番外編 雨の少女が見つけた宝物
雨には、たくさんの声があります。
葉に触れる雨は、少し高い声。
土へ落ちる雨は、丸くて静かな声。
屋根を叩く雨は、誰かが急いで扉を叩いているような声。
私には、それぞれが違って聞こえます。
人間の人たちは、たいてい全部まとめて「雨の音」と呼びます。
それが寂しいと思ったことは、ありませんでした。
私も、ひとまとめに呼ばれることに慣れていたから。
雨の日に現れる、名前のない気配。
傘の外側を通り過ぎる、誰にも気づかれない影。
それが私の世界でした。
……いいえ。
世界だと思っていたもの、でした。
今の私には、名前があります。
雨宮雫。
名前そのものは、ずっと前から持っていたはずです。
けれど、その名前を自分以外の声で呼ばれることが、こんなにも不思議だとは知りませんでした。
「雫さん」
目を閉じると、今でも思い出せます。
雨のバス停で、私を見つけてくれた青年の声。
真柴朔さん。
彼は、私を見て驚きました。
でも、怖がって逃げたり、見えなかったことにしたりしませんでした。
普通に挨拶をして、私に傘を差し出しました。
私には傘が必要ないのに。
それが、嬉しかったのです。
◇
朔さんと初めて出会う前、私はいつも雨の中を歩いていました。
同じ道を、何度も。
大学の時計台の前。
通学路の坂道。
古いバス停の小さな屋根。
雨が降るたび、人間の人たちが違う顔で通り過ぎていきました。
誰かと一緒に傘へ入る人。
傘を忘れて走っていく人。
空を見上げて、困った顔をする人。
みんな、それぞれの行き先を持っていました。
私には、行き先がありませんでした。
雨が降っているところなら歩けます。
雨粒が途切れると、足元が曖昧になって、身体も薄くなっていきます。
晴れた空の下では、人間のように自由に歩けません。
だから私は、雨が続く場所を選んで移動していました。
特に目的もなく、降っては消える音を聞きながら。
時々、子どもが水たまりを踏んで遊んでいるのを見つけると、少し近くへ寄りました。
子どもたちは笑います。
でも、私に笑いかけているのではありません。
私が手を振っても、気づいてはくれません。
いつの間にか、私は手を振ることをやめていました。
名前を呼んでもらえないのが、当たり前。
誰かを待つことがないのも、当たり前。
それなら、寂しいと感じる理由もないはずでした。
……けれど。
雨の止んだバス停で、誰かの傘の先が遠ざかるのを見ていると、ときどき胸の奥に、小さな空洞ができました。
その場所を、どう呼べばいいのか分からなかったのです。
朔さんは、私に言いました。
『また雨の日に会えたら、話しましょう』。
そして、本当にまた会ってくれました。
雨が降るたび、探してくれました。
私は初めて、雨の日を待つようになりました。
雨はいつだって私の一部だったのに。
それまでと、少し違う雨になったのです。
◇
その日、午後から降り始めた雨は、静かでやさしいものでした。
強くもなく、弱すぎもしない。
木の葉の先から、少しずつ水が落ちるくらい。
私は大学の裏手にあるバス停で、傘の行き交う道を見つめていました。
以前、朔さんと並んで座った場所です。
あの日、私は、もう少し雨が続いてほしいと願いました。
自分でも驚くほど、小さな願いでした。
雨が止めば、彼と一緒にいられなくなる。
そう思うことが、これほど寂しいなんて。
ただ、雨を無理に呼び止めたいわけではありません。
雨が強すぎれば、転ぶ人もいます。
家に帰れなくなる人もいます。
そういうことを、私はずっと見てきました。
だから、雨が降っている今だけを大切にしようと決めました。
今日も朔さんと会えるとは限りません。
約束の時刻も、決めていませんでした。
それなのに、胸の奥が落ち着きません。
葉の上に落ちる雨粒を数えて、私は自分の気持ちを静かにしようとしました。
一粒。
二粒。
三粒。
「……雫さん?」
四粒目を数える前に、聞き慣れた声がしました。
振り向くと、朔さんが立っていました。
紺色の傘を持って、肩に鞄をかけています。
