1. 悲劇の伝令
行商人ガロンの古びた荷馬車に揺られ、二日。シュンイチが辿り着いた「アルドの村」は、現代日本の都市空間で生きてきた彼にとって、眩暈を覚えるほどのカルチャーショックの塊だった。
立ち並ぶのは、歪な石と乾燥させた木材を泥で固めた粗末な家々。未舗装の幹線道路は、馬や家畜の糞尿と雨水が混ざり合い、強烈な腐敗臭を放っている。人々は泥に塗れた麻の服や革の羽織を身に纏い、生気のない目で異邦人であるシュンイチの作業着を見つめていた。
(中世……いや、それ以下か……?)
ガロンの好意で村の隅にある小さな宿屋に身を寄せたシュンイチは、数日間、泥のように眠り、起きては世界の情報を貪るように集めた。
ここは大樹の恵みを戴く「ゼルディア大陸」。剣と、そして「魔法」と呼ばれる超常の力が確かに存在する世界。
宿屋の二階、木枠の窓から外を眺めながら、シュンイチはポケットからスマートフォンを取り出した。画面の明かりが薄暗い室内を照らす。右上の【 圏外 】の二文字は、どれだけフリックしても消え去ることはない。
(父さん……母さん……。会社の先輩たち……。俺がいなくなって、現場はどうなってるんだろう)
胸を刺すようなホームシックが押し寄せる。現代社会では、電波を通じていつでも誰かと繋がっていた。くだらないSNSの通知、深夜のグループ通話、仕事の連絡。鬱陶しいとすら思っていたそれら無数の「繋がり」が失われた今、自分はこの広大な大陸の片隅で、宇宙に一人取り残された宇宙飛行士のような恐怖を感じていた。
だが、シュンイチがこの世界に対して抱いた最大の恐怖は、自身の孤独ではなく、この世界の「情報の圧倒的な遅さと重さ」だった。
それは、シュンイチが村に滞在して一週間が経った、湿り気のある午後に起きた。
「助けてくれぇぇ! 伝令だ! 誰か、自警団を呼んでくれぇ!」
村の中央広場から、破れかぶれの叫び声が響いた。
シュンイチが宿屋を飛び出すと、広場の中央で泡を吹いて倒れた一頭の馬と、その傍らに倒れ込む男の姿があった。男の革鎧は深く切り裂かれ、固まった血と生の赤血が混ざり合っている。男の全身には、獣の爪痕とも剣傷ともつかない凶暴な傷跡が刻まれていた。
村長や自警団の男たちが、血相を変えて駆け寄る。
「なんだと!? どうしたんだ、カイの街からの伝令か!?」
「ひ、東の……第一開拓村が……!」男は血の混じった唾を吐き出しながら、シュンイチの足元で叫んだ。「魔物の群れだ……! 森の奧からオークとオークロードの群れが溢れ出して……村を……村を包囲した……!」
「襲撃はいつだ! いつ起きた!」村長が男の肩を揺さぶる。
「昨日の……昨日の夜明け前だ……! 俺は村長の頼みで、命からがら馬を走らせて……ここまで……」
伝令の男はそこまで言うと、白目を剥いてガクリと意識を失った。自警団の男たちが慌てて彼を薬草医の元へと運び込んでいく。
広場に集まった村人たちの間に、墓場のような沈黙が広がった。
昨日の、夜明け前。
シュンイチは自分の腕につけたデジタル腕時計(投宿した翌朝日の出を6時として合わせていた。)を確認し、脳内で恐ろしい計算を行った。
(昨日の夜明け前って……今の時刻から計算して、三十時間以上前じゃないか……!)
三十時間。
開拓村からこのアルドの村まで、距離にしておよそ八十キロ。一刻を争う極限状態の中、馬を殺す勢いに鞭を打ち続け、死ぬ気で駆け抜けて丸一日以上。
もし、これが地球ならどうだ?
携帯電話で110番や119番を押せば、わずか数秒で救急隊や警察、消防に情報が届く。専用の防災行政無線を使えば、一瞬で周辺地域の住民へ退避勧告が出せる。
だが、この世界では違う。
ひとつの村が踏みにじられ、絶望の中で助けを求める叫びを上げてから、その報せが隣の村へ届くまでに「三十時間」という気が遠くなるような時間が経過しているのだ。
「村長! 今すぐ自警団を出そう! 救援だ!」一人の若い男が叫んだ。
しかし、村長は苦渋に満ちた顔で深く首を振った。絶望的なシワが、その顔に刻まれる。
「ダメだ……今から準備して、馬を出したところで到着するのは明日の昼だ。襲撃から五十時間以上……。もう、救援の意味をなさん。開拓村は……全滅している」
「そんな……! じゃあ、あいつは……あいつは死に物狂いで手遅れの知らせを運んできたっていうのかよ!?」
広場に悲痛な叫びが響き渡る。誰もが下を向き、拳を握りしめ、理不尽な事実に耐えていた。
手遅れの報せを届けるために、伝令の男は自らの肉体を切り裂かれ、馬を殺して駆け抜けたのだ。ただ「情報が届くのが遅かった」という理由だけで、数十人の人間が助かる見込みもなく命を落とす。
シュンイチの体が、激しい怒りと震えで震えた。
(遅すぎる……。こんなの、あんまりだ……!)
胸ポケットのスマートフォンに触れる。冷たいガラスの感覚。
画面に刻まれた【 圏外 】の文字が、まるでこの世界の惨状を冷笑しているかのように思えた。
(電波がない。通信がない。だから人が死ぬ。……なら、俺は何のために無線技術士になったんだ? 基地局を建てるためか? 違う。人と人とを繋ぎ、声を届けるためだろ!)
シュンイチの胸の奥で、現代社会で培ってきたエンジニアとしてのプライドと、人間としての怒りが一本の熱い炎となって燃え上がった。
「繋がっていないなら……俺が、繋いでやる」
シュンイチは力強く地面を踏みつけ、村の鍛冶場へと走り出した。




