38話 昼の茉莉花。
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少しだけ、流れを整理しました。内容に変更はありません。
街の一部は熱狂に巻き込まれるとも、キエッリーニの屋敷は静謐を保っている。
一昨日に摘んだ茉莉花が薫る執務室兼自室にて、アウグスタはペラリと頁を捲った。
届けられた『信用取引における破産時の、利益の遡及的回収』による、差し押さえ額を見ている。
——やってくれる。これでは足りない。
最近流行となっている個人、あるいは法人による『先物投資』という商法。
理論としては公的に統制された信用取引と、さして変わりがない。
だが、市井に蔓延るこういった私設市場には、大きな問題があった。
国家にあれども、そこにはないもの。
信用を担保する実力。
崩壊の責任を、負う力はないだろう。
そう見通したアウグスタは、帳簿を閉じた。
「やれやれ、ね……」
楔は打っている。損得勘定に聡い商人達は手を引く事だろう。だが、そうでない者達がいる。
机の上に置かれた茶器を見る。淹れられた茶は、すっかり冷めてしまっていた。
公平性を保つなら、市の予算から補填しなくてはならない。実に頭の痛い事だった。
大禍——大海蛇の顕現による被害以後、市の予算は厳しいと、アウグスタも知っていた。
復興や保障に割かねばならないので当然だった。
だからこそ、以前の議会で成立した物流統制における原資は、キエッリーニによる、行政府への無利息の貸付として処理されている。
喉の渇きを覚えた彼女は、はしたなくも冷めた茶を飲み下す。
婆やの淹れてくれた好きな銘柄だというのに、やけに渋く、苦かった。
「たっだいまー!」
とても大きく、無駄に元気なオルトの声である。
息子はルカの迎えへと出ていた。一緒に居るのだろう。姪の声は、まったく聴こえもしないが。
仕方がない。普通の声音では掻き消されてしまうのだから。
アウグスタは再びやれやれと首を振ってカップをソーサーへ置くと、静かに報告書を片付けた。
ダッ、ダッ、ダッ。
静かだったのはつい先程迄の事。屋敷の中には、やけに騒々しい足音が響いている。
やがて一瞬だけ音の響きが止まると、直したての扉が思い切り開かれた。
確かめるまでもない。オルトの顔が見えている。
「母ちゃん、なんかやべー事になってるぜ!」
——ちゃんと、扉を引けた様ですね。
そんな事を思いながらも、アウグスタは襤褸の様になっている息子が、元気いっぱいに叫んでいるのを睨んだ。
「おかえりなさい」
「おう。ただいま」
「ただいま、戻りました」
予定通りに一緒だったルカは、可愛らしい騎士礼を見せてくれる。
彼女はさっと、部屋の中へと滑り込む。
オルトもそれに、続いた。
「扉くらいは、ちゃんと閉めなさいな」
慌てて引き返したオルトが、扉を閉める。
既に成人もしているのに、困ったものだと、アウグスタもつい嘆いてしまう。
「随分と、男前になったわね?」
「名誉の負傷だぜ」
血は止まっている様だが、上着は敗れ、体中も泥だらけのボロボロだった。
正直、見た目さえをも取り繕わないのも勘弁して欲しい。
そう考える彼女の指は、知らずに眉間を押さえている。だが、だからこそ聞いてやらねばならない。
「それで、何が『ヤバい事』なのですか?」
「煽りがひでぇ!」
視線でも促せば、予想通りの情報だった。立て続けの領主「代行」令からの法案成立。当然、反感や困惑は織り込み済みとなる。
「別に、大した事ではありませんよ」
アウグスタが告げると、叱られた犬の様な顔をするオルトがいた。
「いや、こないだみてーに、おかしいんだぜ?」
「反感からのものですからね。少し行き過ぎる事もあるのでしょうね」
言葉には呆れた様に、肩を竦めて見せるオルト。
アウグスタはつい、呆れたいの此方だと言いかける。だが、息子の方が速い。
「んーな危機感のねー事言ってると、母ちゃんも危ねーぞ。夜会ばっかで仕事してねーみてーに言われてたしな」
わかっている。煽動する者が、いるのでしょう。
そう判断しているアウグスタにとって、その事象もまた、織り込み済みの状況だった。だからこそ、母親としては尋ねねばならぬ事がある。
「で、貴方は何故、襤褸になっているのです?」
冷徹に、尋ねてやれば。
「負けたからな。だけど、骨は折れてねぇ」
成人した大人が、この言い種である。アウグスタは思わず掌で顔を覆った。その隙間から、仏頂面をして、オルトの隣のルカを見る。
あれは、不機嫌なのではない。笑いを堪えている顔だ。こういったわかりにくい表情も、本当にアントニオと似ている。
「その様な姿で、ルカの迎えに?」
「おう。な、ルカ? 今日も一緒に帰って来たよな」
皮肉は通じなかった。もう少し、わかり易く伝えてやるべきだったか。
「嫌がられませんでしたか?」
みるみると、顔を曇らせるオルト。
当然その隣には、一緒に帰ってきたルカがいる。
何故だか姪は、とても自慢げだった。
アウグスタは息を吐く。
「別に、嫌がってない」
ルカはそれしか言わないが、どうせ恥ずかしいとでも言ったに決まっている。姪は結構毒舌なのだ。
「……風呂、入ってくるわ」
「遅いけどね。でも、いってらっしゃいな」
慌ただしく出て行く息子に、また溜息が一つ。
「奥方様。オルトは、頑張ってますよね?」
視線を上げたルカが言う。
