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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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番外編2 樺太の太陽 若乃森 義光(1914-1982)

入幕まで若浪の四股名で相撲を取っていたが、戦後の相撲ファンにとっては優勝経験もある若浪順の印象が強いため、紛らわしさを避けて十両陥落後の若乃森の四股名を表題にした。力士としてはマイナーなので、

名物力士とは言い難いが、番付の出身地に樺太と表記された唯一の関取であることから、埋もれさせてしまうのは惜しいと考え、ここに紹介することとした。

 若乃森こと若林義光は番付で樺太出身と表記されている唯一の幕内力士であった。

 実際の出生地は北海道上川郡東川町だが、九歳で両親とともに樺太に渡り、成年までそこで過ごしたため、相撲協会には出身地を樺太名好郡恵須取町と登録していた。

 樺太中部に位置し、炭鉱業と製紙業で栄えた恵須取えすとる町は、最盛時には人口四万人弱を抱える樺太最大の都市だったので教育環境も良かったようで、立浪親方の令息高木友之助が府立三中(現在の両国高校)に入学するまで得意科目の地理を教えていたという。

 友之助氏は東京帝大を卒業し、中央大学総長を務めたほどの秀才だった。つまり若乃森にはそれほどの優等生が頼りにするほど学力があったということになる。しかも友之助氏がエリート校である府立三中に進学した後も時々勉強を見ていたというから、相当信頼されていたのだろう。

 力士としては大成せず年寄株も持っていなかったにもかかわらず、相撲協会の取り計らいで大島の名跡を継承し、立浪部屋の部屋付き親方として協会に残れたのは、事務処理能力の高さを買われたからだが、力士が指導力ではなく実務能力で高い評価を受けるというのは稀な例であろう。

 若乃森は立浪令息の家庭教師だけでなく、現役中から在郷軍人会の副分会長も兼任していたため、デスクワークも折り紙付きだったようだ。

 なぜ力士である若乃森が在郷軍人会と関係があるのかというと、実は彼の前身は軍人だったのだ。

 それも満州事変末期の山海関の激戦(昭和八年一月)に参加し、勲八等の叙勲を受けるほどの活躍を見せた陸軍の勇士である。おそらく彼の地理の博学な知識は外地での任務で身につけたものだったのだろう。

 長らく軍務に就いていたため、昭和十年に立浪部屋に入門した時は二十歳を過ぎていたが、身長一七六センチ、体重九〇キロと新弟子にしては立派な体格をしていたうえ、外地で戦闘を経験してきただけあって根性も座っていたので、入門当時から将来を嘱望されていた。

 年齢的には名寄岩と羽黒山と同学年ながら、入門が遅かったせいで出世争いでは遅れをとったとはいえ、三段目での優勝をはじめ序ノ口から五場所連続勝ち越しで十三年夏場所には十両に上がっている。これは羽黒山に匹敵するハイペースで、後に大関になった名寄岩よりも速い。

 昭和十年代前半の立浪部屋は双葉山を筆頭に有望株の力士が目白押しで、四つ相撲、押し相撲、手取りなど取り口も多様だったため、稽古相手には事欠かず、新弟子にとっては最適な相撲環境と言えた。

 若浪の四股名で負け越し知らずのまま十両に上がった時は、このままの勢いで早々に入幕するものと思われたが、十四年夏場所前に心臓脚気を患い、十両四枚目まできて初めてのつまづきを経験した。

 本人はいたって練習熱心なのだが、いかんせん心臓の疾患ですぐに息が上がるようになり、稽古不足が引っ張る形になったのは致命的だった。

 それでも十五年春場所に東十両六枚目で十一勝四敗の好成績を残し、夏場所での新入幕を勝ち取ったところはさすがだった。時に立ち合いの変化も交えながら中盤までは厳しい相撲が続いたが、押されていても、得意の吊り技で櫓に振ったり、打棄ったりと際どい勝負をモノにしていったことで終わって見れば、十両優勝と同点まで星を戻すことができた。

 ところが、幕尻(前頭十九枚目)で遅ればせながら入幕を果たした十五年夏場所は、幕内中位あたりのガタイの良い力士に力負けする相撲が増えた。元々受身に回ると力を発揮できないところがあったが、相手から一気呵成に出てこられると、ふんばりが利かずにいとも簡単に土俵を割る覇気のない相撲が目立ち、疾病からくる体力的な衰えは隠しようがなかった。

 幕内は一場所で陥落したため、四股名を若乃森に変えて再起を試みるも、そこから三場所連続で負け越してしまい、十両陥落が決定的となった十七年春場所を最後に現役を退いた。


 若乃森が入門した頃は、樺太出身の相撲取りは彼一人だった。その後、昭和十三年に出羽ノ海部屋に樺太真岡町出身の中島秀夫が十四年には同じ真岡町出身の端清隆が立浪部屋に入門した。

 中島は幕下止まりだったが、端は清惠浪きょえなみの四股名で戦後に入幕し、若乃森を超えて前頭二枚目まで番付を上げている。しかし、清惠浪が十両優勝して入幕した二十四年に樺太政庁が廃止されおり、彼自身も内地転居後は石川県民になっていたため、若乃森のように樺太出身の関取として注目を浴びることはなかった。

 樺太出身者として最も著名な力士は大横綱大鵬だが、彼が二所ノ関部屋に入門した頃には樺太生まれや樺太在住経験者の帰属意識が希薄になっていたのに対し、若乃森の現役時代は南樺太が日本領だったため、今日もそうであるように、力士の出身地の応援の力の入れようは相当なものだったと考えられる。

 若乃森が活躍した十四年から十六年頃というと、相撲は職業野球とは比べ物にならないほどの人気スポーツであり、本場所の他に準本場所として満州場所や北京場所が開催されていたほか、朝鮮や台湾などの外地での巡業も盛んに行われていた。

 今日でこそモンゴルやウクライナ、ジョージア、エストニア、ブルガリアなど海外出身の力士が日本の土俵に上がり、相撲も国際的な知名度を得ているが、まだ国際交流がそれほど盛んでなかった時代に、朝鮮、台湾、樺太、ハワイ出身の力士が土俵を賑わせていた昭和十年代後半の角界はまさにスポーツのグローバル化を先取りしていたといってもいいだろう。

 そういう時代に樺太という看板を背負い、樺太のファンたちのために土俵に上がり続けた若乃森は北海道よりもずっと北の極寒の日本人町を照らす太陽のような存在だったに違いない。

清惠浪は出世が遅かった代わりに現役生活は長く、引退した昭和三十五年までに計三十六場所幕内を務めている。部屋付き親方となった若乃森(年寄大島)と違い、立浪部屋から独立して中川部屋を開いたが、弟子には恵まれなかった。それでいて協会監事(副理事長に相当)まで昇進しているところを見ると、大島同様、実務に優れていたのだろう。

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