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怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

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第十二話 狐と雨と恋心

 雨が降るたび、会いたい人が増えた。


 そんなことを考えるようになるなんて、大学へ入ったばかりのころは思ってもいなかった。


 俺、真柴朔(ましばさく)には、幼いころからずっと隣にいる稲守(いなもり)こはくがいる。


 写真サークルで知り合い、怪異(かいい)事件を一緒に乗り越えた白瀬灯里(しらせあかり)もいる。


 それから、雨の日にだけ姿を見せる雨宮雫(あまみやしずく)さん。


 それぞれと過ごす時間は、どれも違っている。


 違うからこそ、大切だった。


 ただ、一つだけ困ったことがあった。


「……朔。そろそろ、ちゃんと紹介してほしいな」


 こはくが大学の中庭で言った。


 雨上がりのベンチには座らず、俺たちは軒下(のきした)で話していた。


「雫さんのこと?」


「うん。前に少しだけ気配を感じたけど、まだお話しできてないでしょ」


 こはくは不満そうというより、何かを気にしている表情だった。


「朔のことも心配だし……その人が、ちゃんと安心して過ごせてるかも気になる」


 俺は思わず彼女を見た。


「……こはく、優しいな」


「何、急に」


 こはくが少し赤くなる。


「そりゃあ、ちょっと気になるところもあるよ。でも、名前を忘れられる怖さを知ったあとだもん。誰にも見てもらえない人のこと、放っておけない」


 俺は頷いた。


 名前のない講義室。


 あそこに残された人たちのことは、今も調べ続けている。


 大学の施設管理からは、旧講義棟の通路に異常がないか確認中だと連絡が来たが、あの扉はまだ見つかっていない。


 写真に残った白い札の言葉も、答えが出ないままだ。


 それでも、今目の前にいる人を大切にすることまで、後回しにしたくはなかった。


「雫さんに聞いてみるよ。こはくと灯里に会いたいかどうか」


「灯里ちゃんも?」


「うん。あの人のこと、普通の人には見えないから難しいかもしれないけど」


「……大丈夫かもしれない」


 こはくは少し考え込んだ。


「私の火があれば、姿の境目を少しだけ照らせるかもしれない。前に旧講義棟でも、見えない扉を浮かべたでしょ」


「そんなこともできるのか?」


「できるかもしれない、だよ。勝手に試したら驚かせちゃうから、本人に聞いてからね」


 こはくは小さく笑った。


「……それに、灯里ちゃんにも、ちゃんと気持ちを聞こう」


「そうだな」


 俺が答えると、彼女はふっと息を吐いた。


「ああ、緊張するなあ」


「こはくでも緊張するんだ」


「するよ。朔が仲良くなった女の子に会うんだもん」


 そう言って、わざと頬を膨らませる。


「……女の子って決めつけなくても」


「違うの?」


「……女性の姿をしてる」


「ほら!」


 こはくが笑う。


 その笑顔を見て、俺も少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


 翌日の午後、雨が降り始めた。


 俺は講義を終え、いつものバス停へ向かった。


 雫さんが来られる雨かどうかは、行ってみないと分からない。


 それでも、雨の中を歩く足取りは軽かった。


 バス停には、傘を持った学生が数人いる。


 その少し外側。


 灰青色の髪が、雨粒と一緒に揺れていた。


「雫さん!」


 俺が声をかけると、彼女はゆっくり振り向いた。


「……朔さん」


 今日は、会えた瞬間から少し嬉しそうな顔をしている。


「待っててくれたんですか?」


「……はい。雨の中で、この場所を覚えていたので」