少し急いで来たのか、前髪に細かな水滴がついていました。
「こんにちは」
「こんにちは、朔さん」
私は返事をしました。
それだけで、胸の奥の落ち着かないものが、別の温かさに変わります。
「よかった。今日はここにいるかなと思って」
「……私も、朔さんが来るかもしれないと思っていました」
「じゃあ、当たりだ」
彼は笑いました。
私はその言葉を、心の中で繰り返します。
当たり。
見つけられたことが、良いことになる言葉。
「……当たり、です」
口にすると、朔さんはまた笑いました。
「今日は、このあと時間ある?」
「時間……」
私には、人間の授業や仕事のような予定がありません。
雨が続く間は、どこへでも歩ける。
でも、朔さんは違います。
彼の一日には、始まりと終わりがあって、行くべき場所があります。
「朔さんは、授業が終わったのですか?」
「うん。今日は早めに終わった。少し散歩しない?」
「……私と?」
「もちろん」
私は、とても大事なことを確かめた気持ちになりました。
彼は、誰かのついでに私を見つけたのではありません。
雨の中を歩く相手として、私を選んでくれたのです。
「……行きたいです」
「よかった。行きたい場所、ある?」
「私が……決めてもいいのですか?」
「二人で歩くんだから、雫さんの行きたいところがいいよ」
私は少し考えました。
これまで、行き先というものを持たずに歩いてきました。
急に尋ねられると、何を選んでいいか分かりません。
「……雨の音が、違う場所」
「違う場所?」
「同じ雨でも、落ちるところによって音が違います。朔さんに、聞いてほしいです」
そう言ってから、不安になりました。
人間の人には、つまらないことかもしれません。
でも、朔さんは目を輝かせました。
「いいね。案内してもらってもいい?」
「……はい」
私の行き先が、初めて一つ決まりました。
◇
朔さんは傘を開き、私のほうへ少し傾けました。
「あの……私は、濡れても大丈夫です」
「知ってる。でも、一緒に歩くならこっちのほうが話しやすいかなって」
彼は自分の言葉を考えるように、少し首を傾げます。
「嫌だったら、別々に歩こう」
「……嫌では、ありません」
私は傘の下へ入りました。
雨が肩に触れなくなると、少しだけ世界が遠くなります。
私の身体は雨とつながっているけれど、傘の下に入っただけですぐ消えるわけではありません。
周囲には雨が降り続いていて、足元には水が光っています。
何より、朔さんが隣にいます。
同じ傘に入ると、彼の足音が近くで聞こえました。
規則正しい、靴底が地面に触れる音。
私は雨の音ならたくさん知っています。
でも、人間の足音をこんなに大切に聞くのは、初めてでした。
「まずは、どこ?」
「……あちらの、木がたくさんあるところです」
私は小さな並木道を指さしました。
朔さんが頷いて、歩き出します。
木の下は雨が少し弱く見えます。
けれど、音はむしろ複雑になります。
大きな葉が雨粒を受けて、重くなった雫を落とす。
小さな葉では、水が何度も跳ねてから地面へ届く。
枝から幹へ伝わる水は、低く、長い音を作ります。
「……耳を、澄ませてください」
朔さんが足を止めました。
しばらく、私たちは何も話しません。
遠くの車の音。
風に揺れる葉。
そして、雨。
「……あ」
朔さんが小さく声を上げました。
「上の葉っぱから落ちる音と、下の葉っぱに当たる音、違うんだな」
「……分かりますか?」
「うん。今まで、こんなにちゃんと聞いてなかった」
私は思わず、彼を見つめました。
私の言葉が、届いたのです。
雨の音を聞かせたつもりが、私は何かをもらった気持ちになりました。
「雫さんには、いつもこう聞こえてるんだね」
「……はい。毎日、少しずつ違います」
「すごいなあ」
その一言が、不思議でした。
雨を聞き分けることは、私にとって呼吸するのと同じくらい自然です。
褒められるようなことだと思っていませんでした。
「……朔さんには、当たり前ではないのですね」
