番外編 妖狐と写真少女の内緒話
写真には、写らないものがある。
香りとか、温度とか、耳に残った声とか。
それから、写っている本人さえまだ名前をつけられない気持ち。
私は、机に並べた一枚の写真を見つめていた。
雨上がりの遊歩道。欄干の向こうには濡れた川面が光っていて、画面の真ん中で二人が笑っている。
一人は真柴朔くん。
もう一人は、稲守こはくちゃん。
朔くんは少し困ったような顔をしながら、目尻だけを柔らかく下げている。こはくちゃんはそんな彼を見上げて、花が開いたみたいに笑っていた。
私がシャッターを切ったことにも、たぶん二人は気づいていた。
それでも、カメラのための笑顔ではなかった。
「……いい写真」
自分で言うのは、ちょっと恥ずかしい。
でも、本当にそう思った。
祖父から譲り受けたフィルムカメラで撮影したものを、現像して、読み取って、確認用の小さなプリントにする。デジタルの画面で見るときとは違い、紙に乗った光には、何かをそっと手元へ置いてくれる感じがある。
ただし、その光が残してくれるのは、楽しい記憶だけじゃない。
以前、私たちは一人の学生を忘れかけた。
相沢拓海くん。
教室からも、名簿からも、私たちの記憶からも、彼の名前が抜け落ちそうになった。
そのとき写真は、消えてしまったものの形を残してくれた。
恐ろしいことだった。
それなのに、今こうして机に向かうと、私はまた写真を好きだと思ってしまう。
怖いからこそ、残したいのかもしれない。
私は小さく息を吐き、スマートフォンを手に取った。
今日、この写真を本人に見せようと思う。
朔くんではなく、こはくちゃんに。
写真の使い道を相談する、というのは本当の理由。
もう一つの理由は、まだ誰にも話していない。
◇
午後の写真サークルの部室は、いつもより静かだった。
机の上には、確認用のプリントと、透明な袋に入ったネガフィルム。窓際には撮影会の案内が貼られ、古い棚には三脚が何本も立てかけられている。
私はプリントの順番を整えたり、ペンの向きを直したりして、落ち着かない自分をごまかした。
約束の時刻より五分早く、扉が控えめに叩かれた。
「灯里ちゃん、いる?」
「いるよ。どうぞ」
顔を出したこはくちゃんは、明るい色の薄手の上着を着ていた。雨の多い季節なのに、髪はきれいにまとまっている。
狐の耳も尻尾も、当然ながら見えない。
大学の中で彼女は、誰が見ても、ごく普通の可愛い一年生だ。
……私はもう、普通という言葉を以前ほど簡単には使えないけれど。
「ごめんね、急に呼んじゃって」
「ううん。写真、できたんでしょ? 楽しみにしてた」
彼女が差し出した袋には、小さな包みが二つ入っていた。
「これ、差し入れ。学食の近くで焼き菓子売ってたから」
「えっ、ありがとう。二つ?」
「灯里ちゃんと私の分」
「朔くんの分は?」
「……今日は呼んでないんでしょ?」
「呼んでないよ」
「なら二つで正解」
いたずらが成功した子どものような顔で、こはくちゃんは笑った。
私もつられて笑う。
そう。今日は二人だけだ。
朔くんを間に挟まないで話したいことがあった。
「まずは写真を見て。展示に使えそうなものを選んでるの」
「わあ……!」
机の上に並べた写真へ、こはくちゃんが身を乗り出す。
濡れた木の葉。
水たまりの中の逆さまの空。
橋の下で見つけた亀。
川沿いの道を歩く私たち三人の足元。
撮影会の日、ずいぶん長く歩いた。雨を心配していたのに、歩いている間は案外、空が持ちこたえてくれたのだ。
「これ、亀だ」
「覚えてる?」
「もちろん。朔が真剣に『動いた』って言って、みんなで覗き込んだやつ」
「あの亀、最初から動いてなかったよね」
「ふふ。朔、最後まで自信ありそうだった」
こはくちゃんは指先を写真の上へ近づけ、触れる直前で止めた。
大切なものに触るときの仕草だと思った。
「この日のこと、全部覚えてるつもりだった。でも、こうやって見ると、忘れてたところもあるんだね」
「例えば?」
「あの木の葉が、こんなに赤かったこと」
「光のせいで、ちょっと赤く見えるんだと思う」
「それでも、きれい」
嬉しかった。