 彼女は少し照れたように微笑んだ。


「約束、でしたから」


「俺も、来られてよかった」


 俺は傘を開き、雫さんの隣へ入った。


 彼女はもう、相合い傘に驚かない。


 ただ、肩が触れそうになると、少しだけ視線を落とす。


「……今日は、お願いがあるんです」


 俺が言うと、彼女が目を上げた。


「……何でしょう」


「俺の大切な友達を、二人紹介したくて」


 雫さんの表情が、少し緊張したものになる。


「……私に?」


「はい。でも、嫌なら断ってください。人に見られるのも、初めてかもしれないし」


 雫さんは傘の外を見た。


 雨が歩道に小さな波紋を作っている。


「……その方たちは、私を見られるのですか」


「一人は怪異で、たぶん見えます。もう一人は人間ですけど、少しだけ見える方法があるかもしれなくて」


 彼女の瞳が揺れる。


「……怪異の方も、いるのですね」


「はい。俺の幼馴染です」


「……幼馴染」


 雫さんは前に話した言葉を思い出すように繰り返した。


「子どものころから、長く一緒にいる人……でしたね」


「覚えててくれたんですね」


「……はい。朔さんが話してくれた言葉なので」


 彼女は少し考えた。


「……会ってみたいです」


「本当に?」


「はい。朔さんの大切な方なら、どんな人なのか知りたいです」


 雫さんの声は静かだけれど、はっきりしていた。


「……ただ、私が見えるようになって、驚かせませんか」


「そこは、ちゃんと説明します」


 俺は頷いた。


「雫さんが嫌になったら、途中でもやめましょう」


「……はい」


 彼女は傘の中で、小さく笑った。


     ◇


 待ち合わせ場所は、大学の西側にある小さな庭園だった。


 屋根のある休憩スペースと、雨の届く石畳が近い。


 雫さんも、そこでなら姿を保ちやすいらしい。


 こはくと灯里には、前もって事情を伝えてあった。


 灯里は少し驚いたあとで、「会えるなら、ちゃんと話してみたい」と答えてくれた。


 こはくも「本人がいいなら」と頷いていた。


 俺たちが着くと、二人は屋根の下で待っていた。


「朔、こっち!」


 こはくが手を振る。


 その隣で、灯里が少し緊張した顔をしていた。


「……雫さんも、一緒?」


 灯里が尋ねる。


「うん。ここにいる」


 俺が答えると、灯里は慎重に周りを見た。


 けれど、彼女の視線は雫さんの輪郭を通り過ぎてしまう。


「……ごめん。私には、まだ見えないみたい」


「大丈夫。灯里ちゃん、無理しなくていいよ」


 こはくが優しく言った。


 雫さんは俺の後ろで、小さく息を呑んでいた。


 こはくは彼女のいる場所へ顔を向け、柔らかく笑う。


「……初めまして。稲守こはくです」


 雫さんが目を見開いた。


「……私が、見えるのですか」


「うん。全部はっきり、というわけじゃないけど。雨の中に、きれいな輪郭が見えるよ」


 こはくは小さく頷いた。


「私も、人間じゃないからね」


 彼女の髪のあいだから、狐耳(きつねみみ)が少しだけ現れた。


 雫さんは驚き、それから少し嬉しそうに笑った。


「……狐の方」


「そう。よろしくね、雫ちゃん」


「……よろしく、お願いします」


 こはくが俺をちらりと見た。


 その目には小さな緊張があったけれど、拒む色はなかった。


「……それでね、雫ちゃん。ここにいる灯里ちゃんにも、少しだけ姿を見せてみてもいい?」


 雫さんは灯里のほうを見た。


 灯里は何も見えない空間へ向かって、丁寧に頭を下げる。


「初めまして。白瀬灯里です。もし嫌だったら、見えなくても大丈夫。朔くんに通訳してもらうから」


 雫さんの表情が、少し柔らかくなった。


「……見てもらいたいです」


 こはくが頷く。


「分かった。じゃあ、少しだけ」


 彼女は掌(てのひら)を開いた。


