↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪異が見える俺と、恋する彼女たち  作者: 天音シオン
第一巻 妖狐の幼馴染と、名簿から消えた学生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/14

番外編 雨の少女が見つけた宝物

 雨には、たくさんの声があります。


 葉に触れる雨は、少し高い声。


 土へ落ちる雨は、丸くて静かな声。


 屋根を叩く雨は、誰かが急いで扉を叩いているような声。


 私には、それぞれが違って聞こえます。


 人間の人たちは、たいてい全部まとめて「雨の音」と呼びます。


 それが寂しいと思ったことは、ありませんでした。


 私も、ひとまとめに呼ばれることに慣れていたから。


 雨の日に現れる、名前のない気配。


 傘の外側を通り過ぎる、誰にも気づかれない影。


 それが私の世界でした。


 ……いいえ。


 世界だと思っていたもの、でした。


 今の私には、名前があります。


 雨宮雫。


 名前そのものは、ずっと前から持っていたはずです。


 けれど、その名前を自分以外の声で呼ばれることが、こんなにも不思議だとは知りませんでした。


「雫さん」


 目を閉じると、今でも思い出せます。


 雨のバス停で、私を見つけてくれた青年の声。


 真柴朔(ましばさく)さん。


 彼は、私を見て驚きました。


 でも、怖がって逃げたり、見えなかったことにしたりしませんでした。


 普通に挨拶をして、私に傘を差し出しました。


 私には傘が必要ないのに。


 それが、嬉しかったのです。


     ◇


 朔さんと初めて出会う前、私はいつも雨の中を歩いていました。


 同じ道を、何度も。


 大学の時計台の前。


 通学路の坂道。


 古いバス停の小さな屋根。


 雨が降るたび、人間の人たちが違う顔で通り過ぎていきました。


 誰かと一緒に傘へ入る人。


 傘を忘れて走っていく人。


 空を見上げて、困った顔をする人。


 みんな、それぞれの行き先を持っていました。


 私には、行き先がありませんでした。


 雨が降っているところなら歩けます。


 雨粒が途切れると、足元が曖昧(あいまい)になって、身体も薄くなっていきます。


 晴れた空の下では、人間のように自由に歩けません。


 だから私は、雨が続く場所を選んで移動していました。


 特に目的もなく、降っては消える音を聞きながら。


 時々、子どもが水たまりを踏んで遊んでいるのを見つけると、少し近くへ寄りました。


 子どもたちは笑います。


 でも、私に笑いかけているのではありません。


 私が手を振っても、気づいてはくれません。


 いつの間にか、私は手を振ることをやめていました。


 名前を呼んでもらえないのが、当たり前。


 誰かを待つことがないのも、当たり前。


 それなら、寂しいと感じる理由もないはずでした。


 ……けれど。


 雨の止んだバス停で、誰かの傘の先が遠ざかるのを見ていると、ときどき胸の奥に、小さな空洞ができました。


 その場所を、どう呼べばいいのか分からなかったのです。


 朔さんは、私に言いました。


『また雨の日に会えたら、話しましょう』。


 そして、本当にまた会ってくれました。


 雨が降るたび、探してくれました。


 私は初めて、雨の日を待つようになりました。


 雨はいつだって私の一部だったのに。


 それまでと、少し違う雨になったのです。


     ◇


 その日、午後から降り始めた雨は、静かでやさしいものでした。


 強くもなく、弱すぎもしない。


 木の葉の先から、少しずつ水が落ちるくらい。


 私は大学の裏手にあるバス停で、傘の行き交う道を見つめていました。


 以前、朔さんと並んで座った場所です。


 あの日、私は、もう少し雨が続いてほしいと願いました。


 自分でも驚くほど、小さな願いでした。


 雨が止めば、彼と一緒にいられなくなる。


 そう思うことが、これほど寂しいなんて。


 ただ、雨を無理に呼び止めたいわけではありません。


 雨が強すぎれば、転ぶ人もいます。


 家に帰れなくなる人もいます。


 そういうことを、私はずっと見てきました。


 だから、雨が降っている今だけを大切にしようと決めました。


 今日も朔さんと会えるとは限りません。


 約束の時刻も、決めていませんでした。


