プロローグ前編
深夜一時。
港区の店の一室で、二十人ほどの男女がテーブルを囲んでいた。
大人数の飲み会だった。
誰が幹事なのか、途中から分からなくなっている。最初は知り合い同士だったはずだが、途中で友人の友人が増え、隣の店にいた人間が合流し、気づけば初対面の人間が同じテーブルでグラスを上げていた。
店内には、貸し切り用の大きなモニターがある。
画面には、飲み会向けのゲームが表示されていた。
「次、負けた人は一気ね」
誰かが言った。
「それ、さっきからずっと一気じゃない?」
「じゃあ質問に答える。好きなタイプ」
「それは一気より嫌だな」
笑い声が上がった。
深夜一時を過ぎると、会話は同じところを回り始める。仕事の話、最近行った店の話、誰が誰を知っているのかという話。
そして、ゲームの話。
この時間でも、帰る手段はいくらでもある。店の前にはタクシーが流れているし、配車アプリを開けば車は呼べる。
帰るという選択肢が消えたことで、飲み会は少しだけ落ち着き、同時に少しだけ無責任になっていた。
テーブルの端に座っていた女性が、グラスを置いた。
さっきから、ほとんど会話に参加していない。
その女性は、店へ来る前に、非合法の痩身薬を飲んでいた。誰から買ったものか、何が入っているのかは、周囲の誰も知らない。
本人も、薬のせいで少しおかしくなっているだけだと思われていた。港区の飲み会では、薬の影響で静かになる人間も、酒で立てなくなる人間も、完全に珍しいわけではない。
顔が赤いわけではない。眠そうにも見えない。
ただ、前を見ていた。
視線の先には、向かいに座る男性がいた。
男性は、ゲームのカードを持っていた。
「はい、次はこの人」
隣の男性が、カードを指した。
指された男性は、困ったように笑った。
「俺? さっき答えたじゃん」
「もう一回」
「同じ質問は反則でしょ」
「ルールだから」
女性が立ち上がった。
大人数の飲み会では、席を立つ理由はいくらでもある。トイレ、電話、飲み物、あるいは誰かの隣へ移動するため。
女性は、男性の前まで来た。
「どうしたの?」
男性が聞いた。
女性は答えなかった。
そのまま、男性の手へ噛みついた。
「痛っ!」
男性が腕を引いた。
グラスが倒れ、テーブルの上に酒が広がった。
一瞬、誰も反応しなかった。
ゲームの罰だと思った人間もいた。
「え、何? 新しいやつ?」
「いや、今のは普通に痛いやつ」
男性は手を押さえていた。
指の付け根から血がにじんでいる。
噛みついた女性は、椅子へ戻らなかった。
男性の手を見ているようにも見えたが、実際には見ていない。目は開いているのに、焦点が合っていなかった。
「ちょっと、何してるの?」
隣の女性が声をかけた。
噛みついた女性は、そちらを向いた。
「怖い怖い。酔いすぎじゃない?」
誰かが笑った。
笑ったあと、笑ってよかったのか分からなくなった。
噛まれた男性が、椅子を引いて立ち上がる。
「いや、無理。俺、帰る」
「分かんないけど、ここにはいられない」
男性は出口へ向かった。
そのとき、別の女性が立ち上がった。
誰かが、トイレへ行くのだと思った。
しかし、その女性も別の男性へ近づいた。
「あれ?」
男性が顔を上げる。
女性は、男性の肩へ手を置いた。
それから、首元へ顔を寄せた。
「ちょっと待って」
男性が笑いながら身体を引いた。
女性の歯が、男性の耳の下へ当たった。
男性の笑い声が、途中で叫び声に変わった。
「痛い痛い痛い!」
今度は、全員が立ち上がった。
テーブルが揺れ、グラスがいくつも倒れる。
ゲームのモニターには、次の質問が表示されたままだった。
《この中で一番、怒らせると怖い人は?》
「それどころじゃない!」
誰かが叫んだ。
噛まれた男性たちは、入口へ逃げた。
一人は、スマートフォンを落とした。
一人は、靴を片方だけ履いたまま走った。
もう一人は、会計のことを気にして立ち止まりかけたが、女性がこちらへ向いたのを見て、会計をあきらめた。
深夜一時の店内で、誰もが同じ判断をした。
これは、笑って済ませる種類の酔い方ではない。
女性たちは、男性が逃げたあとも、追いかけなかった。
追いかける必要がなかった。
目の前にいる相手へ近づき、手を伸ばし、噛みつく。
それだけで十分だった。
男性がいなくなると、女性たちは店内をゆっくり歩いた。
椅子にぶつかる。
テーブルの端に手をつく。
倒れたグラスを踏む。
誰かが、店員を呼んだ。
店員が二人、奥から出てきた。
「どうされましたか?」
店員の一人が、入口付近の男性へ声をかけた。
返事はなかった。
男性は腕を押さえ、外へ出ようとしている。
別の店員は、店内に残っている女性たちを見た。
女性たちは、全員が起きていた。
しかし、誰も会話をしていなかった。
「お客様?」
店員が、最も近くにいた女性へ近づいた。
女性は、ゆっくり顔を上げた。
店員が手を伸ばす。
その手首に、女性が噛みついた。
店員は、声を上げて腕を引いた。
もう一人の店員は、一歩下がった。
叫び声を聞いて、状況を理解したわけではない。
ただ、近づくのはやめた方がいいと思った。
その判断ができた店員は、走って逃げた。
もう一人は、腕を押さえたまま、その場に残った。
店内に残った男性は、いなくなっていた。
女性だけが、テーブルの間を歩いている。
意識があるようには見えなかった。
呼びかけても反応しない。
目の前で手を振っても、目で追わない。
それでも、一人の女性がテーブルの上へ手を伸ばした。
スマートフォンを取った。
画面のロックを解除する。
指の動きは、迷わなかった。
いつも使っているアプリを開く。
履歴を表示する。
画面を上から下へ送る。
名前を選ぶ。
《きて》
送信。
女性は、送った画面を見なかった。
スマートフォンをテーブルへ置き、次の端末を探した。
店内には、倒れたグラスと、途中で止まったゲームの画面と、誰も取らないスマートフォンの着信音が残っていた。
そして、女性たちは、手慣れた動きで短いメッセージを送り続けた。




