、雫さんが消えたほうを見た。


「……さっき、誰かといた?」


 俺は一瞬迷った。


 けれど、隠す必要はないと思った。


「ああ。前に話した、雨の中で会った人」


「……そうなんだ」


 こはくは静かに頷いた。


「姿は、はっきり見えなかった。でも、雨の気配が少し違ったから」


「分かるんだな」


「うん。狐だからね」


 彼女は少し笑った。


 でも、その笑顔にはわずかな迷いがあった。


「……朔、楽しそうだった」


 俺は驚いた。


「見てたのか?」


「ほんの少しだけ。声をかけるか迷ったけど、邪魔したくなかったから」


 こはくは傘の柄を持ち直す。


「あの人、朔にとって大切な人になりそう?」


 その問いは、責めるものではなかった。


 ただ、少しだけ寂しそうだった。


「……まだ、分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、話してると楽しいし、また会いたいと思ってる」


 こはくは小さく頷いた。


「そっか」


「こはく」


「ん?」


「俺、おまえに隠したいわけじゃない。でも、雫さんにも自分のことをどう話すか、選んでほしくて」


 彼女は少し目を見開いた。


「……名前、雫さんっていうんだ」


「あ、ごめん。名前だけ先に言っちゃった」


「ううん。大丈夫」


 こはくは小さく笑った。


「朔が、その人をちゃんと大事にしてるのは分かったよ」


「……ありがとう」


 彼女は少し考えてから、俺の袖をつまんだ。


「でも、朔。私のことも忘れないでね」


 胸が、少しだけ締めつけられた。


「忘れるわけないだろ」


「……うん。知ってる」


 こはくは笑った。


 その笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。


「じゃあ、今日は一緒に帰ろう?」


「もちろん」


 俺は頷いた。


 こはくが傘を差し直し、俺の隣へ並ぶ。


 雨は、もうほとんど止んでいた。


 それでも、俺たちは傘を閉じずに歩き始めた。


     ◇


 その夜、窓の外には薄い雲が残っていた。


 俺は机に向かい、今日の出来事をノートへ書き留めた。


 雨宮雫さん。


 雨の日にだけ、姿を保てる人。


 人間の大学生活を知りたくて、食堂のメニューを一つずつ見比べていた人。


 雨音の違いを、まるで音楽のように聞き分ける人。


 そして、今日、バス停で俺の肩にそっと寄りかかった人。


 書きながら、少し恥ずかしくなった。


 でも、忘れたくなかった。


 名前のない講義室で、俺は何かを忘れる怖さを知った。


 だからこそ、今のこの時間を残しておきたい。


 俺はノートを閉じ、窓を開けた。


 雨の匂いが、まだ少し残っている。


 空を見上げると、雲のあいだから星が一つだけ見えた。


 晴れた夜のことを、雫さんはどんなふうに想像するのだろう。


 いつか、言葉だけでも伝えられたらいい。


 そして、雨が降ったらまた会いに行こう。


 今日交わした約束を、忘れないために。


 ――第十一話 了


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