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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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番外編4 大相撲九州場所事始め ー九州場所のルーツを探るー 前編

 これまでは個々の力士のエピソードを紹介してきたので、ちょっと趣向を変えて、私の地元である福岡で開催される大相撲九州場所が昭和三十二年から正式に本場所となるまでの九州、福岡の相撲の歴史について掘り返してみることにした。


 九州は古来、相撲の盛んな土地柄であった。

 聖武天皇の代に、毎年七夕祭の儀式に天覧相撲を行うようになったのを機に、相撲は貴族の間でも愛好されるようになり、平安時代初期には宮廷行事の『相撲節会』として制度化された。この伝統行事は源平の争乱の最中、承安四年(一一七四)を最後に断絶したが、『相撲節会』時代の最強力士の一人として今日も崇められているのが、豊後国日田郡司を務めていた大蔵永季である。

 延久三年(一〇七一)、後三条天皇からの招きで宮中の相撲節会に初めて参加した十六歳の永季は、長治元年(一一〇四)まで、招かれること十五回に及び、一度も負けることがなかったという。初参加の際に太宰府天満宮に参詣して勝利を祈願したことから、筑前福岡にも永季勧請の神社が数多く残っている。また、故郷の日田神社では「日田明神」として祀られ、歴代の横綱・大関が数多く参拝している。

 鎌倉時代には武技の一つとして武士の間で流行した相撲は、元寇以降の社会混乱の中で次第に廃れてゆくが、戦国の世になったところで再び息を吹き返す。戦国大名子飼いの力士集団が、今でいうところの格闘技興行のような形で各地を巡業するようになったのである。職業相撲の始まりである。

 一種の神事であった相撲が見世物的要素を帯びてくるようになると、この頃芸能として確立した能が社寺への寄付興行である勧進能として広がり見せていたことに迎合するかのように、相撲も勧進相撲として大衆文化の中に溶け込んでいった。それに応じて広場での格闘的要素が強かった相撲が、今日のように土俵という限られた空間の中で様々な技を出し合うというより芸術性の高いものへと進化してゆくきっかけとなったのが、土俵という枠の設定である。

 土俵の始まりには諸説あるが、『大友興廃記』にある大友宗麟の治世下の豊後府内で催された上方力士による勧進相撲の話は、時期を特定するうえでの参考となっている。

 府内の力士たちをあらかた片付けた上方力士団が、その場に居合わせた九州一の怪力で名高い宗麟の家臣原大隅守に勝負を申し入れたところ、相撲経験のない大隅守は、大竹を一節ずつ指でつぶしてからねじりあげて端と端をつないで円状にすると、「私は相撲はよくわからないから、この枠から出たものを負けと決めよう」と提案した。

 それを見ていた上方の力士たちは、大隈守の人間離れした怪力にぶるってしまい、戦わずして全員その場から退散したそうである。土俵の成り立ちに関してはこれ以外にも様々な説があり、時期、考案者の特定は困難だが、少なくとも室町時代の終わり頃には土俵の中で相撲を取るという形式が定着していたようである。

 ローマ時代のコロッセオにしかり、円形のフィールドで技を競うという発想は古代からあったが、狭い円の外に出ただけでも失格となるという規則が、相撲という格闘技を単なる力比べからより多彩な技術と戦略を要する競技へと変え、その娯楽性の高さから戦国武将たちもこぞって相撲興行を行うようになったことを考えると、土俵の定着は相撲史の中では革命的な出来事といっても過言ではないだろう。

 織田信長、豊臣秀吉は大の相撲好きで、各地から数百人単位で力士を集めて興行を行ったというから、今日の本場所の規模を凌いでいた。ただし、定期的ではなく不定期に開催されていたため、力士個人の記録も継承されず、そもそも番付もなかったため、力士の地位は曖昧なものだった。