 それなのに、胸の奥が落ち着きません。


 葉の上に落ちる雨粒を数えて、私は自分の気持ちを静かにしようとしました。


 一粒。


 二粒。


 三粒。


「……雫さん?」


 四粒目を数える前に、聞き慣れた声がしました。


 振り向くと、朔さんが立っていました。


 紺色(こんいろ)の傘を持って、肩に鞄(かばん)をかけています。


 少し急いで来たのか、前髪に細かな水滴がついていました。


「こんにちは」


「こんにちは、朔さん」


 私は返事をしました。


 それだけで、胸の奥の落ち着かないものが、別の温かさに変わります。


「よかった。今日はここにいるかなと思って」


「……私も、朔さんが来るかもしれないと思っていました」


「じゃあ、当たりだ」


 彼は笑いました。


 私はその言葉を、心の中で繰り返します。


 当たり。


 見つけられたことが、良いことになる言葉。


「……当たり、です」


 口にすると、朔さんはまた笑いました。


「今日は、このあと時間ある?」


「時間……」


 私には、人間の授業や仕事のような予定がありません。


 雨が続く間は、どこへでも歩ける。


 でも、朔さんは違います。


 彼の一日には、始まりと終わりがあって、行くべき場所があります。


「朔さんは、授業が終わったのですか?」


「うん。今日は早めに終わった。少し散歩しない?」


「……私と?」


「もちろん」


 私は、とても大事なことを確かめた気持ちになりました。


 彼は、誰かのついでに私を見つけたのではありません。


 雨の中を歩く相手として、私を選んでくれたのです。


「……行きたいです」


「よかった。行きたい場所、ある?」


「私が……決めてもいいのですか?」


「二人で歩くんだから、雫さんの行きたいところがいいよ」


 私は少し考えました。


 これまで、行き先というものを持たずに歩いてきました。


 急に尋ねられると、何を選んでいいか分かりません。


「……雨の音が、違う場所」


「違う場所?」


「同じ雨でも、落ちるところによって音が違います。朔さんに、聞いてほしいです」


 そう言ってから、不安になりました。


 人間の人には、つまらないことかもしれません。


 でも、朔さんは目を輝かせました。


「いいね。案内してもらってもいい?」


「……はい」


 私の行き先が、初めて一つ決まりました。


     ◇


 朔さんは傘を開き、私のほうへ少し傾けました。


「あの……私は、濡れても大丈夫です」


「知ってる。でも、一緒に歩くならこっちのほうが話しやすいかなって」


 彼は自分の言葉を考えるように、少し首を傾げます。


「嫌だったら、別々に歩こう」


「……嫌では、ありません」


 私は傘の下へ入りました。


 雨が肩に触れなくなると、少しだけ世界が遠くなります。


 私の身体は雨とつながっているけれど、傘の下に入っただけですぐ消えるわけではありません。


 周囲には雨が降り続いていて、足元には水が光っています。


 何より、朔さんが隣にいます。


 同じ傘に入ると、彼の足音が近くで聞こえました。


 規則正しい、靴底が地面に触れる音。


 私は雨の音ならたくさん知っています。


 でも、人間の足音をこんなに大切に聞くのは、初めてでした。


「まずは、どこ?」


「……あちらの、木がたくさんあるところです」


 私は小さな並木道を指さしました。


 朔さんが頷いて、歩き出します。


 木の下は雨が少し弱く見えます。


 けれど、音はむしろ複雑になります。


 大きな葉が雨粒を受けて、重くなった雫を落とす。


 小さな葉では、水が何度も跳ねてから地面へ届く。


 枝から幹へ伝わる水は、低く、長い音を作ります。


「……耳を、澄ませてください」


 朔さんが足を止めました。


 しばらく、私たちは何も話しません。


 遠くの車の音。


 風に揺れる葉。


 そして、雨。


「……あ」


 朔さんが小さく声を上げました。


「上の葉っぱから落ちる音と、下の葉っぱに当たる音、違うんだな」


「……分かりますか?」


「うん。今まで、こんなにちゃんと聞いてなかった」


 私は思わず、彼を見つめました。


 私の言葉が、届いたのです。


 雨の音を聞かせたつもりが、私は何かをもらった気持ちになりました。


「雫さんには、いつもこう聞こえてるんだね」


「……はい。毎日、少しずつ違います」


「すごいなあ」


 その一言が、不思議でした。


