49話 雛鳥は嘶く。
お読みいただき、ありがとうございます。
誰にも等しく、朝は訪れる。
キエッリーニの侍女であるリナは、シャリシャリとした肌触りの薄い亜麻布にくるまったまま、爽やかな目覚めを迎えていた。
昨日は沢山働いたので、まだ少しだけ身体がダルかった。
けれど、寝具に包まれながらも、彼女の頬はつい緩んでしまう。
昨日のことを、思い出してしまうからだ。
——大変だったけど、上手くいって、よかった。
夕方に起こった銃乱射事件。
駆け付けたそこは、凄惨な現場。
皆、怪我をしていた。単なる大怪我だけでなく、生命に関わる状態の人だって、何人もいた。
——だけど、やりきったよ。
癒師としての感覚、治癒を用いた際の生命力の繋がりにより、それを確信している。
死者=0。
そんな数式が頭を過ぎる。
同時に、誰も失わなかったという実感が、今更ながら十五歳であるリナの胸中を満たしていた。
それに、とてもいっぱい褒められた。
それも嬉しい。
体力も限界だったので、あまり覚えてはいない。
よく覚えてはいないけれど、夜会参加者たちの賞賛の声が、まだ耳に残っている。
「よっし!」
リナは元気いっぱいに起き上がる。
やる気に溢れ、今日も一日、頑張ろうと。
こうして、いつもは苦手な早起きをしてしまうくらいに、彼女は充実していた。
身嗜みを整え、いつもの侍女服を纏ったリナは、玄関から外へ出てゆく。
別に、外出するわけではない。
キエッリーニ邸の決まりにおいて、一番に起きた者が行政の広報紙——官報ともいうが、それを取りに行く。
何を隠そうリナは、これまでに一度も官報を取りに出た経験がなかった。
普段は早起きな、婆やが取りに出るので。
浮かれ気分の中、リナは足取りも軽く門へと向かう。今日は少しだけ、風が強かった。
——いたい。
——たすけて。
そんな声が、聴こえた気がする。
男の声か、女の声か。子供の声か、大人の声かもわからない。
彼女は立ち止まり、耳をそばだて周囲を伺った。
長袖の侍女服の下で、僅かに肌が粟立つ。
「空耳かなぁ?」
だが、何も、誰も見つけられなかったリナは、そう結論付ける。
「……ううん。お化けの声だよね」
誰でもなく、そして誰でもある声は、彼女にとっても馴染み深いもの。
印象的で抽象的な「誰か」の声だった。
まだリナの、耳に残るものがある。
擁壁の崩落に巻き込まれ、足が潰されてしまったお母さん。
どこも怪我をしていないのに、子供も、男の子なのに、泣いていたっけ。
腱や神経の損傷なら、後ででも済む。
そう判断したからこその、後回し。だからこそ、選別からは漏れた。
それらは少しだけ、彼女へ影を落とすもの。
「でも、必要だったんだよ」
顔を上げたリナは、自分自身へ言い聞かせる様にして、声を出す。覚えた教えが、頭を過った。
声を出せる、痛がれるのなら、緊急救命においての優先順位は低い。
即、処置の必要な者から先に。
繰り返し読んだ書物にも、しつこいくらいに書かれていること。
医療は時間との闘いなのだから。
失われたモノは、もう二度と戻らないのだから。
だからこその、癒師としての鉄則。
綺麗な、青い夏の朝に、赤い光景が混じる。
頸動脈を切断されたお姉さん。
頭部の一部が破損したおじさん。
お腹に大きな穴の空いてしまったお婆さん。
僅かに、喉が引き攣る。何もかもが赤に、染まっていた。
そして、胸を、心臓を、撃ち抜かれて壊されてしまった、ミリオッツィ商会頭。
フィオナお姉ちゃんの、素敵なお父様。
あの時だけは、何も考えられないでいた。
——今もまだ、少しだけ冷たさが残る。
一瞬が、生死を別ける。
そう知っていたはずなのに。
ミリオッツィのおじ様の時には、はっきりと立ち止まってしまっている。
だけど、その傷も全て、もう癒していた。
目をぎゅっと閉じて、頭を振るリナ。
赤を、振り払う。
——間に合った、間に合ったんだよ。
昨日まで、リナにはそれだけの致命傷を癒す強度での、治癒経験はなかった。
だけど、なんとか繋ぎ止めている。
癒し手のみが知る感覚が、まだ生きていた。
空は抜ける様に青い。
その実感が、気持ちをどこか、軽くしている。
