圏外の世界へ
標高千二百メートル、風速十五メートル。
山頂にそびえ立つ鉄塔の無機質な骨組みにしがみつきながら、小坂駿一はボルトを締める手に全身の体重を乗せた。
「駿一、アンテナの指向性チェック終わったぞ! これで次の豪雨が来ても、この地区の基地局は倒れないはずだ」
インカムの雑音越しに届く先輩の声に、駿一は防寒具の隙間から深く息を吐き出した。吐き出された吐息は、氷点下の空気に触れた瞬間に白く凍りついて散っていく。
第一級陸上無線技術士――それが駿一の肩書だった。
世間からは「電工の作業員」程度に思われることも多いが、その実態は現代社会の肉体と精神を支える「目に見えない血流」を守るスペシャリストだ。目に見えぬ電磁波の振る舞いを数式で解き明かし、空間の歪みを正し、人と人とを繋ぐ目に見えない網の目を世界に張り巡らせる。それが彼の誇りであり、存在理由でもあった。
作業を終え、安全帯を解除して地上へ降りる。手袋を外し、愛用の作業用ベストの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。画面をタップすると、冷えたディスプレイの右上に、アンテナマークが満たされた「5G」のアイコンが灯る。
(よし……完璧だ)
駿一の唇に小さな満足感が浮かんだ。
この画面の隅にある数ミリ四方の小さな標識を守るために、自分たちは猛吹雪の山頂に登り、泥と油に塗れて鉄骨を叩くのだ。街の人々は何気なくメッセージを送り、愛する人の声を聞き、動画を観て笑う。その「当たり前すぎる繋がり」を陰で支えているという自負があった。
「駿一! 急げ、雲行きがおかしい!」
先輩の叫び声に弾かれたように空を見上げると、いつの間にか濃鈍色の巨大な雷雲が頭上を押し潰すように垂れ込めていた。
次の瞬間、世界が不自然なほど濃厚な紫色に染まる。
バチバチバチッ、と作業着の金属パーツが不気味な静電気の音を立てて鳴り響いた。雷雲が、地表のすぐ近くまで落ちてきている。
「嘘だろ――避雷針は!?」
叫ぼうとした瞬間、鼓膜を直接破るような爆音が世界を全否定した。
激痛すら脳に届かない。強烈な熱と、視界を焼き尽くす純白の閃光。駿一の意識は、底のない暗黒の奈落へと叩き落とされた。
◇
「……おい、生きてるか? しっかりしろ!」
体を激しく揺さぶられる振動で、駿一はまぶたを開いた。
視界に飛び込んできたのは、無精ひげを生やし、見たこともないほど粗末な革の服を着た男の顔だった。周囲を見渡すと、そこは静寂に包まれた見知らぬ深い森の中。自分は濡れた苔の上に倒れていた。
「よかった、息はあるな。変な服を着ているが、どこかの旅人か?」
「あ……が……」
喉が焼けたように渇いて声にならない。駿一は上半身を起こし、割れるように痛む頭を押さえた。自分は山頂の基地局で落雷に遭ったはずだ。集中治療室のベッドの上なら理解できる。だが、この天を突くほど巨大な樹木が鬱蒼と茂る森は一体どこだ? 日本の植生には存在しない、異様な形状の葉を茂らせた植物が群生している。
反射的に、胸ポケットへ手が伸びた。
手応えがあった。作業用ベスト、マルチツール、小型のペンライト、そして――スマートフォン。
画面を点灯させる。ガラスの飛散はなく、液晶のバックライトは生きている。画面の内部時計は狂っていたが、電子機器として機能していた。
だが、駿一の視線は時刻ではなく、ディスプレイの右上へと吸い寄せられた。
そこにあったのは、見慣れたアンテナのピクトグラフではない。
四角い枠の中に、無機質に刻まれた文字。
【 圏外 】
「圏外……?」
指が勝手に画面をフリックする。自動接続を試みるが、アクセスポイントは一つとして検出されない。モバイルデータ通信はもちろん、Wi-Fiの微弱なビーコンすら、この空間には存在していなかった。
地球上のどれほど人里離れた秘境であっても、静止衛星からの測位信号(GPS)くらいは
拾えるはずだ。しかし、端末は自らが地球のどこにいるのかすら見失っていた。
「おい、何をぶつぶつ言っている? 街へ行くなら一緒に行くか? このあたりは魔物が出るぞ」
男が背中に背負った古びた鉄の剣の柄を叩いた。
「魔物」という単語が、駿一の脳裏に異物のような違和感となって突き刺さる。
駿一は立ち上がり、周囲の「空間」に全神経を集中させた。
幼い頃から電波とともに生きてきた技術者としての直感が、背筋に冷や汗を走らせる。
静かすぎるのだ。
現代社会において、人間は目に見えない電波の海の中で生きている。携帯電話の電波、ラジオ放送、テレビ波、Wi-Fi、スマートメーターの相互通信、各種レーダー。目には見えずとも、空間には常に多様な周波数の電磁波が飛び交い、それらは微小な背景ノイズとなって世界を満たしている。
だが、この場所にはそれが一切ない。
完全な、絶対的な「電波の静寂」。
「圏外」という二文字が意味するもの。それは単に電波塔から遠く離れた場所にいるということではない。この世界には、通信という概念そのものが存在しないのだ。
自分以外の誰とも繋がっていない。誰の物理的な声も、デジタルのメッセージも届かない。
果てしない空間の中で、自分という存在だけがポツンと切断され、世界の果てに放り出されたような猛烈な孤独感――第一級陸上無線技術士と第一級総合無線通信士、無線従事者免許の最難関・最高峰の資格を持つ駿一にとって、自分の存在そのものが否定されたような感覚が、駿一の胸を強く締め付けた。
「……ここ、どこなんだ」
「どこって、王国の東方境目、アルドの森だが? 早く行こう、日が暮れる」
男が歩き出す。駿一は震える手でスマートフォンをポケットに仕舞い込み、その背中を追った。
目に見えない網の目で世界が結ばれていたあの場所は、もうどこにもない。
電波なき世界での、途方もない日々の始まりだった。