 雨を聞き分けることは、私にとって呼吸するのと同じくらい自然です。


 褒められるようなことだと思っていませんでした。


「……朔さんには、当たり前ではないのですね」


「そうだよ。教えてもらわなきゃ、気づけなかった」


 私はまた、一つ覚えました。


 当たり前だと思っていたものが、誰かにとって新しい発見になること。


 それを分け合うと、嬉しくなること。


     ◇


 並木道を抜けると、雨除けの軒先(のきさき)が続く商店街へ出ました。


 人通りが多く、私は足を止めます。朔さんには私の声が聞こえますが、ほかの人には、私が見えません。


「……ここでは、黙っていたほうがいいですか?」


「そんなことないよ。気になるなら、静かな道へ行こう」


 朔さんは私の返事を待ってくれました。


「……静かなところを、歩きたいです」


「分かった」


 商店街の裏には、古い石塀と小さな水路がありました。


 雨水が石を伝い、細く流れています。


「ここ、どう?」


「……好きです」


 そう言ってから、私は驚きました。


 今まで、雨の中を歩ければそれで十分でした。けれど今日は、自分で道を選び、好きだと思うことができます。


「俺も、ここ落ち着くな」


 同じ場所を、二人で好きだと思える。そんな小さなことが、嬉しかったのです。


     ◇


 水路の先に、小さな屋根のある休憩所がありました。


 ベンチと、古い自動販売機が一つ。


 朔さんが足を止めます。


「ちょっと休もうか。飲み物、いる?」


「……飲み物」


「この前はうどんを食べたけど、温かい飲み物はどう?」


 私は自動販売機の光るボタンを眺めました。


 そこには、たくさんの色と名前が並んでいます。


 お茶。


 コーヒー。


 甘いミルク。


「……どれが、雨に似ていますか?」


 朔さんが笑いました。


「難しい質問だな。味でいうと、どれだろう」


 彼はしばらく真面目に考えています。


 その姿がおかしくて、私は口元を隠しました。


「……答えが、なくてもいいです」


「じゃあ、雫さんがまだ飲んだことないものにしようか」


「……はい」


 朔さんが、温かいココアを二本買いました。


 すぐに私へ手渡すのではなく、人目の少ないベンチの端へ置いてくれます。


 私はそこから缶を受け取りました。


 指先に、熱が伝わってきます。


 雨の中にいる私には、不思議な温度です。


「熱くない?」


「……大丈夫です。温かいです」


 私は缶を両手で包みました。


 雨の日なのに、手のひらの中だけ小さな晴れがあるようでした。


「それ、甘いから。苦手だったら無理しなくていいよ」


「……甘い」


 一口飲んで、私は目を見開きました。


 舌の上に、優しい甘さが広がります。


 以前食べたうどんは、湯気と一緒に身体を温めてくれました。


 これは、それとは違います。


 胸の内側が、少しゆっくりになる感じがしました。


「……雨では、ありませんね」


「そうだね」


「でも、好きです」


「よかった」


 朔さんが安心したように笑う。


 私はその表情を見ると、またココアが甘く感じました。


 彼が自分の缶を開けるのを眺めながら、少し気になったことを尋ねます。


「……朔さん。人間の人は、誰かと歩くとき、よく飲み物を買いますか?」


「買うこともあるかな。喉(のど)が渇いたり、少し休みたくなったり」


「……今日は、朔さんも喉が渇いていましたか?」


「それもあるけど、一緒に何か飲めたらいいなと思った」


「一緒に……」


「うん。一人で飲むのとは、また違うから」


 私は缶を見下ろしました。


 たしかに、ココアの味は私一人でも感じられたでしょう。


 けれど、どれを選ぶか迷ったこと。


 朔さんが真剣に雨の味を考えてくれたこと。


 温かいかどうか、心配してくれたこと。


 そのすべてがあって、今日のココアは特別になっています。


「……分かる気が、します」


 私はそう答えました。


 今度の「好き」は、何のことなのか、自分でも少し分からなくなりました。


     ◇


 休憩所の屋根には、薄い金属板が使われていました。


 雨粒が触れると、細かく弾むような音がします。


「……ここは、さっきの木と音が違います」


「本当だ。少し硬い音がする」


「……金属は、雨の音を遠くまで運びます。葉は、近くで聞くほうがきれいです」


