第2話:小さな手のひらと、お姉ちゃんの誓い
四歳の私が「完璧なる日陰の隠居ライフ」の第一歩を踏み出してから、わずか数ヶ月後のことだった。
エクレール王城の空気が、再びざわめきに包まれた。
母である王妃様が、私にとって初めての弟を産み落としたのだ。
「――クロエ、お前の弟だ。入っておいで」
普段は威厳に満ちた父王が、少しばかり疲れたような、そしてどこか痛ましいものを押し殺したような声で私を手招きした。
重厚な扉をくぐり、白いカーテンが揺れる寝所へと足を踏み入れる。
部屋の空気は、四年前の私の誕生時とはまるで違っていた。
歓喜の歓声もなければ、大聖堂の鐘の音も聞こえない。控えている侍女や廷臣たちの顔には、気まずそうに目を伏せる影ばかりが落ちていた。
なぜなら、豪華な白いレースの揺りかごの中に眠るその子は―― 私とまったく同じ、艶やかな漆黒の髪を頭頂に揺らしていたからだ。
(……黒髪)
テオドール、と名付けられたその赤子。
周囲の囁きが、私の耳に容赦なく飛び込んでくる。
『またか……また黒髪の赤子がお生まれになったぞ』
『王家の金髪を受け継がぬとは。先のクロエ殿下に続き、不吉なことだ』
『どうせこの子も魔力なしのハズレ枠だろう。初代様の血が続いたところで、ブライト王国に益など何一つありはしない』
外野の冷酷な値踏み。
姉である私が「魔力ゼロの役立たず」と証明されてしまったばかりに、生まれたばかりの弟までもが、産声を上げた瞬間から冷遇と失望の目を向けられているのだ。
「テオドール……という。クロエ、お前によく似ている」
父王が私の頭を大きな手で撫でてくれた。
父王自身は決してこの子を嫌ってはいない。だが、貴族社会の重圧と「魔力至上主義」の国の理を前に、この幼子をどう守るべきか苦悩しているのが痛いほど伝わってきた。
私はそっと揺りかごの縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
すやすやと眠っていた小さな生き物が、気配を察したのか、ふわりと小さな瞼を開けた。
こぼれ落ちてきたのは、夜空をそのまま閉じ込めたような、透き通った黒い瞳。その瞳が、じっと私を見つめた。
「あ……」
小さな、小鳥のような声が漏れる。
テオドールは、小さな、赤子特有の柔らかな手を、おぼつかない動きで宙へと伸ばした。
私が恐る恐る自分の人差し指を近づけると――
きゅっ。
小さな両手が、私の指を力いっぱいに握りしめてきた。
柔らかかった。温かくて、壊れてしまいそうなほど儚くて、けれど確かに「ここに生きている」という熱が、指先を通じて私の心臓へとダイレクトに流れ込んできた。
テオドールは、ふにゃりと顔を綻ばせ、私に向かって天使のような無垢な笑顔を向けたのだ。
――トクン、と。胸の奥で、何かが激しく跳ねた。
(……な、何この生き物)
全身に電撃が走ったような衝撃だった。可愛い。信じられないくらい可愛い。
暗がりでひっそり暮らすことばかり考えていた私の心に、眩しい光が一瞬で差し込んだようだった。
そして同時に。背後でヒソヒソと交わされる貴族たちの冷たい囁きが、頭の中で鮮明に響いた。
『どうせまた魔力なしのハズレだろう』
『不吉な黒髪め』
(………………あ?)
自分でも驚くほど、冷え切った感情が腹の底から静かに湧き上がってきた。
私自身が蔑まれるのはどうでもいい。魔力なしと笑われようが、日陰者と蔑まれようが、私は平穏に生きていける。けれど。
(この無垢な赤ん坊に、誰が冷たい目を向けていいと許可を出したのよ……?)
私と同じ黒髪というだけで。
まだ何も知らない、こんなにも温かい命に対して、勝手に失望し、勝手にハズレの烙印を押し、冷遇しようというのか。
絶対に、許せない。
(決めたわ)
私は揺りかごの小さな額に、そっと自分の額を寄せた。
私の指をぎゅっと握りしめたまま、テオドールが嬉しそうに目を細めている。
私の「平穏な引きこもり隠居ライフ」の予定は、たった今、返上だ。
この子を守る。誰がお前を無能と嘲笑おうと、どんな理不尽がこの小さな命を脅かそうと、私が全部薙ぎ払ってやる。
私には高貴な魔力なんてない。けれど、何があっても生き残るための知恵と、持ち前の鋭い勘がある。
お前の平穏な日常と、その無邪気な笑顔だけは、お姉ちゃんが絶対に守り抜いてみせる。
「……テオ」
誓うわ。あなたに降りかかるすべての悪意から、お姉ちゃんが盾になってあげる。
――だってお姉ちゃんだもの。
揺りかごの前で静かに微笑む四歳の少女の瞳の奥で、決して消えることのない守護の炎が、ボッと静かに灯った。
3話は明日10/31 18:10投稿します。




