プロローグ2
最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
次に、土と湿った落ち葉の匂い。そして、誰かが遠くで叫ぶ声。
「若殿! 若殿ぁ!」
雨宮は目を開けた。視界がやけに低い。見慣れた軽トラの天井が、ひどく高く感じられる。シートに横たわった体が、どうにも小さい。
(……あれ?)
持ち上げた手は、小さく、白く、ふくふくとしていた。四十男の節くれ立った農協職員の手ではない。
ダッシュボードの隅に、昨夜まで読んでいた軍事雑誌が滑り落ちていた。助手席にも後部にも、山のような雑誌。荷台からは、種芋の入った麻袋の土の匂いが漂ってくる。組合員の田中さんに頼まれた、スコップと鍬と苗箱。確かに積んだ。確かに、あの峠道を走っていた。
そこで、空が裂けた。
白い光が車を呑み込み、ハンドルを握ったまま、意識が遠のいた。
(死んだのか? いや、それなら、この体は……)
「おお、おられた! おられたぞ!」
窓の外に、男たちの顔が現れた。髷を結い、粗末な鎧をつけた、日焼けした顔。手には槍。全員が、軽トラを見て腰を抜かさんばかりに固まっている。
「な、何じゃこれは……鉄の、牛車か?」
「若殿が、中に……」
雨宮は反射的に口を開いた。喉から出た声は、舌足らずで甲高かった。
「……ここは、どこだ」
「若殿が喋られた!」
男たちが色めき立つ。一人がドアに手をかけ、びくりと引っ込めた。冷たい金属に怯えたのだ。もう一人が、おそるおそる指でボディを叩く。
「信宗様。三日も行方知れずで……お館様がどれほど案じられたか」
(のぶむね……?)
頭の奥で、自分のものではない記憶が、ざわりと動いた。幼い子供の記憶。母の膝、甲斐の山、馬の匂い。そして、四日前、一人で山へ入って、足を滑らせた――。
(この子の、体か)
状況が、頭の中で急速に形を取り始める。ミリタリーオタクの悲しいさがで、まず考えたのは年代だった。男たちの装備、言葉、あの黒漆の笠。
「いま、何年だ」
「は? 天文でござりますが……」
天文。十六世紀の前半。つまり、ここは。
「甲斐……か。武田の」
「いかにも。信宗様は、武田家の御子にござります」
雨宮は、小さな手で、そっとハンドルを撫でた。
荷台には、種がある。じゃがいも、トウモロコシ、甜菜。苗と農具。後ろには、昭和から令和までの兵器と技術の知識が、雑誌になって積み上がっている。そして頭の中には、この国の農業を二十年見てきた男の経験がある。
(これがあれば、飢饉は救える。鉄砲も、作れる)
だが、その前に、この場をどう説明するか。
男たちが、車と、荷台と、中の子供を、化け物でも見るような目で見ている。雨宮は、咄嗟に、子供の知恵で口を開いた。
「天狗さまが、くれたんだ」
「……天狗?」
「山で落ちたとき、天狗さまが助けてくださった。この牛車も、荷も、種も、みんな下さった。甲斐の民が飢えぬようにって」
静寂が落ちた。やがて、年かさの男が、ゆっくりと地に膝をついた。
「天狗の下され物……。さすれば、これは神域の品じゃ」
一人が膝をつく。また一人。男たちが次々に、軽トラに向かって額づいていく。
(……通った)
雨宮は、シートの上で小さく息を吐いた。心臓が、子供の体で、やけに早く打っていた。
(嘘はついたが、飢えを救う約束だけは、本物にする)
フロントガラス越しに、山の向こうの空が、朱く染まりかけていた。
遠くで、鳥が鳴いた。