 青い狐火(きつねび)が、熱のない小さな光になって浮かぶ。


「灯里ちゃん、火そのものじゃなくて、下の水たまりを見て」


 灯里が頷き、視線を落とす。


 狐火が水面へ近づくと、雨粒の中に細い光の筋が生まれた。


 光が輪を描き、そこに雫さんの姿が映り始める。


 灰青色の髪。


 紺色のワンピース。


 少しだけ不安そうな瞳。


「……あ」


 灯里が息を呑んだ。


「見える。水面の中に……本当に、人がいる」


 こはくは小さく笑った。


「境目を照らしてるだけだから、長くは続かないよ。でも、今なら声も少し届くはず」


 灯里が顔を上げる。


 その瞬間、水面の光を通すように、雫さんの輪郭が目の前にも薄く浮かんだ。


「……白瀬、灯里さん」


 雫さんの声が、雨音に混じって届く。


 灯里の目が大きくなる。


「うん。聞こえるよ。初めまして、雫さん」


 雫さんは少しだけ目を潤ませた。


「……私の声、聞こえるのですね」


「聞こえる。ちゃんと」


 灯里が笑う。


「会えて嬉しいです」


 雫さんは、しばらく言葉を出せなかった。


 それから、小さく頷いた。


「……私も、です」


 俺はその様子を見て、胸の奥が温かくなった。


 ずっと雨の中に一人でいた人が、今、二人の新しい知り合いと話している。


 その光景は、どんな不思議な力よりも嬉しかった。


     ◇


 四人で休憩スペースへ移動すると、灯里が鞄から小さな封筒を出した。


「雫さんに見せたいものがあるの」


 封筒から出てきたのは、一枚の写真だった。


 青空の下に立つ、大学の時計台。


 雨雲のない空と、石畳に落ちた濃い影。


 灯里が写真サークルの先輩に頼んで、分けてもらったプリントだ。


「これ……朔くんが、雫さんに見せたいって言ってたから」


 灯里が笑う。


 俺は少し照れた。


「ありがとう。頼んでくれたんだ」


「うん。作者の先輩も、誰かの役に立つならって」


 雫さんは写真をじっと見つめた。


 雨粒が触れないように、灯里は透明な袋に入れて渡している。


「……これは、同じ場所ですか」


 彼女が尋ねる。


「そうです。今は雨で灰色だけど、晴れるとこんなふうになるんです」


 俺が答える。


 雫さんは写真を少し傾けた。


「……空が、高い」


 前に俺が説明した言葉を、そのまま繰り返した。


「……本当に、高いのですね」


 灯里が嬉しそうに頷く。


「そう。晴れた日の光って、写真にすると輪郭がはっきり出るんだよ」


「……影も、こんなに濃い」


 雫さんは、写真の石畳へ指を近づけた。


「……私は、まだ、この光を歩いたことがありません」


 こはくが静かに答える。


「そうなんだね」


「……でも、こうして見せてもらえたのは、嬉しいです」


 雫さんが顔を上げた。


「ありがとうございます」


 灯里は少しだけ照れた。


「どういたしまして。また別の景色も見せたいな」


 こはくは二人の様子を見つめ、しばらく考えてから言った。


「……雫ちゃん。私も、少しだけ見せたいものがあるんだ」


 彼女は掌の狐火を、青から柔らかな金色へ変えた。


 小さな光が、雨粒の間に浮かぶ。


 夕暮れの陽だまりを閉じ込めたような色だった。


「……きれい」


 雫さんが呟(つぶや)く。


「これは太陽じゃないよ。狐火だから、温かさも違う」


 こはくは少し困ったように笑った。


「でも、晴れた日の光って、こんな色になることがあるんだ」


 雫さんは金色の光を見つめた。


 その瞳に、少しずつ表情が生まれる。


「……いつか、見てみたいです」


 こはくが頷く。


「うん。方法があるかは、まだ分からないけど。一緒に考えてみよう」


 雫さんは、驚いたように彼女を見た。


「……私のために?」


「だって、知りたいんでしょ?」


「……はい」


「じゃあ、知ろうよ。時間がかかっても」


