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港区ゾンビ  作者: masa
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第2話 籠城のお作法

悠人は、外へ出ないことにした。


少なくとも、今すぐには出ない。


テレビは屋内待機を呼びかけている。道路では人が襲われている。向かいの部屋には、血を付けた男が戻ってきた。


状況を考えるまでもなく、部屋の中にいる方がましだった。


悠人は玄関のチェーンを確認し、鍵を回した。窓の鍵も閉まっている。カーテンを閉じると、外の道路が見えなくなった。


見えなくなると、少しだけ落ち着いた。


その直後、見えないことが不安になった。


悠人はカーテンを少しだけ開けた。


道路には、さっきより人が少ない。パトカーが一台、交差点をゆっくり進んでいる。サイレンは鳴っていなかった。


遠くで、何かが倒れる音がした。


カーテンを閉じた。


まず、水を確保する。


ゾンビ映画では、いつも誰かがその判断をする。食料、武器、電池、それから水。


悠人は浴槽へ向かい、栓を閉めて蛇口をひねった。水は普通に出た。


いつまで出るかは分からない。


浴槽に水をためる。


空のペットボトル、やかん、鍋、洗面器にも水を入れた。台所に置かれていた二リットルのペットボトルは一本しかない。冷蔵庫には缶ビールが三本、炭酸飲料が一本、牛乳が少し残っていた。