撮る人間にとって、褒めてもらえるのはもちろん嬉しい。
でも、被写体を呼んだ人が、そこに写った景色そのものを楽しんでくれることは、もっと嬉しい。
「灯里ちゃんは、こういうのを探しながら歩いてるの?」
「探してるときもあるよ。でも、本当にいい瞬間って、たいてい探してないときに来るんだ」
「へえ」
「だから、カメラを持ってると、気になるものが増える。見逃したくなくて」
「……そっか」
こはくちゃんは何か考えるように頷いて、それから一枚を持ち上げた。
橋の上の写真。
朔くんと、こはくちゃんが笑っている写真だ。
彼女の指が、写真の中の朔くんの肩のあたりをなぞる。
「これ、好き」
「私も」
「朔、こんな顔してたんだ」
「いつもしてる気がするけど?」
「私といるときは、もうちょっと力が抜けてることが多いかな。これは……何か、すごく楽しそう」
その言葉に、ほんの少しだけ胸がつつかれた。
こはくちゃんは、朔くんの表情の違いを知っている。
私は、写真に写った顔から想像するしかないことまで。
もちろん、それは当然だ。
二人は幼い頃から一緒にいる。
私が知り合ったのは、大学に入ってからだ。
「展示に使ってもいいか、確認したくて」
私は努めて普通の声で尋ねた。
「もちろん、嫌なら使わない。朔くんにも別に聞くつもり」
「……ちょっと考えてもいい?」
「うん。急がないよ」
即答しなかったことが、少し意外だった。
けれど私は、理由を聞かずに次の写真を見せた。
写真の中の笑顔には、写っている人の事情がある。
きれいだからといって、何でも人前に出していいわけではない。
祖父が最初に教えてくれたのは、カメラの使い方より先に、そのことだった。
◇
ひととおり写真を見終えたころ、廊下から足音がした。
サークルの先輩が扉を開け、忘れていた機材を一つ持っていった。
「あ、展示の準備? ありがとう。鍵は最後にお願いね」
「分かりました」
先輩が去り、足音が遠くなる。
部室にはまた、二人の呼吸と、窓を打つ小さな雨音だけが残った。
「……灯里ちゃん」
「なあに?」
「さっきの写真、みんなに見てもらいたい気持ちはあるんだよ」
「うん」
「でも、ちょっと照れる」
こはくちゃんは写真を裏返し、表情を隠すみたいに指で押さえた。
「知らない人に、『仲がいいね』って言われるのは嬉しいと思う。でも、その先に、きっと『付き合ってるの?』って聞く人もいるでしょ」
「……いると思う」
「そのとき、どう答えたらいいのか、まだ分からなくて」
私は黙って頷いた。
私たちが知り合った最初の日にも、同じ話をした。
恋人なのかと聞いたとき、朔くんは違うと答えて、こはくちゃんは不満そうな顔をした。
そのころは、可愛い反応だと思っていた。
今は、あの一言の向こうにある長い時間を、少し想像できる。
「朔くんとは、この前、少し話せた?」
私が聞くと、こはくちゃんは耳まで赤くなった。
「……なんで分かるの」
「なんとなく。撮影会のあとから、二人の雰囲気がちょっと変わったから」
「灯里ちゃん、見すぎだよ」
「写真を撮るのが好きだからね」
そう答えると、こはくちゃんはしばらく笑ってから、小さく頷いた。
「話したよ。幼馴染って、いつまで幼馴染なんだろうって」
「……うん」
「朔は、ちゃんと考えるって言ってくれた。私のこと、大事だからって」
なんだか、胸の奥が温かくなる。
同時に、少しだけ痛む。
どちらの感情も本当だった。
「よかったね」
私は心からそう言った。
こはくちゃんの顔が、やわらかくほどける。
「うん。嬉しかった」
「じゃあ、もう心配ない?」
「……それが、そうでもないんだ」
彼女は困ったように笑った。
「待つのが嫌なんじゃないよ。朔が真面目に考えてくれるのも嬉しい。でも、私が待ってる間にも、朔には新しい友達が増えるでしょ」
「そうだね」
「私の知らない顔で笑うようになる。私の知らないことを、誰かに先に話すこともある。そういうのが、嬉しいのに、ちょっと寂しいの」
それは、写真の裏に隠された小さな本音だった。
「……こはくちゃん、私に話してくれていいの?」
「どうして?」
