プロローグ後編
最初のメッセージが送られてから、数分後。
店の外で、男性が一人立ち止まった。
スマートフォンの画面には、短いメッセージが表示されている。
《きて》
送り主は、さっきまで飲み会にいた女性だった。
男性は、店の中で女性に噛みつかれた人間とは別だった。
別の店にいた。
別のテーブルにいた。
それでも、呼ばれた理由はだいたい分かる気がした。
深夜一時を過ぎている。
タクシーなら、いくらでも呼べる。
呼ばれたら、行くしかない。
「今から?」
男性は、メッセージを見返した。
返事はない。
場所も書かれていない。
それでも、相手がいる店は分かっていた。
男性は、店を出た。
そのころ、店内では、別の女性がスマートフォンを操作していた。
顔を上げない。
画面を見ているようにも見えない。
指だけが、いつもの順番で動いている。
《会える?》
送信。
少し待つ。
返事がなくても、次の名前を選ぶ。
《いまから》
送信。
女性は、送った相手が誰なのか知らない。
知っているのは、指の動かし方だけだった。
店の中には、もう男性客がほとんど残っていなかった。
さっきまでゲームをしていた男たちは逃げた。
噛まれた男も逃げた。
店員は、一人が逃げ、一人が床に座り込んでいる。
女性だけが、店内に残っていた。
ゲームのモニターは、次の質問を表示している。
《この中で一番、怒らせると怖い人は?》
答えは、まだ入力されていなかった。
最初に駆けつけた男性は、店の前で息を整えた。
「どこにいる?」
送信。
返事はない。
男性は、入口の扉を開けた。
店内は、飲み会のあとにしては静かだった。
床にグラスが落ちている。
椅子がいくつか倒れている。
奥に、女性が立っていた。
男性が手を上げる。
「おーい」
女性は動かなかった。
男性は、少し笑った。
「寝てる?」
近づく。
女性が顔を上げた。
その動きが遅かったので、男性は酔っているのだと思った。
「大丈夫?」
女性は答えなかった。
男性がさらに一歩、近づく。
女性は手を伸ばした。
「ちょっと待って、何?」
男性が身を引く。
だが、女性の手がシャツの胸元をつかんだ。
男性の顔から笑いが消えた。
「いや、待って。俺、呼ばれて来たんだけど」
女性は、聞いていなかった。
男性の腕へ噛みついた。
「痛っ!」
男性は腕を振りほどき、入口へ走った。
噛まれた場所を押さえながら、店の外へ出る。
「え、何? 何で?」
自分へ聞いても、答えは出ない。
男性は、タクシーを呼ぼうとした。
配車アプリの画面には、近くに車がないと表示された。
何度更新しても、結果は変わらない。
店の前には何台かタクシーが走っている。だが、どれも予約済みか、別の客を乗せていた。
男性は、近くのコンビニへ走った。
消毒液を買うためだった。
店員に「どこを怪我されたんですか」と聞かれ、男性は「人に噛まれました」と答えかけた。
一度、口を閉じる。
「……転びました」
「それなら、消毒液はあちらです」
男性は消毒液と水を買い、コンビニのトイレへ入った。
洗面台で手首を洗う。
消毒液をかける。
痛みに顔をしかめながら、スマートフォンでタクシーを呼び直した。
やはり、つかまらない。
救急車を呼ぶより、病院へ行くより、いったん自分の部屋へ帰りたかった。
自宅は歩いて行ける距離にある。
男性は走った。
その後、別の男性が店へ着いた。
その男性は、扉の前で立ち止まった。
中から物音がする。
女性の声は聞こえない。
男性は、電話をかけた。
着信音が店内で鳴った。
一度。
二度。
三度。
誰も出ない。
男性は扉を少しだけ開け、隙間から中を見た。
奥に女性がいる。
その近くに、床へ座り込んだ店員がいる。
男性は、一歩下がった。
「これは……」
誰に説明するつもりだったのか分からない。
