第三章 血の匂いと、最初の絶望
あきら
「俺が小学3年生の時だった。その日は、なんてことのない普通の、ありふれた夏の日だったんだ。学校が終わって、いつものように『ただいま』って家に帰った」
玄関を開けて、早く友達と遊びに行きたかった俺は、ランドセルを床に投げつけて、そのまま鍵もかけずに外に出ようとした。だがその瞬間、鼻を突く強烈な臭いが、家の奥から漂ってきたんだ。
「鉄の匂いだった。錆びた包丁を舐めた時のような、生臭くて、頭が痛くなるような匂い」
おかしいと思って、引き寄せられるように恐る恐るリビングの扉を開けた。
そこにあったのは、一面の血の海だった。真っ赤に染まったフローリングの上に、俺の両親の足が、不自然な方向に転がっていた。顔は見えなかった。見るまでもなかった。
そして、その血溜まりの横には、べっとりと赤く染まった包丁を持った、見知らぬ男が息を荒くして立っていたんだ。
男と目が合った。男の目は完全に光を失っていて、俺を見つけると、不気味にニヤリと唇を吊り上げて包丁を構え、こっちに迫ってきた。
「心臓が破裂しそうなくらい冷たくなって、俺は必死に玄関へと走った。早く外に出なきゃ殺されるって、頭の中が真っ白になって。でも、焦れば焦るほど、さっき投げたランドセルが邪魔で、玄関の鍵が上手く開かないんだ。指がガタガタと震えて、ガチャガチャと音を立てるだけで……」
ようやく扉が開いて、外の光の中に飛び出した、まさにその瞬間だった。
背後から、もの凄い衝撃と、焼けるような熱さが背中に走った。
男の包丁が、俺の首から腰までを、背中越しに一気に袈裟斬りにしたんだ。
「痛いなんて感覚はなかった。ただ、身体の後ろ側が熱い鉄板で焼かれているみたいで、身体が真っ二つに裂けたかと思った。俺はそのまま道路に倒れ込んで、自分の血で滑りながら、這いつくばって進んだ。助けて、誰か助けて、って声を振り絞って泣き叫びながら」
ちょうどその時、向こうからスーツを着た大人のサラリーマンが歩いてくるのが見えた。
俺は血塗れの手を必死に伸ばした。その男と、確実に目が合ったんだ。
だけど――その大人は、俺の凄惨な姿を見た瞬間、怯えたように顔を歪めると、俺の手を無視して、視線を逸らしながら小走りで逃げていった。
「誰も助けてくれなかった。世界中に、俺と、俺を殺そうとする犯人しかいないみたいだった。大人はみんな、汚いものから逃げるんだって、その時知った」
意識が遠のく中、犯人が俺にとどめを刺そうとゆっくり近づいてきた。その時、遠くからサイレンの音が響いて、一人の若い警察官が走ってきたんだ。
その警官は、見るからに新米で、凶器を持った犯人を前にして、足をガタガタと震わせていた。それでも、両手で必死に拳銃を構えて、犯人に向けて叫んだんだ。『動くな! 武器を捨てろ!』って。
追い詰められた犯人は、自分の首に包丁を当てて自殺しようとした。だけど、その若い警官はボロボロと涙を流しながら、声を枯らして叫んだ。
『死ぬな! 自殺なんて許さない! 生きて、生きて罪を償え!』って。
そうして犯人は取り押さえられ、俺の命は病院のベッドの上で、かろうじて繋がった。……でもね、そこからが、本当の終わらない地獄の始まりだったんだ。