「だって、私も、その『新しい友達』の一人だから」
「そうだよ」
こはくちゃんは、ためらわずに言った。
「だから話したかったの」
予想していなかった答えだった。
「灯里ちゃんが悪いことなんて、何もないから。私が勝手に、まだ上手に整理できてないだけ」
私はつい、視線を落とした。
机の上に置かれたネガフィルムが、蛍光灯の下で鈍く光る。
「……私、朔くんのこと、好きだよ」
言葉が口を出た瞬間、自分でも驚いた。
人間として、友達として。
そう説明することもできた。
でも、今日はそれだけで済ませたくなかった。
「一緒に話してると楽しいし、困ってる人を見過ごせないところも、ちょっと不器用なところも、いいなって思う。……たぶん、友達だからっていうだけじゃない」
こはくちゃんが顔を上げた。
驚いている。傷ついてもいるかもしれない。
それでも私は、言ったことを取り消さなかった。
「ごめん。黙ってたほうがよかったかな」
「……ううん」
しばらくして、彼女は首を振った。
「黙ってたら、きっともっと怖かった」
「怖い?」
「いつか灯里ちゃんの気持ちを知ったときに、今まで一緒に笑ってた時間まで嘘だったみたいに思っちゃうかもしれない。そうなるほうが、嫌」
声は静かだった。
怒っていないわけじゃないかもしれない。
ただ、自分の気持ちを投げつけないように、丁寧に言葉を選んでいるのが伝わった。
私は、それが嬉しかった。
「私ね、こはくちゃんと友達になれてよかったと思ってる」
「……私もだよ」
「だから、朔くんを好きな気持ちがあっても、こはくちゃんと一緒にいる時間を大事にしたい」
「うん」
「都合がいいかな」
こはくちゃんはしばらく真面目に考えて、ふっと笑った。
「……少しだけ。でも、私も同じだもん」
それから、こちらをまっすぐ見た。
「灯里ちゃんが朔を好きなのは、ちょっと悔しい」
「正直だね」
「うん。灯里ちゃんには、正直でいたいから」
私は笑った。
怖かった気持ちが、嘘みたいに消えたわけじゃない。
でも、その怖さを隠さずに話せたことが、胸の中に小さな灯りをつけた。
「……ねえ。私たち、今、すごく変な話してない?」
「してるね」
「好きな男の子が同じかもしれないのに、こんなに普通にお茶できる?」
「普通かどうかは分からないけど……」
こはくちゃんは私が置いた焼き菓子を指さした。
「これ、食べながら話してもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、もう少し話せそう」
その言い方があまりに可愛くて、私は声を上げて笑ってしまった。
◇
焼き菓子は、外側がさくっとして、中に少しだけ柑橘の香りがした。
紙コップのお茶を淹れ、机の端にプリントを寄せる。
「こはくちゃんって、ずっと朔くんと一緒だったんだよね」
「うん。小さいころから」
「昔の朔くんって、どんな子だった?」
「今とあんまり変わらないよ。誰も気づかないものを見つけるのが上手で、困ってるとすぐ近づいちゃう」
「それ、分かる」
「でもね、泣き虫だったときもあるんだ」
「えっ、聞きたい」
「……教えちゃおうかな」
こはくちゃんの目が楽しそうに細くなる。
彼女は昔の夏祭りの話をしてくれた。
夕暮れの境内で、朔くんが小さな怪異を見つけたこと。
その子が帰る場所を探していると知り、一緒に探したこと。
みんなには何も見えなかったから、朔くん一人が迷子を心配して泣きそうになっていたこと。
「最後は見つかったの?」
「うん。石段の下に、ちゃんと迎えが来てた。朔はそれを見て、自分が迷子だったみたいに安心してた」
「……らしいなあ」
私は思わず呟いた。
「私、そのとき初めて思ったんだ。朔の見てる世界は、寂しいこともあるけど、きっと誰かを一人にしない世界なんだろうなって」
こはくちゃんが遠くを見る。
その視線は、今の部室ではなく、ずっと前の小さな背中を見つめているようだった。
私は急に、その思い出を写真に撮れないことが惜しくなった。
けれど、撮れないからこそ、こはくちゃんの言葉には特別な重さがある。
「……私も、一ついい?」
