プロローグ1
天文十五年、四月。
夜気は、冷えきっていた。
樫の大枝に、身を預けた少年は、息を殺していた。十四歳。細い腕には、不釣り合いな、長い銃身を、抱えている。
眼下の、野に、松明の列が、崩れていく。上杉の、旗が、潮が、引くように、退いていく。怒号と、悲鳴と、馬の嘶きが、遠い雷のように、混ざり合って、聞こえた。
白い装束の、北条の兵が、闇の中を、音もなく、駆けている。敵と味方を、見分けるための、白。氏康が、仕掛けた、夜襲だった。八万の大軍が、一夜のうちに、崩れていく。
「……勝ちました」
足元の、枝の、下から、しわがれた、声がした。
片目の、老人。山本勘助。杖を、傍らの、幹に、立てかけ、闇の、一点を、じっと、見つめている。
「北条は、勝ちます。ですが、勝たせすぎては、ならぬ」
「…………」
「氏康は、聡い男。この勝ちで、関東を、手に入れれば、次は、甲斐を、見る。あの男の、右腕を、折る。それが、拙者の、読みにございます」
少年の、名は、信宗。
指が、冷たく、強張っていた。
「あの、黄の旗の、男です」
勘助が、囁いた。
河越城の、城門の前。馬上に、一人の、将が、いた。鎧の肩に、火影が、揺れ、背に、黄の地に、染めた、「八幡」の旗が、翻っている。逃げる、上杉の、軍勢を、じっと、睨みつけていた。
北条綱成。地黄八幡。
関東中が、その名を、恐れる、猛将だった。
信宗は、その名を、知っていた。
(史実では、この人は、この戦を、生き延びる。
そして、四十年、北条を、支え続け、七十を過ぎて、老衰で、亡くなる)
肩に、銃を、引き寄せる。
水車小屋で、何年もかけて、作り上げた、銃だった。筒の内側に、螺旋の溝を、刻んである。雑誌の、ページの、切り抜きだけを、頼りに、金山衆の、源左衛門と、何度も、失敗を、重ねた。
(俺が、これを、撃てば、歴史が、変わる)
雨宮として、生きた、四十年の、記憶が、胸の奥で、軋んだ。
農協の、事務所。種を、買いに来る、組合員の、笑顔。鍬を、積んだ、軽トラ。
(あの、人たちは、今、どうしているのだろう)
指が、震えた。
「……信宗様」
勘助が、静かに、言った。
「お迷いなら、お止めなされ。拙者が、泥を、被ります」
「いいえ」
信宗は、首を、振った。
「俺が、撃ちます。俺が、背負います」
頬を、木床に、押し当てる。冷たい、鉄の匂いが、した。
風は、ない。綱成までは、およそ、八十間。月は、雲間に、隠れ、松明の、火が、彼の、兜を、照らしていた。
照門の、向こうで、綱成が、馬上で、わずかに、身じろぎした。逃げる、敵に、向け、采配を、上げようとしている。
(頭だ。兜の、下)
息を、吐き、半分で、止める。
その時。
綱成が、こちらを、向いた。
見えるはずが、なかった。闇の中、木の上、八十間。
それでも、一瞬、確かに、目が、合った気がした。
少年の、指が、わずかに、揺れた。
――轟音。
白煙が、視界を、覆った。肩を、殴られたような、衝撃。耳が、鳴る。信宗は、枝に、しがみつき、煙が、晴れるのを、待った。
綱成の、体が、後ろへ、傾いでいた。
采配が、手から、離れ、黄の旗が、大きく、揺れる。馬が、棹立ちになり、鞍から、男の体が、滑り落ちた。鈍い音を、立てて、地に、叩きつけられる。
(外した……)
唇を、噛む。狙ったのは、頭だ。だが、倒れた、綱成の、喉元から、黒いものが、噴き出しているのが、松明の火に、見えた。
反動で、銃口が、落ちたのだ。
「殿が! 殿が、撃たれたぞ!」
叫びが、走った。周囲の、兵が、一斉に、駆け寄る。城門の、陰から、一人の、少年が、飛び出してきた。十歳ほど。赤い、小さな、鎧。
「父上! 父上ぇっ!」
少年が、倒れた、男に、縋りつく。その声が、闇に、響き渡った。
信宗は、動けなかった。
「信宗様。降りますぞ」
勘助が、袖を、引いた。
「ここは、じき、見つかります。急ぎ」
「…………」
「信宗様」
「……はい」
幹を、伝い、降りる。足が、震えて、何度も、滑った。
林を、抜け、闇の、野へ、駆け出す。背後で、白い、装束の、兵たちが、松明を、掲げ、林の、方へ、走ってくる気配が、した。
息が、苦しかった。胸の、奥で、何かが、ずっと、鳴っていた。
(初めて、人を、撃った。いや、歴史を、撃ったのだ)
あの少年の、声が、耳から、離れなかった。
「父上ぇっ!」
(あの子は、きっと、俺を、恨む。当然だ)
いつか、その日が、来る。八幡山の、夜か。小田原の、焼けた、広間か。あるいは、もっと、先か。
(それでも、俺は、前に、進む)
天を、仰ぐ。雲が、割れ、月が、顔を、出した。冷たい、光が、河越の、野を、照らしていた。
白い、装束の、兵たちが、勝鬨を、上げている。その、足元で、一人の、将が、息を、引き取ろうとしている。
勝者と、敗者。
その、境目で、少年は、ただ、走り続けた。
この夜が、のちに、この国の、すべてを、変える、始まりであることを。
そして、この、一発の、重さを、生涯、背負い続けることを。
少年は、まだ、知らなかった。