「面白いなあ。雨の音だけで、どこにいるか分かったりする?」


「……大体なら」


 私は少し考えてから、目を閉じました。


 近くの水路。


 向こうの石塀。


 休憩所の金属の屋根。


 ベンチの背もたれに落ちる、小さな跳ね返り。


 音が、場所の形を教えてくれます。


「……朔さん。試してみますか?」


「何を?」


「目を閉じて、私が指す音を探してみてください」


「分かった」


 彼は素直に目を閉じました。


 私は少し緊張しました。


 誰かに教えるということを、ほとんどしたことがありません。


 うまく伝わらなかったら、どうすればいいのでしょう。


 でも、朔さんは私の言葉を待ってくれました。


「……一番遠くで、細く続いている音は?」


「……車?」


「……違います」


「違ったか」


「水路の、水です」


「ああ、そっちか」


 彼は目を閉じたまま、少し笑いました。


「難しいけど、分かってくると楽しいね」


「……次は、もう少し近い音です」


「うん」


「少し、丸い音」


「丸い音……?」


「……ぽつ、ぽつ、という」


 私は指先で空中に小さな円を描きました。


 朔さんはしばらく黙ってから、指を差しました。


「あの石の上かな」


「……正解です」


「やった」


 たったそれだけのことでした。


 けれど、その瞬間、私は心から嬉しくなりました。


 雨の中でずっと一人で聞いていた音を、今は二人で聞いています。


 自分しか知らないと思っていた世界に、小さな窓が開いたようでした。


「……もう一つ、いいですか?」


「もちろん」


「……今、一番近い音」


 朔さんが耳を澄ませる。


 私は、彼の隣に座ったまま、息を止めていました。


「……缶?」


「……違います」


「じゃあ、何だろう」


「……朔さんの、声です」


 彼が目を開けました。


 私は自分で言ったことが急に恥ずかしくなり、缶を握り直しました。


「雨の音じゃないじゃないか」


「……はい。ごめんなさい」


「いや、なるほど」


 朔さんは笑いました。


「一本取られた」


 その言葉の意味が分からず、私は首を傾げます。


 彼が教えてくれると、私も小さく笑ってしまいました。


 その笑い声は、雨の音に紛れて消えていきます。


 でも、朔さんには届いていました。


     ◇


 休憩しているうちに、雨が少し弱くなりました。


 空の色が薄くなり、屋根を叩く音がまばらになります。


 私は手元の缶を見つめました。


 温かさが、少しずつ逃げていきます。


 雨も、同じです。


 どれほど大切に聞いていても、いつか止みます。


「……雫さん?」


 朔さんが顔を覗(のぞ)き込みました。


「少し、薄くなってる?」


 私は自分の手を見ます。


 指先の輪郭(りんかく)が、向こうの景色と重なり始めていました。


「……雨が、弱くなったので」


「大丈夫? どこか、雨の残ってるところへ移動する?」


 彼はすぐに立ち上がろうとしました。


 私は慌てて、首を振りました。


「……大丈夫です。急がなくても」


「でも」


「……朔さんが、濡れてしまいます」


 彼は少しだけ困った顔をしました。


「雫さんのことが心配なんだ」


 私は、その言葉を受け止めるまで時間がかかりました。


 心配。


 自分以外の誰かが、私のことを。


 雨が止むのは、私にとって当たり前のことです。


 姿が薄くなるのも、いつものこと。


 だから、誰かに心配してもらう理由はないと思っていました。


「……ありがとうございます」


 私は小さく頭を下げました。


「でも、私は雨が止むたび、どこかへ消えてしまうわけではありません。次の雨に、また戻ってこられます」


「うん。それは分かってる」


「……今日は、ちゃんとお別れができます」


 朔さんは静かに頷きました。


 その顔を見て、私は気づきました。


 今まで、私はお別れをしたことがなかったのです。


 誰にも見つけられず、誰にも待たれず、雨が止んだらただ姿を薄くするだけでした。


 今日は違います。


 寂しいけれど、さようならと言える。


 次に会えたら、こんにちはと言える。


 それは、当たり前ではないのかもしれません。


 そして私は、もう一つ気づきました。


 雨が弱くなることを、前ほど恐れなくなっているのです。


 朔さんが、また会えると言ってくれるから。


「……雫さん、あと少しだけ時間ある?」