「なあに?」
「名簿の事件のあと、朔くんが相沢くんの名前を何度も呼んでたときのこと、覚えてる?」
「うん」
「怖かったんだと思う。自分まで忘れそうになったら、どうしようって。でも、朔くんが呼ぶたびに、私も覚えていようって思えた」
私はプリントの端をそろえる。
「私の写真って、証拠にはなるかもしれない。でも、写真を見て『この人がいた』って言ってくれる人がいなければ、ただの紙なんだよね」
「……そうかもしれないね」
「だから、あのときの朔くんの声が、ずっと耳に残ってる」
それは、私が彼を好きになった理由の一つだった。
強いからじゃない。
彼はきっと、怖がりだ。
それでも、怖いまま、目の前にいる人の名前を呼び続けられる。
こはくちゃんは静かに聞いていた。
「……灯里ちゃんって、すごいね」
「どうして?」
「ちゃんと朔のことを見てる」
その言い方には、皮肉がなかった。
だから私は、少し照れた。
「写真を撮ってるからって、全部分かるわけじゃないよ」
「うん。分からないことがあるって、知ってる人のほうが、ちゃんと見られるのかも」
私は返事を探した。
見つからなかったので、代わりに笑った。
そのとき、こはくちゃんが急に真顔になった。
「ねえ、灯里ちゃん」
「なに?」
「あのときのこと、たまに怖くならない?」
あのとき。
説明されなくても分かった。
「……なるよ」
私は素直に答えた。
「部室に写真がいっぱいあるのに、全部、何かのきっかけで違うものになったらどうしようって。私だけが覚えてて、誰にも信じてもらえなかったらどうしようって」
「うん」
「でも、今は一人じゃないから」
こはくちゃんが顔を上げる。
「写真だけじゃなくて、こはくちゃんも、朔くんもいる。三人で確かめられる。……それだけでも、前とは違うよ」
「……そうだね」
こはくちゃんは何度か頷いた。
「私もさ、朔がいなくなったらって考えると、今でも怖い」
「うん」
「でも、あの部屋にいたとき、灯里ちゃんが自分から『私も調べたい』って言ってくれたでしょ。あれ、すごく心強かった」
「怖かったよ、私も」
「知ってる。それでも来てくれたから」
彼女は照れたように笑った。
「……だから、朔のこと抜きにしても、灯里ちゃんが好きだよ」
一瞬、息が止まった。
好き。
同じ言葉なのに、先ほど私が使ったものとは違う温かさがあった。
「それ、私も」
「ほんと?」
「ほんと。今日はそれを言いたかったのかも」
こはくちゃんは、やっと安心したみたいに笑った。
◇
雨はいつの間にか弱くなっていた。
私は一度、部室の窓を開けた。
湿った風が入ってくる。
中庭の端で、紫色の花が少し俯いていた。
「外、出てみない?」
「写真?」
「ううん。息抜き。ずっと部屋にいたから」
展示用の写真はきれいに袋へ戻した。
部室の鍵を閉め、二人で廊下を歩く。
授業の合間の時間で、人通りはまばらだった。
屋根のある渡り廊下から中庭を見ると、雨粒の残った葉が、灰色の空の光を返している。
「こういう日、私けっこう好き」
私が言うと、こはくちゃんは空を見上げた。
「雨の日?」
「雨上がりの、匂いが残ってる時間」
「ああ。土の匂いがする」
彼女が小さく鼻を動かす。
人間の耳にしか見えないはずの私でも、ふと、隠された狐の耳が動くところを想像してしまう。
「……ねえ、こはくちゃん。写真を撮ってもいい?」
「私の?」
「うん。今度は朔くんと一緒じゃなくて、こはくちゃん一人」
こはくちゃんが驚いた。
「私だけ?」
「そう。今日のこはくちゃんを撮りたい」
彼女は少し考えてから、小さく頷いた。
「……いいよ。でも、ちょっと緊張する」
「じゃあ、一枚だけ。嫌なら消す……じゃない、フィルムだから、展示には使わずにしまっておく」
「ふふ。灯里ちゃん、そこは言い直すんだ」
「大事だから」
鞄からカメラを取り出す。
今日は予備のフィルムを入れたままにしていた。
ファインダーの向こうで、こはくちゃんは戸惑った顔をしている。
「どこを見たらいい?」
「私でも、花でも、好きなところ。無理に笑わなくていいよ」
「そっか」