「そうだよ。教えてもらわなきゃ、気づけなかった」
私はまた、一つ覚えました。
当たり前だと思っていたものが、誰かにとって新しい発見になること。
それを分け合うと、嬉しくなること。
◇
並木道を抜けると、雨除けの軒先が続く商店街へ出ました。
人通りが多く、私は足を止めます。朔さんには私の声が聞こえますが、ほかの人には、私が見えません。
「……ここでは、黙っていたほうがいいですか?」
「そんなことないよ。気になるなら、静かな道へ行こう」
朔さんは私の返事を待ってくれました。
「……静かなところを、歩きたいです」
「分かった」
商店街の裏には、古い石塀と小さな水路がありました。
雨水が石を伝い、細く流れています。
「ここ、どう?」
「……好きです」
そう言ってから、私は驚きました。
今まで、雨の中を歩ければそれで十分でした。けれど今日は、自分で道を選び、好きだと思うことができます。
「俺も、ここ落ち着くな」
同じ場所を、二人で好きだと思える。そんな小さなことが、嬉しかったのです。
◇
水路の先に、小さな屋根のある休憩所がありました。
ベンチと、古い自動販売機が一つ。
朔さんが足を止めます。
「ちょっと休もうか。飲み物、いる?」
「……飲み物」
「この前はうどんを食べたけど、温かい飲み物はどう?」
私は自動販売機の光るボタンを眺めました。
そこには、たくさんの色と名前が並んでいます。
お茶。
コーヒー。
甘いミルク。
「……どれが、雨に似ていますか?」
朔さんが笑いました。
「難しい質問だな。味でいうと、どれだろう」
彼はしばらく真面目に考えています。
その姿がおかしくて、私は口元を隠しました。
「……答えが、なくてもいいです」
「じゃあ、雫さんがまだ飲んだことないものにしようか」
「……はい」
朔さんが、温かいココアを二本買いました。
すぐに私へ手渡すのではなく、人目の少ないベンチの端へ置いてくれます。
私はそこから缶を受け取りました。
指先に、熱が伝わってきます。
雨の中にいる私には、不思議な温度です。
「熱くない?」
「……大丈夫です。温かいです」
私は缶を両手で包みました。
雨の日なのに、手のひらの中だけ小さな晴れがあるようでした。
「それ、甘いから。苦手だったら無理しなくていいよ」
「……甘い」
一口飲んで、私は目を見開きました。
舌の上に、優しい甘さが広がります。
以前食べたうどんは、湯気と一緒に身体を温めてくれました。
これは、それとは違います。
胸の内側が、少しゆっくりになる感じがしました。
「……雨では、ありませんね」
「そうだね」
「でも、好きです」
「よかった」
朔さんが安心したように笑う。
私はその表情を見ると、またココアが甘く感じました。
彼が自分の缶を開けるのを眺めながら、少し気になったことを尋ねます。
「……朔さん。人間の人は、誰かと歩くとき、よく飲み物を買いますか?」
「買うこともあるかな。喉が渇いたり、少し休みたくなったり」
「……今日は、朔さんも喉が渇いていましたか?」
「それもあるけど、一緒に何か飲めたらいいなと思った」
「一緒に……」
「うん。一人で飲むのとは、また違うから」
私は缶を見下ろしました。
たしかに、ココアの味は私一人でも感じられたでしょう。
けれど、どれを選ぶか迷ったこと。
朔さんが真剣に雨の味を考えてくれたこと。
温かいかどうか、心配してくれたこと。
そのすべてがあって、今日のココアは特別になっています。
「……分かる気が、します」
私はそう答えました。
今度の「好き」は、何のことなのか、自分でも少し分からなくなりました。
◇
休憩所の屋根には、薄い金属板が使われていました。
雨粒が触れると、細かく弾むような音がします。
「……ここは、さっきの木と音が違います」
「本当だ。少し硬い音がする」
「……金属は、雨の音を遠くまで運びます。葉は、近くで聞くほうがきれいです」
「面白いなあ。雨の音だけで、どこにいるか分かったりする?」
「……大体なら」
私は少し考えてから、目を閉じました。
近くの水路。
向こうの石塀。