 それでも戦国大名たちにとって怪力無双の力自慢を家臣として召し抱えることは一種のステイタスとなっており、秀吉は四国一の強者と謳われた徳猪之丞を二千石で召し抱えていたというから、相撲が強ければ平民でも上級武士並みの好待遇が期待できたようだ。戦場で手柄を立てようと命を張って戦っている武士でもそうそう与れない待遇である。


 江戸時代に入り政治が安定すると、代表的娯楽の一つである職業相撲はますます盛んになり、各地で勧進相撲が催された。江戸の初期までの勧進相撲は前述の上方力士の巡業のように、職業力士団が勧進方となり、寄方と言われる地元の力自慢たちの集団との対抗戦形式で行われていたが、大名お抱えの職業力士が増えてくると、職業力士同士の対戦に注目が集まるようになった。

 寛永元年(一六二四)六月に四谷塩町で明石志賀之助が行った晴天六日間の興行が、今日の大相撲のルーツにあたる職業力士同士による最初の江戸勧進相撲と言われており、その後正保二年(一六四五)に京都で、元禄五年(一六九二)に大阪でも職業力士同士の対戦興行が催された。

 定期的な相撲興行が確立したのは、江戸時代の中期からで、江戸、大阪、京都の三都に仙台、名古屋、和歌山、岡山、長崎を加えた三ヶ津五場所を中心に各地で催されるようになった。

この頃隆盛を極めたのが大阪相撲で、明和年間(一七六四~七一)くらいまでは江戸を凌ぐ人気を誇り、「大阪で土俵を踏まなければ一人前ではない」とさえ言われた。江戸相撲が一大勢力となるのは、番付上の最高位である大関に加えて尊称としての横綱が制度化された寛政元年(一七八九)以降のことである。


 筑前福岡もまた江戸初期から相撲の盛んな土地柄であった。

 平戸藩士熊沢猪太郎が著した戦国~江戸初期の武人についての行状記である『武将状情記』(1716年刊)には、寛永の頃、網場町出身の反橋という力士がおり、唐津城下で相撲を取ったところ、腕自慢の足軽や若い侍たちが一蹴されたため、初代唐津藩主寺澤広高の家臣で無双の剛力と謳われた遠山六左衛門が藩の面子をかけて反橋と対戦し、反橋を地面に叩きつけて失神させたという逸話が記されている。ところが博多では、反橋が唐津で相手力士を投げ飛ばした際、打ち所が悪くそのまま亡くなったため、藩主広高や亡くなった力士の親類縁者が立腹し、後難を恐れた反橋は博多へ逃げ帰ったと伝わる。

 その後、反橋は富士ノ山十左衛門と名を改め、自宅の庭に土俵を作り、近隣の人々が見物する中での相撲に興じていたようだが、流れ者との相撲で一勝一敗と引き分けた後、にわかに体調を崩して病死したらしい。

 両説が真逆の結果に言及しているのは、どちらかの藩が屈辱的な敗北を糊塗したかったからであろう。中立的なのは福岡にも唐津にも属さない熊沢だが、唐津藩主寺澤広高は領地天草の石高を改ざんして住民たちを苦しめたうえ、自身も一時期はクリスチャンでありながら、禁教令(一六一四年)以降は一転してキリスト教徒に対し過酷な拷問を行い、後の島原の乱の要因を作ったエキセントリックな大名である。都合の悪い結果を改ざんすることに良心の呵責などなかっただろう。

 とはいえ、同時代の福岡藩主黒田忠之も、父長政が藩主を継承させることにためらいを感じたほどのドラ息子である。傲慢で放蕩癖があり、重鎮からも見限られた結果、いわゆる「黒田騒動」によって改易の危機を招いたほどの愚鈍な藩主だけに、こちらも相当な自尊心の持ち主だったことが伺える。ただし、熊沢が行状記に着手していた時期の藩主は貝原益軒を抱えて藩の歴史書の編纂に当たらせるなど学問に造詣の深い光之であったことを考えると、博多の伝承については手心を加えず、そのまま後世に残した可能性が高い。