彼女の視線が中庭の奥へ向く。
葉先から落ちる一滴の水。
その行方を追ったあと、こはくちゃんがこちらを見た。
「灯里ちゃん」
「うん?」
「今日、来てよかった」
私はシャッターを押した。
かすかな音が、雨上がりの廊下へ落ちる。
きっと、いい写真になった。
まだ現像していないのに、そう思えた。
こはくちゃんは首を傾げた。
「今、撮った?」
「撮ったよ」
「そんな顔してた?」
「とてもいい顔」
「恥ずかしいなあ」
「出来上がったら、最初に見せるね」
「……うん。楽しみにしてる」
その笑顔には、朔くんの姿が映っていなかった。
少なくとも、目の前にはいなかった。
だからこそ、私はこの一枚を大事にしたいと思った。
◇
中庭を一周して戻る途中、こはくちゃんが急に立ち止まった。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「灯里ちゃんの写真って、あんまりないんじゃない?」
「……まあね。撮るほうだから」
「ずるい」
「ずるい?」
「私たちの顔ばっかり見て、自分の顔は見せてくれないんだもん」
言い返そうとして、やめた。
たしかに、カメラを持っていると、写る側からは一歩引いたところにいられる。
楽しい輪の外にいるわけじゃない。
でも、レンズを挟むと、誰かを見つめるのは得意でも、自分を見つめられることには慣れない。
「……あんまり写真写り、よくないんだよ」
「それ、私もさっき思ってた」
「こはくちゃんは、すごくよく写ると思う」
「灯里ちゃんだって、私が撮ったらそうかもしれないよ」
彼女がスマートフォンを取り出した。
「ねえ、撮っていい?」
さっきと同じ聞き方。
私は少しだけ迷って、頷いた。
「……いいよ。でも変な顔してたら見せてね」
「もちろん」
こはくちゃんが画面を覗き込み、片目を細める。
その姿があまりに真剣で、私は吹き出してしまった。
「ちょっと、どうして笑うの」
「こはくちゃんが、私より写真家っぽい顔してるから」
「むう。ちゃんと撮ろうとしてるのに」
彼女が唇を尖らせる。
私はさらに笑ってしまった。
その瞬間、電子音がした。
「……撮った!」
「今の?」
「今のがよかったの」
こはくちゃんが画面を見せてくれる。
そこには、少し肩をすくめ、目を細めて笑う私がいた。
髪は風で乱れているし、姿勢もよくない。
でも、思っていたよりずっと楽しそうだった。
「……私、こんな顔するんだね」
「するよ。今日、何回も」
その言葉が、妙に嬉しかった。
私は、自分の顔を見られていた。
写真を撮ることに夢中で、気づいていなかっただけで。
「送ってもいい?」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、私にも一枚、二人で写った写真がほしいな」
「二人で?」
「そう。朔抜きの写真」
彼女はわざと威張った顔をした。
「せっかく友達なんだし、記念に」
胸の奥が、ふわりと軽くなる。
「……いいね、それ」
私たちは屋根の下で肩を並べた。
こはくちゃんがスマートフォンを構え、画面の中へ二人の顔を収める。
「もっと近づいていい?」
「もちろん」
肩が触れた。
こはくちゃんの髪から、柑橘とは違う、ほのかな甘い香りがした。
「いくよ。せーの」
画面の中の私たちは、少し照れくさいくらい、楽しそうに笑っていた。
「……これ、朔くんに見せる?」
私が聞くと、こはくちゃんは少し考えた。
「後でね」
「後で?」
「今日だけは、私たちの秘密にしよう」
その言葉に私は目を丸くし、やがて笑った。
「賛成」
◇
部室へ戻り、写真の最終候補をもう一度並べた。
雨上がりの木々。
川の小さな波。
そして、橋の上で笑う朔くんとこはくちゃん。
「この写真、展示してもらってもいいよ」
こはくちゃんが言った。
「本当に?」
「うん。朔がよければ、だけど」
「もちろん、本人に聞く」
「……見た人に、恋人みたいって思われるかもしれないけど」
彼女はそこで少し笑った。
「それは、それでいいかな。今の私たちを、ちゃんと残しておきたい」
私は写真を持ち上げた。