 その言葉は、こはくらしかった。


 雫さんの口元に、ゆっくり笑みが広がる。


「……ありがとうございます、こはくさん」


 こはくは一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「こはくでいいよ。雫ちゃん」


「……では、こはく」


 少しぎこちなく名前を呼ぶ。


 こはくは頷いた。


 その光景に、灯里が優しく笑った。


     ◇


 小雨が続く中、俺たちは庭園の石畳をゆっくり歩いた。


 雫さんが傘を持たずに歩くと、雨粒が彼女の周りで小さく踊る。


 こはくは、その様子を興味深そうに見つめていた。


「……雨の精って、こういう感じなんだ」


「……精、ですか」


「うん。雨と一緒にいる怪異のこと、私の家ではそう呼ぶこともあるよ」


 雫さんが少し考える。


「……私は、雨と一緒にいるもの。だから、間違いではないと思います」


 こはくは頷いた。


「でも、呼び方が嫌だったら言ってね」


「……大丈夫です。名前も、ちゃんとありますから」


「そうだね。雫ちゃん」


 こはくが笑う。


 灯里は少し離れた位置で、フィルムカメラを持ち上げた。


「……ねえ、雫さん。写真を撮ってもいい?」


 雫さんが振り返る。


「……私の?」


「うん。今の光が続くあいだに、撮ってみたい。写るかは現像しないと分からないし、誰かに見せる前には必ず相談する」


 雫さんは少しだけ迷った。


 それから、俺とこはくを見た。


「……私が、写真に残るのですか」


「残るかもしれない」


 灯里が慎重に答える。


「でも、写らなくても、あなたがここにいたことは忘れないよ」


 雫さんは、しばらく灯里を見つめていた。


「……お願いします」


 その声は、はっきりしていた。


 灯里が頷き、カメラを構える。


 こはくは小さな狐火を水たまりのそばへ移した。


 雫さんの輪郭が、雨粒の中に柔らかく浮かぶ。


「……そこに立ってもらってもいい?」


 灯里が尋ねる。


 雫さんが頷き、石畳の端へ立った。


 俺はその隣に並ぶ。


「……朔さんも、入るのですか」


「嫌だったら離れますけど」


「……いいえ。一緒が、いいです」


 その言葉に、俺は少し照れた。


 こはくが口元を隠す。


「……朔、人気者だね」


「からかうなよ」


 灯里が笑った。


「二人とも、そのまま。……撮るよ」


 かしゃん。


 いつもの乾いた音が、雨の庭園に響く。


 雫さんは、その音を聞いて小さく笑った。


「……写真の音、ですね」


「そう。覚えててくれた?」


 灯里が嬉しそうに聞く。


「……はい。今日の音も、覚えておきます」


 俺はその言葉に、胸が少し温かくなった。


 名前を失う怖さを知ったあとで、写真の音は以前より大切に聞こえる。


 誰かがここにいたことを、確かめるための音だから。


     ◇


 庭園を一回りしたころ、こはくが俺の腕をそっと取った。


「朔、ちょっと休憩しよう?」


「ああ。火も使ってるし、無理するなよ」


「うん。大丈夫」


 俺たちは、屋根の下のベンチへ戻った。


 灯里はメモ帳に撮影時刻と場所を記録している。


 雫さんはその様子を不思議そうに見ていた。


「……何を書いているのですか」


「いつ、どこで撮ったか。あとで写真を見返したときに、分かるようにね」


「……忘れないために」


「うん」


 灯里は頷いた。


「写真だけじゃ、分からないこともあるから」


 雫さんは少し考えた。


「……私も、覚えておきたいことが増えました」


「例えば?」


 灯里が聞く。


「今日、三人の名前を知ったこと」


 雫さんは、俺、こはく、灯里へ順番に視線を向ける。


「……朔さん、こはく、灯里さん」


 名前を呼ばれると、不思議と背筋が伸びた。


 こはくは少しだけ目を細める。