休憩所の金属の屋根。
ベンチの背もたれに落ちる、小さな跳ね返り。
音が、場所の形を教えてくれます。
「……朔さん。試してみますか?」
「何を?」
「目を閉じて、私が指す音を探してみてください」
「分かった」
彼は素直に目を閉じました。
私は少し緊張しました。
誰かに教えるということを、ほとんどしたことがありません。
うまく伝わらなかったら、どうすればいいのでしょう。
でも、朔さんは私の言葉を待ってくれました。
「……一番遠くで、細く続いている音は?」
「……車?」
「……違います」
「違ったか」
「水路の、水です」
「ああ、そっちか」
彼は目を閉じたまま、少し笑いました。
「難しいけど、分かってくると楽しいね」
「……次は、もう少し近い音です」
「うん」
「少し、丸い音」
「丸い音……?」
「……ぽつ、ぽつ、という」
私は指先で空中に小さな円を描きました。
朔さんはしばらく黙ってから、指を差しました。
「あの石の上かな」
「……正解です」
「やった」
たったそれだけのことでした。
けれど、その瞬間、私は心から嬉しくなりました。
雨の中でずっと一人で聞いていた音を、今は二人で聞いています。
自分しか知らないと思っていた世界に、小さな窓が開いたようでした。
「……もう一つ、いいですか?」
「もちろん」
「……今、一番近い音」
朔さんが耳を澄ませる。
私は、彼の隣に座ったまま、息を止めていました。
「……缶?」
「……違います」
「じゃあ、何だろう」
「……朔さんの、声です」
彼が目を開けました。
私は自分で言ったことが急に恥ずかしくなり、缶を握り直しました。
「雨の音じゃないじゃないか」
「……はい。ごめんなさい」
「いや、なるほど」
朔さんは笑いました。
「一本取られた」
その言葉の意味が分からず、私は首を傾げます。
彼が教えてくれると、私も小さく笑ってしまいました。
その笑い声は、雨の音に紛れて消えていきます。
でも、朔さんには届いていました。
◇
休憩しているうちに、雨が少し弱くなりました。
空の色が薄くなり、屋根を叩く音がまばらになります。
私は手元の缶を見つめました。
温かさが、少しずつ逃げていきます。
雨も、同じです。
どれほど大切に聞いていても、いつか止みます。
「……雫さん?」
朔さんが顔を覗き込みました。
「少し、薄くなってる?」
私は自分の手を見ます。
指先の輪郭が、向こうの景色と重なり始めていました。
「……雨が、弱くなったので」
「大丈夫? どこか、雨の残ってるところへ移動する?」
彼はすぐに立ち上がろうとしました。
私は慌てて、首を振りました。
「……大丈夫です。急がなくても」
「でも」
「……朔さんが、濡れてしまいます」
彼は少しだけ困った顔をしました。
「雫さんのことが心配なんだ」
私は、その言葉を受け止めるまで時間がかかりました。
心配。
自分以外の誰かが、私のことを。
雨が止むのは、私にとって当たり前のことです。
姿が薄くなるのも、いつものこと。
だから、誰かに心配してもらう理由はないと思っていました。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げました。
「でも、私は雨が止むたび、どこかへ消えてしまうわけではありません。次の雨に、また戻ってこられます」
「うん。それは分かってる」
「……今日は、ちゃんとお別れができます」
朔さんは静かに頷きました。
その顔を見て、私は気づきました。
今まで、私はお別れをしたことがなかったのです。
誰にも見つけられず、誰にも待たれず、雨が止んだらただ姿を薄くするだけでした。
今日は違います。
寂しいけれど、さようならと言える。
次に会えたら、こんにちはと言える。
それは、当たり前ではないのかもしれません。
そして私は、もう一つ気づきました。
雨が弱くなることを、前ほど恐れなくなっているのです。
朔さんが、また会えると言ってくれるから。
「……雫さん、あと少しだけ時間ある?」
「……はい」
