第3話:テラスの惨劇と、冷たき怒り
私が十歳、弟のテオドールが六歳になった、初夏のやわらかな風が吹き抜ける昼下がりのことだった。
王城の奥深く、本宮から切り離されるようにして佇む離宮のテラス。
ここは「魔力なしの不遇王女」である私と、同じく黒髪で生まれ、周囲からハズレ枠と見なされ始めているテオに与えられた、いわば隔離された居場所だった。
けれど、私にとっては願ってもない平穏の地だ。
小鳥のさえずりが心地よく、青々とした木々が優しい木陰を作ってくれる。何より、王宮特有のあの窮屈で堅苦しい社交儀礼から解放されたこのテラスで、弟と囲む昼食の時間は、私の数少ない癒やしの一つだった。
「姉様! これ、すごく甘くておいしいよ!」
向かいの席で、テオが満面の笑みを浮かべながらフォークを動かしている。
私と同じ、夜の帳のような艶やかな黒髪。吸い込まれそうな漆黒の瞳。周囲の貴族たちは、魔力の兆候を見せないこの子を「やはり黒髪は役立たずの系譜か」と冷淡に扱い始めているが、私からすればただの天使である。
「はいはい、口の端にクリームがついてるわよ、テオ」
「えへへ、拭いてー」
ナプキンでテオの口元を拭ってやると、足元から「クゥン」と甘えたような鼻鳴らしが聞こえてきた。
椅子の下を覗き込むと、父王からテオに贈られた幼い護衛犬――白と茶の毛並みが愛らしい小型のテリア犬、ベルが、テオの足元にぺたりと座り込んで尻尾を振っていた。
「ベルもお腹空いたの? だめだよ、これは僕のごはんだからね」
そう言いながらも、テオはこっそりパンのちぎりカスを足元に落としてやっている。
本来の王室マナーなら侍女長に雷を落とされるところだが、ここには厳しい監視役の貴族などいない。私は苦笑しつつ、見て見ぬふりをしてやった。
そんな穏やかなテラスに、給仕が新たな料理を運んできた。
「テオドール殿下、本日の特製ポタージュでございます。新鮮なトウモロコシと初夏の香草をふんだんに使っております」
深皿に注がれた、黄金色に輝く温かなスープ。
湯気とともに、甘く香ばしい匂いがふわりとテラスに広がる。
「わあ、おいしそう! いただきます!」
テオが無邪気にスプーンを握り、スープへと手を伸ばした。
――その、刹那。
チリッ。
首筋の産毛が、微かに逆立った。肌を撫でる初夏の風が、急に冷え込んだような錯覚。
(……え?)
鼻孔をくすぐったのは、トウモロコシの甘い香り。
けれど、その甘やかな匂いの奥底に、ほんの微量――空気の粒子を濁らせるような、鼻の奥がツンと痺れる異質な違和感が混ざっていた。
気流のわずかな淀み。魔力ではない。魔法の痕跡など何もない。
けれど、胸の奥底で、理由の知れない強烈な胸騒ぎが警鐘を鳴らした。
――だめ。
――それに近づけてはいけない。
「姉様、スプーン取って――」
テオがスプーンをスープに浸そうとした。
考えるより先に、身体が勝手に弾かれていた。
「テオ!!」
バシンッッッ!!
乾いた破裂音が、静かなテラスに響き渡った。
十歳の少女とは思えない鋭さで、私の腕が空を薙ぎ払っていた。テオの手首ごと、陶器の深皿を真横から強烈に引っぱたく。
「きゃっ!?」
「うわあっ!?」
給仕が短い悲鳴を上げ、テオが目を丸くして椅子ごと飛び退く。
吹き飛ばされた皿がテラスの大理石の床に激突して砕け散り、黄金色のスープが派手に飛び散った。
「な、何をなさるのですか、クロエ殿下……!?」
給仕が青ざめ、信じられないものを見るような目で私を見下ろした。
魔力なしの不遇王女が、突然理由もなく癇癪を起こして弟の食事を叩き落とした――周囲の目には、そう映ったに違いない。
「あ、姉様……? どうしたの……?」
手首を叩かれたテオが、痛む手を押さえながら、今にも泣きそうな顔で私を見つめていた。
けれど、その時だった。
床に広がったスープの甘い香りに反応して、足元にいたベルが「ワンッ!」と嬉しそうに駆け寄ってしまったのだ。
普段からテオがご飯を分けてくれるものだから、「床に落ちたごちそう」だと勘違いしたのだろう。
「あっ、ベル、ダメ――!」
私の叫びは、間に合わなかった。
ベルが、床のスープをピチャリと、たった一口だけ舐めた。
次の瞬間。
ギャンッッ……!!
引き裂くような短い悲鳴とともに、ベルの身体が硬直した。そのまま横倒しに倒れ込み、激しく四肢をバタつかせながら、口から白い泡を噴き出したのだ。
「ヒッ……!?」
給仕の喉から、引きつった悲鳴が漏れた。テオが息を呑み、血の気を失った顔でその場にへたり込む。
「ベ、ベル……? ベル……!?」
痙攣は、ほんの数秒で収まった。浅く、苦しそうに喉を鳴らしながら、ベルの瞳から急速に光が失われかけていく。
たった一口舐めただけで、小型犬の呼吸が止まりかけるほどの、凶悪な即効毒。もし、これをテオがスプーン一杯でも口に含んでいたら――。
ゴウ、と。私の視界が、一瞬で冷たく暗く染まり上がった。
「…………」
手足の先から、体温が引いていく。怒りすら通り越して、頭の中が氷のように澄み渡っていくのが分かった。
魔力なしの黒髪姉弟。王位継承の蚊帳の外。だからこそ、護衛も薄く、毒見の目も行き届かない。
誰の差し金かは知らない。けれど、「魔力なき落伍者の子供など、始末しても誰も本気で怒らない」と舐めてかかった輩が、確実にこの城の中にいる。
「ひ、ひぃぃっ……! わ、私ではございません! 私は厨房から運んできただけで……!」
給仕がガタガタと震えながら、床に膝をついて頭を抱えた。
当然だ。この場で起きたのは、まぎれもない「王族に対する毒殺未遂」なのだから。
私は立ち上がり、倒れているベルの元へと歩み寄った。
懐から清潔な布を取り出し、ベルの口元に残った毒物を拭い去ると、大声でテラスの外へと叫んだ。
「誰か来なさい!! 解毒薬を、至急騎士団の治癒師を呼びなさい!!」
私の張り詰めた声に、離宮の外にいた門番たちが血相を変えて雪崩れ込んできた。
騒然となるテラス。泡を吹く愛犬を抱きしめ、恐怖でガタガタと震えながら涙を流すテオ。
――大丈夫よ、テオ。
泣きじゃくる弟の肩を抱き寄せながら、私は粉々に砕け散ったスープ皿の破片を、冷徹な目で見つめていた。
お姉ちゃんが、絶対に許さない。
この平穏を奪おうとした奴を、暗がりから引きずり出して、二度と太陽を拝めないようにしてやる。
魔力なき十歳の王女の胸の内で、静かな復讐の鐘が、冷たく打ち鳴らされていた。
4話は明日11/1 18:10に投稿します。




