第70話 第一王子の来訪
第70話 第一王子の来訪
開店して間もなくのことだった。
カラン……
控えめなベルの音とともに、店の扉が静かに開く。
入ってきたのは、地味な外套に身を包んだ一人の青年。
だが、どれほど簡素な変装をしようとも――隠せるものではない。
漂う気品、整った所作、そして周囲を柔らかく制するような気流。
第一王子。
常連客たちもすぐに気づいたが、彼は視線を気にすることなく店内を見渡し――そして、ある事実を悟る。
雪乃の姿が、どこにもない。
その瞳がわずかに陰り、落胆の色が滲む。
だがすぐに表情を整え、空いた席に静かに腰を下ろした。
「……いつもの紅茶を。スイーツは何だろうか?」
丁寧に注文を受けたセリーヌは、軽く頭を下げて答える。
「本日は――オペラをご用意しております。」
その名を聞いた瞬間、王子の眉がわずかに動く。
店内でも「おっ……」と小さなざわめきが起こった。
やがて彼は短く息を漏らし、穏やかに頷く。
「オペラか……楽しみだ。」
セリーヌが去ろうとしたその時、王子は静かに問いかけた。
「ところで……店長の姿が見えないようだが?」
セリーヌは一瞬だけ迷ったが、正直に答えた。
「雪乃店長は……ただいまお休みをいただいております。」
「……そうか。」
静かに落ちた言葉。
その声音には、想像以上の重さがあった。
「開店していたから、てっきり……体調が戻られたのだと思ったが……」
彼はふっと自嘲気味に笑う。
「やはり、まだ私の誠意が足りぬのだろうな。」
セリーヌは答えられず、胸が締め付けられた。
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◆月姫、登場
「クラリスちゃん? どうしたの? 何かあった?」
軽やかな声が王子の言葉を遮った。
王子が振り向くと、そこには小柄な少女が立っていた。
深々と一礼し、柔らかな微笑を浮かべる。
「お初にお目にかかります。姉が大変お世話になっております。――雪乃の妹、月と申します。」
王子の瞳が一瞬、大きく見開かれた。
「君が……店長の妹君か。なるほど、どおりで美しい。」
あまりに率直な賛辞に、月は頬を緩めつつも上品に答える。
「姉が戻るまで、このお店をお預かりしております。至らぬ点もございますが、どうぞよろしくお願いいたします。」
その立ち居振る舞いは、小柄なのに凛としていて――まぎれもなく王女の品格だった。
王子は深く頷き、真摯な声で言った。
「君のお姉様には……本当に、多大な迷惑をかけてしまった。許されずとも、何度でも謝罪をしたい。いや……せめて、謝罪だけはさせてほしい。」
店内がしんと静まり返る。
王子の声が胸の奥に響き、常連客までも息を飲んだ。
月はまっすぐに彼の瞳を見た。
ほんの一瞬、王女としての眼差し――真剣で、強い眼差しを覗かせる。
「姉は今、少しだけお休みが必要です。どうかその間だけ……ゆっくり休ませてあげてください。」
そして、優しく微笑んだ。
「その間は――私が姉の代わりを務めます。」
王子は静かに目を閉じ、深く息を吐く。
「……分かった。ならば待とう。君の姉君に、再び謝罪できる日を願って。」
その声には打算も王族の威圧も存在せず、ただ一人の青年としての誠意だけがあった。
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◆王子のための一皿
月は丁寧に一礼し、そのまま厨房へと戻る。
常連客たちはその姿に小さくざわめいた。
「すごい……堂々としてる……」 「まるで本物の店長みたいだ」
やがて、王子の前に――完璧な層を持つ一皿のオペラがそっと置かれた。
「本日のスイーツも、姉直伝のレシピです。どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ。」
月の微笑みは柔らかく、どこか雪乃に似ていた。
王子はその皿を見つめ、深く息を吸い込む。
「……あの日の味だ。」
その小さな呟きとともに、店内には再び温かな空気が満ちていった。
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