「一つ、見せたい場所があるんだ。すぐそこ」
彼は水路の先を指さしました。
私は少し考えてから、頷きました。
「……行きたいです」
◇
朔さんが案内してくれたのは、小さな歩道橋の上でした。
屋根はありません。
けれど、まだ細い雨が降っていて、私の足元をつないでくれています。
橋からは、大学の時計台が遠くに見えました。
私はその景色を知っています。
雨の日の、灰色の時計台。
雲の下に沈んだ建物と、濡れた道。
「……ここは、前にも来ました」
「そっか。じゃあ、知ってる景色だね」
「……はい」
私は少し申し訳なくなりました。
せっかく連れてきてくれたのに、初めての場所ではなかったから。
でも、朔さんは気にした様子もなく、橋の端へ歩きました。
「じゃあ、今日は別の見方をしてみよう」
「……別の?」
「あの時計台、雨が降ってると上のほうが霞むだろ。でも今日は少し明るくなって、向こうの空が見える」
言われて、私は顔を上げました。
雲の厚さが、先ほどより少し薄くなっています。
まだ青空ではありません。
けれど、遠くに柔らかな白い光が広がっていました。
「あそこ、雲が切れそうなんだ」
「……晴れますか?」
「もしかしたら。今はまだ分からないけど」
私は、晴れた空を想像しました。
大学の時計台を、太陽の下で見たことはほとんどありません。
空が明るくなる頃には、私の姿は薄くなってしまうから。
「……晴れの日の時計台は、何色ですか?」
「何色か……」
朔さんは少し考えました。
「石の色は同じなんだけど、窓が空の青を映すんだ。夕方だと、上のほうが金色になる」
「……金色」
「うん。雨の日もきれいだけど、別の建物みたいに見えるよ」
私は遠くの時計台を見つめました。
灰色の石に、青い空。
窓の中の金色。
見たことのない景色が、言葉の中に少しずつ形を作っていきます。
「……見てみたい、です」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出ました。
朔さんは隣で頷きました。
「そうだね。いつか、何か方法があるといいな」
できると、簡単には言いませんでした。
その誠実さが、私は好きでした。
「……もし、見られなくても」
私は少し考えて、言葉を続けます。
「朔さんが教えてくれた色は、覚えていられます」
「本当?」
「……はい。雨が止んでも、忘れません」
彼は、嬉しそうに笑いました。
その笑顔を見て、私はまた一つ、覚えておきたい色が増えました。
◇
橋を降りるころ、雨はまた少し強くなりました。
私は安心して、それから少し困りました。
「……雨が続くと嬉しいのです。でも、困る人もいますね」
「雨が好きなのは、悪いことじゃないよ。誰かが困るのを喜ぶのとは違うから」
私は頷き、尋ねました。
「……朔さんは、晴れと雨、どちらが好きですか?」
「どっちも好きかな。晴れの日には晴れの日の景色があるし、雨の日には……雫さんに会えるから」
彼が少し照れた顔をしました。
胸の奥に、温かくて形の分からないものが落ちてきます。
「……私も、雨の日が好きです。前より、ずっと」
朔さんは笑いました。
雨の音に混じって、私の胸の中でも何かが静かに育っていました。
◇
帰り道、私は商店街の入口で、二人の学生とすれ違いました。
一つの傘に入って、楽しそうに話しています。
女の子が言いました。
「今日、デートできてよかったね」
男の子が少し恥ずかしそうに頷きます。
二人は笑いながら、私たちの横を通り過ぎました。
私は思わず、足を止めました。
「……朔さん」
「どうしたの?」
「デートというのは、何ですか?」
朔さんが、足を滑らせかけました。
「えっ」
「……今、あの人が言っていました」
「あ、ああ」
彼は少し咳払いをしました。
「好きな人と、二人で出かけること……かな」
「……好きな人」
「友達同士で言うこともあるけど、えっと、普通は特別な相手と」
彼の声が、だんだん小さくなっていきます。
私はその説明を、真面目に聞いていました。
今日、私たちは二人で出かけました。