「鞄、持って来るべきだったわ……」
足取りも軽く門へと辿り着いたリナは、屋敷に滞在する人数分という、大量の官報を両手で抱えることとなった。
「おはようさん、今日は随分と早起きじゃねーか」
「まぁ、たまたまですね。おはようございます、若様。今朝も鍛錬ですか?」
両手の塞がってしまっているリナが、どう扉を開けようかと迷っていると、オルトが出てきた。
「おう、ひとっ走りしてくるぜ」
その声は、デカい。そしていつもと同じでオルトの上半身は裸であった。
だが、もう馴れたものなので、リナも今更驚かない。とはいえ、驚くべきことは別にある。
「それだけ?」
「騎士団が駐留する様になって、官報も増えたな。婆やなんかは、籠か鞄を使ってたからよ。リナも、ちっとは頭使った方が良いぜ」
驚くべきは、このなんとも言えない無神経さにであった。
目の前に、大荷物を抱えた淑女がいるのに、この言種。
確かに少し、リナ自身も浅はかだったろう。
その自覚があるだけに、あまりにも紳士らしからぬ態度には、沸々と怒りが込み上げる。
「それだけなの?」
「手紙とかも、あんのかな? ほら、感謝とかの。封筒が一緒だし、わかり辛ぇーよな」
あまりにも能天気な返答。
「それだけ?」
再びの問い掛けに、少し考え込むオルト。
「もしかしたら、俺にもとうとう恋文とか? 結構よ、昨日から、褒められてんだよな」
寛容という名の堤防は、実にあっさりと決壊する事となる。
「気が利かないのね! バカオルト! 淑女が荷物がいっぱいで、困ってるのよ!」
叫んだリナは、両手に抱えた官報をオルトの腹へと押しつける。割れていて、硬いお腹であった。
「淑女? どこに? おい、危ないから押すなって。転ぶぞ」
お気楽な男には、ちゃんと伝えてやらねば理解が遠い様である。
知っていた結果だ。
「転ばないわよ!」
「くすぐってーから、やめろって」
けれども、ちょっと大人になって、ちょっとだけ格好良くなったかも。と、思ってしまった昨日のリナを、今朝の彼女は自分で締め殺してやりたくなっている。
「仕分けするから、手伝いなさいな!」
そうして官報の束をオルトへと押し付けて、屋敷の居間へと向かうキエッリーニの侍女であった。
「そっちは、騎士団の皆様へので、こっちは、奥方様と家の皆の……」
「フィオナの分が、ねーぞ?」
官報を仕分けるリナたちである。
ここまで来れば、若様は役には立たない。だが、手伝わせていた。
「フィオナお姉様は、お家に届いているかもしれませんし、まぁ、ここになくても?」
お役所仕事なだけに、細かな気遣いを期待してはいけない。そうと知るリナだった。
「アイツ、住所不定だよな」
「無職じゃないので、良いんですよ」
定職に就いていない、若様とは違って。と、続けかけたリナだが、なんとか留めている。
「そういや、アイツ今朝はいなかったな。昨日の夜までは、いた気がすんだけど」
「お忙しい方ですしね。……あった、私の分。あと、これは若様のね」
手にしていたオルト宛の官報を渡す。
「おう、あんがとよ」
少し嬉しそうにして、受け取るオルトだった。
リナは、フウと息を吐く。
一仕事を終えた感慨であった。
手紙の仕分けを終えれば、一旦は休憩に入れる。
キエッリーニ邸の就業規律は、細かくも流動的に出来ている。
当主「代行」である奥方様の、制度設計だった。
「……なんですか?」
「いやよ。お前も、誇らしいんじゃないかってさ。昨日の俺たちの活躍、官報にも載るんだし」
一瞬、何を言っているのか、わからなかった。
だが、鼻歌を囀るオルトが、ちょっと宝物みたいに封筒を捧げ持っていれば、リナにも察することなど容易い。
「な、何言ってんですか。と、当然のことを、したまでですよぅ」
「顔、ニヤけんぞ」
かなり失礼なオルトは放っておき、官報を懐に忍ばせる。
最近は無駄に育ってきた脂肪が、割と役に立つ。
「こういうのは、慈愛に満ちた微笑みというんですよ。奥方様みたいに」
「いや、母ちゃんのは、威圧だろ。笑顔とは本来、何たらとか言うし」
何やら失礼なことを言い出したオルトは、放っておくことにする。
リナとて表情だけは取り繕っているつもりだが、ちょっとだけ自己心理の内側に気付いてしまって、彼女の顔は熱かった。
