第3話 ロメロ型
向かいの部屋から、また音がした。
何かを引きずる音だった。
悠人は、玄関から離れた場所で立ち止まった。部屋の中を見回す。持ち出し用のリュックは、すでにまとめてある。水、携帯食、モバイルバッテリー、財布、身分証、救急用品。
必要なものは入っている。
必要でないものも、少し入っている。
映画のメモを書いたノートを、持っていくかどうか迷った。避難に必要かと聞かれれば、必要ではない。だが、置いていくと二度と戻れない気がした。
悠人はノートをリュックへ入れた。
その直後、向かいの部屋で何かが倒れた。
今度は、はっきりとうめき声が聞こえた。
低い声だった。
人間の声に聞こえる。
だからこそ、部屋に残る理由にはならなかった。
テレビでは、屋内待機を繰り返し呼びかけている。行政の指示としては正しいのだろう。外へ出れば、道路には襲ってくる人間がいる。部屋にいれば、少なくとも玄関と窓を閉めておける。
ただし、この建物の中に感染者がいる場合は別だ。
扉一枚の向こうにいる相手が、いつまで人間のままでいるのか分からない。
悠人は、玄関の鍵へ手を伸ばした。
そのとき、廊下で金属音がした。
向かいの部屋のドアノブを回す音だった。
一度。
二度。
三度。
開いているドアを、閉めようとしているようにも聞こえた。
悠人はドアスコープを覗いた。
男が廊下に立っていた。
片腕を押さえている。顔は下を向いていた。
男は、自分の部屋のドアを閉めようとしていた。だが、手がドアノブに届かない。届いても、力の入れ方が分からないように何度も同じ動作を繰り返している。
鍵は、ドアの外側に刺さったままだった。
男が鍵を抜く。
一歩下がる。
また鍵を差し込む。
悠人は、映画で見たゾンビの動きを思い出した。
感染者が、人間だったころの行動を繰り返す。
帰宅する。
ドアを開ける。
鍵を閉める。
ただし、目的はもう残っていない。
「それ、帰宅じゃなくて、入れないだけだろ」
自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。
男が顔を上げた。
視線が、ドアスコープの方向へ向いたように見えた。
悠人は反射的に後ろへ下がった。
男が、こちらへ歩いてくる。
廊下の幅は狭い。
悠人の部屋と向かいの部屋の距離は、数歩しかない。
男の足が、ゆっくりと近づいてくる。
悠人は玄関から離れ、部屋の奥へ下がった。
この部屋の窓は、外廊下とは反対側にある。道路に面しているが、建物の裏手に小さな階段があった。普段はゴミ出しのときに使うだけの、非常用に近い階段だ。
そこへ逃げるしかない。
そう考えたとき、窓ガラスが鳴った。
悠人は振り返った。
窓の外に、人影がある。
外階段を回ってきた別の感染者が、ガラスへ手をついていた。
指が、窓を探るように動く。
一度、手のひらがガラスへ当たった。
二度目の衝撃で、窓に細いひびが入った。
悠人は、玄関と窓を見比べた。
廊下側からは、向かいの男が近づいている。
窓の外では、ガラスが次の衝撃を待っている。
「選んでる時間、ないだろ」
悠人はリュックを背負い、窓の鍵を開けた。
窓を押し上げる。
朝の空気が入ってきた。
冷たいというより、外の音が近くなった。
遠くでサイレンが鳴っている。
背後で、玄関のドアが揺れた。
男が、外からドアへ体当たりしたらしい。
同時に、窓ガラスへ三度目の衝撃が加わった。
ひびが、横へ伸びた。
悠人は窓から出た。
幅の狭い足場へ降りる。
靴の底が、金属の板へ当たった。
音が大きかった。
悠人は手すりをつかみ、身体を低くした。
部屋の中から、ドアがもう一度揺れる音がした。
向かいの男は、悠人の部屋へ入ろうとしている。
鍵は閉まっている。
だが、鍵が閉まっているから安全だとは、もう思えなかった。
悠人は非常階段へ移った。
階段を下りる。
一段目。
二段目。
金属の階段は、踏むたびに小さく鳴った。
音が上へ伝わっている気がした。
途中で振り返る。
男が、窓から顔を出していた。
こちらを見ている。
走ってはいない。
だが、階段へ足をかけた。
悠人は、下りる速度を上げた。
一階へ着く。
裏口の鍵を開け、建物の外へ出た。
道路には、昨日までと同じ街があった。
コンビニの看板。
閉まったクリーニング店。
電柱に貼られた不動産会社の広告。
ただし、人の動きだけが違っていた。
交差点の向こうに、一人立っている。
悠人に気づいたらしい。
顔を上げる。
身体をこちらへ向ける。
ゆっくり歩き出した。
悠人は、道路の端へ寄った。
相手との距離は、まだ十分にある。
走る必要はない。
そう判断した直後、別の路地からもう一人出てきた。
こちらにも気づいた。
一人目と二人目の間に、悠人がいる。
悠人は、短く走った。
路地の入口を曲がる。
背後から足音がついてくる。
速くはない。
遅くもない。
一定の間隔で近づいてくる。
「走らない」
悠人は息を吐きながら言った。
「ロメロ型……」
映画の中では、走らないゾンビは比較的安全な種類だった。
少なくとも、逃げる時間はある。
悠人は角を二つ曲がった。
後ろを確認する。
ゾンビは、まだ見える場所にいる。
だが、距離はほとんど変わっていなかった。
これなら、逃げ続けられる。
そう思った。
三分後、脇腹が痛くなった。
呼吸が浅くなる。
リュックの肩紐が食い込み、足の裏が熱くなった。
悠人は走るのをやめた。
角を曲がり、建物の陰へ身を隠す。
ゾンビは、しばらくしてから角を曲がってきた。
悠人の姿を見つける。
また歩き出す。
「映画だと、ここで主人公は走り続けるんだよな」
悠人は壁に背をつけた。
「現実の主人公、体力がない」
ゾンビが、建物の角へ近づいてくる。
悠人は、反対側の細い通路へ入った。
見つかる前に曲がる。
走るのは、必要な距離だけにする。
大通りへ近づくと、音が増えた。
クラクションが鳴っている。
短い音が、何度も繰り返されている。
悠人は建物の陰から道路を見た。
車が列を作っていた。
交差点の中央で、タクシーが斜めに止まっている。前の車へぶつかっているわけではない。ただ、運転手が降りることも、車を動かすこともできずにいるようだった。
その周囲に、人が集まっている。
人間もいる。
ゾンビもいる。
クラクションの音に引かれるように、歩道から何体も出てきていた。
悠人は、道路から離れた。
アパートからは出られた。
しかし、予定していた大通りは使えない。
スマートフォンが震えた。
危険区域の拡大と、追加の交通規制を知らせる通知だった。
悠人は、画面を見た。
新橋方面へ向かう道の一部に、規制線が引かれている。
最短経路が、また一つ消えた。