雨の音を聞いて、温かい飲み物を飲んで、時計台を見ました。
好きな場所を、互いに聞きました。
では、これは何と呼ぶのでしょう。
「……今日の私たちは、デートですか?」
朔さんが、今度こそ立ち止まりました。
傘の端から、雨粒が一つ落ちます。
「……どうだろう」
彼は、真剣に困った顔をしていました。
私は慌てて首を振ります。
「……ごめんなさい。困らせたかったわけでは、ありません」
「いや、違うんだ」
朔さんは少しだけ考えました。
「雫さんにとって、今日が楽しい時間だったら、それでいいんじゃないかな。何て呼ぶかは、急いで決めなくても」
私は、その言葉が好きだと思いました。
名前を急いで決めなくてもいい。
でも、楽しかったことは確かにある。
「……楽しかったです」
私はゆっくり答えました。
「とても」
「俺も」
朔さんが笑いました。
私はそれで、十分だと思いました。
今日の時間に、まだ名前がなくても。
私が大切にしていいのなら。
◇
バス停へ戻ると、もう夕方でした。
大学から帰る学生が何人か並んでいます。
私たちは、人の少ない屋根の端で足を止めました。
雨は降り続いています。
でも、その向こうの空は、もう少しずつ明るくなっていました。
「今日はありがとう、雫さん」
朔さんが言いました。
「いろんな雨の音、教えてもらえて楽しかった」
「……私も、ありがとうございました」
「また教えてほしいな」
「……はい。まだ、たくさんあります」
私は嬉しくなって、少しだけ前へ出ました。
「窓に当たる雨も、布の屋根に当たる雨も、石段を流れる雨も、全部違います」
「じゃあ、次の雨の日も忙しいね」
「……忙しい、ですか?」
「うん。教えてもらうことが多いから」
私は笑いました。
忙しい。
今まで、私には縁のない言葉でした。
けれど、誰かと会う予定が増えて忙しくなるのなら、それはきっと、いいことです。
「あ、そうだ」
朔さんが鞄を開けました。
小さなメモ帳と、細いペンを取り出します。
「今日の雨の音、忘れないように書いておこうかな」
「……書くのですか?」
「うん。さっきの並木道と、水路と、休憩所。全部、音が違ったから」
彼はメモ帳の一枚を開き、丁寧に書き始めました。
木の葉には、重なって落ちる音。
水路には、細く続く音。
金属の屋根には、弾む音。
書きながら、何度も私へ確かめてくれます。
「これで合ってる?」
「……少しだけ、違います」
「どこ?」
「木の葉の音は、重なるだけではありません。……一度、葉の上で休んでから、落ちるのです」
「そっか」
朔さんが書き直します。
私は、その様子をじっと見ていました。
自分の言葉が、文字になっていく。
消えてしまうはずの雨の音が、紙の上に少しだけ残っていく。
「……これ、雫さんも見る?」
彼がメモ帳を差し出しました。
そこには、短い言葉が並んでいました。
上手な文章ではないのかもしれません。
でも、私が聞いてきた音を、彼が聞こうとしてくれた証拠です。
「……きれいです」
「文字が?」
「……覚えようとしてくれたことが」
彼は少し驚いたように私を見つめ、それから笑いました。
「雫さんが教えてくれたからね」
私はメモ帳を見下ろしました。
その一番下には、もう一行、書き加えられていました。
『今日、雫さんと聞いた雨』。
私は指先をその文字の上へ近づけました。
触れてしまうのが、少し怖い。
大切なものが、消えてしまいそうで。
でも、紙はそこにありました。
朔さんの字も、私の名前も。
「……お願いが、あります」
「うん、何?」
「その紙を、一枚、もらってもいいですか?」
朔さんはすぐに頷きました。
「もちろん。雫さんのために書いたみたいなものだし」
彼は紙を丁寧に切り離し、私へ手渡してくれました。
私は両手で受け取ります。
雨で濡れないように、折らずに胸元へ寄せました。
「……ありがとうございます」
「水に弱いから、気をつけてね」
「……はい」
少し可笑しくなりました。
雨の中でしか歩けない私が、雨に弱い紙を宝物にしようとしているのです。