あの日の二人は、まだ何者でもない。
幼馴染で、同じ大学の学生で、お互いをとても大切にしている。
そこから先の名前は、まだ決まっていない。
「……こはくちゃん、約束しない?」
「何を?」
「朔くんがまた危ないことを一人で抱えようとしたら、二人で止める。どっちか一人が無理してるときも、ちゃんと言う」
「それ、いいね」
「それから……朔くんのこと以外でも、遊びに行く」
こはくちゃんは目を丸くした。
「写真を撮りに?」
「それもいいし、お菓子を食べに行くのでも」
「……いいの?」
「もちろん。今日みたいに」
少し間があった。
それから彼女が、ゆっくり手を差し出した。
「じゃあ、約束」
私はその手を握った。
人間の女の子の手に見える。
けれど、そこには確かに、私とは違う不思議な温かさがあった。
誰かを好きになることは、きっと一人分の気持ちでは済まない。
嬉しい日も、悔しい日もあるだろう。
そのたび、今日の約束を思い出せたらいい。
「……ねえ、灯里ちゃん。私からも一つ」
「なあに?」
「遠慮しすぎないでね」
握った手が、少し強くなる。
「私が昔から朔の隣にいるからって、灯里ちゃんが自分の気持ちをなかったことにするのは、嫌だよ」
私はすぐに答えられなかった。
それは、とても優しい言葉で、とても勇気のいる言葉だったから。
「……ありがとう。こはくちゃんも、私に遠慮しないでね」
「うん。それは得意かも」
「自分で言うんだ」
「ふふ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
今度は、誰もシャッターを切らなかった。
◇
夕方、部室を出る前に、私は朔くんへ連絡した。
橋の上の写真を添え、展示に使っていいか尋ねる。
返事はすぐに来た。
『二人がよければ大丈夫。きれいに撮れてるな』。
私は『こはくちゃんにも確認したよ』と返す。
少し待って、もう一つ通知が届いた。
『こはく、今日も灯里と一緒だったの?』。
思わず笑ってしまった。
私たちが二人で会うことは、そんなに意外なのだろうか。
隣のこはくちゃんに画面を見せると、彼女は得意げに胸を張った。
「今日のこと、教えないでね」
「秘密なんだっけ」
「そう。女の子同士の秘密」
私は『うん。二人で展示の相談をしてた』とだけ返信した。
嘘ではない。
ただ、全部ではない。
こはくちゃんが私の横から画面を覗き、満足そうに頷いた。
やがて、朔くんから『ありがとう。こはくにもよろしく』と届く。
私はそれを見て、少しだけ考えた。
いつか彼に、この日の話をすることがあるだろうか。
自分の気持ちを話したことも、こはくちゃんがまっすぐ答えてくれたことも。
今は、まだ言わなくていい。
大切にしまっておきたい言葉もある。
「灯里ちゃん、帰ろう?」
「うん」
部室の電気を消す。
机の上には、次の展示で誰かに見てもらう写真たち。
鞄の中には、まだ現像していない一枚。
スマートフォンには、こはくちゃんと二人で撮った写真。
それぞれに違う時間が閉じ込められている。
階段を下りながら、こはくちゃんが言った。
「ねえ、今度、私にも写真の撮り方教えて」
「いいよ。カメラ、何を使う?」
「最初はスマートフォンで。朔の変な顔を上手に撮りたい」
「それ、本人に許可を取ってね」
「分かってるよ。たぶん」
「たぶんは駄目」
二人で笑った。
窓の外では、雲の切れ間から薄い夕日が差していた。
その色を見て、私はカメラへ手を伸ばしかける。
けれど、やめた。
今日は撮らなくてもいい。
隣を歩く友達の笑い声を、ちゃんと自分の耳で覚えておきたい。
写真には、写らないものがある。
でも、写らないからといって、残らないわけじゃない。
明日、この日のことを思い出したら、きっと私は笑う。
朔くんを好きな自分も。
こはくちゃんを大事に思う自分も。
どちらも、なかったことにしないでいられる気がした。
それが私たちの、最初の内緒話だった。
ここまで読んでくれてありがとうございました!
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