「……はい」


「一つ、見せたい場所があるんだ。すぐそこ」


 彼は水路の先を指さしました。


 私は少し考えてから、頷きました。


「……行きたいです」


     ◇


 朔さんが案内してくれたのは、小さな歩道橋の上でした。


 屋根はありません。


 けれど、まだ細い雨が降っていて、私の足元をつないでくれています。


 橋からは、大学の時計台が遠くに見えました。


 私はその景色を知っています。


 雨の日の、灰色の時計台。


 雲の下に沈んだ建物と、濡れた道。


「……ここは、前にも来ました」


「そっか。じゃあ、知ってる景色だね」


「……はい」


 私は少し申し訳なくなりました。


 せっかく連れてきてくれたのに、初めての場所ではなかったから。


 でも、朔さんは気にした様子もなく、橋の端へ歩きました。


「じゃあ、今日は別の見方をしてみよう」


「……別の?」


「あの時計台、雨が降ってると上のほうが霞(かす)むだろ。でも今日は少し明るくなって、向こうの空が見える」


 言われて、私は顔を上げました。


 雲の厚さが、先ほどより少し薄くなっています。


 まだ青空ではありません。


 けれど、遠くに柔らかな白い光が広がっていました。


「あそこ、雲が切れそうなんだ」


「……晴れますか?」


「もしかしたら。今はまだ分からないけど」


 私は、晴れた空を想像しました。


 大学の時計台を、太陽の下で見たことはほとんどありません。


 空が明るくなる頃には、私の姿は薄くなってしまうから。


「……晴れの日の時計台は、何色ですか?」


「何色か……」


 朔さんは少し考えました。


「石の色は同じなんだけど、窓が空の青を映すんだ。夕方だと、上のほうが金色になる」


「……金色」


「うん。雨の日もきれいだけど、別の建物みたいに見えるよ」


 私は遠くの時計台を見つめました。


 灰色の石に、青い空。


 窓の中の金色。


 見たことのない景色が、言葉の中に少しずつ形を作っていきます。


「……見てみたい、です」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出ました。


 朔さんは隣で頷きました。


「そうだね。いつか、何か方法があるといいな」


 できると、簡単には言いませんでした。


 その誠実さが、私は好きでした。


「……もし、見られなくても」


 私は少し考えて、言葉を続けます。


「朔さんが教えてくれた色は、覚えていられます」


「本当?」


「……はい。雨が止んでも、忘れません」


 彼は、嬉しそうに笑いました。


 その笑顔を見て、私はまた一つ、覚えておきたい色が増えました。


     ◇


 橋を降りるころ、雨はまた少し強くなりました。


 私は安心して、それから少し困りました。


「……雨が続くと嬉しいのです。でも、困る人もいますね」


「雨が好きなのは、悪いことじゃないよ。誰かが困るのを喜ぶのとは違うから」


 私は頷き、尋ねました。


「……朔さんは、晴れと雨、どちらが好きですか?」


「どっちも好きかな。晴れの日には晴れの日の景色があるし、雨の日には……雫さんに会えるから」


 彼が少し照れた顔をしました。


 胸の奥に、温かくて形の分からないものが落ちてきます。


「……私も、雨の日が好きです。前より、ずっと」


 朔さんは笑いました。


 雨の音に混じって、私の胸の中でも何かが静かに育っていました。


     ◇


 帰り道、私は商店街の入口で、二人の学生とすれ違いました。


 一つの傘に入って、楽しそうに話しています。


 女の子が言いました。


「今日、デートできてよかったね」


 男の子が少し恥ずかしそうに頷きます。


 二人は笑いながら、私たちの横を通り過ぎました。


 私は思わず、足を止めました。


「……朔さん」


「どうしたの?」


「デートというのは、何ですか?」


 朔さんが、足を滑らせかけました。


「えっ」


「……今、あの人が言っていました」


「あ、ああ」


 彼は少し咳払(せきばら)いをしました。


「好きな人と、二人で出かけること……かな」


「……好きな人」


「友達同士で言うこともあるけど、えっと、普通は特別な相手と」


 彼の声が、だんだん小さくなっていきます。


 私はその説明を、真面目に聞いていました。


 今日、私たちは二人で出かけました。


 雨の音を聞いて、温かい飲み物を飲んで、時計台を見ました。


