第1話 港区から出ようと思っていた
金曜の夜、仕事から帰った高橋悠人は、郵便受けの中に入っていた封筒を見て、玄関を開ける前にため息をついた。
差出人は、アパートの大家だった。
嫌な予感がした。
この部屋に住み始めてから、もう何年になるだろう。学生の頃からだから、かなり長い。壁紙はところどころ浮いているし、台所の換気扇は一度も本来の性能を発揮したことがない。風呂場のドアは閉めるたびに、金属の擦れる音を立てる。
それでも、港区の中では安かった。
正確には、昔から住んでいるから安いままだった。新しく同じ条件の部屋を探せば、家賃はもっと高い。高いというより、悠人の給料では払いたくない金額になる。
封筒を開ける前から、だいたい内容は分かっていた。
再開発だの、周辺相場だの、維持管理費だの。そういう言葉が並んで、最後に家賃の数字が書かれている。
案の定、値上げの通知だった。
悠人はしばらく紙を見たあと、靴も脱がずにスマートフォンを取り出した。
不動産サイトを開く。
港区。ワンルーム。駅から徒歩十五分以内。築年数は問わない。家賃は、今より少し安い。
検索結果は、見なかったことにしたくなる数字ばかりだった。
同じ家賃なら、もっと狭い。
同じ広さなら、もっと遠い。
安い部屋を探すと、駅から徒歩二十五分とか、築五十年とか、窓を開けたら隣の建物の壁しか見えないとか、そういう条件がついてくる。
今の部屋も似たようなものだったが、長く住んでいる分だけ安い。
悠人は部屋の中を見回した。
六畳の床には、脱いだシャツとコンビニの袋が置かれている。棚には、ブルーレイと配信サービスの作品をメモしたノートが並んでいた。ゾンビ映画のタイトルを書き留めたノートだ。
古典から低予算作品まで、かなりの数を見てきた。
昔は友人に、よくそんなに見るものがあるなと言われた。
悠人は、ほかに趣味らしい趣味がなかっただけだと答えていた。
その趣味が、人生で役に立つとは思っていなかった。
もちろん、ゾンビが現実に現れるとも思っていなかった。
悠人は家賃値上げの紙をテーブルの端へ置き、スマートフォンの画面を見た。
通知がいくつか来ていた。
港区の繁華街で客が暴れた。
救急車が多い。
店の中で傷害事件があったらしい。
短い投稿と、短い動画。画面の端に、夜の街の明るい看板と、何人かの人間が押し合っている様子が映っていた。
金曜の夜なら、珍しくもない。
港区には、金曜の夜に珍しくないことが多すぎる。
悠人は通知を閉じた。
家賃が上がるなら、もう港区にいる意味はないかもしれない。
そう考えながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
テレビをつける。
画面の中では、夜の街を歩く人々が映っていた。ネオンの光、道路を走るタクシー、店の前に立つ警備員。いつもの港区の夜だ。
悠人は缶を開けた。
明日、もう少し真面目に部屋を探すか。
そう思いながら、家賃値上げの通知を裏返した。
*
目を覚ましたとき、部屋は妙に明るかった。
カーテンの隙間から、朝の光が入っている。
悠人は枕元のスマートフォンを探した。画面には、通知がいくつも重なっていた。
港区内で複数の傷害事件。
一部道路で交通規制。
駅への入場制限。
原因不明の暴動。
不要不急の外出を控えるようにという行政からの通知。
寝ぼけた頭では、何が起きているのかよく分からなかった。
テレビをつける。
アナウンサーが、落ち着いた声で画面の外にいる誰かへ確認を取っていた。
「現在、港区内の複数の地域で、錯乱状態にある人物による集団傷害事案が発生しています。警察が周辺の安全確保を進めていますが、詳しい原因については、まだ分かっていません」
画面の下に、赤い帯が出ている。
《不要不急の外出を控えてください》
別の映像に切り替わった。
道路を走るパトカー。
規制線の向こうで、立ち止まっている人々。
カメラが少し揺れていた。現場の映像なのか、撮影者の手が震えているのかは分からない。
アナウンサーは、言葉を慎重に選んでいた。
「なお、インターネット上では、いわゆる『ゾンビ』という表現も見られますが、現時点で、そのように断定できる情報はありません」
悠人はテレビを見たまま、缶ビールを一口飲んだ。
朝から飲むつもりはなかったが、口の中が妙に乾いていた。
「いや、ゾンビって」
悠人はカーテンの隙間から外を見た。
道路には、普段より人が少なかった。
その代わり、歩いている人間の動きが妙だった。
走っているわけではない。急いでもいない。ただ、まっすぐ前を向いたまま、身体全体を引きずるように歩いている。
ひとりが、道路脇に立っていた男へ近づいた。
立っていた男は、知り合いだと思ったのか、片手を上げた。
「大丈夫ですか」
声が、窓越しにもかすかに聞こえた。
歩いていた人間は返事をしなかった。
男の前まで来ると、腕を伸ばした。
肩をつかむ。
次の瞬間、顔を近づけた。
男が叫んだ。
その声に、近くを歩いていた人たちが振り向く。
何人かが助けようと駆け寄った。だが、噛みついている人間は、周囲へ反応しなかった。引き離されても、身体を揺らし、また前へ出ようとする。
誰かが転んだ。
別の人間が、その上へ覆いかぶさるように倒れた。
道路の上で、人の塊ができる。
悠人は、窓から離れた。
今の動きは、知っている。
何度も映画で見た。
人間の形をしている。歩いている。生きているように見える。
でも、生きている人間の動きではない。
「いや、ゾンビじゃん」
今度は、笑えなかった。
悠人は玄関を見た。
チェーンがかかっている。
窓を見る。
鍵は閉まっている。
部屋の中には、武器になるものがない。正確には、包丁や金属製の傘はある。だが、映画の登場人物が持っているような、都合のいい銃や、軽く振り回せる斧があるわけではない。
悠人は、一歩下がった。
廊下から音がした。
階段を上がってくる足音ではない。外廊下を、誰かが歩いている。
ゆっくりと、一定の間隔で近づいてくる。
悠人は玄関へ近づいた。ドアの前で息を止める。
足音が、向かいの部屋の前で止まった。
鍵を探す音がする。
金属が何度かぶつかり、鍵穴へ入った。
ドアが開く。
悠人はドアスコープを覗いた。
向かいの部屋に住んでいる男だった。名前は知らない。何度か廊下ですれ違ったことがあるだけだ。
男は片腕を押さえていた。
シャツの袖に、血がついている。
男は周囲を見回した。
誰かを探しているようにも見えたが、すぐに自分の部屋へ入った。
ドアが閉まる。
鍵がかかる音がした。
助けを呼ぶ声はなかった。
悠人はドアスコープから目を離した。
テレビでは、同じ言葉が繰り返されている。
原因不明。
不要不急の外出を控える。
安全確保を進めている。
悠人は部屋の中央へ戻った。
床に置かれたコンビニの袋と、開いたままの不動産サイトが目に入る。
昨夜まで、自分はこの部屋から出るかどうかを考えていた。
今は、部屋から出ない方がいいのかどうかを考えている。