「……ねえ、雫ちゃん」


「……はい」


「朔とは、いつもこうやって会ってるの?」


 雫さんが首を傾げる。


「……雨の日に、会えるときだけです」


「相合い傘も?」


「……はい。朔さんが、入れてくれました」


 こはくが、ふっと息を吐いた。


「……そっか」


 俺は何だか落ち着かなくなった。


 灯里が、こちらを見てにこにこしている。


「何で笑ってるんだ?」


「ううん。朔くんらしいなって」


「どういう意味だよ」


「困ってる人を見ると、すぐに手を差し出すところ」


 灯里は少しだけ真面目な顔になった。


「でも、誰にでも同じじゃないんだろうな、とも思う」


 俺が返事に迷っていると、雫さんが突然聞いた。


「……朔さんと、こはくは、恋人ですか?」


 時間が、一瞬止まった気がした。


「違う」


「違わない」


 俺とこはくの声が、ぴったり重なった。


 灯里が目を丸くする。


 次の瞬間、吹き出した。


「ふふっ……二人とも、同時に!」


 こはくは、自分が何を言ったのか気づいたらしい。


 耳まで赤くなって、俺の袖をぎゅっとつかむ。


「ち、違うの! 違わないっていうのは、その……!」


「こはく、落ち着け」


「朔も、そんなにすぐ『違う』って言わなくても……!」


「いや、今は付き合ってないだろ?」


「そうなんだけど!」


 こはくが真っ赤になる。


 雫さんは、俺たちを交互に見た。


「……違うのに、違わないのですか」


 その素直な質問に、灯里がまた笑ってしまう。


「……雫さん、それはね」


 灯里は息を整えた。


「人の気持ちは、まだ名前が決まってないこともあるの」


「……名前が」


「うん。付き合ってるとは言えないけど、ただの友達とも言い切れない、とか」


 雫さんは少し考えた。


「……なるほど。まだ、学んでいる途中なのですね」


「そういうこと!」


 こはくが勢いよく頷く。


「……こはく、今のは認めたってことでいいのか?」


「朔!」


 彼女が俺の腕を軽く叩く。


 灯里の笑い声が、雨音に混じって響いた。


 雫さんも、少し遅れて小さく笑った。


 その笑顔を見て、俺もつられて笑ってしまった。


 何てことのない会話なのに、胸が温かかった。


 こはくはまだ赤い顔のまま、ぽつりと言った。


「……私、朔の幼馴染なのは変わらない。でも、それだけで終わりたいわけじゃないから」


 俺は思わず彼女を見た。


 こはくの瞳は、もう逃げていなかった。


「……うん」


 俺は頷いた。


「その話、ちゃんと覚えてる」


 こはくは少しだけ照れたように笑う。


 灯里は何も言わず、穏やかに見守っていた。


 雫さんは、二人のやり取りを大切そうに見つめている。


 今は、それでよかった。


     ◇


 雨が弱くなり始めると、雫さんの輪郭が少し薄くなった。


 こはくの狐火も、静かに揺れている。


「……そろそろ、戻らないと」


 雫さんが言った。


「雨のある場所へ?」


 俺が尋ねると、彼女は頷く。


「……はい。でも、今日は寂しくありません」


「どうして?」


 灯里が優しく聞く。


「……また、会いたい人が増えたので」


 雫さんは、こはくと灯里を見た。


「……こはく、灯里さん。今日、会えて嬉しかったです」


 こはくが笑う。


「私も。今度はもっとお話ししようね」


「うん。写真も、現像できたら見せるね」


 灯里が言う。


 雫さんは目を輝かせた。


「……はい。楽しみにしています」


 俺は傘を持ち上げた。


「また雨の日に、バス停へ行きます」


「……私も、行ける雨なら」


 雫さんが頷いた。


 こはくが、その様子を少し不思議そうに見つめる。


「……雨の日だけの待ち合わせって、何だか素敵だね」


「……はい」


 雫さんは小さく笑った。