 好きな場所を、互いに聞きました。


 では、これは何と呼ぶのでしょう。


「……今日の私たちは、デートですか?」


 朔さんが、今度こそ立ち止まりました。


 傘の端から、雨粒が一つ落ちます。


「……どうだろう」


 彼は、真剣に困った顔をしていました。


 私は慌てて首を振ります。


「……ごめんなさい。困らせたかったわけでは、ありません」


「いや、違うんだ」


 朔さんは少しだけ考えました。


「雫さんにとって、今日が楽しい時間だったら、それでいいんじゃないかな。何て呼ぶかは、急いで決めなくても」


 私は、その言葉が好きだと思いました。


 名前を急いで決めなくてもいい。


 でも、楽しかったことは確かにある。


「……楽しかったです」


 私はゆっくり答えました。


「とても」


「俺も」


 朔さんが笑いました。


 私はそれで、十分だと思いました。


 今日の時間に、まだ名前がなくても。


 私が大切にしていいのなら。


     ◇


 バス停へ戻ると、もう夕方でした。


 大学から帰る学生が何人か並んでいます。


 私たちは、人の少ない屋根の端で足を止めました。


 雨は降り続いています。


 でも、その向こうの空は、もう少しずつ明るくなっていました。


「今日はありがとう、雫さん」


 朔さんが言いました。


「いろんな雨の音、教えてもらえて楽しかった」


「……私も、ありがとうございました」


「また教えてほしいな」


「……はい。まだ、たくさんあります」


 私は嬉しくなって、少しだけ前へ出ました。


「窓に当たる雨も、布の屋根に当たる雨も、石段を流れる雨も、全部違います」


「じゃあ、次の雨の日も忙しいね」


「……忙しい、ですか?」


「うん。教えてもらうことが多いから」


 私は笑いました。


 忙しい。


 今まで、私には縁のない言葉でした。


 けれど、誰かと会う予定が増えて忙しくなるのなら、それはきっと、いいことです。


「あ、そうだ」


 朔さんが鞄を開けました。


 小さなメモ帳と、細いペンを取り出します。


「今日の雨の音、忘れないように書いておこうかな」


「……書くのですか?」


「うん。さっきの並木道と、水路と、休憩所。全部、音が違ったから」


 彼はメモ帳の一枚を開き、丁寧に書き始めました。


 木の葉には、重なって落ちる音。


 水路には、細く続く音。


 金属の屋根には、弾む音。


 書きながら、何度も私へ確かめてくれます。


「これで合ってる?」


「……少しだけ、違います」


「どこ?」


「木の葉の音は、重なるだけではありません。……一度、葉の上で休んでから、落ちるのです」


「そっか」


 朔さんが書き直します。


 私は、その様子をじっと見ていました。


 自分の言葉が、文字になっていく。


 消えてしまうはずの雨の音が、紙の上に少しだけ残っていく。


「……これ、雫さんも見る?」


 彼がメモ帳を差し出しました。


 そこには、短い言葉が並んでいました。


 上手な文章ではないのかもしれません。


 でも、私が聞いてきた音を、彼が聞こうとしてくれた証拠です。


「……きれいです」


「文字が?」


「……覚えようとしてくれたことが」


 彼は少し驚いたように私を見つめ、それから笑いました。


「雫さんが教えてくれたからね」


 私はメモ帳を見下ろしました。


 その一番下には、もう一行、書き加えられていました。


『今日、雫さんと聞いた雨』。


 私は指先をその文字の上へ近づけました。


 触れてしまうのが、少し怖い。


 大切なものが、消えてしまいそうで。


 でも、紙はそこにありました。


 朔さんの字も、私の名前も。


「……お願いが、あります」


「うん、何?」


「その紙を、一枚、もらってもいいですか?」


 朔さんはすぐに頷きました。


「もちろん。雫さんのために書いたみたいなものだし」


 彼は紙を丁寧に切り離し、私へ手渡してくれました。


 私は両手で受け取ります。


 雨で濡れないように、折らずに胸元へ寄せました。


「……ありがとうございます」


「水に弱いから、気をつけてね」


「……はい」


 少し可笑しくなりました。


 雨の中でしか歩けない私が、雨に弱い紙を宝物にしようとしているのです。


 でも、だからこそ、大事にしたいと思いました。


     ◇


 帰りのバスが近づいてきました。


