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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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番外編3 黒い閃光  黒岩 万吉(1871-1899)

黒岩は明治後期に短期間だけ番付に載った平幕力士だが、当時は将来性豊かな人気力士だった。活躍期間が短すぎて資料が少なく、肖像写真すら見当たらないが、明治の角界についての様々な文献にその四股名が散見されるため、ずっと気になる存在ではあった。

 伯耆国八橋郡(鳥取県東伯郡)出身の黒岩こと山下万吉は、幕内在位わずか五場所(うち一場所は全休)で最高位前頭二枚目に過ぎないが、明治後期の土俵を湧かせた人気力士だった。

 幕内通算十七勝十三敗二分二預というのは、今日の十五日制では二場所半にも満たない。それだけの短期間で、しかも優勝争いを演じたことがあるわけでもないのにもかかわらず、明治の相撲史を語る場合、彼の名を避けては通れない。

 もちろん世間の話題となるような名勝負が多かったことも確かだが、それだけでは後世の好角家の口にのぼる機会はほとんどないだろう。

 もう一つの大きな理由は、将来を嘱望されながら二十八歳の若さで急死したことである。心筋梗塞を患い、明治三十二年五月場所を全休した黒岩は、それから四ヶ月後に帰らぬ人となってしまったのだ。

 長い相撲の歴史の中には、巡業先の長崎で赤痢に罹って亡くなった丸山権太左衛門や江戸でインフルエンザが流行した際に感染死した谷風梶之助のように現役の横綱が急死した例もあるが、当時の医療と明治後期の医療とでは比較にならない。谷風は現役中に四十五歳で亡くなったが、好敵手だった小野川も引退から九年後に四十八歳で亡くなっているように、江戸時代の男子の平均寿命は五十歳前後であり、四十代は壮年だった。

 ところが黒岩はまだこれからの二十八歳である。大正三年に巡業先で現役大関駒ヶ獄が客死した時は年齢こそ三十四歳とまだ男盛りだったが、飲酒癖で身を持ち崩し、力士としては完全に落ち目であった。福柳と沖ツ海のフグ中毒死も悲劇的ではあったが、危機管理という観点から見れば、無謀としか言いようのない事案に過ぎず、玉錦と玉の海の虫垂炎の悪化による急死も、自身の肉体に対する過信に起因している(病状を軽視せず、即入院手術していれば二人とも命を落とすことはなかった)。

 稚拙な医療知識しかなかった江戸時代はともかく、それ以外の上記の急死例は本人の不注意による事故であり、黒岩のように、療養のため場所を休んで再起を目指している最中に病状が悪化したというのは不運というほかはない。それだけに、急死した著名力士の中で唯一の平幕で、出場場所数が圧倒的に少ないにもかかわらず、その閃光のような輝きが長らく伝承されてきたものと思われる。


 ちょうど人気が出始めた頃に業界初の相撲専門誌『角力新報』が創刊から一年足らずで廃刊となったこともあり、黒岩の詳細な略歴はほとんど残されておらず、生年月日すら不明のままである。

 したがって手がかりになりそうなものは、リアルタイムの新聞の相撲欄か、彼の現役時代を知る者が執筆した明治~大正期の相撲評論くらいしかないが、平幕とはいえ大物食いの人気力士だったことで、取り組み内容は部分的に記録されているものが多く、実像に近づくうえでの一級資料となっている。


 万吉の土俵人生は大阪相撲の真鶴部屋から始まった。明治二十八年一月に上京して高砂部屋に入門すると、瞬く間に頭角を現し、一年後には十両に上がっている。

 黒岩の名が注目されるようになったのは、三十年一月場所からである。この場所東十両五枚目だった黒岩は六勝一敗一分一預で十両優勝相当の成績を残し、入幕を決定づけるのだが、十二歳で雷部屋に養子として迎えられ、英才教育によって驚異的なスピードで番付を上げてきた後の横綱梅ヶ谷(二代)を五日目に下し、西十両五枚目からの入幕を阻止している。

 通算では梅ヶ谷の三勝一敗一預だが、入幕も三役も大関昇進も常陸山より速かった梅ヶ谷は若い頃から横綱候補であり、取りこぼしも極めて少なかったため、五度対戦して負けたのは三番なら、平幕止まりの力士にしては健闘した方であろう。

 黒岩は一七九センチ八十六キロという痩身ながら、吊り技を得意とし、重量級力士も櫓で吊り上げて振り回す豪快な相撲に人気が集まった。

 写真、映像ともに未発見のため力士像を想像しづらいかもしれないが、昭和四十年代に活躍した若浪順が体格と取り口が酷似している。若浪は一七八センチ、百キロ弱という痩身ながら、決まり手の大半が吊り出しとうっちゃり、時には軽量らしからぬ櫓投げも見せた個性派だったため、平幕の常連ながら(最高位小結)、不思議な人気があった。若き日の三重ノ海、輪島をカモにし、平幕優勝までやってのけた意外性も含めて、若浪とオーバーラップさせれば、黒岩の力士像ももう少し鮮明になってくるかもしれない。


 新入幕の三十一年一月場所は、足の腫瘍が悪化して一日だけ休場したものの、再び土俵に戻って五勝四敗一休で勝ち越すなど、根性のあるところを見せている。体調は今ひとつながら、この場所も三日目に後の巨人横綱大砲(当時は小結)に、五日目には前場所に新入幕で優勝した荒岩に土をつけており、とりわ二場所連続優勝中の荒岩を破った一番は見ものだった。

 荒岩の少々強引な上手投げを残した黒岩は、そこから軸足に足をからめて、そのままもたれかかり、逆に荒岩をひっくり返してしまった。黒岩は重量級の力士であろうが起重機のような吊りで腰を浮かしてしまうパワーを秘めていたが、そこで踏ん張られると、体を預けるような外掛けで切り返すのも巧みだったのだ。

