第9話 レインボーブリッジ封鎖できました
芝浦へ向かう道は、地図で見るより高低差があった。
悠人は坂を下りながら、何度目か分からないため息をついた。
下り坂なら楽なはずだった。
実際、脚を前へ出す力は少なくて済む。
その代わり、疲れた膝へ一歩ごとに体重がかかった。速度を出しすぎると、止まる方が難しい。
リュックの中では、ペットボトルと消毒液が歩調に合わせてぶつかっている。
振り返ると、東京タワーの上半分が建物の間から見えた。
ゴーカートのエンジン音は、もう聞こえない。
あの集団と同じ方向へ進んでいることだけが気になった。
悠人は大通りを避け、住宅と小さな事務所の間を通る坂道を選んでいた。
人影はない。
玄関の明かりがついている家はあるが、カーテンは閉まっている。中に人がいるとしても、わざわざ外へ出てくる理由はなかった。
坂の途中に、配達用の自転車が倒れていた。
前輪だけがゆっくり回っている。
悠人は自転車から距離を取り、道の反対側を通った。
何かが動く音がした。
上だった。
振り返る。
坂の上に三人の感染者が現れていた。
一人はスーツ姿で、もう一人はジャージを着ている。最後の一人は、買い物袋を片手に提げていた。
三人とも、悠人の方を向いた。
距離は五十メートルほどある。
走ってはこない。
悠人は坂の下を確認した。
次の交差点までは三十メートルほど。右へ曲がれば、感染者から姿を隠せる。
走る必要はない。
悠人は歩調だけを速めた。
後ろから、靴底を擦る音が重なる。
感染者たちも坂を下り始めた。
平地より足取りが速い。
本人たちが速く歩いているのではない。傾斜に身体を引かれ、前へ倒れそうになるたびに次の足が出ている。
悠人はもう一度振り返った。
先頭のスーツ姿が、路面の段差へ靴を引っかけた。
上半身だけが前へ出る。
両手をつくこともなく、顔から道路へ倒れた。
その背中へ、後ろの感染者がぶつかった。
二人目も膝から崩れる。
買い物袋を持った感染者は避けようとせず、二人の上へ乗り上げた。
三人の身体が重なり、そのまま坂を滑り始める。
スーツの肩が路面へ引っかかる。
身体が横を向く。
次の瞬間、三人とも転がり始めた。
腕と脚が絡まり、ほどけ、またぶつかる。
買い物袋が破れ、缶詰とペットボトルが先に坂を下ってくる。
悠人は道の端へ飛び退いた。
缶詰が足元を通り過ぎる。
続いて、感染者の塊が道路の中央を転がっていった。
一人の腕がガードレールへ当たり、鈍い音がする。それでも声は上がらない。
三人は交差点の手前で分かれた。
スーツ姿は仰向けのまま止まり、ジャージ姿は電柱の根元へぶつかった。買い物袋を持っていた感染者だけが、さらに数メートル滑っていく。
悠人は口を開けたまま、その光景を見た。
「港区、坂多すぎだろ。ゾンビ転がっていくじゃん」
スーツ姿の感染者が起き上がろうとする。
片肘をつき、上半身を持ち上げる。
その背中へ、遅れて転がってきたペットボトルが当たった。
感染者は反応しない。
転がった分だけ、感染者との距離は縮まっている。
悠人は角を右へ曲がった。
背後で、感染者がガードレールへ手をかける音がした。
坂道は感染者を遅くもするし、速くもするらしい。
映画ではあまり見ない種類の危険だった。
住宅地を抜けると、街の景色が変わった。
道路の向こうに高層マンションが並び、その間から倉庫の屋根が見える。頭上には首都高速道路が走り、さらに先には運河があった。
風に水の臭いが混じっている。
芝浦まで来た。
ここまで来れば、レインボーブリッジは遠くない。
悠人は自動販売機の陰に入り、周囲を確認した。
道路には車が増えている。
人を乗せた乗用車。荷台を空にしたトラック。後部座席に荷物を積み上げたタクシー。
