第八章 頼重の訪れ
諏訪との和睦が成り、頼重は国元の諏訪へ戻った。
武田の臣として、領地の統治を任される形である。
その頼重が、翌月、甲府を訪れた。小袖に軽い羽織、腰に刀もなく、供は老僕が一人。
「諏訪殿が、また来られた」
門番が、慌てて奥へ走る。それが、月ごとの恒例になっていった。
「義理、というものがございます」
板垣信方が、重い声で言った。
「頼重殿が、国元から軽装で通われる。ならば、こちらも、答礼として、諏訪へ出向かねば、礼を失しまする」
「…………」
晴信は、黙って、扇を握っていた。
「ですが、諏訪の地は、まだ、治まっておりませぬ。
その時、お館様が、無防備で諏訪に入られれば、どうなるか」
「頼重殿を、疑うのか」
「疑うのではございませぬ。危うい、と申しておるのです」
重臣たちの間に、重苦しい沈黙が落ちた。
(これが、史実の流れだ)
広間の隅で、信宗は膝の上の拳を握りしめた。
(頼重殿の誠意が、そのまま、『危うい』と言われる口実になる。そして、最後に頼重殿が切腹を命じられる。あの映画の運命だ)
その日の夕刻信宗は、館の庭で頼重を呼び止めた。
「頼重殿。お話がございます」
十歳の少年を頼重は穏やかな目で見下ろした。
「信宗殿か。いかがされた」
「あなたは毎月丸腰で甲斐へ来られる。誠意のおつもりでしょう」
「ええ。疑いを晴らしたいのです」
「それがあなたの首を、絞めているのです」
信宗は、静かに言った。
「あなたが誠意を尽くすほど、こちらも、諏訪へ出向く義理が生まれます。そして、その道中に何かが起きれば、兄上が傷つけば、あるいはそうでなくとも、そう『見える』ように、仕組まれれば」
頼重の顔色が、変わった。
「……何を」
「あなたの軽装は真心です。ですが、あなたの首を欲しがる者にとっては格好の的です。『諏訪が、こちらを誘い出している』と、囁くだけで足りる」
信宗は頼重の目をまっすぐに見た。
「頼重殿。私がそのようなことを、分からぬと思っておられますか」
頼重は、息を呑んだ。
「兄上は、あなたを疑っておられません。ですが、周りは違う。誰かが、あなたを消そうとしています。私はその誰かを、突き止めます。それまで、軽装での訪問は、お控えください」
しばらく、頼重は言葉を失っていた。やがて、深く頭を下げた。
「……情けない。子供に諭されるとは」
「いいえ。あなたの優しさは美徳です。ですが、時に、命取りになります」
十日後。森屋宗右衛門が一通の写しを、信宗の前に置いた。
「高遠頼継殿から、板垣様の家中の者に宛てた書状でございます」
信宗は、目を走らせた。そこには、頼重が密かに村上と通じ、諏訪へ誘い出した武田を、討とうとしている、と書かれていた。
「……偽りだ」
「はい。諏訪の家中に確かめました。そのような使者は、一度も出しておらやれませぬ」
信宗は、書状を握りしめた。
(諏訪の旧領が、欲しいのだ。頼重殿が生きていては、自分の取り分が、減る。だから、偽りの告げ口で、武田の手を汚させようとしている)
翌朝。信宗は、晴信の前に、膝をついた。
「兄上。頼重殿を、疑ってはなりません」
「……申してみよ」
「頼重殿の軽装は誠意の証です。そして、危うい、と囁く声の源は、高遠頼継にございます。これを」
信宗は、書状の写しを、差し出した。
晴信は、それを黙って読んだ。読み終えるまで、広間に誰も口を開かなかった。
「……頼継の、偽りか」
「はい」
晴信の眉が、ぴくりと動いた。
「頼継は、我が軍に加勢したと、大きな顔をしておった」
「頼重殿を殺せば、諏訪の民は武田を恨みます。生かせば、民は頼重殿を通じて、武田に従います。どちらが国のためか」
晴信は、目を閉じた。それから、ゆっくり、開いた。
「頼重を、甲斐へ呼べ」
数日後。頼重は、広間に、膝をついていた。
「諏訪殿。そなたの命は、取らぬ。諏訪の統治を、任せる」
「……かたじけのう、ございます」
「そして」
晴信は、傍らの信宗を、見た。
「頼重殿を救ったのは、この信宗の働きだ。褒美を与えねばならぬ」
信宗は、顔を上げた。
晴信はおもむろに
「諏訪殿の娘を、信宗の妻としたい。今は二人とも幼い。婚約という形で、数年後に輿入れしてもらう。諏訪と武田の絆としたい」
広間の隅に控えていた少女が、一歩前に出た。
「父上が、お決めになったことなら」
大きな目が、まっすぐに、信宗を見ていた。
「ですが、一つだけ。父を、助けてくださったのは、あなたですか」
「……はい」
「ならば、私はあなたの妻になります。父の命の、恩返しとして」
少女はそう言って、凛と頭を下げた。まだ十二の身で、毅然としていた。
(この子を、泣かせてはならない)
その誓いは、まだ恋と呼べるものではなかった。




