第十一章 林城攻め
天文十三年、秋。
甲府の評定の間に、信濃の地図が大きく広げられていた。
諏訪を押さえた今、次の標的は松本平を治める小笠原長時である。
信濃守護の名門で、本拠は山上の林城。
守りの堅さは、近隣に聞こえていた。
「兵は、およそ五千。城は山の尾根に築かれ、攻め口が限られております」
板垣信方が地図を指した。
「力攻めにすれば、味方の犠牲は免れませぬ」
「勘助。そなたはどう見る」
晴信の問いに、隻眼の男が、杖をついて、前に出た。
「山城は、見かけほど強くはございませぬ。要は、水と、兵糧にございます」
勘助は、地図の上に、指を滑らせた。
「林城の水の手はここ。尾根の北側の沢筋から、引いております。
この水を断てば籠城は、十日と持ちませぬ」
「水を、断つ」
信宗が、小さく繰り返した。
「ただし城兵は、それを、最も警戒しております。尾根には、見張りが立っておりましょう」
勘助が、信宗に、目をやった。
「信宗様。投石機と、大筒を、山麓に据えられますか」
「据えられます」
「甲州の馬は足が強く、トウモロコシとその残渣を飼葉としておりますので力強い。投石機も大筒もバラせば山道でも運べます」
「ただし、敵の目をそこに引きつける役目、ということですね。その間に水の手を」
「いかにも」
勘助が、にやりと笑った。
「拙者が、金山衆を数十人、お借りしたい。山の者の足を」
十日後。林城の麓に、見慣れぬものが、立ち並んでいた。
三基の投石機。その傍らに五門の大筒。
「放て」
信宗の声で、投石機の腕が、唸りを上げる。巨大な石が、山の斜面を越え、城の櫓に降り注いだ。櫓の屋根が、砕け、柱が、折れる。
大筒が続く。城門の周りの石垣に鉄の玉が、突き刺さり、土煙が噴き上がった。
城中は、大騒ぎになった。
「あれは、何じゃ!」
「櫓が、潰されたぞ!」
長時は城の物見台から、その光景を見下ろし、歯噛みした。
「出陣せよ! あれを、叩き潰せ!」
城門が、開いた。数百の騎馬が、山を駆け下りてきた。
「鉄砲隊、構え」
信宗の声が、静かに、響いた。
山麓に展開した三百の鉄砲が、一斉に、膝を落とす。射手と、装填手。三挺が、淀みなく回っていく。
「放て」
轟音。山肌に白煙が、立ち込めた。
先頭の騎馬が、ばたばたと倒れる。後続が足を止めた。
その隙を、二度目、三度目の射撃が容赦なく突く。
斜面で、馬が暴れ、騎手が振り落とされ、列が崩れた。
長時の騎馬は、山を駆け下りてくることも、城へ駆け戻ることもできなかった。
ようやく残りが、城門へ、這い戻っていく。
その夜。
林城の北、深い沢の暗がりを数十の影が、音もなく這い進んでいた。
先頭を行くのは、金山衆の頭領、源左衛門。その後ろに、勘助が、杖を頼りに杖で足場を確かめながら続く。
「ここですな」
勘助が囁いた。
沢の岩の隙間から細い水が、竹の樋に導かれ、城へ向けて流れている。
「水の手は、この一本のみ」
源左衛門が頷いた。
「やりまするか」
「待て」
勘助は、少し考えて、言った。
「樋を壊すだけでは、足りぬ。城兵が気づいたとき、すぐ、直されよう。水源そのものを石で埋めよ。人の手では、容易に掘り返せぬように」
金山衆の男たちが、無言で、動き出した。山の者の手慣れた動きだった。
夜が明ける頃には水の手は完全に、塞がれていた。
三日後。林城は、水に、飢えた。
井戸は、涸れ、貯めの水も尽きかけていた。
兵たちは、唇を割り、目を窪ませていた。
城門の前に、白い布を掲げた使者が、立った。
「降伏の勧告にございます」
信宗が、城門に向かい、声を張った。
「武田晴信様は、仰せです。城内の女、子供、老人は、城を出て構わぬ。その身の安全は、保証する。降る者は、咎めぬ」
城内が、ざわめく。やがて、一つ、また一つと、城門が開いた。
水を求める兵、女子供、老人が、列をなして城から出てくる。
信宗は、その一人一人に、水を配るよう命じた。
「……恩に着る」
衰弱した老婆が、手を合わせた。信宗は、黙って頭を下げた。
長時は、その夜、城を捨てた。
わずかな手勢とともに、北の抜け道から闇の中へ、消えた。
勘助はその動きを、見逃さなかったが、追撃は命じなかった。
「追わぬのか」
晴信が尋ねた。
「追えば血が流れます。それに」
勘助は、残った右の目を、北の山並みに向けた。
「長時が逃げる先は、決まっております。村上義清のもと。そこで次の戦が、待っておりましょう」
「……そうか」
晴信は、静かに城を見上げた。
林城の櫓に、武田の旗が翻った。
信宗はその旗を、遠くから眺めていた。
傍らの勘助が、小声で言った。
「信宗様。あの、塩尻の峠、覚えておられますか」
「……はい」
「あの地形は、いずれ、役に立つ時が来ます。この国の外から、攻め寄せる、大きな敵に対して」
信宗は、はっとして、勘助を見た。
勘助は、何も、答えなかった。ただ、遠くを、見つめていた。
(この人は、どこまで、先を見ているのか)
信宗の胸に、畏敬とも不安ともつかぬ、感情が湧いていた。
補足です。
塩尻峠の待ち伏せは、この章から外し、最後に、勘助が「いずれ役に立つ」と、伏線として、触れるだけにしました。北条との戦いの場面で、この地形を活かせます。




