第35話開店三十分、そして空腹はすべてに勝る
第35話開店三十分、そして空腹はすべてに勝る
喫茶店「雪の庭」は、その日も静かに扉を開けた。
時刻は午前十時。
開店時間としては珍しく早い。
白い扉に掛けられた札が「OPEN」に裏返され、鈴がちりん、と澄んだ音を立てる。
「……珍しいですね、お嬢様。今日は時間通りです」
忍が淡々と告げると、雪乃はカウンター席に腰を下ろし、優雅に紅茶を啜った。
「ええ。たまにはね。規則正しい生活も大事だと思ったの」
その言葉に、弥生は一瞬だけ動きを止めた。
「……それ、誰の発想ですか?」
「私よ?」
即答だった。
忍と弥生は目を合わせ、何も言わずにそれぞれの持ち場に戻る。
疑問を口にするだけ無駄だという長年の経験が、二人を黙らせていた。
店内には、朝の光と紅茶の香りが満ちている。
まだ客は少なく、近所の常連が一人、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるだけだった。
「いいわね……この静けさ……」
雪乃は満足そうに息をつく。
「これよ。私が求めていた理想の喫茶店。人は少なめ、空気は穏やか、仕事は最低限」
「“最低限”の基準が怖いんですが……」
弥生が小声で呟いた。
開店から十分。
二十分。
そして――三十分。
特に何事もなく、穏やかな時間が流れていた。
……そのはずだった。
ふいに、雪乃が紅茶のカップを置いた。
ことり。
その小さな音に、弥生と忍は同時に嫌な予感を覚える。
「……ねえ」
二人は動きを止めた。
「お腹、空いてきたわ」
沈黙。
「……お嬢様」
弥生が慎重に口を開く。
「朝食は、つい一時間ほど前に召し上がっていましたよね?」
「ええ。でもそれは“朝食”よ?」
「はい」
「今はもう“お腹が空く時間帯”なの」
「どんな時間帯ですか、それ……」
雪乃は立ち上がり、真剣な表情で言った。
「集中力が切れたわ」
弥生が即座に返す。
「集中力って、そもそも、お嬢様に未実装なのでは?」
忍も追撃する。
「“集中力”という言葉を知っていたこと自体、驚きです」
雪乃はむっとして二人を睨んだ。
「失礼ね。ちゃんと知ってるし、ちゃんとあったわよ」
「“あった”……過去形ですね?」
弥生が確認する。
「ええ。でもあまり使わないから、なくてもいいかなって思って、デリートしたの」
「そんな軽い感覚で削除するものじゃありません!!」
弥生の叫びが店内に響き、新聞を読んでいた常連が顔を上げた。
「……あの、何かありました?」
雪乃はにこやかに微笑んだ。
「ええ。閉店します」
「は?」
常連の声が裏返る。
「お腹が空いたの。空腹のまま働くなんて、心にも身体にもよくないでしょう?」
「……いや、まだ開店して三十分も経ってないんだが」
「十分よ。私、頑張ったもの」
胸を張る雪乃。
弥生は額に手を当てた。
「お嬢様……三十分間、紅茶を飲んでいただけですよね」
「それも立派な店主業務よ。雰囲気づくり」
忍は静かに客へ頭を下げた。
「大変申し訳ございません。本日は店主の体調……いえ、空腹の都合により、ここで閉店とさせていただきます」
「空腹って理由、隠さないんだ……」
常連は苦笑しながら立ち上がり、代金を置いて帰っていった。
扉が閉まり、札が「CLOSE」に戻される。
店内に再び静寂が訪れた。
「ふぅ……」
雪乃は満足そうに息を吐いた。
「いい仕事したわ。あとはご飯ね」
「お嬢様……」
弥生は力なく言う。
「これは“開店した”と呼べるのでしょうか」
「もちろんよ。開けたでしょう?」
「閉めるまでが早すぎます!」
忍は淡々とまとめた。
「結果として、“開店三十分で閉店した喫茶店”という実績だけが残りました」
「素晴らしいじゃない。伝説が増えたわ」
雪乃はそう言って、厨房へ向かう。
「さて。何を食べようかしら」
弥生と忍は顔を見合わせ、同時に深いため息をついた。
(……この人にとって、“営業”とは何なのだろう)
その答えは、きっと誰にも分からない。




