第4話:黒光りの自覚と、困惑の騎士
毒スープ事件の余波は、王城を根底から揺るがした。
愛犬ベルは駆けつけた治癒師の魔術によって胃を洗浄され、奇跡的に一命を取り留めた。衰弱はしているものの命に別状はないと聞き、テオが涙をボロボロこぼしながら安堵していた姿に、私の胸のざわめきもようやく少しだけ収まった。
だが、大人の世界はそうはいかない。
普段は温厚な父王が、文字通り激怒したのだ。
中央厨房はその日のうちに近衛騎士団によって完全封鎖。毒の混入ルートに関わったとされる下級給仕や食材の納品業者が片っ端から連行され、離宮の警備体制は一から見直されることとなった。
魔力を持たぬ不遇枠とはいえ、王家の血を引く幼子を狙った暗殺未遂。父王にとっても、王家の威信にとっても、決して看過できる事件ではなかったのだ。
そして――城内には、もう一つの奇妙な噂が広まっていた。
『魔力探知具すら反応しなかった無色無臭の遅効毒を、クロエ殿下はいかにして口をつける前に見抜かれたのか?』
『魔力も持たぬ十歳の幼子が、なぜ毒の存在をあらかじめ察知できたというのだ……?』
周囲の困惑と警戒の混ざった視線。
けれど、そんな外野のざわめきなど、今の私にとっては些細な問題にすぎなかった。
事件の翌日。自室に戻った私は、誰にも見られないように扉に鍵をかけ、部屋の隅へと向かった。
巨大な黒檀の本棚と、大理石の壁。
その間にある、幅わずか三十センチほどの暗がり。敷き詰めた毛布の中へと、吸い込まれるように身体を滑り込ませる。
(ふう……やっぱり、ここは落ち着く……)
狭い。薄暗い。壁に背中がぴったり密着している。
それだけで、乱れ切っていた精神が急速に凪いでいくのを感じる。
だが、毛布にくるまりながら、私はじっと自分の小さな両手を見つめた。
(……それにしても、昨日のあれは何だったの?)
テオの皿を叩き落とした、あの瞬間。考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
空気のわずかな乱れを察知した肌。匂いの奥底に潜む毒素を嗅ぎ分けた異常な嗅覚。
そして、十歳の子供の筋力ではあり得ないはずの、あのゼロ距離からの裏拳。
思い返せば、おかしなことばかりだ。
眩しい光が嫌いで、家具の隙間に入ると魂の底から安心する。誰かが背後から近づいてくると、産毛が風圧を感じ取って相手の位置を正確に把握してしまう。厨房の揚げ油の匂いを嗅ぐと、理性を失いそうになるほど興奮する。
そして、昨日のあの「危険を察知してからの異常な初速」。
パズルのピースが、音を立てて一つに組み合わさっていく。
記憶の奥底に眠っていた本能の靄が、急速に晴れ渡っていく。
――暗い台所の隅。
――床に落ちた油滴を舐める至福のひととき。
――突如として振り下ろされる、巨大な履物の影。
――宙を切り裂く紙束の風圧。
――人間たちの「ギャアアアッ!出たぁぁっ!」という絶叫。
「…………」
私は、両手で自分の顔を覆った。
「……うそでしょ」
声が震えた。
「私……前世、あの黒光りするアイツだったの……!?」
百歩譲って、前世が動物ならまだ受け入れられた。猫とか、小鳥とか、せめて可愛げのある生き物なら誇れた。
なのに、私の魂に刻み込まれていた生存本能の正体は――人間たちに最も忌み嫌われ、最も生命力に満ち溢れた、あの漆黒の害虫(G)だったというのか。
(隙間が好きなのも! 油が好きなのも! 風圧で攻撃を避けるのも! 全部アイツの生態じゃないのよぉぉぉっ!!)
本棚の隙間で、私は声にならない叫びを上げながら頭を抱えて身悶えした。
王女に生まれ変わったのに、魂の芯はG。しかも、その生態が十歳になっていよいよ色濃く発現し始めている。
(……ダメよ、落ち着いてクロエ。誰にも言わなければバレないわ。誰がどう見たって、私はただの黒髪の不遇王女よ……!)
自分に必死で言い聞かせ、呼吸を整える。
そうだ。中身が何であれ、この異常な察知能力のおかげで昨日テオを救えたのだ。弟を守る盾になれるのなら、たとえ前世がアイツだろうが何だろうが使い倒してやる。
そう覚悟を決めて、本棚の隙間から這い出たその時だった。
コン、コン。
控えめだが、芯の通ったノックの音が部屋に響いた。
「クロエ殿下。陛下より命を受け、本日付で殿下の専属護衛に着任いたしました、近衛騎士団のユリアン・アルスターと申します」
扉の向こうから聞こえてきたのは、若く、涼やかな青年の声だった。
(……ユリアン・アルスター?)
