50話 真っ白な繭の外から。
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「おーい、リナ。朝飯食わねーなら、俺が食っちまうけど、いいかー?」
やって来たリナの部屋の前には、オルトがいた。
そして、呼びかけに応えは返らない。
「おはよう、オルト」
「おはようさん。……これだぜ?」
お手上げの姿勢を取ったオルトである。
「お腹を空かせたから出てくるというほど、女性は単純ではないのですよ」
「んなこと言ってたら、死んじまうぜ」
リナが部屋から出てこない。体調でも崩したのかと、最初に騒ぎ出したのは、このアウグスタの息子であった。
「女心は複雑なのですよ」
「せっかく、俺たちの活躍が官報に載ったんだぜ? お調子者のアイツが喜ばないはず、ねーだろ」
オルトなら、そういった反応になるだろう。
だから、視座が低いのだと怒鳴りつけそうになったが、アウグスタは踏み留まる。
「後は、私が話します。女は、女同士の方が良い事もあるのです」
「女って。母ちゃんは、母ちゃんだろ? 若いリナとは、わかりあえないぜ?」
あまりにも無神経な発言に、思わずこめかみが浮き出た感覚があった。
「坊、さっさと仕事へ行かんね。たいぎゃ太か仕事ば、入っとるけんが」
婆やが、鋭く突っ込みを入れる。
オルトは今日、護衛団の訓練に参加する。指名依頼であった。
昨日の指揮ぶりから、研磨すべき原石として、認められたという意味である。
「遅刻なんて、以ての外ですよ」
「おう、行ってくる。後は、頼んだぜ」
そう言うと、そのまま駆け出してしまった。
訓練開始は、行政府の開門時間と同刻である。
エーリチェとの境にある灯台が訓練場だ。
港からは、大分離れている。
だが今出れば、強化を用いたオルトならば必ず間に合う。そうアウグスタは見ていた。
「行ってらっしゃい」
そう呟いたアウグスタへ、婆やが鍵束を見せる。
横へ首を振っていた。
そして、彼女は拳を握る。
婆やが、小さく肩を竦めた。
「リナ。お話があるわ」
そのままアウグスタは、トントンと扉を叩く。
返事はなかった。
「大事なお話よ」
続けるも、やはり返事はない。
誰にも、今朝のリナが言葉を返す事はなかった。
今は黙り込んでいる婆やからも、そう聴いている。
仕事に喧しい彼女が、強行策をとっていない。
その意味を察しているアウグスタだからこそ、大きな溜息を吐くしかなかった。
「まるで、開かずの間ね」
「どんしなさっと」
尋ねる婆やだが、その視線が言いたい事は明らかなものである。視線が扉と鍵へと、交互に行き来をしていた。
「自分から出て来てくれると、助かるのにね」
あまり、強引なやり方は好きではないのだ。
「無駄ばい」
でしょうねと、アウグスタも思う。
リナが引き篭もってしまったのは、行政府からの広報——官報を読んだからだろうと察している。
彼女は、リナが自分自身を保つために、何もかもを拒絶しているのだと判断をしていた。
無理もない、とアウグスタは思ってしまう。
リナはまだ、十五の少女だ。何を背負うでもない立場でもある。
「もう少しだけ、声をかけるわ。……ねぇ、リナ」
「……」
まだ彼女には、人の生命や生活を背負うのには早過ぎた。
オルトは何もわかっていない様だったが、十中八九、リナがぶつかっているのは癒師の壁だろうと、アウグスタは推測している。
「……なまじ、才能があるのも考えものよね」
「しょんなかと」
医師や癒師として、報酬を受け取るには正式な資格が必要とされた。例え同じ事が出来ようとも、それを行使し、対価を得るのは国法のみならず大陸法を犯す事であり、叛逆と同義であった。
「今朝のドルチェは、梨のソルベよ」
扉の奥ではガタリと物音がしたが、やはり返事はない。