 筑前福岡藩三代藩主光之は相当な相撲好きで、同じく相撲好きの讃岐丸亀藩主京極高豊に博多生まれの五力士を進呈した記録が残っている。元々黒田家と京極家は遠い血縁関係にあるうえ、後に黒田家は京極家から末期養子に迎えた治高を八代藩主としているほど密接な関係を持っていたので、”パンダ外交”ならず”力士外交”という形で両家の結束を強めていたものと思われる。

 この時丸亀に送られた五力士のうちの唐糸は、後に上方で相撲を取り、元禄十五年(一七〇二)に上方相撲が博多興行を行った際には一行の世話役として興行を仕切っていたという。

 同年には筥崎八幡宮の勧進相撲が二度行われたほか、各地での小規模な相撲興行も大盛況だったが、福岡藩はすでに忠之以来の失政が祟って財政難に陥っており、勧進相撲も金に糸目をつけない大興行だったため、かえって負債が増えてしまった。結果、相撲人気が高まり続ける中、藩は緊縮財政へと梶を切り、元禄十五年秋の勧進相撲を最後におよそ四半世紀もの間、博多での相撲興行は行われなかった。


 番付が作られるようになったのは元禄年間と伝わるが、現存する最古の番付が宝暦七年十月(一七五七)のものとされているため、現在の日本相撲協会が横綱と認定する明石志賀之助、綾川五郎次、丸山権太左衛門を除き、当時の文献に記されているだけの大関力士は歴代の大関としてはカウントされていない。

 記録に残る福岡出身と思われる最古の大関は元禄五年(一六九二年)の大筑紫磯之助だが、ほとんど素性もわからないうえ、当時の慣わしでは出身国名はお抱えの大名の知行国であるため、力士自身の出身地とは限らない。

 三年後の元禄八年(一六九五)に江戸相撲が西門外の古崎で博多興行を行った際に、博多力士側の筆頭として江戸力士たちと対戦したこの時期の博多きっての強豪力士金碇仁太夫にしても、元禄十五年に大関になったという文献はあるが、出身地などの詳細が不明のため、公式には大関とは認められていない。これは興行を盛り上げるために”自称”大関を名乗った力士がいる可能性も無視できないからであろう。

 番付がなかった時代の明石志賀之助が初代横綱と見なされているのは、元横綱の陣幕が『相撲鬼拳』という宝暦年間(一七五一~六四)の文献の中に過去に「日の下開山」と称された八人の力士名を見つけ、その中で最も古く、江戸勧進相撲を最初に催した明石を初代横綱として明治二十八年に深川八幡宮に建立した横綱力士碑にその名を刻んだことによる。

 

 力士の尊称である横綱は、一七四九年に横綱免許が下りたとされる三代横綱丸山権太左衛門から文献上では記録が残っているが、厳格に制度化されたとことで、四代谷風や五代小野川が賜ったような横綱免状が現存せず、戦績さえも不明とあって、場所ごとの取組み記録が現存する谷風以降を正式な横綱と見る向きもないわけではないが、丸山は宮城県苫米郡と出身地がはっきりしているうえ、巡業中に赤痢らしき流行病で亡くなった長崎に墓所があることから、実在の力士であることは間違いない。

 微妙なのが二代横綱とされる栃木県栃木市出身の綾川五郎次である。享保年間に大関を張り、明和二年一月二十二日(一七六五)に没したと伝わるが、横綱免許に関する記録が見当たらないことから、横綱と見なすには論拠に乏しい。

 それでも谷風、小野川が同時に横綱に推挙された際、勧進元を務めた浦風、伊勢ノ海が幕府に提出した書類の中に「その儀は先年、丸山権太左衛門、綾川五郎次などと申すものども、右横綱伝授申請候儀に御座候・・」という下りがあることを理由に、綾川は明治に入って明石とともに横綱として便宜上追加承認された可能性が高い。

 彼らとは逆に、先の「日の下開山」と称された力士の中の一人、大分県下宗方出身の物見山団蔵が、横綱候補どころか今日では地元大分でもほとんど忘れ去られているのは、番付がない時代ということもあって、公式記録が存在しないばかりか、同時代の文献の中に横綱や大関といった番付上の地位に関する言及がなされていないからである。

