第8話 平常運転
田中が最上階の部屋に閉じこもっていた頃、悠人はタワーマンションとは反対の道を歩いていた。
新橋へ向かうつもりだったが、大通りと地下は使わない。人が集まる場所も避ける。
地図が示す最短経路から外れ、細い坂道を上った。
午前中から歩き続けた脚は重い。リュックの肩紐も食い込んでいる。
坂を上り切ると、建物の間に東京タワーが見えた。
街がどれだけ変わっても、同じ場所に立っている。現在地を確かめるには、スマートフォンより分かりやすかった。
東京タワーを右手に見ながら進み、次の角を曲がる。
道路の先に、バリケードと警察車両があった。
ロシア大使館だった。
正門は閉じている。普段から厳重な警備に、規制用の柵が追加されていた。
門の前では、リュックを背負った男が警察官へ話しかけている。
「中へ入れてもらえませんか。ここなら安全でしょう」
「避難施設ではありません。指定された待機場所へ移動してください」
男の来た方向には、二人の感染者が見えた。
まだ距離はあるが、こちらへ歩いている。
警察官は門を開けず、感染者のいない脇道を男へ示した。
男は何度も大使館を振り返りながら、その道へ入っていく。
感染者も警備の内側へ入れない。
普通の人間も入れない。
悠人は閉じた正門を見た。
「ここは平常運転か」
大使館へ逃げ込むという選択肢はない。
悠人も地図を確認し、別の脇道へ入った。
東京タワーが、建物の間から少しずつ大きくなる。
広い通りへ出る手前で止まり、ガードレールの陰から左右を確認した。
東京タワーの周囲には、誰もいなかった。
道路にも歩道にも人影はない。入口の閉じた店と、路肩へ乗り捨てられたタクシーだけが並んでいる。
感染者の姿もなかった。
その無人の通りへ、甲高いエンジン音が響いてきた。
複数の音が重なり、急速に近づいてくる。
車にしては、音の位置が低い。
悠人はガードレールをまたぎ、植え込みの脇へ退避した。
角から赤いゴーカートが飛び出してきた。
続いて、青、緑、黄色。
観光客向けの公道カートだった。
低い車体が列になり、東京タワーの前を走ってくる。運転手たちは、派手な衣装を着ていた。
「こんな状況でも走ってんのかよ」
先頭のカートが、悠人の前を通過する。
運転手は前を見ていなかった。
顔を横へ傾け、口を半分開いている。頬から首にかけて、乾いた血がついていた。
二台目の運転手も同じだった。
両手はハンドルを握っているが、カートが白線を越えても戻そうとしない。
三台目は前の車体へぶつかり、ガードレールを擦りながら進んでいる。それでもアクセルから足を離さない。
四台目の運転手が、悠人へ顔を向けた。
ハンドルもそちらへ切られる。
カートが縁石へ乗り上げ、車体を跳ねさせながら歩道へ寄ってきた。
悠人は植え込みの奥へ下がった。
車体は植え込みへ入れず、ガードレールに弾かれて道路へ戻る。
運転手は何事もなかったように、アクセルを踏み続けていた。
最後の一台が通過する。
その運転手は片手を上げ、誰もいない歩道へ振っていた。
沿道の観光客へ、そうしていたのだろう。
「……ゴーカートゾンビか」
握ったハンドルを離さず、踏んだアクセルを戻さない。
運転できているわけではない。生前の動作だけを繰り返している。
それでも、歩いてくる感染者より速かった。
ゴーカートの集団は東京タワーの前を横切り、芝浦方面へ続く道へ消えていった。
あとには、誰もいない道路だけが残った。
悠人がガードレールの陰から出ようとしたとき、スマートフォンが震えた。
行政からの新しい通知だった。
新橋方面の地図に、赤い線が増えている。
主要な交差点は封鎖。地下鉄の入口も閉じられ、避難者は指定された待機場所へ向かうよう書かれていた。
残った道へ人が集中すれば、そこもいつまで開いているか分からない。
悠人は地図を南へ動かした。
芝浦。
その先に、レインボーブリッジがある。
橋を渡れば、人の密集した都心部から離れられる。渡ったあとのことは、向こう側で考えるしかない。
遠回りだが、閉じ始めた新橋へ向かうより可能性はあった。
先ほどのゴーカートも同じ方向へ走っている。
あれが安全な道を知っているとは思えない。しばらく間隔を空けた方がいい。
悠人はエンジン音が完全に遠ざかるのを待った。
東京タワーを背にし、目的地を新橋から芝浦へ変更する。
悠人は歩き出した。
レインボーブリッジが開いている保証はない。
それでも、確かめる前から閉じていると決めることはできなかった。




