第5話 港区から出ろ
悠人は、営業を終えた小さな事務所の共用部へ入り込んでいた。
正確には、ビルの一階にある休憩スペースだった。入口の自動ドアは閉じていたが、完全には施錠されていない。清掃用の台車が横に置かれ、誰かが急いで出ていったように、ペットボトルが一本だけ床に残っている。
悠人は中へ入り、すぐに入口から離れた。
長くいるつもりはない。
窓の外を確認し、地図を見て、次の移動先を決める。
それだけの場所だ。
テーブルの上に、ビルの案内図が置かれていた。
悠人はスマートフォンの地図と見比べた。
現在地は、港区の内側にある。
北へ進めば新橋方面へ出られる。だが、大通りは車と人で詰まっている。地下鉄は封鎖され、駅の入口にも規制線が引かれている。地下通路へ入れば、人の流れと出口が見えなくなる。
それは避けたい。
大通り。
地下。
人が集まる場所。
ここまでの経験で危険だと分かったものを、地図から消していく。
残ったのは、生活道路と、建物の裏側をつなぐ細い道だった。
最短ではない。
しかし、最短距離を選んだ結果、車列の前で立ち止まることになれば意味がない。
悠人はリュックを開いた。
水は残り少ない。
携帯食はある。
モバイルバッテリーもある。
ただ、映画で見る主人公の荷物と比べると、ずいぶん軽い。
ナイフもない。
銃もない。
車もない。
あるのは、コンビニで買った水と、使いかけの消毒液と、ゾンビ映画のメモだけだった。
悠人は、メモを見た。
そこには、映画のタイトルと、ゾンビの種類、登場人物が失敗した行動が書かれている。
「役に立つの、そこじゃないんだよな」
映画では、ゾンビの設定を知っていれば危険を避けられる。
現実では、どの道路に何体いるのかを確認するだけで疲れる。
悠人は、窓の外を見た。
通りの向こうに、規制線が見える。
警察車両が止まり、拡声器から繰り返し案内が流れている。
「危険区域内にいる方は、係員の指示に従ってください」
言っていることは、間違っていない。
危険区域を管理しなければ、さらに人が出入りする。
安全な場所へ誘導しなければ、パニックが広がる。
ただし、規制線が増えるほど、港区の中に残された人間は出にくくなる。
悠人は、スマートフォンで行政の通知を開いた。
指定避難場所の案内が出ている。
体育館、公共施設、駅周辺の一時待機場所。
人を集めて、まとめて管理するための場所だ。
それ自体は合理的だった。
一人ずつ探すより、避難先を決めた方がいい。
だが、そこへ向かう道に人が集まり、負傷者が混ざり、誰も傷を確認しなければ、避難場所の中が安全とは限らない。
悠人は、向かいの部屋の住人を思い出した。
水を渡した。
消毒液も包帯も渡した。
それでも、向かいの部屋から血の跡が伸びた。
助けることと、安全を確保することは同じではない。
テレビでは、危険区域の設定について説明していた。
「現在、港区内の一部地域では、警察および関係機関による安全確保が進められています。不要不急の外出は控え、指定された避難場所へ向かってください」
悠人は、窓の外と画面を交互に見た。
画面には、避難場所へ向かう人々の映像が映っている。
現場の道路では、車が止まっている。
映像の端では、係員が人を誘導していた。
まだ、完全に崩れてはいない。
だからこそ、時間がなかった。
封鎖が完成したら、危険なものが外へ出ない代わりに、自分も内側へ残る。
「待ってたら助かるんじゃない」
悠人は、窓へ向かって言った。
「待ってたら、出られなくなる」
自分で声に出すと、判断が少しだけ固まった。
新橋方面へ行く。
大通りを避ける。
地下へ入らない。
人が集まっている場所へ近づかない。
建物へ入るときは、出口を先に確認する。
他人と接触するときは、傷と退路を見る。
走り続けない。
見つかる前に曲がる。
悠人は、地図に細い線を引いた。
港区の中で歩き慣れた道をつなぎ、混雑した通りを避ける。最終的には新橋の北側へ出る。規制線が増える前に、区域外へ抜ける。
リュックを背負い直した。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
会社の社長からの着信だった。
悠人は、出るか迷った。
社長の名前を見て、ため息をつく。
二代目社長で、会社を自分の家のように扱っている。高い店の話と、最上階のタワーマンションの共用施設の話をよくする人間だった。社員の暮らしぶりを値踏みするようなところがあり、悠人は以前から苦手だった。
「高橋、無事か」
挨拶もなかった。声の向こうでは、複数の人間が話している。社長は、誰かに指示を出しながら電話をかけているらしい。
「はい」
「今、どこにいる」
「港区内です」
「だったら、こっちへ来い」
命令に近い口調だった。
「うちのタワマンなら安全だからこいよ」
「オートロックもある。非常用電源もある。管理会社が備蓄も出してる。最上階だから、下より安全だ」
悠人は、窓の外に見える高層建物を見た。
社長の住んでいるタワーマンションは、ここから遠くない。
大通りを避ければ、予定経路から大きく外れずに行ける可能性がある。
高層階なら、地上のゾンビは上がってこない。
オートロックなら、勝手に人が入ってこない。
備蓄があるなら、水と食料の問題も解決する。
「分かったな?」
悠人は、電話の向こうの社長を想像した。最上階の安全な部屋から、外を歩く社員へ指示を出している。
どうせ、動かせる人間が欲しいだけだろう。
タワーマンションが地上より多少は安全だという考えは理解できる。オートロックも、備蓄も、高層階も、ないよりはあった方がいい。
ただ、エレベーターが止まれば、逃げ道は非常階段へ集中する。中で感染者が出たら、外へ逃げることも難しくなる。
それに、あんな嫌なやつの指示の下にいたくなかった。
「はい、わかりました」
悠人は、それだけ返事をした。
社長は、悠人が来るものと思ったらしい。場所と入口をぶっきらぼうに説明し始めた。悠人は相づちを打ち、電話を切った。
行くつもりはなかった。
社長の説明では、入口は住民しか入れないことになっていた。
その言葉の中には、安心と危険が両方入っている。
誰かが噛まれていても、住民なら入れる。
外から危険を持ち込めない代わりに、中で発生した危険は外へ出にくい。
エレベーターが止まれば、移動は非常階段へ集中する。
高層階にいる人間が逃げるとき、出口は限られる。
悠人は、窓の外に見えるタワーマンションと、新橋方面へ続く細い道を見比べた。
新橋へ行けば、港区の外へ出られる可能性がある。
タワーマンションへ行けば、しばらく安全に過ごせる可能性がある。
どちらも、可能性だった。
悠人は、リュックの肩紐を握った。
スマートフォンをポケットに戻した。
部屋の外から、遠くのサイレンが聞こえる。
その音に混じって、誰かの叫び声がした。
悠人は、地図を見た。
新橋方面への道。
タワーマンションへの道。
どちらも、同じ交差点を通る。
悠人は、まだ出発していなかった。
だが、救助を待つという選択肢は、もう地図から消えていた。




