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婚約破棄破棄されたので流行らない喫茶店をはじめました  作者: みずとき かたくり子


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第76話 閉店後の疑念

第76話 閉店後の疑念


 閉店後の「雪の庭」は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 掃除用具のカラカラという音だけが、広い店内にぽつんと響いている。


 その沈黙を破ったのは、忍の小さな声だった。


「ねえ、弥生……何か違和感、感じない?」


 唐突な問いに、弥生はモップを動かす手を止め、きょとんと振り返る。


「何のことですか?」


 忍はモップの柄に手をかけたまま、しばらく考え込むように目を伏せ――

 やがて、ぽつりと核心に触れた。


「月様が最近出してるスイーツよ。オペラに、ザッハトルテ、タルト・タタン……どれも工程が多くて、難易度が高くて……“面倒”なのばかりじゃない?」


「……!」


 弥生は、はっと息を呑んだ。

 確かに――雪乃店長が選びそうな“堅実で安定した”メニューとは全く別物だ。


「そ、それは……月様は雪乃様直伝のレシピをご存じですし……教えてもらっていたのでは?」


 弥生の苦しい擁護を、忍はひらりと否定する。


「ううん。それは否定しないけど……でもね。雪乃様なら、絶対に“毎日”こんなに手間のかかるものを出したりしないわ。」


 その言葉に、弥生の表情から血の気が引いていく。


「……つまり、月様はわざと?」


「私はそう思ってる。」


 忍は鋭い目を厨房へ向けた。


 


――――

厨房で微笑む月

――――


 視線の先では、月が片付けの手を休めることなく、軽やかに動き回っていた。

 可愛らしい笑顔。明るい声。

 しかし、その手さばきはプロそのもの。迷いがなく、やけに完成されている。


「……雪乃様がこんなに面倒なスイーツを連日出すなんて、やっぱり想像できませんね。」

 弥生が呟く。


「でしょ?」

 忍も静かに頷く。


「月様の考えていることは……“独自性”だけじゃないと思う。もっと、深い意図がある気がするのよ。」


 二人の胸の中で、冷たい予感がじわりと広がっていった。


 


――――

パネットーネの衝撃

――――


 そんな中、クラリスが月へ声をかけた。


「月様、明日のスイーツは何を予定されているのですか?」


 月は手を止めると、ぱっと明るく笑った。


「明日は――パネットーネよ。」


「……パネットーネ?」

「聞いたことが……」


 クラリスと弥生は顔を見合わせる。


「作り方、教えていただけますか? 手伝えませんし……」


 月はふふっと優雅に笑う。


「まあ、普通のお店じゃまず出さないから、知らないのも無理ないわね。後で説明してあげるわ。」


 弥生が慌てて言う。


「い、いえ、明日出すなら今日のうちに……」


 その言葉を遮るように、月は胸を張って断言した。


「大丈夫よ。もうできてるから。」


「……は?」

 クラリスと弥生の声が重なる。


 月はゆっくりとオーブンの扉を開いた。


 ――黄金色に焼き上がった、ふっくらとした大きなパネットーネがずらり。


「い、いつの間に……!」

「こんなにたくさん……!」


 驚愕する二人をよそに、月は満足げに頷く。


「試食は――明日の開店前まで我慢してね。」


「えっ!? だ、だめなんですか!?」

「味を知らないまま販売するんですか!?」


 戸惑う二人を、月はひらひらと手で制する。


「大丈夫。これ、焼き上がってすぐは完成じゃないの。常温で一日寝かせることで熟成して、初めて本当の味になる。だから追加も作れないし、明日売れるのは“今ある分だけ”。」


「数……限定、なんですね。」

 クラリスがごくりと喉を鳴らす。


「そういうこと。」

 月は楽しげに微笑む。


「明日はきっと――面白い日になるわ。」


 


――――

一人になった月

――――


 スタッフが退室し、厨房に静寂が戻る。


 月は棚に並ぶパネットーネを見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 その瞳は、先ほどまでの柔らかい色ではない。鋭く、冷たく、そして――強い。


「……ふふ。ようやく完成したわね。」


 そっとパネットーネを撫でながら、月は呟く。


「七十二時間……私のすべてをかけたこの一品。これで――皆に思い知らせてあげる。」


 声は低く、熱を帯びていた。


「姉さまに恥をかかせた者たちが……どれほどの才能を軽んじたのか。その報いを、明日――」


 言葉が途切れた瞬間、月はふっと微笑んだ。

 それは、可憐で無邪気な“店長”の顔。


「さあ……明日は大忙しよ。みんな、楽しみにしていてね。」


 月は布巾で静かに手を拭き、足音を吸い込むように店の奥へ消えていった。


(――本番は、ここから。)


 その残り香のような気配だけが、厨房に鋭く漂っていた。

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