 その姿が、雨粒の向こうへ少しずつ溶けていく。


 俺たちは三人で、彼女を見送った。


 灯里が静かに言った。


「……本当に、会えてよかった」


「うん」


 こはくも頷く。


「朔が、会わせてくれてよかった」


 俺は何だか照れくさくなった。


「二人が、会いたいって言ってくれたからだよ」


 灯里が笑う。


「また、三人でも四人でも写真撮ろうね」


「……また人数が増えてる」


 俺が言うと、こはくが口元を隠して笑った。


「朔の大学生活、どんどん賑やかになるね」


 俺は空を見上げた。


 雲の切れ間から、薄い光が差し始めている。


 その下で、さっきまで一緒にいた人の名前を、俺はもう一度心の中で呼んだ。


     ◇


 夕方、灯里と別れてから、こはくが少しだけ真面目な顔になった。


「……朔。今日、神社へ寄ってもいい?」


「あの石碑のところ?」


「うん。最近、ちょっと気になってるの」


 俺は頷いた。


「行こう。俺も、確認したいことがある」


 灯里には、明日また大学で話そうと連絡した。


 雫さんは、雨の薄くなった空へ帰っていった。


 今夜は、俺とこはくの二人で行くことにした。


 夕凪市の小さな神社は、大学から少し離れた住宅街の奥にある。


 雨上がりの石段は湿っていて、足元の苔(こけ)が濃い緑色に見えた。


 境内(けいだい)には人の気配がない。


 鳥居(とりい)の向こうから、風に揺れる葉の音だけが聞こえる。


「……こはく」


「うん」


 彼女は、いつもの人間の姿を少しほどいた。


 狐耳が髪のあいだから現れ、尻尾(しっぽ)が静かに揺れる。


 俺たちは、奥にある古い石碑(せきひ)の前へ立った。


 大学へ入ったころ、ここから文字が一つ消えていることに気づいた。


 それ以来、こはくの家に残る古い記録や、大学の資料を調べてきた。


 石には、人と怪異のあいだに交わされた約束の言葉が刻まれているはずだった。


 だが、今見ても、文章の一部は空白のままだ。


「……前より、薄くなってないか?」


 俺が尋ねると、こはくは石碑へ近づいた。


「……うん。文字の周りまで、削れたみたい」


 彼女は慎重に手を伸ばし、空白の近くで止めた。


「私の家では、昔、この町に人と怪異の約束があったって教えられたの」


「境界の約束、だよな」


「うん。お互いを全部理解できなくても、存在を認め合うっていう……そんな約束」


 こはくは少しだけ目を伏せる。


「でも、その言葉をちゃんと覚えてる人が、どんどん少なくなってる」


「……石碑の文字まで消えてる」


「そう」


 俺は、名前のない講義室を思い出した。


 白い名札。


 自分の名前を忘れた学生たち。


 『名は、いずれすべて喰われる』という文字。


 あれも、この町の約束が弱くなっていることと関係しているのだろうか。


「……こはくは、何か知ってるんだろ?」


 俺が聞くと、彼女は少し迷った。


「全部じゃないよ」


 その声は正直だった。


「私も、家の古い記録を読んで、分からないことが増えたくらい。隠してたこともあるけど……もう、一人で抱えたくない」


 俺は頷いた。


「じゃあ、一緒に調べよう」


 こはくが俺を見る。


「……朔」


「灯里もいる。雫さんも、きっと自分にできることを考えてくれる」


 俺は石碑を見た。


「俺たち、前より仲間が増えたんだから」


 こはくの目が、少し潤んだ。


「……うん」


 彼女は小さく頷いた。


 そのときだった。


 石碑の表面が、かすかに光った。


「……え?」


 俺は目を凝らす。


 空白の隣に残っていた文字が、ゆっくりと薄くなっていく。


 雨に濡れた墨が、水へ溶け出すように。


 こはくが息を呑んだ。


「……また、消える」


 俺は手を伸ばしかけた。


 けれど、触れる前に文字は消えてしまった。