でも、だからこそ、大事にしたいと思いました。
◇
帰りのバスが近づいてきました。
遠くでエンジンの音がして、停留所の人たちが顔を上げます。
朔さんも、そろそろ帰る時間です。
「……雫さん」
「……はい」
「今日は、ちゃんと会えてよかった」
私は頷きました。
嬉しいのに、少し寂しい。
その二つが同時に胸の中にあることを、私は不思議に思いました。
「……朔さんは、また雨の日に来ますか?」
「うん。来られる日は、ここを見てみるよ」
「……私も、来たいです」
「約束しようか」
私は紙を握りしめそうになって、慌てて力を緩めました。
「……約束」
その言葉を口にすると、胸の奥が温かくなります。
まだ次の雨は降っていません。
いつ会えるかも分かりません。
でも、同じ場所を目指すことができます。
私には、今までなかったものです。
「……朔さん」
「うん?」
「また、名前を呼んでください」
彼は不思議そうに首を傾げました。
「今?」
「……はい」
少し恥ずかしかったけれど、私は目を逸らしませんでした。
朔さんは柔らかく笑って、私の名前を呼びました。
「雫さん」
たった三音と、敬いを込めた言葉。
それだけで、私はここにいるのだと思えます。
雨の中で、確かに誰かに見つけられたのだと。
「……はい」
私は返事をしました。
今度は、自分の声がちゃんと届くのを知っていました。
バスが停まり、扉が開きます。
「じゃあ、またね」
「……また、雨の日に」
朔さんは手を振りました。
私は紙を片手で押さえ、もう片方の手を振り返します。
車内へ乗り込んだ彼の姿が、曇った窓の向こうへ移りました。
バスが走り出します。
それを見送っても、私はもう、何も感じないふりをしませんでした。
寂しいです。
でも、次に会えるのが楽しみです。
この気持ちにも、いつか名前がつくのでしょうか。
◇
バスが見えなくなったあと、私は雨の静かな場所へ移りました。
屋根のある古い休憩所。
そこなら、紙を濡らさずに広げることができます。
私はベンチに座り、もう一度、文字を読みました。
木の葉で休んでから落ちる音。
水路で細く続く音。
屋根の上で弾む音。
そして、今日、雫さんと聞いた雨。
最後の一行を読むたび、胸の奥が小さく鳴りました。
私は、雨の音を忘れません。
忘れることができないくらい、ずっと一緒にいたから。
それなのに、この紙が嬉しいのは、どうしてでしょう。
たぶん、ここに書いてあるのは雨の音だけではないからです。
私が教えたこと。
朔さんが、立ち止まって聞いてくれたこと。
間違えたあと、もう一度耳を澄ませてくれたこと。
私の声を、覚えておこうとしてくれたこと。
雨が止んでも、その時間はなくならないのだと、紙が教えてくれます。
少し前の私は、こんなものを持っていませんでした。
自分の名前を呼ぶ声も。
誰かを待つ楽しみも。
今日の出来事を伝えたい相手も。
私は紙を丁寧に畳みました。
雨の届かない場所へしまい、次の雨の日まで大切に持っていようと思います。
そして、いつか朔さんに聞いてみたいことが、また一つ増えました。
好きな人と歩くことを、デートと呼ぶのなら。
誰かの名前を呼ばれるだけで嬉しくなる、この気持ちは、何と呼ぶのでしょう。
今は、まだ答えを急がなくていい。
朔さんが、そう教えてくれました。
私は雨の音を聞きながら、目を閉じます。
葉に触れる、少し高い声。
土へ落ちる、丸くて静かな声。
屋根を叩く、少し急いだ声。
そのどれとも違う声が、心の中に残っています。
「雫さん」
私の名前を呼んでくれた声。
きっと、それが今日見つけた、一番大切な宝物です。
雨が止んでも、消えない宝物。
次に雨が降ったら、私はまた、あのバス停へ行くでしょう。
今度は、ただ雨の中を歩くためではありません。
会いたい人に、会うために。
私自身の足で、そこへ行くのです。
ここまで読んでくれてありがとうございました!
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