 元禄十四年(一七〇一)生まれの物見山は、一四歳で臼杵藩主稲葉公のお抱えとなり、元文二年(一七三七)、根〆金団蔵の名で出場したに大坂恒例の天満相撲に全勝、京都の祇園囃子奉納相撲大会にも優勝し、同時代最強の声も高かった。

 豊後府内(大分県)は、大友宗麟の時代から九州一といっても過言でないほど相撲が盛んな土地柄だけに、物見山の名は出生地の近隣でこそ伝承され、記念碑も存在しているが、相撲の歴史の中では存在感は薄いと言わざるをえない。

 

 享保十二年(一七二七)八月二十三日から十四日間、博多で久しぶりの相撲興行が行われた。東西合わせて七十名の力士による大掛かりな対抗戦だけあって、黒田家の後援の下、一切を取り仕切る相撲奉行が設置された他、相撲掛の医者(内科二名、外科一名、針科一名)が待機し、町奉行、博多の平行司、福岡の月行司まで総出で加勢するという入れ込みようだった。

 長らく相撲興行が行われなかったのは、黒田藩の財政が逼迫していたからであり、相撲熱の低迷のあおりで強豪力士も育たなかった。そのため江戸相撲の東大関に対抗しうる西方がおらず、土地相撲の猛者で鳴らした甚四郎という志摩郡の船持ちの親方を、西大関嵐山甚四郎として立てる窮余の措置を取るはめになった。

 大関嵐山の戦績が全く残っていないことから、所詮は箸にも棒にもかからない素人相撲だったのかもしれないが、大々的な宣伝が功を奏して、筑前国津々浦々から見物客が詰め掛ける大盛況で、この興行は藩に大きな利益をもたらした。

 ところが、その五年後に黒田藩は飢饉に見舞われて財政もどん底に落ち込んだため、せっかく再燃した相撲熱もまたたく間に引いてしまい、そこからまた百年余りも相撲興行とは無縁となった。

 筑前福岡の相撲が廃れてゆく一方で、江戸相撲に次々と強豪を送り込んだのが肥前長崎であった。


 明和六年(一七六九)肥前島原出身の玉垣額之助は、大阪相撲で千田川の四股名で活躍した後、江戸に出て雲州松平家(島根)のお抱えとして大関まで昇進したが、かの雷電為右衛門と同じ片屋だったため大関の席が空かず、雷電の引退まで十五年二十九場所も関脇の座に甘んじていた。

 大関になった時はすでに四十歳を超えており、在位はわずか一場所に過ぎないが、優勝二回(同点三回)という堂々たる成績を収めている。

 この玉垣の門弟となったのが、同郷の越ノ海勇蔵で、先代の死後、玉垣額之助の四股名を継承し、先代に続いて大関の座を占めている。六尺三十貫という当時としては大型だった先代に比べると小兵であったが、先代をしのぐ相撲巧者で、優勝五回(同点二回)を記録している。

 優勝十八回のライバル大関柏戸利助とともに江戸相撲で一時代を築いた玉垣は、優勝回数こそ柏戸に差をつけられてはいるものの、通算成績では七勝五敗一分一預と勝ち越しており、実力的にはほぼ互角であった。文政六年(一八二三)六月には、その活躍ぶりが認められ、京都の五条家から両者に対して横綱免状が下りている。

 にもかかわらず柏戸、玉垣ともに歴代横綱にカウントされていないのは、現在横綱免許の授与権を持つ肥後(熊本)の吉田家が認めていないからである。

 横綱免許の授与は今日に至るまで吉田豊後守を祖とする熊本の吉田司家の特権に属している。吉田司家は代々節会相撲の行司官を務めており、文政十年(一八二七)には江戸相撲方取締役として権威を高めた。同時期に京都の五条家も地元では幅を利かせていたが、後年、京都相撲の没落に伴い発言力を失っていった。