 石には、新しい空白が一つ増えていた。


 その瞬間、境内の空気が冷たくなる。


 風が止まった。


 虫の声も、葉の音も消える。


 こはくの狐耳が、ぴんと立った。


「……朔、下がって」


 彼女が俺の前へ出る。


 石碑の向こう、暗い木立の奥から声がした。


『稲守の狐よ。次はお前の番かもしれぬ』


 低い声だった。


 男とも女とも分からない。


 遠くから聞こえるのに、耳元で囁(ささや)かれたようにも感じる。


 こはくの顔から、血の気が引いた。


「……誰」


 彼女が声を震わせる。


「誰が、そこにいるの」


 返事はなかった。


 ただ、木立の奥で、白い紙のようなものが一瞬だけ揺れた。


 俺は、あの講義室の名札を思い出す。


 だが、今の声が同じ怪異のものなのかは、分からない。


 こはくが小さな狐火を浮かべる。


 青い光が境内を照らした。


 木立には何もいない。


 石碑の前にも、俺たち以外の影はなかった。


「……こはく」


 俺は彼女の肩へ手を置いた。


 その肩が、小さく震えていた。


「大丈夫か」


「……うん。大丈夫、って言いたいけど」


 こはくは笑おうとして、うまく笑えなかった。


「ちょっと、怖い」


 俺は頷いた。


「俺も怖い」


 声が震えていることに、自分でも気づいた。


 怖い。


 目の前で、また文字が消えた。


 今度は、こはくの名前まで奪われるかもしれないと言われた。


 そんなことを、平気な顔で受け止められるわけがない。


 でも、逃げ出したい気持ちより強いものがあった。


 俺は、こはくの手を取った。


「……前に、約束しただろ」


 こはくが顔を上げる。


「もし消えても、絶対に見つけるって」


「……うん」


 彼女の目が揺れた。


「今でも、同じだよ」


 俺は続けた。


「もし俺が忘れかけても、灯里の写真がある。相沢の記憶もある。雫さんだって、雨の音で何かを覚えているかもしれない」


 こはくは、俺の手を握り返した。


「……みんなで、探せるんだね」


「ああ」


 俺は頷いた。


「一人じゃない」


 こはくの目から、小さな涙が一粒落ちた。


 彼女はすぐに拭い、少し照れたように笑った。


「……朔、そういうところ、ずるい」


「またそれか」


「うん。何度でも言うよ」


 こはくは笑った。


 その笑顔は、まだ少し震えていたけれど、確かにそこにあった。


     ◇


 帰り道、雨はもう止んでいた。


 神社の石段を下りると、街灯の明かりが濡れた道を照らしている。


 俺はこはくの手を離さず、ゆっくり歩いた。


 こはくも、何も言わずに隣を歩く。


 大学へ入ってから、たくさんのことがあった。


 一人暮らしを始めたこと。


 こはくと同じ大学へ通うようになったこと。


 灯里と出会い、写真を撮ったこと。


 相沢の名前が消え、また戻ってきたこと。


 そして、雨の中で雫さんと出会ったこと。


 どれも、俺の新しい生活の一部だ。


 恋人と呼べる相手がいるわけではない。


 でも、大切にしたい人は増えた。


 その気持ちを、急いで一つの名前に押し込めるつもりはなかった。


 ただ、いつか、ちゃんと答えを出したい。


 こはくの気持ちにも、灯里の笑顔にも、雫さんの小さな願いにも、向き合えるように。


 街の向こうで、大学の時計台が静かに時を刻んでいる。


 夜空には、雲の切れ間から星が見えた。


 明日は晴れるかもしれない。


 それでも、次に雨が降る日を、俺はきっと楽しみにするだろう。


 呼びたい名前が、そこにあるから。


 そして、呼ばれたい名前も、きっとあるから。


 俺はこはくの手を、もう一度強く握った。


 彼女が隣で、小さく笑った。


 ――第一巻 完


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