資格試験を受けるまでには、充分な備えが必要とされている。
当然だ。制度設計は、歴史により作られたものである。
そのために正式な癒師資格は、経験を積んで学府修了をした満二十二歳以上でないと受けられない制度があった。
「……まぁ、仕方がないわね」
だからこそ、導かねばならないのが大人の責任でもあった。
アウグスタの視線は、婆やが手に持つ鍵へ向く。
「良いわ。婆や」
頷いた婆やは皺くちゃの指先で、鍵穴へと合鍵を差し込んだ。
ガチャリと音が鳴る。開錠の音だった。
アウグスタはまだ、動かない。そして、その先に居るリナも。
婆やにより、開かれていく引き扉。
ようやく中が見えてきたリナの自室は、普段と変わらない。
医学を始めとし、経済や法学から哲学や娯楽までと、多種多様な書籍たちが整然と並ぶ本棚。
そして、小さな机が置かれていた。
女の子らしい物品といえば、寝台周りに置いてある、ぬいぐるみとお人形くらいのものだった。
その寝台には、リネンのシーツに包まれた大きなものが。
リナである。
入口からは、背中を向けていた。
その背中は丸まっていて、震えてもいる。
「入るわよ」
カツカツと踵を鳴らして進む。
「頼んますばい」
「婆やも、頼んだわね」
アウグスタの身体が室内へ完全に入ると、婆やが言った。アウグスタもそれへと返す。
やがて扉が閉じられると、カチャンと小さく音が鳴り、リナの室内は二人きりとなった。
「……起きているわね」
立ったままのアウグスタが、聴くまでもない。
シーツ越しとはいえ、震える背中が見えている。
身体を強張らせ、吐息も声も押し殺して眠れるほど、人は靭く出来ていない。
「よく眠れていた方が、よかったかしら?」
ピクリと、肩が跳ねたのがわかった。
そのまま、モゾモゾと動いている。
布越しでも、耳を塞ぐ姿が視えた。
「それで聴こえなくなるとでも、思っているの?」
アウグスタは「交信」を用いている。
「無駄よ」
距離も音も無関係に、心を届ける術式だ。
「拒もうとも、届くのですから」
——だから、私は違えない。
言葉と心を。
それを曲げるくらいなら、最初から口にしない方がよかった。
「呪いみたいなものだけれど、便利よね」
ズルズルと、縮こまってゆくリナ。
まだ未熟なリナに、交信を遮断する術はない。
抗う力を持たぬ者にとって、「交信」は魂への暴力にも等しい。
シーツを強く掴んだリナの、指先が白かった。
アウグスタは寝台の空きへと腰掛ける。
肌は触れ合わない、けれども、体温は感じられていた。
「昔ね。……いいえ、今もかしらね?」
彼女は交信を用いながらも語り出す。
「治癒を使えればと、望んだ女がいたわ」
アウグスタ自身のこと——だけではない。
生命の源、魂さえ残るならば、ありとあらゆる傷病を癒す洗礼。
その秘蹟にも近しい技術を求める者は、太古より数限りなかった。
「私の場合は、知識も力も足りてはいたのよ。子供の頃から、もしかしたらって学んでいたからね」
十四年前のあの日。
今も目に焼き付くのは、無数の刃に貫かれ、壊れてゆく「あの人」の姿。
「でも、それだけじゃ足りないの」
もしも、私が治癒を使えたならば。もうほんの少しの間、生命を繋ぐ力があったなら。
アウグスタがそう思ってしまうのは、今でもだ。
「勿論、今でも技術にせよ、経験にせよ足りないわ。けれど、本当に足りなかったのは……」
小さな傷を癒す程度なら、アウグスタにも出来る。それは、誰でも可能な範囲でのものだった。
せめてアントニオが来るまで、夫の生命を保たせられたなら。
二人なら、もう少しだけマシな治療も出来た。そして時間が許すなら、人を揃えて治癒する目もあったはずだ。
治癒の術式は、複数術者による合成術式として用いられるのが、一般的なのだから。