 玉垣、柏戸の時代は新興勢力である吉田家の進境著しく、同家から圧力をかけられた柏戸が辞退したため、京都で横綱土俵入りを計画していた玉垣もこれを断念するはめになった。江戸相撲における玉垣の実績は、今日の基準に照らせば横綱にふさわしいもので、五条家、吉田司家によるくだらない勢力争いがなければ、九州初の横綱の栄誉を担っていたところだった。

 

 天保六年(一八三五)六月十五日から博多の東中洲でかつてないほどの大物力士一行による晴天十日間の相撲興行が開催されるはこびとなった。これは江戸相撲では文政三傑と謳われたうちの二人、横綱稲妻雷五郎と大関緋縅力弥を含む一行による九州巡業の一環として行われることになったものだが、緋縅が平戸松浦家(長崎)のお抱えだったことも大きいと思われる。というのも緋縅は文化十四年(一八一八)に玉垣門下に入った玉垣の愛弟子だったからだ。

 緋縅は京都出身だが、師匠が長崎出身という縁で松浦家に召抱えられていることから、松浦家からの依頼を受け、文政七年(一八二三)に現役中に亡くなった師匠の故郷に興行という形で錦を飾ることに同意したであろうことは想像に難くない。

 江戸相撲ではここ四年間負けなしの二十九連勝を誇る横綱稲妻の名声は全国に轟き、優勝二回の緋縅は錦絵が飛ぶように売れたという角界きっての美男力士とあって、この官民一体の興行は筑前のみならず隣国からも大勢の観客が押し寄せるほどの評判をとった。

 十日間の興行が終わると、引き続き箱崎で藩主黒田長溥公御覧の上覧相撲が行われ、緋縅が四つから稲妻を腹櫓に乗せて寄り切り大喝采を浴びたという。緋縅は弓取り式まで自ら行い、ご満悦の長溥公は東西の力士に玄海の大鯛三十枚を下賜されたそうだが、財政の苦しい黒田藩が九州では最高級の大鯛(料亭なら五万は超えるだろう)をこれだけ奮発したところをみると、興行的にも大成功を収めただけでなく、本場所では同じ西方で対戦のなかった緋縅と稲妻の取り組みが見られ、緋縅の番狂わせの勝利に感銘を受けたからではないだろうか。

 ところがせっかく盛り上がった相撲人気も、天保七年の大水害が藩政を圧迫したうえ、長溥公が歌舞伎以外の娯楽に関心を持たなくなったことで、またしても一時的なもので終わっている。

 天保十年の番付に張出前頭として登場した生月鯨太左衛門は、相撲が盛んな平戸藩の出身で相撲史上最高の二メートル三〇センチの大巨人だった。あくまでも見世物的な看板力士であり、本場所での記録は三勝二敗に過ぎないが、集客 効果は絶大だった。この生月より二十年ほど前に細川家のお抱えとして江戸に出た肥後出身の大空武左衛門も二メートル二十八センチというこれまた雲をつくような大男だったが、こちらは錦絵が飛ぶように売れるほど人気が出ても相撲は取らず、客寄せパンダに徹していたようだ。

 これらの巨人力士と同じく集客のために各地でスカウトされたのが怪童と呼ばれる肥満体の子供力士である。中でも有名なのが出羽出身の大童山文五郎で、七歳にして一メートル二〇センチ、七十一キロの超肥満体のあどけない土俵入りが大変な評判となり、写楽らの浮世絵の題材にまでなった。

 成人男子の平均身長が一五〇センチ台と小柄な江戸時代に、二メートルを超える巨人というのはほとんどが成長ホルモンの異常による一種の病人であったため、まともに相撲を取れる者はごくわずかで、大半は二十代で没している。

 それにしても病的な巨人といい超肥満児といい、集客のために奇異な容貌の者を見世物にするこの時代の発想は第一次大戦後の欧州や日本で流行したエログロの風潮を思わせる。

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