 遠くでエンジンの音がして、停留所(ていりゅうじょ)の人たちが顔を上げます。


 朔さんも、そろそろ帰る時間です。


「……雫さん」


「……はい」


「今日は、ちゃんと会えてよかった」


 私は頷きました。


 嬉しいのに、少し寂しい。


 その二つが同時に胸の中にあることを、私は不思議に思いました。


「……朔さんは、また雨の日に来ますか?」


「うん。来られる日は、ここを見てみるよ」


「……私も、来たいです」


「約束しようか」


 私は紙を握りしめそうになって、慌てて力を緩めました。


「……約束」


 その言葉を口にすると、胸の奥が温かくなります。


 まだ次の雨は降っていません。


 いつ会えるかも分かりません。


 でも、同じ場所を目指すことができます。


 私には、今までなかったものです。


「……朔さん」


「うん?」


「また、名前を呼んでください」


 彼は不思議そうに首を傾げました。


「今?」


「……はい」


 少し恥ずかしかったけれど、私は目を逸らしませんでした。


 朔さんは柔らかく笑って、私の名前を呼びました。


「雫さん」


 たった三音と、敬(うやま)いを込めた言葉。


 それだけで、私はここにいるのだと思えます。


 雨の中で、確かに誰かに見つけられたのだと。


「……はい」


 私は返事をしました。


 今度は、自分の声がちゃんと届くのを知っていました。


 バスが停まり、扉が開きます。


「じゃあ、またね」


「……また、雨の日に」


 朔さんは手を振りました。


 私は紙を片手で押さえ、もう片方の手を振り返します。


 車内へ乗り込んだ彼の姿が、曇った窓の向こうへ移りました。


 バスが走り出します。


 それを見送っても、私はもう、何も感じないふりをしませんでした。


 寂しいです。


 でも、次に会えるのが楽しみです。


 この気持ちにも、いつか名前がつくのでしょうか。


     ◇


 バスが見えなくなったあと、私は雨の静かな場所へ移りました。


 屋根のある古い休憩所。


 そこなら、紙を濡らさずに広げることができます。


 私はベンチに座り、もう一度、文字を読みました。


 木の葉で休んでから落ちる音。


 水路で細く続く音。


 屋根の上で弾む音。


 そして、今日、雫さんと聞いた雨。


 最後の一行を読むたび、胸の奥が小さく鳴りました。


 私は、雨の音を忘れません。


 忘れることができないくらい、ずっと一緒にいたから。


 それなのに、この紙が嬉しいのは、どうしてでしょう。


 たぶん、ここに書いてあるのは雨の音だけではないからです。


 私が教えたこと。


 朔さんが、立ち止まって聞いてくれたこと。


 間違えたあと、もう一度耳を澄ませてくれたこと。


 私の声を、覚えておこうとしてくれたこと。


 雨が止んでも、その時間はなくならないのだと、紙が教えてくれます。


 少し前の私は、こんなものを持っていませんでした。


 自分の名前を呼ぶ声も。


 誰かを待つ楽しみも。


 今日の出来事を伝えたい相手も。


 私は紙を丁寧に畳みました。


 雨の届かない場所へしまい、次の雨の日まで大切に持っていようと思います。


 そして、いつか朔さんに聞いてみたいことが、また一つ増えました。


 好きな人と歩くことを、デートと呼ぶのなら。


 誰かの名前を呼ばれるだけで嬉しくなる、この気持ちは、何と呼ぶのでしょう。


 今は、まだ答えを急がなくていい。


 朔さんが、そう教えてくれました。


 私は雨の音を聞きながら、目を閉じます。


 葉に触れる、少し高い声。


 土へ落ちる、丸くて静かな声。


 屋根を叩く、少し急いだ声。


 そのどれとも違う声が、心の中に残っています。


「雫さん」


 私の名前を呼んでくれた声。


 きっと、それが今日見つけた、一番大切な宝物です。


 雨が止んでも、消えない宝物。


 次に雨が降ったら、私はまた、あのバス停へ行くでしょう。


 今度は、ただ雨の中を歩くためではありません。


 会いたい人に、会うために。


 私自身の足で、そこへ行くのです。


ここまで読んでくれてありがとうございました!


まだ【評価】と【ブクマ】が済んでいないという方がいましたら、どうかお願いします!

☆☆☆☆☆→★★★★★

評価して頂けると、ものすごく喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。