店の外へ出たところで、背後から別の男性が走ってきた。
「中、いる?」
「いるけど、入らない方がいい」
「何で?」
「何か、様子がおかしい」
二人は店の前で相談した。
一人が配車アプリを開いた。
「近くに車、いない」
「この時間なら、すぐ来るんじゃないの?」
「みんな呼んでるんじゃない?」
表示された待ち時間は、どんどん伸びていった。
店の前から離れようにも、歩いて帰るには少し遠い。かといって、ここに残る理由もない。
相談している間にも、女性たちは店の中でスマートフォンを操作していた。
《きて》
《会える?》
《いまから》
短いメッセージが、次々に送られる。
やがて、三人目の男性が走ってきた。
その男性は、店の前にいる二人を見て言った。
「何で入らないの?」
「いや、ちょっと……」
「呼ばれたんだけど」
「それは、俺たちも」
三人は、扉を見た。
店内には女性しかいない。
それでも、誰も入ろうとしなかった。
深夜一時を過ぎている。帰るなら、タクシーを呼べばいい。
呼ばれたから来た。
しかし、来たあとに帰れるとは限らない。
そのころ、最初に噛まれた男性は自宅へ着いていた。
玄関の鍵を閉める。
チェーンをかける。
その場でしゃがみ込み、噛み跡を確認する。
傷は深くないように見えた。
血は出ている。
痛みもある。
だが、指は動く。
男性は、検索画面を開いた。
《人に噛まれた 病院》
検索結果が表示される前に、メッセージが届いた。
《いまどこ?》
送り主は、飲み会にいた別の男性だった。
男性は、すぐに返信した。
《家。さっき噛まれた》
送信。
少し考えてから、続けて送る。
《女の人に》
返信はすぐに来た。
《何それ》
男性は、スマートフォンを伏せた。
説明できる気がしなかった。
別の店では、噛まれた男性が、噛まれたことに気づいていなかった。
女性からのメッセージを見て、店へ向かう途中で、友人に会った。
「どうしたの?」
「呼ばれた」
「タクシーで行けば?」
「だから行くんだよ」
「理由になってる?」
二人は笑いながら、別の飲食店へ入った。
その男性の手首には、噛み跡が残っていた。
本人は、それを誰かにぶつけた跡だと思っていた。
店員は、彼の手首を見た。
「お客様、怪我されてます?」
「え? ああ、たぶん大丈夫です」
「血が出てますけど」
「さっき、ちょっと盛り上がって」
何が盛り上がったのか、本人にもよく分かっていなかった。
午前二時を過ぎるころ、同じようなことが港区のあちこちで起きていた。
大人数の飲み会。
途中で始まったゲーム。
女性が男性へ噛みつく。
噛まれた男性が逃げる。
店員が異変に気づく。
店員も噛まれるか、扉を開けずに逃げる。
店内に女性だけが残る。
女性は、意識がないように見える。
それでも、いつもの動作でスマートフォンを操作する。
短いメッセージを送る。
呼ばれた男性が、タクシーの走る街を駆けつける。
そして、また噛まれる。
六本木。
西麻布。
麻布周辺。
新橋へ向かう道路沿い。
同じ流れが、少しずつ形を変えながら繰り返される。
誰かは逃げた。
誰かは店へ入った。
誰かは、自宅へ戻った。
誰かは、自分が噛まれたことに気づかなかった。
女性たちは、誰かを選んでいるわけではない。
相手を覚えているわけでもない。
ただ、画面を開き、履歴を選び、短い文章を送っている。
午前三時十五分。
店の外を、タクシーが走っていく。
後部座席では、男性がスマートフォンを見ていた。
《きて》
そのメッセージを見て、男性は運転手へ言った。
「すみません。行き先、変えてください」
港区の夜は、タクシーが走り続けるかぎり終わらない。
呼ぶ人間がいて、呼ばれる人間がいる限り、夜は続く。
その夜、港区の飲食店と交友関係は、誰にも見えないまま、一つの大きな感染経路になっていた。