食べ物は、コンビニのおにぎりが二つ。カップ麺が一個。冷凍庫に、いつ買ったのか思い出せない冷凍餃子がある。


悠人は冷凍庫の中を見ながら、自分が映画の登場人物へ向けてきた言葉を思い出した。


――なんで非常時に備蓄してないんだよ。


「してねえじゃん、俺」


冷凍餃子の袋には、霜がついていた。


食べられるかどうかは、今は考えないことにした。


次に、武器を探した。


包丁を手に取る。


重さを確かめる。刃物としては十分だろう。だが、これを持って廊下へ出て、相手へ近づいて、頭へ当てる。


その場面を想像した。


無理だ。


映画の中では、登場人物が迷いなく武器を振るう。現実の人間の頭がどれくらい硬いのか、悠人は知らない。知りたくもない。


包丁を流し台へ戻した。


玄関に立てかけてあった金属製の傘も手に取った。長さはあるが、狭い廊下では振り回せない。突き刺すように使うのも、相手へ近づかなければならない。


結論は同じだった。


戦わない。


近づかない。


逃げる。


悠人は、普段使っていないリュックを引っ張り出した。水、携帯食、歩きやすい靴、着替え、スマートフォン、モバイルバッテリー、財布、身分証、鍵。


肌の露出を減らすため、薄手のシャツの上に長袖を重ねる。手袋を探したが、片方しか見つからなかった。


片方だけでもないよりはいいのかもしれない。


そう思ってから、片方だけの手袋を見つめた。


何が「いい」のかは、よく分からなかった。


スマートフォンを充電器につないだ。


家族へ連絡する。


母親は、呼び出し音が鳴る前に出た。


「悠人? 大丈夫なの?」


「大丈夫。今、部屋にいる」


「ニュース見たわよ。港区って、あんたのところでしょう」


「そう。だけど、こっちはまだ大丈夫」


言いながら、悠人はテレビを見た。


画面の中で、専門家らしい男が説明している。


「現時点では、原因は特定されていません。外傷による錯乱、薬物の影響、あるいは集団パニックなど、複数の可能性が考えられます」


「本当に大丈夫なの?」


「迎えに来るのはやめて。道路、たぶん動かないから」


「でも、そっちに一人でいるんでしょう」


「大丈夫だから。港区に入ってこないで」


電話の向こうで、母親が何か言いかけた。


悠人は先に続けた。


「テレビ見て、外に出ないで。こっちへ来ようとしないで」


それだけ言って、通話を終えた。


大丈夫ではない。


だが、家族がこちらへ向かってくるよりはいい。


SNSを開くと、投稿が速い勢いで流れていた。


《走るやつもいる》


《空気感染って聞いた》


《頭を壊さないと止まらないらしい》


《港区民、タクシー乗りすぎて歩けないから全員終わり》


《足立区で発生してたらもう世紀末》


悠人は画面を下へ送った。


知っている映画の知識と、誰かの思いつきと、現場を見た人間の報告が、同じ大きさで並んでいる。


走る個体がいるという投稿も、空気感染だという投稿も、今の悠人には確認できない。


画面を閉じた。


そのとき、廊下で物音がした。


金属が、壁へ当たったような音だった。


続いて、低い声が聞こえた。


向かいの部屋の男が、何かを言っている。


言葉には聞こえなかった。


悠人は玄関へ近づき、ドアスコープを覗いた。


男が廊下に立っている。


片腕を胸の前で押さえ、身体を少し傾けていた。


血のついた袖が、朝より濃く見える。


男は悠人の部屋の前まで歩いてきた。


足音が止まる。


悠人は息を止めた。


ドアの向こうで、男が何かを言った。


「……水」


声は小さかった。


悠人は返事をしなかった。


男が、もう一度言う。


「水、ない?」


人間の声だった。


少なくとも、言葉として聞き取れた。


悠人は迷った。


ドアを開ければ、男の傷を確認できる。救急用品を渡せる。もしかしたら、ただの事故かもしれない。


だが、もし違ったら。


映画の中で、感染者は傷を隠す。


隠す理由は、助けてほしいからだ。追い出されたくないからだ。自分でもまだ人間だと思っているからだ。


それは映画の話だ。


現実でも同じだと決まったわけではない。


悠人は、ドア越しに声を出した。


「どこを怪我したんですか」


しばらく返事がなかった。


「転んだだけ」


朝は、ガラスで切ったと言っていた気がする。


悠人はドアスコープから目を離せなかった。


「救急車、呼びました?」


「呼んだ。来ない」


男が一歩、ドアへ近づいた。


玄関の向こうに、人の気配がある。


悠人はリュックから、未開封のペットボトルを一本出した。それと、救急箱から消毒液と包帯を取り出す。


ドアチェーンは外さない。


袋へ入れ、床へ置いた。


男が受け取りに来るまで、ドアから離れた。


しばらくして、廊下を擦る足音がした。


袋が引きずられる音。


それから、男の足音が遠ざかった。


ドアが閉じる。


悠人は、その場に立ったまま、自分の手を見た。


直接触れてはいない。


ドアも開けていない。


それでも、何かをしたというより、何かをしなかった感覚が残った。


助けたのか。


見捨てたのか。


どちらとも言えなかった。


夕方になるころ、外の音が少なくなった。


テレビでは、交通規制の範囲が広がったと報じていた。港区内の一部地域では、引き続き外出を控えるようにという。


画面の隅には、現場からの映像が映っている。


道路に、車が何台も止まっていた。


そのうちの一台から、クラクションが断続的に鳴っている。


映像はすぐに切り替わった。


悠人は、カーテンの隙間から外を見た。


向かいの部屋のドアが、少しだけ開いていた。


朝は閉まっていた。


袋に入れた水と救急用品が、廊下に落ちている。


ペットボトルの中身は、ほとんど残っていた。


包帯は袋から出されていたが、使われた形跡はなかった。


ドアの隙間から、細い血の跡が伸びている。


玄関から、階段の方へ。


悠人はカーテンを閉めた。


すぐには動けなかった。


部屋の中は静かだった。


冷蔵庫のモーター音がしている。


壁の向こうで、何かが落ちた。


それから、低い音がした。


うめき声なのか、家具が軋んだ音なのか、判別できない。


悠人は玄関へ戻った。


ドアスコープを覗く。


廊下には、誰もいない。


向かいのドアだけが、少し開いている。


悠人は、玄関の鍵を確認した。


一回。


二回。


三回目に手をかけたところで、意味がないことに気づいた。


鍵が閉まっていても、建物の中に何かがいる。


テレビの音が、部屋の奥から聞こえている。


「不要不急の外出は控え――」


悠人は、ドアから離れた。


屋内にいれば安全だと思っていた。


少なくとも、外よりは安全だと思っていた。


その考えが、少しだけ崩れた。


向かいの部屋から階段へ続く血の跡を見ながら、悠人は持ち出し用のリュックを、もう一度確認した。


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