そしてあの時は、一人だけだった。
言葉にはしていない、けれど伝わってしまうのだろう。交信とは、そういうものだ。
リナの背中は、また丸まっている。優しい子で、だからこそ繊細だった。
「……手よね。私には、両手しかなかった」
必要なものはもう一つあるのだが、それに関してはアウグスタも割り切れている。
しかし、そのもう一つこそが今のリナに欠けているものだった。
息を飲む音が聴こえる。
「乱暴な言い方になってしまうけど、才能よ。妬けるわね」
だからこそ、敢えては告げない。持つものだけを認める。それが、残酷な期待だとしても。
触れず、離れず。
体温を感じる一定の距離を保ったままに。
リナはまだ、顔を見せてはくれないでいる。
「力を持つ者には、責任が伴うわ」
癒し手としての道を諦めた。だからこそ、その先を問う資格はない。
けれども、伝わってしまうのだろう。喘ぐ様な息遣いが聴こえてくる。
期待、羨望、英雄視。
リナは今、そういったものに潰されかけている。
そうアウグスタは見ていた。
苦労を知り、賢い子だからこそ、それが反転する怖さをよく知っている。
己の限界も知っていて、介護というものの過酷さも、恐らくはわかってもいる。
暫く二人は、無言であった。
「気休めにもならないでしょうけどね」
再び口を開いたのも、アウグスタの方だ。
実際、まだ伝えるべきことを伝えられていない。
昨夜は嵐の様な流れの中で、ちゃんと言えていない言葉があった。
「先日の活躍、見事でした。キエッリーニとして、貴女たちの働きを、誇りに思います」
リナの身体はまた固まって、小さく震え始める。
「昨日の貴女の判断は、正しいものです」
ガチガチと、歯音が鳴っている。
「優先順位の付け方も、完璧でした」
唸り声。若い娘が出すには憚られる、音だった。
「貴女が手を尽くさずとも、救われたのです」
一瞬、身体が起き上がる。だがすぐに、また蹲ってしまっていた。
「もしも居合わせた者が貴女でなくては、この結果とはならなかったでしょう」
益々、丸くなってゆくリナの背中。
それを見るアウグスタは、手を伸ばし掛けて、止めた。
もっと上手くやれた。
もう少し、何とかなったはず。
それは、思い上がりに過ぎない。
全知全能とは程遠い私たち人類種は、いつだって選別と選択の末、己の無力を嘆かないとならないのだから。
「まだ、たった一日です。数日くらい疲労から目覚めないことなんて、よくあることです」
そして、知っている。人の肉体にはそういったことが、よくあるのだと。
「思い出しなさい。オルトが腕をクマに食べられてしまった後、何日間眠っていましたか?」
四日だ。
未熟者とはいえ、腕一本でも目覚めるまでに、それだけの日が必要だった。
致命傷にも等しい傷を負い、たった一日。
「思い上がってはなりません。貴女は癒師でもなくまた、医師でもないのです。——今は『まだ』」
変わらず、まだリナは震えていた。
アウグスタには、これ以上差し伸べる手はなかった。
彼女の腕はたった二本しかなく、また、その力も強いものではない。
ヒクヒクと鳴る声。彼女はそれが嗚咽だと、理解している。
ただ眺める。静かに上下する、丸い背中を。
また暫くの時が過ぎた。
チクタクと置き時計の音が鳴っている。
正確に刻まれた時は、来た頃よりも随分と先へ、針を進めていた。
変わらない、丸まったままの背中から、アウグスタは目を逸らす。
もう、オルトは訓練場に着いたのだろうか。
フィオナはお父様に会えたのだろうか。
アウグスタは今を想う。
この事件の、再発防止策はあるか?
武器携行の許可制は現実的ではない。
首を振る。そして、思考は対処そのものへ。
それよりも、非常時の体制は充分に機能していたか? 初動に遅れはなかったか?