あの子を追い詰めた娘が何を言うと、アウグスタは思った。
けれど、それを伝える意味はない。
「そうね。頑張っているだけ。なんだけど」
ほっと息を吐く姪は、少しばかり考えが甘かった。何が、彼女をそうさせるのか。それがアウグスタにはわからない。
賢い子の筈、だったのに。
「ルカは、オルトが心配?」
「当たり前です。あの浅慮が市井にいるだなんて、信じられないですし」
アウグスタは姪を軽々と抱き上げる。
「煽動する者がいるならば、私が斬ります」
何故、この子まで物騒になってしまったのだろうか。誰に似たのかしらと思えば、当主代行は首を横に振るしかなかった。
「斬るとか斬らないとかの、問題ではないわ。そういう物騒な人達と同じでは、友達も守れないわよ」
何かを悟ったかの様に、深く頷いた姪は。
「オルトは浅慮。私は違います」
とても、得意気な顔をしながら、そう言った。
まだ、誓いの儀も迎えていない少女の強気に、深く嘆息するアウグスタであった。
「ルカ。武術より、行儀をやりましょ?」
「やです」
知っている。それがないから、オルトも勘違いをしていたのだと、アウグスタは考えている。
ならば、少し狡い手ではあるが。
「だから、貴女は男の子だと思われるのですよ? 半年も、寝食を共にしながら」
ルカは傷付いた顔をする。
彼女にも、弟分どころでなく、従兄弟と思われていたのは、思う処がある様なのだ。
だが、まだなんとでもなった。
「歩き方と、視線の送り方を練習しましょ?」
「ヤです」
足音を立てない歩き方も、動きながら周囲へ視線を巡らすのも、武芸者の所作だった。
踵を鳴らし、姿勢よく前を向いて歩く事こそが、好ましい淑女の歩法である。
「オルトが、節穴だっただけです。私は、とても、とても女らしい」
伯母には、この子の女らしいの基準が、わからなかった。
「私は、婦女を護りし、剣なれば」
——結構、言ってはいるが、なんで?
そうアウグスタは思うのだ。
大体、彼女が騎士として守るのは小熊である。
むさい、オルトなのだ。
今更ながら、アントニオでなく、ルカを騎士にして教育していればよかった。
なんて事を思いながら、干していた茉莉花を片付け始める領主代行であった。
「出られるのですか?」
ルカは賢い。
アウグスタは不在の場合、室温調整の術具を落とす。そうなれば、室内で干されている茉莉花の乾燥は遅れた。
不在のままでは室温も上がり、湿度も高くなってしまうからだ。些細な行動から察せる子であった。
「ええ。新任の監査官殿へ、ご挨拶をね」
「……それなら、婆やを呼んできましょうか?」
同じ十二の頃のオルトとは違い、一緒に行く。などと言い出しはしないし。と、アウグスタは益々感心するものだ。
子供を連れて行けはしないのだとも、ちゃんとわかっている様だった。
自分の立場というものを、よく弁えている。
だが、まだまだ経験は足りなかった。
「そんには、及ばんとよ」
言いながら、部屋の扉を開いたのは婆やである。
予定通りの時間。
その管理が正確だからこそ、飛ぶ様に時の過ぎる商都においても、立つ事が出来た。
「ルカ、少しの間、お留守番をお願いね。——婆や、行きますよ」
「はいな」
新任の監査官は、行動に問題がある様だった。挨拶がてらに、少し釘を刺しておく気でいる。
「いってらっしゃい。奥方様、どうかご武運を」
そう考えているアウグスタは、ルカによる少し物騒な淑女の礼により、送り出された。
行政府へと続く瑠璃色の石畳の道は、昼の陽射しを受け、輝いていた。
潮の街。美しき、恵みのある白の街。
港から吹き上げる潮風が、市場の喧騒を運んでくる。
魚売りの声、荷車の軋み、子供達の笑い声。
いつもと変わらぬ、トラーパニの午後だった。
——変わらない。それが、今は少しだけ怖い。
アウグスタは日傘を手に、婆やを連れて歩いていた。急ぐ理由はない。急いでいると見せる理由も、なかった。
煽動者が動いている。
監査官が帳簿を調べている。
法案への反発が、じわじわと広がっていた。
三つが別々に動いているならば、対処も別々になる。だが、繋がっているならば、窓口は一つだ。
——繋がっていてくれた方が、まだ楽ね。
裏はない。確信もない。だが、予感はある。
この三つが同じ季節に動き出したのは、偶然にしては出来過ぎていた。
「奥方様。少し、もだえようか」
婆やが言う。
視線の先、見慣れた顔の商人が、見慣れない表情をしていた。
市場の端、人気の少ない路地へと、足早に消えていく。
「そうね」
短く答えながら、アウグスタは視線だけで追った。
呼び止めはしない。今は、まだ。
石畳が途切れ、行政府の門が見えてくる。
衛兵が一礼した。いつもと変わらぬ顔だった。
——変わらない顔の下に、何があるか。
それを疑い始めたら、きりがない。
だから、疑わない。信じるしかない。
ただ、見ている。
「奥方様。監査官殿が、本日も」
出迎えに来た若手官僚の顔に、疲労の色が滲んでいた。目元の隈も、深い。
連日の徹夜続きなのだろう。
「そう」
アウグスタは頷く。それだけだった。
仕草一つで、茉莉花の残り香が優しく薫る。
若手官僚は少しだけ、表情を緩める。ゆっくりと息を吐けば、腹の底に熱を持つ。
彼は大きく息を吸い、再び恭しく礼をした。
——来た、という事が、伝わるのならば。
今日のところは、それだけでも十分だった。




