第36話 空腹は名案を連れてくる(だいたいロクでもない)
第36話 空腹は名案を連れてくる(だいたいロクでもない)
喫茶店「雪の庭」が、開店三十分で閉店したその日の昼。
扉にはすでに「CLOSE」の札が掛かり、店内には客の気配は一切ない。 あるのは、紅茶の香りと――不穏な予感だけだった。
「……さて」
雪乃はエプロンをきゅっと結び直し、厨房に立った。
「お嬢様?」
弥生が嫌な予感を隠さずに声をかける。
「今から、ナポリタンを作るわ」
「……はい?」
忍が静かに確認する。
「昼食、という認識でよろしいでしょうか」
「もちろんよ。だってお腹が空いたんだもの」
堂々と言い切る雪乃に、弥生はこめかみを押さえた。
「お嬢様……さっき“集中力が切れたから閉店する”と仰ってましたよね」
「ええ。だから集中力を回復させるの」
「その方法がナポリタン……?」
「炭水化物は正義よ」
反論の余地がない理論(※間違っている)に、二人は沈黙した。
雪乃は慣れた手つきで鍋に湯を張り、乾麺を投入する。 フライパンには油を引き、玉ねぎ、ピーマン、ソーセージを刻んでいく。
ジュウ、と心地よい音が響いた。
「……懐かしいわね」
炒めながら、雪乃は少し遠くを見る。
「ジパングの喫茶店では、よくこれを出していたの。ナポリタン。喫茶店の魂よ」
「“魂”を昼食にする発言ではありませんよね」
弥生が冷静に突っ込む。
茹で上がった麺をフライパンに移し、ケチャップを惜しみなく投入。 甘酸っぱい香りが、店内に一気に広がった。
「……いい匂いですね」
弥生が思わず呟く。
「でしょ?」
雪乃は満足そうに頷き、木べらで全体を混ぜる。
「まずは味見を――」
フォークでひと口。
「……うん」
ふた口。
「悪くないわね」
三口。
「もう少しケチャップ足そうかしら」
「お嬢様」
忍の声が低くなる。
「その“味見”、すでに食事の領域に入っています」
「細かいこと言わないの。味の最終調整よ」
そう言いながら、さらに一口。
弥生はフライパンの中身が明らかに減っているのを見逃さなかった。
「……お嬢様。これ、一人前分は確実に召し上がっていますよね」
「研究よ、研究」
雪乃は平然としている。
「料理人は、自分の舌を信じないといけないの」
「“信じる”のと“食べる”は別だと思いますが……」
やがて、皿に盛られたナポリタンがカウンターに置かれる。
山盛り。 堂々たる一皿。
「いただきます」
その瞬間、雪乃の顔が緩んだ。
「……ああ……これよ……」
フォークが止まらない。 もはや味見ではない。 完全に昼食だ。
数分後。
「……ふぅ」
完食。
雪乃は満足げにお腹を押さえた。
「元気出たわ」
「でしょうね……」
弥生は遠い目をする。
そのとき。
雪乃がふと、フォークを置いた。
「……ねえ」
二人が身構える。
「これ、思ったんだけど」
嫌な予感しかしない。
「ランチをやればいいのよ」
「……は?」
「ランチ営業よ。お昼に軽食を出すの」
雪乃は得意げに続ける。
「そうすれば、営業中にお腹が空いても、堂々と食べられるでしょう?」
弥生と忍は、一拍置いてから、同時に口を開いた。
「営業中に食べる気ですね」
「営業中に食べる気ですね」
完璧なユニゾンだった。
「……なぜ分かったの?」
雪乃が心底不思議そうに首を傾げる。
「今、まさにそれを実演なさったからです」
忍が淡々と答える。
「閉店してから作って、食べて、満足して、“これを営業にすればいい”と言い出す流れ……」
「完全に“自分の食事を正当化する計画”です」
弥生が補足する。
しかし雪乃は一切動じない。
「違うわ。これは合理化よ」
「どこがですか!?」
「営業中に空腹で閉店するより、最初から“食べる時間込み”で営業したほうが効率的でしょう?」
「効率の基準が、お嬢様の胃袋なんです……」
雪乃は腕を組み、うんうんと頷いた。
「ランチは一時間だけ。メニューは気まぐれ。作るのは簡単なものだけ」
「そして?」
「疲れたら閉店」
「……結局、何も変わりませんよね」
忍の冷静な指摘に、雪乃はにっこり笑った。
「ええ。でも“ランチ営業”って言葉が付く分、聞こえがいいでしょう?」
弥生は頭を抱えた。
「聞こえだけで店を運営しないでください……」
しかし雪乃はすでに次を考えている。
「ナポリタン、ミートソース、サンドイッチ……」
その目は完全に“食べる側”の輝きだった。
弥生と忍は、同時に悟った。
(……これは止められない)
こうして――
**“空腹から生まれたランチ営業”**という、
新たな混乱の種が、静かに芽吹いたのだった。




