第九章 高遠の落日
「頼継を、呼べ」
晴信の声は、低かった。
数日後、高遠頼継が甲府の広間に姿を現した。
四十がらみの、尊大な顔つき。立ち居には先の戦で、武田に加勢した、という自負が滲んでいる。
「お召しにより、参上いたしました」
「頼継殿。そなたに、尋ねたいことがある」
晴信が、書状の写しを手に取った。
「これはそなたが、板垣の家中の者に宛てたものか」
頼継の顔が、一瞬、強張った。
「……存じませぬ。偽書でございましょう」
「ならば、これはどうだ」
信宗が、一歩、前に出た。
「森屋宗右衛門の手の者が、書状を運んだ使い走りを突き止めました。名は与助。
高遠家に仕える者です。すでにすべてを、話しています」
頼継の顔から、血の気が引いた。
「……お、おのれ」
次の瞬間、頼継は立ち上がった。
腰の刀に手をかけ、後ずさる。
「武田が、約束を違えたのは、そちらではないか! 。諏訪の地を我が物にする、と言ったのはそちらだ!」
「約束などしておらぬ」
晴信の声が、冷たく響いた。
「控えの者」
広間の襖が、一斉に開いた。鉄砲を構えた足軽が、ずらりと並ぶ。頼継は、その場に、凍りついた。
頼継は、その夜、高遠へ逃げ帰った。
そして、旗を揚げた。
「武田に、諏訪を奪われるな!」
数百の兵が、宮川に陣を敷いた。
その前に武田の鉄砲隊が、静かに展開した。
信宗は陣の後方から、戦場を見渡していた。
(これで終わらせる)
「放て」
轟音が河原に響き渡る。
頼継の兵が薙ぎ倒されていく。
装填済みの銃が射手の手に、次々と滑り込む。
その間断のなさに高遠の兵は、恐慌に陥った。
半刻もたたぬうちに高遠の軍は、総崩れとなり頼継は捕らえられた。
その夜、甲府の広間に縄をかけられた頼継が、引き出された。
「頼継」
晴信は静かに言った。
「そなたは偽りの書状で盟友を陥れ、あまつさえ、兵を挙げた。許すわけにはいかぬ」
頼継は、顔を上げた。その目にもはや昨日までの尊大さはなかった。
「……切腹を賜りまする」
「うむ。武士として最期を遂げよ」
晴信は、扇を閉じた。
「ただし、そなたの家の者には手を出さぬ。高遠の民にも罪はない。そなた一人の責として決着する」
頼継は、深く頭を垂れた。
「……お心遣い、痛み入りまする」
翌朝、頼継は庭の砂の上で腹を切った。
見届けたのは晴信と重臣たちだった。
信宗はその場に立ち会わなかった。
遠く離れの縁側から朝の光の中に、立ち上る線香の煙を見ていた。
(これが、戦国か)
信宗の指は、小さく震えていた。
(人の命の重さがあまりに軽い。だが、それを変えられるかどうかは、これからの俺の働きにかかっている)
背後で、静かな足音がした。頼重だった。
「信宗殿」
「頼重殿」
「あなたは優しい方だ。だからこそ、これから苦しむことになる」
頼重は、それだけ言って、静かに去った。




