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第十章 隻眼の男

天文十二年、春。

甲府の屋敷の離れで信宗は、森屋宗右衛門と向かい合っていた。

「若様のご依頼の人物の件でございます」

「見つかったか」

「駿河のとある寺におりました」

森屋は細い目をさらに細めた。

「片目を失い、足も不自由。顔には無数の古傷。ただの浪人にしか見えませぬ。ですが」

「ですが?」

「その男が駿府の城下で、ある武家の築城の相談を受けた際、一刻のうちに縄張りの図を描き上げたそうにございます。見た者は皆、言葉を失ったと」

信宗は背筋を伸ばした。

(山本勘助)

史実では今川家に仕官を断られ、のちに板垣信方の推薦で、武田家に仕える。

この世界でも駿河にいたのだ。

「その人を甲府へ、お連れしてほしい。条件は問わない」

「承知いたしました」


一月後。

甲府の屋敷の門前に、一人の男が現れた。

背は低く、がっしりとした体格。左の目は白く濁り、足を引きずっている。

顔には、刀傷がいくつも走っていた。

「山本勘助と申す」

声はしわがれていたが、不思議な力があった。

晴信は、広間の上段からその男を、見下ろした。

「勘助。そなたの噂は聞いている。兵法に通じ城を築く技に長けると」

「恐れ入りまする」

「そなたはこれまで、どこにも仕えられなかったと聞く」

「見た目が、この通りでございますゆえ」

勘助は、自嘲気味に笑った。

「どこの御家も、片目の足萎えを召し抱えようとはいたしませぬ」

晴信は、しばらく、勘助を見つめていた。

それから、傍らの信宗に目をやった。

「信宗。この男をどう見る」

「はい」

信宗は、一歩、前に出た。

「勘助殿。一つ、お尋ねしたい」

「何なりと」

「あなたがこの国を攻めるなら、どこから攻めますか」

勘助の残った右の目が、きらりと光った。

「…………」

勘助はしばらく黙って、広間の壁にかけられた、甲斐と信濃の地図を見上げた。

やがてゆっくりと指を伸ばした。

「甲斐は、山に囲まれた天然の要害。外から攻めるのは至難でございます。ならば攻めずに、補給を断つ。駿河と、信濃との街道を押さえ、塩を止める」

「塩を」

「甲斐に、海はございませぬ。塩が絶たれれば、人は半年で弱ります」

広間が、静まり返った。

「……なるほど」

信宗は、小さく頷いた。

「では、その対策は」

「今川と、深く結ぶこと。そして、信濃の塩の道を確保すること。駿河の商人を、手の内に入れておられると聞く。すでに、手は打たれているようにお見受けいたします」

勘助は顔を上げ、信宗を真っ直ぐに見た。

「この若様は、本当に十歳か」

「天狗の子ですから」

信宗が、にっこり笑った。

勘助は一瞬、目を見開き、それから、声を立てて笑った。

「面白い。実に、面白い」


その夜、屋敷の庭で信宗は河原で見せた鉄砲隊の訓練を、勘助に案内した。

闇の中、松明の火が揺れている。

三百の足軽が無言で、銃を回し、装填し、構え、放つ。

轟音が、山間にこだました。

勘助は、じっと、その様を見つめていた。

長い沈黙の後、小さく呟いた。

「……戦が、変わる」

「はい」

「これを、他の国が、真似するのはいつ頃か」

「十年もすれば。堺や国友で、似たものが作られましょう。ですが、量と、質と、規律では、我らが先を行きます」

勘助は、ゆっくりと頷いた。

「ならばその十年で、この国を固めねばならぬ。城の築き方も変わる。鉄砲に耐える、新しい城を考えねばなりませぬ」

「ぜひ、お力を」

信宗は、頭を下げた。

勘助は驚いた顔をして、慌てて膝をついた。

「滅相もない。この勘助、これほど何かに心が躍ったのは、初めてでございます。若様、いや、信宗様。この命、あなたにお預けいたしまする」

月が、屋敷の屋根を、白く照らしていた。

信宗は、傍らの晴信を振り返った。晴信は、静かに頷いていた。

(これで、軍の頭脳が揃った。あとは北へ、そして、東へ)

遠く、まだ見えぬ、上杉と北条の影が、信宗の脳裏を、かすめた。

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