どの車も、同じ方向へ進もうとしていた。
レインボーブリッジ方面だ。
悠人だけが思いついた脱出経路ではない。
当然だった。
東京で海を越える巨大な橋が、人に知られていないはずがない。
車列は少し進んでは止まっている。
クラクションを鳴らす車はいない。
大きな音を出せば、何が寄ってくるか分かり始めているらしい。
運転手たちは窓を閉め、前の車が動くのを待っていた。
悠人は車列から距離を取り、歩道を進んだ。
歩道にも、同じ方向へ歩く人がいる。
家族連れ。リュックを背負った若い男。小型犬を抱えた女性。
互いに話しかけず、前後の間隔を空けている。
誰かが転べば助けるのか。
感染者が現れたら、全員で逃げるのか。
それは、まだ起きていないので分からなかった。
橋へ近づくほど、車の流れは遅くなった。
やがて完全に止まる。
先頭は見えない。
警察車両の赤色灯だけが、車の屋根越しに点滅していた。
拡声器の音が聞こえる。
最初は風とエンジン音に紛れ、内容を聞き取れなかった。
悠人は歩道の端で止まった。
同じ案内が繰り返される。
『レインボーブリッジは現在、封鎖されています。車両および歩行者は、警察官の指示に従って移動してください』
橋の入口には、規制柵が二重に置かれていた。
その向こうにも警察車両が止まっている。
車道だけではない。歩行者用の入口にもシャッターが下りていた。
悠人は、閉じた橋を見上げた。
「……封鎖できたんだ」
前方の車から、男が降りてきた。
「いつ開くんですか!」
警察官が拡声器を下ろす。
「再開の予定はありません。車両を転回させ、指定された経路へ移動してください」
「ここまで来たんですよ。向こうは空いてるじゃないですか」
「橋上の安全を確認できません。戻ってください」
男は橋と車列を見比べた。
ここで転回しろと言われても、後ろには車が詰まっている。
一台ずつ下がるか、警察官の誘導で脇道へ出るしかない。
誰もすぐには動けなかった。
後ろから、甲高いエンジン音が聞こえた。
悠人は肩越しに振り返った。
車列の間を、派手な色の車体が近づいてくる。
東京タワーの前を走っていたゴーカートだった。
何台か減っている。
残ったカートは、停止した車の隙間へ入り込んでいた。
一台が乗用車の後部へぶつかる。
運転手の上半身が前へ折れ、すぐに戻る。
アクセルは踏まれたままだった。
タイヤが空転し、甲高い音を立てる。
別の一台は車列を避けようとして歩道へ乗り上げた。
歩いていた人たちが一斉に離れる。
感染者の運転手が、人の動きへ顔を向けた。
カートの向きも変わる。
警察官が叫んだ。
「車から降りないでください! 歩行者は建物側へ!」
悠人はガードレールから離れた。
ここに残れば、橋が開くより先に感染者と車が集まる。
カートの一台が規制柵へぶつかった。
柵は倒れなかった。
前輪が金属の脚へ乗り上げ、車体だけが斜めに止まる。運転手はハンドルを握ったまま、アクセルを踏み続けていた。
橋は開かない。
待つ理由はなくなった。
悠人は来た道を戻り始めた。
車列の運転手たちも、ようやく窓越しに後方を確認している。転回できる車から、警察官の指示に従って脇道へ入っていく。
全員が同じ道へ動けば、そこもすぐに詰まる。
悠人は人の流れから外れ、運河沿いの細い道へ入った。
スマートフォンの地図を開く。
新橋へ直接戻れば、封鎖された道路へぶつかる。
北へ向かう前に、三田側へ回り込む道があった。
遠回りだが、芝浦へ来た車の流れとは逆方向になる。
悠人は地図を閉じた。
レインボーブリッジからの脱出は失敗した。
あとは、最初に避けた新橋へ向かうしかない。
同じ場所へ戻るのではない。
封鎖の薄い場所を探しながら、別の側から近づく。
それが成功する保証もなかった。




