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第四章 追放

天文十年、初夏。

躑躅ヶ崎の館の広間に、信宗は、九つの身で座っていた。上段には、父、武田信虎。

五十近い当主は、肩幅が広く、眼光は鷹のようだった。傍らに置かれた膳には、茹でた芋が載っているが、箸をつけた様子はない。

「そなたが、天狗の子か」

低い声が、広間に響いた。

「はい」

「砂糖を売り、鉄を買い、筒を鋳た。みな、そなたの仕業と聞く」

「天狗さまの教えにございます」

信虎は、鼻で笑った。

「天狗など、どうでもよい。肝心なのは、その筒だ。河原の大筒は、いかほどの城を落とせる」

「……信濃の城なら、おおかた」

「よし」

信虎の拳が、膝を打った。

「ならば、来月にも、信濃へ兵を出す。筒を、ありったけ運べ。村々から、兵も米も、取れるだけ取れ」

広間の隅に控えていた晴信の肩が、びくりと揺れた。

信宗は、顔を上げた。

「お館様。恐れながら、今年は風と長雨で、稲の出来が悪うございます。芋と玉蜀黍で凌いでいる村も多く、これ以上、取り立てれば――」

「黙れ」

雷のような声だった。

「童の分際で、政に口を出すか。妾腹の子が、図に乗るな」

信宗は、唇を噛んで頭を下げた。この男は、息子でも、民でも、道具としか見ていない。

(史実の通りだ。この人は、戦のために国を、使い潰す)

視線を上げると、晴信の横顔が見えた。

膝の上で握りしめた拳が、白くなっていた。


その夜。

離れの縁側に、晴信が、一人で座っていた。

「眠れぬのですか、兄上」

「……信宗か」

晴信は、月を見たまま、答えた。

「父上は、お館として、武田をここまで大きくされた。それは、確かだ」

「はい」

「だが、民は、疲れ果てている。芋がなければ、この夏、どれほど死んだか。それを、父上は、顧みぬ」

晴信の声は、低く、静かだった。

「信宗。私は、武田を継ぐ身だ。だが、このままでは、継ぐ前に、国が壊れる」

信宗は、息を吸った。

(ここだ)

これが、歴史の分岐点だった。そして、史実でも、晴信は、同じ決断をする。ただ、その結末を、できる限り穏やかなものにできるなら。

「兄上。血を流さずに、なさる方法がございます」

晴信が、ゆっくりと振り返った。

「……申してみよ」

「お館様は、来月、駿河へ赴かれる予定がございます。今川の義元殿を、お訪ねになるために。そのとき、国境を閉ざせば」

「父上は、戻れぬ」

「はい。ですが、討つのではなく、駿河で、安らかにお暮らしいただく。森屋を通じて、義元殿には、すでに、話を通してございます。お館様の身は、手厚く、お預かりいただけると」

晴信の目が、大きく見開かれた。

「そなた……いつから、これを」

「兄上が、民を案じておられるのを、見たときから」

晴信は、しばらく、黙っていた。それから、ふっと、息を吐いて、笑った。

「五つのときから、そなたは、人を食ったやつだと思っていたが。ここまでとはな」

「天狗の子ですから」

「…………」

晴信は、月を見上げた。

「板垣、甘利に、話をしよう。国衆にも。反対する者は、いるまい。皆、父上の戦に、疲れておる」

そして、小さく、続けた。

「親を追う子の名は、残るだろう。だが、それでも、私は、民を取る」

信宗は、黙って、頭を下げた。


六月。

信虎が、駿府へ向けて出立した、その朝。

甲斐と駿河の国境の関所に、板垣信方が、鉄砲隊を率いて立ちはだかった。

「お戻りは、まかりならぬ」

関所の門が、重々しく閉ざされた。

信虎の供の者たちが、色めき立つ。刀に手がかかる。だが、その眼前に、十挺の鉄砲が、ずらりと並んだ。

「……これは」

「お館様。晴信様の、ご命にございます」

板垣は、深く頭を下げた。

「これより、お館様は、駿河にて、ご隠居いただきます」

信虎は、馬上で、動かなかった。しばらくして、低く、笑い出した。

「……ははは。そうか。あやつが」

やがて、その目が、遠くの山の木立に向けられた。

そこに、小さな影が、立っていた。信宗だった。

「あれが、天狗の子か。……わしの、子か」

誰に言うともなく、呟いた。

それから、信虎は、馬の首を返した。

「行く。この国は、くれてやる。だが、忘れるな。戦のない国など、どこにもない」

その背が、駿河へ続く街道に、ゆっくりと、消えていった。つ


晴信が、武田の当主に就いたのは、その月の末だった。

広間に居並ぶ家臣たちを前に、二十一歳の若き当主は、静かに口を開いた。

「ひとつ。芋、玉蜀黍を、国中に植えよ。凶作の備えとする」

「ひとつ。桑を植え、蚕を飼え。絹は国の力となる」

「ひとつ。金山衆の働きを、重んぜよ」

そして、広間の隅に、控えていた信宗に、目をやった。

「……ひとつ。我が弟、信宗に、軍の工事を一任する。鉄砲、大筒、その他一切。彼の言を、私の言と心得よ」

家臣たちが、ざわめいた。

信宗は、深々と頭を下げた。小さな背中を、夏の日差しが、照らしていた。

(これで、舞台は整った)

その先には、まだ誰も知らない、長い戦の日々が、待っていた。

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