99話 明日への準備
99話 明日への準備
投影の残光
閉店後の「雪の庭」には、鍋の余熱よりも静かで深い空気が満ちていた。
壁いっぱいに映し出された投影――
先ほどのレストランでの雪乃と王子のディナーの録画。
美しい夜景も、甘い雰囲気も、音声までそのまま残っている。
その映像を見つめながら、月はふうっと長く息を吐いた。
「雪姉様……完全に自分で墓穴掘ったわね。
あれじゃ、次のディナーも確定じゃない」
腕を組んだ姿は冷静だが、表情には姉を案じる妹の複雑さが滲む。
隣で花がポシェットをごそごそ探りながら、軽く首を傾げた。
「まあ、雪姉様の性格だと断れないよね。
本人、後で絶対ベッドの中で悶えてると思うけど」
忍は映像の端で笑い合う雪乃と王子を見つめ、小さく呟く。
「雪乃様って……意外と、自分からハードル上げちゃうタイプですよね」
クラリスがこくこく頷いた。
「王子様も完全に乗り気でしたし……
次はもっと豪華なディナーになるんじゃ……」
セリーヌは指を胸の前で絡め、不安げに顔を寄せた。
「雪乃様、本当に気づいていないんですよね……?
王子様の特別な想いに」
月はため息混じりに苦笑する。
「“気づいていない”じゃなく、“気づく気がない”のよ。
お詫びのお付き合い、って本気で思ってるのよあの人」
全員が黙り込む中、花だけはさらりと言った。
「まあ、面倒な展開になるのは確定だから……
私は観察を続けるだけにするよ」
その声音は柔らかいのに、どこか無機質で天才的。
静まり返った店内に、妙に響いた。
この夜の静けさは、休息ではなく――
**次の一手を仕込む前の“間”**だった。
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キッチン、起動
「さて。雪姉様が帰ってくる前に……明日の準備を片付けましょう」
月が手を叩くと、キッチンは一瞬で“戦場”に切り替わる。
「明日のスイーツはチョコレートテリーヌよ」
弥生がすぐ材料を整然と並べ、瞳を輝かせた。
「月様、今回の仕上がりはどんなイメージで?」
「濃厚、なめらか、舌で溶ける“早さ”が決め手。
甘さは控えめ、カカオが立つ味に」
忍が湯煎の準備を始めながら問う。
「カカオ分は七十%で?」
「ええ。仕上げにごく微量の塩を。
味の“底”が一段変わるわ」
セリーヌが焼き型に紙を敷き、台に軽く打ち付けて気泡を抜く。
「デコレーションは…… minimalに。艶を主役に」
クラリスは広がるカカオの香りに目を細めた。
「この香り……店の空気まで甘くなりますね……」
月は卵液を二度濾し、細い糸のようにチョコへ落としていく。
かき混ぜる手は、風すら乱れないほど静か。
「明日も“驚きより静かな幸福”を。
雪の庭は、その方が似合うから」
「はいっ!」
声が揃い、キッチンは音を奏でるように動き出した。
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雪乃、帰還
準備が一段落した頃、扉の鈴がやわらかに鳴る。
「ただいま戻りました」
雪乃が優雅に姿を見せる。
その袖だけが、少しだけ疲れをにじませていた。
月が微笑む。
「おかえりなさい、雪姉様。お食事はどうでしたか?」
雪乃は椅子に腰掛け、落ち着いた声で答えた。
「ふふ、悪くはなかったわ。でも……ちょっと波乱があってね」
弥生がひょっこり顔を出す。
「波乱、ですか?」
雪乃は額に手を当て、苦笑した。
「メレンゲの話をしたら、パティシエと店長が大騒ぎして……
余計なことは言わない方がいいのね、やっぱり」
月はため息を深く吐きだす。
「それ、自分で墓穴掘ってますから」
「……そうみたいね」
雪乃はあっさり認めて、さらに告げた。
「それに――次回もお招きいただくことになったの。
どうしてこうなるのかしら……」
柱の影から花がひょこんと現れた。
「次も美味しいご飯が食べられるから、いいじゃない雪姉様」
「花は強いわね……」
雪乃は肩を落としつつも、少し笑って立ち上がる。
月が銀バットを示し、声を弾ませた。
「チョコレートテリーヌ、試食します?」
「今日はもう疲れたわ……。先に休ませてもらうわね」
「おやすみなさいませ」
皆が丁寧に頭を下げる。
雪乃は静かに奥へと消えた。
残されたキッチンには、湯煎の残り香とチョコの甘い余韻だけが漂っていた。
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星と小鳥
片付けがすべて終わる頃。
花はひとり外に出て、静かな夜風を頬に受けた。
星が瞬く空へ手を伸ばす。
すると――
ふわり。
小鳥が舞い降り、花の指先にとまった。
「ぴよぴよさん、おつかれさま」
小鳥は誇らしげに胸を張り、「ぴよ」と鳴いた。
花はポシェットを開け、優しく撫でる。
「またよろしくね。
次も……頼りにしてるよ」
小鳥はすっと潜り込み、ポシェットはぱたりと閉じた。
その横顔は幼く無邪気なのに、
その奥に潜む“天才の静かな演算”は誰も知らない。
明日。
雪の庭には“ほどけるテリーヌ”と姉妹の次の一手が、
静かに――けれど確実に整えられていた。
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