 十両同士で対戦した二十九年五月場所では、荒岩が黒岩を下して十両優勝し、その勢いそのままに新入幕の三十年一月場所、五月場所を制してきたことで、荒岩の方に油断がなかったとは言い切れない。実際この場所も好調の荒岩は七勝一敗一預で黒岩以外には負けなかったが、この一敗が響いて七勝〇敗二分の鳳凰(大関)に三連覇を阻止されている。 

 また本場所ではないが、四月に催された東京・大阪の合併相撲では、東京から大阪に移籍したばかりの若島を破り、一月場所での借りを返した格好になったが、若島は後に大阪相撲で横綱に推挙された大物である。

 大阪、京都相撲の横綱はせいぜい東京の三役程度の実力と見なされることが多いが、若島だけは別格で東京の横綱と遜色のない実力の持ち主だった。

 体調が回復して臨んだ三十一年五月場所は成績こそ五勝四敗一休ながら、内容的には入幕以来最高といっていいほどの出来だった。

 三日目の荒岩戦は好角家注目の一番だった。前場所の荒岩の敗北は、彼の実力からして単なる油断と思われていただけに、幕内随一の相撲巧者が大物食いの黒岩をいかに料理するかに注目が集まっていた。ところが、あまりの呆気ない終わり方に回向院の観客も驚きを隠せなかった。

 黒岩は腕力で優る荒岩と堂々四つに組んだかと思うと、いきなり櫓で高々と吊り上げた。軽量力士の強引な吊りを足をばたつかせることでバランスを崩そうとするのは相撲の常道だが、黒岩は一旦吊り上げた荒岩を今度は土俵に叩きつけるかのように吊り落としたからたまらない。落とされた荒岩は踏ん張りきれずに、右膝をついてしまい勝負あった。

 横綱小錦に初顔から二連勝にして名を挙げた荒岩が平幕に連敗したことは大きな衝撃だったが、ほぼ同期の二人は関係者の間では入幕前から将来は大関の器という声もあったほどの有望株で、実力的には拮抗していた。ところが、一場所早く入幕した荒岩が新入幕から二連覇の偉業を達成したことで、番付上は大きな開きができたため、黒岩の勝利が番狂わせのように見なされただけのことである。

 四日目に前場所の優勝力士で綱取りがかかっていた鳳凰まで下したことで、黒岩の底知れぬ強さに幕内力士たちも警戒感を抱くようになった。

 鳳凰も腕力自慢の力士で、組めば磐石と思われていたが、またしても黒岩が強引に吊ろうとし、それを鳳凰がこらえたところで、右外掛けで重心を乗せた足を刈ると、脆くも腰砕けになってしまった。

 鳳凰は身長一八〇センチ、体重一二五キロを超える屈強な体格で、出足は早く、組めば泉川で極めてから寄ってゆく堂々たる相撲ぶりから横綱候補と目されていたが、腰が伸びた時はいわゆる一枚腰でねばりがないのが唯一の難点だった。

 黒岩はそこを突き、鳳凰の身体が伸び切ったところを外掛けで倒したのである。

 敗れた鳳凰はこの場所初黒星から調子を崩し、五勝三敗一預で横綱昇進は白紙に戻ってしまった。それどころか、過去に優勝三回の実績を誇る名大関の土俵人生もここから急な下り坂に差しかかってゆくのである。

 黒岩最後の場所となった三十二年一月場所も、五日目に黒岩に不覚をとった鳳凰は翌日から休場に追い込まれ、綱の機会は再びめぐってくることはなかった。

 この場所の黒岩は前頭二枚目で四勝三敗二分一休という平幕上位にしてはまずまずの成績で、二場所連続で大関を破っているという内容からしても、上位の成績次第では三役も夢ではなかったが、残念ながら翌場所の番付では二枚目のまま据え置きとなっている。

 すでに一月場所の最中から心臓の痛みを訴えていた黒岩は、大事をとって五月場所は全休し、巡業にも帯同せずに療養を続けていたが、九月には帰らぬ人となった。

 対大砲 一勝二敗 対梅ヶ谷 一勝三敗一分 対若島 一勝二敗(含合併相撲) 対鳳凰 二勝一敗 対荒岩 二勝一敗 と新旧の横綱・大関と互角に近い成績を残していることから、黒岩は健在であれば、来るべき梅常陸時代の名脇役になった可能性は高い。特にこれから名大関への道を歩んで行った荒岩からすれば、合い口の悪い黒岩がいなくなったおかげで星勘定で有利になったといえるかもしれない。


明治初期の大阪相撲は実力的に東京を凌駕していた。その大阪で大関として活躍した讃岐高松出身の黒岩重太郎は明治八年の三都合併相撲で東京相撲の第一人者だった梅ヶ谷(大関)と引き分けて名を挙げたが、明治十年代に入ると人気実力ともに東京相撲に逆転されたため、その名声も尻すぼみになった。

 以後、関西の相撲は次第に廃れてゆき、やがて東京に合併吸収されるが、協会そのものが現存しないこともあって、資料も散逸し、9代陣幕重太郎を襲名しているにもかかわらず、現在では黒岩重太郎の本名、生年月日さえ不明のままとなっている。

 また京都、大阪で綱を張った力士のほとんどが今日の相撲協会では横綱として認められていないのと同様に、関西の大関もごく一部を除き東京の平幕程度の実力と見なすのが今日では一般的である。

 したがって大阪相撲で大関を張った黒岩重太郎といえども、東京相撲の興隆期にあたる明治三十年代の土俵で一時的とはいえ人気力士として活躍した黒岩万吉に比べると存在感が薄いのはやむをえないことかもしれない。

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