その名に、私は眉を寄せた。
アルスター侯爵家の嫡男であり、若くして近衛の小隊長を務めるエリート。第二王女の有力な婚約者候補としても名が挙がっている、将来を嘱望された青年騎士のはずだ。
(父王様、昨日の毒殺未遂で本気を出したのね……)
私は身なりを整え、お淑やかな王女の顔を作って扉を開けた。
「お入りなさい」
扉の前に立っていたのは、見事な銀髪をきっちりと撫で付け、非の打ち所のない礼服に身を包んだ十八歳の青年だった。
切れ長の青い瞳は知性を漂わせているが、その立ち姿には隠しきれない緊張と硬さが張り詰めている。
「拝謁いたします、クロエ殿下」
ユリアンは騎士の礼を執り、完璧な所作で頭を垂れた。けれど、私には分かっていた。彼が纏う空気の重苦しさが。
(……この人、ものすごい貧乏くじを引かされた顔をしてるわね)
当然だ。将来を嘱望された侯爵家の跡取りが、魔力を持たぬ「王家のハズレ枠」の護衛に突然回されたのだ。
宮廷の派閥からは「第二王女の側近から事実上の左遷か」と好奇の目に晒され、本宮からは「魔力もないのに毒を見抜いた気味の悪い子供を監視せよ」という重圧を背負わされているに違いない。若きエリートの心労はいかばかりか。
ユリアンが顔を上げ、私を観察するようにじっと見つめてきた。その視線には、探るような鋭い光が宿っている。
「殿下。不肖ユリアン、これより昼夜を問わず殿下の御身をお守りいたします。……ですが、一つだけ確認をさせていただきたく存じます」
「何かしら、ユリアン?」
「昨日のテラスでの一件……魔力探知具すら感知できぬ遅効毒を、殿下はいかにして口をつける前に見抜かれたのですか? 今後の警護のため、詳細をお聞かせ願いたいのです」
隙のない、真っ直ぐな問いかけ。
だが、まさか『鼻の奥がツンとして産毛が逆立ったから、前世の反射神経で引っぱたいた』などと口が裂けても言えるはずがない。
私は静かに微笑み、首を横に振った。
「……ただの、胸騒ぎよ。神様がテオをお守りくださったのだわ」
「……胸騒ぎ、でございますか」
ユリアンはわずかに目を細めた。まったく納得していない顔だ。
だが、十歳の子供をそれ以上問い詰めるわけにもいかず、彼は小さく息を吐き出した。
「承知いたしました。では失礼して、室内の死角を確認させていただきます」
ユリアンが室内へと足を踏み入れ、窓の施錠や調度品の配置に鋭い視線を巡らせる。
そして――彼が本棚と壁の間の「あの三十センチの隙間」に目を留めた瞬間。
「……む? 殿下、この本棚の奥は一体――」
彼が隙間に手を伸ばそうとした、その時だった。
シュッ。
風切り音すら立てず、私の身体が床の上を滑るように移動していた。
気がつけば、私はユリアンと本棚の間に割り込み、両手を広げて立ちはだかっていたのだ。
「っ……!?」
ユリアンが目を見開き、息を呑んで咄嗟に半歩後ずさった。
騎士としての優れた反射神経を持つ彼ですら、十歳の少女の異常な初速と変則的な軌道を、とっさに目で追うのがやっとだったのだ。
「……殿下? 今、どのような足運びを……?」
冷や汗を浮かべ、警戒を露わにするユリアン。だが、私にとってはそれどころではない。
「だ、ダメよ! そこは私の聖域なんだから、触らないで!」
「……聖域、でございますか」
私の背後、本棚の隙間には、敷き詰められた毛布と、厨房からくすねてきた揚げ菓子の包みが並んでいる。
一見すれば、魔力を持たぬ幼子の奇妙なお遊びにしか見えない。
だが、ユリアンは目で追うのがやっとだった先ほどの異質な歩法と、昨日の毒殺未遂を未然に防いだという事実を頭の中で結びつけ、青ざめた面持ちのまま息を呑んでいた。
(なぜ、魔力を持たぬはずの十歳の少女の動きに、鍛錬を積んだ自分が一瞬とはいえ反応し遅れたのか……。それに、この本棚の隙間……両壁に守られ、背後からの奇襲を完全に無効化する完璧な『死角』ではないか。そこに毛布と食料……まさか、次なる暗殺に備え、あらかじめ長期の籠城すら可能な『絶対防衛陣地』を構築していたとでも言うのか……!?)
ただの幼子の気まぐれか。
それとも、底知れぬ才覚を隠し持つ怪物が、無能を装って宮廷を欺いているのか――。
「…………」
若きエリート騎士は深い困惑の中、答えの出ない思考の渦へと沈んでいった。
5話は明日11/2 18:10に投稿します。