柄にもなく早起きが出来た理由にも思い当たり、モゴモゴと口が動いてしまう。
そんな姿を見られるのは恥ずかしいが、止めることなど出来やしなかった。
「ま、走ってくるわ。また、朝飯で」
そこへ、救いはあった。
「はい、いってらっしゃいませ。若様」
せめて、彼に相応しい「侍女」らしく。
走り込みに向かうオルトを淑女の礼で見送るリナだった。
背中が遠ざかってゆく。
リナも踵を返し、自室へ戻ろうとする。
厨房から、納戸から、それぞれの部屋から。
生活の律動が刻まれ始める。
トラーパニの、キエッリーニの屋敷らしい、賑やかな朝の喧騒が沸き始めていた。
落とさぬ様に胸へと手を当て、覚えたばかりの踵を鳴らして歩み出す。
懐に忍ばせたのは官報なので、物語の様に面白いものではない。
けれども、「私たちの物語」が記録として記されたもの。
孤児あがりの、「たまたま」お屋敷で働けただけの、何も持たない侍女。
それでも——無機質な官報が、心を浮き立たせる。
そんなリナだからこそ、自室に戻ると即、懐から封筒を取り出した。
肩が震え、指先もまた震えている。
それは、恐怖からのものではない。
彼女自身が、よく知ったことだった。
気が逸るが、確信を持っている。
単なる確認のためのこと。
それでも、封を開けずにはいられない。
ビリビリとやや乱暴な音を立て、トラーパニの市章の封印は破られた。
リナの瞳へ最初に映ったのは、表題と事件の概要を伝える文言だ。目で追い、続きを見やる。
こういった文面においては、まず簡潔に被害状況などを記述することとなっていた。
そして見つけたのは、被害状況についての一文。
その文言は、彼女の期待と同じもの。
「……よかったぁ」
その一文に、リナは拳を握り、突き上げる。
——死亡者なし。
最も望んでいた言葉で、それは、感覚的に「やり遂げた」ことへの実感でもあった。
安堵から、へなへなと膝が崩れてゆく。
だが、その膝へ力を入れることにより、なんとかへたり込まずに済んでいた。
「……ダメだよね。皆も、無事だったんだよね?」
独り言が漏れる。
行政府の部隊には、リナよりも経験豊富で上手の癒師たちが配されていた。
だから、選別の結果、怪我をしていても応急処置に留まった人たちだって、きっと——
少しだけ、視線が動いた。
それは何の意図もない、筈の。
文字を追うために起こった、反射的な仕草であった。
——え?
声にならない言葉が、喉奥から出てくる。
書かれた「死亡者なし」の文言は、確かにリナの緊張を、ほぐすものだった。
それだけは、間違いなかった。
けれども——。
「ひゅっ、……はっ、は……」
掠れた呼気が、耳に響く。
癒師としての知識が、これは過呼吸の症状だと告げている。
——誰の?
尋ねるまでもない、その荒い呼吸を刻んでいるのは、「私」だ。
——何で? 傷は癒えたし、損傷は癒してる。
何度も確認していた。
臓器も、神経も、血管も。骨や血肉だって、健康に機能していた筈で。
「死んで」はいない。
「生きて」いる。
リナはそう、断言をしたかった。
けれども、安らかな寝息を立てて、ほんの一時だけ眠りについた人たちは——
彼女の膝が、崩れて落ちた。
「ふゅっ、ひゅっ、……はぁ、はぁ……」
何も、言葉とはならない。
意味のない、呼吸音だけが脳内へと響いた。
震える指先に、掴むものは冷たい紙片。
覚束ない指先が、そこから離れる。
散らばってゆく、白いもの。
目が追うのは、短かな言葉だけ。
ひらひらと落ちゆく、今朝、届けられたばかりの官報。
そこには、こう記されている。
——意識不明者、四名。
視界がまた、赤に染まってゆく。
続く言葉が見えた。
——重体、重傷を含め、被害は多数。極めて甚大な損害である。
紅よりも濃い、闇に落ちそうな意識を繋ぎ止め、キエッリーニの侍女、トラーパニの子、孤児上がりの癒師リナは。
遠ざかってゆく意識を、必死に掴もうとする。
彼女が思い出そうとするのは、「助けた人たち」の声や、表情——。
「生きて」いる、はずのもの。
彼女は精一杯に手を伸ばす。
頬へ、冷たい床の硬さがぶつかった。