緊急救命に、随分と掛かったとの報告もある。効率を上げるには——。
そして前を、先を見ていた。
立ち止まったままのリナには構わずに。
——グォーン、グォーン、グォーン、グォーン、グォーン、ゴンゴン、ゴン……。
時計の針が止まると共に、鐘が鳴る。
文字盤の上では、二つの針が一本の直線になり損ねていた。
地の底へ、真っ直ぐに突き刺さる長い針。
それとは対照的に、天頂を目前にした短い針は左に折れている。
——重力に抗えず、頭を垂れているみたいね。
正午という完成へ進もうとするその形状を、アウグスタはただ、黙って見ていた。
だが、もう時間はない。
鳴り響いていた、鐘の音が途絶える。
——スウッ。
アウグスタは息を吸う。そして吐いた。
「もう、良い時間ね」
長いこと見ていた、リナを包むシーツを見やる。
その頭は上がらない。
けれども、告げなければならなかった。
「雇用主としては一つ、指導をしなければなりません」
それは、キエッリーニ当主「代行」として。
「本日の仕事、出来ない理由はありますか?」
返事はない。それは理解していることだ。
だが、だからこそ道理を説く必要がある。
「わかっているはずです。キエッリーニの侍女として、貴女は正しく振る舞っていますか?」
やはり、返事はなかった。
その頭は益々下がる。
まるで、過去へと退行するかの様に。
「我が家に、働きのない者を置いておく余地はありません。リナ、貴女はキエッリーニの侍女です」
返るはずもない言葉をアウグスタは待っている。
しかし、戻っては来なかった。
また一つ、息を吐く。細いものだった。
もう少し、噛み砕かねばわからなかったかと。
リナの背中は、止まっている。
恐怖を克服したからではないと、アウグスタにはわかった。
それは、単なる硬直に過ぎない。
「理由なく義務を果たさぬ者。そんな家人を置いては、キエッリーニは、トラーパニは、成り立ちません。昔から聴かされてきた、ことでしょう?」
それぞれが義務を尽くし努力して、焦土と化したこの街は蘇った。
貴族も、孤児も。
誰もが己の腕が届く場所へ、伸ばした。
それは誇りであり、理と利による共生という「領主代行」アウグスタの歩んだ道程でもある。
「力が足りなくとも、果たすべきがあります」
それが例え「娘」であっても、彼女は赦さない。
そうやって、誰もが自分の足で歩いて来たのだ。
心の裏切りは許せても、道理への裏切りは許せるものではない。
「義務を外れた時点で、契約は成り立ちません」
例え情が絡もうとも、トラーパニとして絶対の契約を違えるならば、切り捨てる以外になかった。
「本日は婆やから、休暇の申請を受けています」
一つだけ、嘘を吐いた。
だが、もう「交信」は解いている。
立ち上がったアウグスタ。
その視線は、白き者へと。
リナはまだ、リネンのシーツという繭から羽ばたかない。
まだ、それでも構わない。アウグスタはそう判断していた。
そうして、置き時計の針の進みを見ている。
「どの様な決断をしようとも、構いません」
淑女の礼を一つ。決して、家人にはしない礼。
「ただし、選ばぬこと。覚悟がないまま居座ることは、赦しません」
言葉を置いて、背中を向けた。
「好きになさいな、リナ」
踵を鳴らし、扉へと向かう。旧くから培われた淑女の歩法。
アウグスタの細腕が、扉を開く。
正午を告げる六つの鐘が鳴り響いた。
身体を扉の外へと置いたアウグスタは、また一つの礼をする。
やがて、静かな音を立てて扉は閉じられた。
二つは別れる。
時計の針が再び、別たれてゆく。
踵を鳴らし歩み出したアウグスタは、扉の向こうから響く、リナの慟哭を聴いていた。
背中を寂しく丸めることなく、まっすぐに伸ばしたままに。




