第五十六.5話 古を知る人
夜が更けようとしていた。
王都の商業区、その一角のとある宿屋。
そこを一人の老婆が訪ねた。
誰に尋ねるともなく、老婆は迷うことなく一つの部屋へと向かう。
ドアを開けようとしてドアノブに手を伸ばした。
しかし、触れる寸前でピタリと止まる。
「開けてちょうだいな」
鍵が開く音がすると老婆は、今度は叱りとドアノブを握りドアを開けた。
中には先客がいた。
こちらは老爺だ。
入ってきた老婆を見ると、その顔を懐かしむように目を細めた。
「久しぶりだな、アニエス」
「ええ、アドルフ。 フェリクスが逝って、葬儀をしたあの日以来になるわね」
老爺の名はアドルフ。
王都セインハウルの中央にそびえるリノハウル城に隣接するように建てられた騎士育成学校の校長である。
老婆の名はアニエス。
エイムリス十国同盟に属するザントライユ王国の現国王、シメオン王の母君である。
アドルフはアニエスが部屋に入ったのを見て、ドアに向かって人差し指を撫でるように曲げる。
すると、空いたドアは音もなく閉まり、音もなくカギがかかる。
部屋の中はベッドと、明かりを灯すランプが置かれた机といすが一つ。
とても質素だった。
人がへ静まるようなこの時間に、王族が一人で来るような場所ではない。
しかし、アニエスは気にすることなく椅子へと腰かけた。
「驚いたわ。 久しぶりにあなたから手紙が届いたと思ったら、すぐに王都に来いだなんて。 手紙で王族を呼ぶなんて、ずいぶん偉くなったわね」
アニエスがからかうように笑う。
アドルフは鼻で笑って窓の外を見つめた。
「ふん、それだけ偉くなれれば、もう少し楽にしていたよ。 だがそうもいかなくなった……」
「あの子の言っていた親友……が来たのよね?」
「ああ、半年以上は経つ。 もう少し待とうとも思ったが、あれでなかなか血気盛んでな……」
アドルフが窓に触れると、ガラスが真っ白に曇り、外の様子が見えなくなった。 それは、逆も然りである。
「約束の日が迫ろうとしている。 おそらく、あと2、3年だ。 今のままでは間に合わない」
「だから、もう渡すことにするのね?」
「今のあの子は無力だ……。 今必要なのは、学ぶことではなく力だ。 あの子が死ねば、すべてが水泡に帰することとなる」
アドルフは振り返り、ベッドに腰かけた。
質はよくないのか、軋む音がやけに大きく聞こえる。
「あれは持ってきたか?」
「ええ……、でも、今はないわ」
「なに!?」
アドルフがアニエスに詰め寄る。
アドルフにとって、アニエスが持ってきたものがとても重要なものらしい。
しかし、アニエスに悪びれた様子はない。
「落ち着きなさいな」
「冗談なら、よしてくれないか」
「年を取りすぎて心臓が弱くなったかしら?」
「老い先短いのはお互いだ。 ぽっくり逝くかもしれんのだ」
アドルフが座りなおしたところで、アニエスも真面目な顔になった。
「あの子から聞いた親友の名前が正しければ、今日その子に会ったわ」
「ザントライユへ飛んだと聞いていた。 それでか」
「ええ、ちょうどいい時にね。 ついでだから、さっそくその子に渡してきたわ」
「勘のいいやつだ」
「でしょ?」
まるでしてやったりとでもいうように、しかし上品にアニエスは笑う。
「まずは一つね」
「まだ一個だ」
「他の王族が古い伝承を忘れていなければ、すぐ集まるわ」
「だが、何千年も大昔のことだ。 神話などと呼ばれるようになった。 そのような時代から、何も残せず言葉だけでなどと……」
アドルフは天井を見上げ、溜息をついた。
「三つ集まれば大したものだと、私は思うよ」
「今や王位の継承と共に受け継がれる王族の秘宝。 でも、その中身は、もはや誰も知らない……」
「それを開けられるのは……、この世界ではもうアカホ・リューマただ一人だ」
「喜んでくれるかしら?」
「さあな……。 まあ、いつも魔法が使えぬことを嘆いておったのだ。 存外、喜ぶやもしれんな……」
いつの間にか白く曇っていた窓が、晴れたように透き通っていた。
向こうの屋根から覗く月が綺麗に見える。
アドルフはただ月を見上げた。
「エイリス、まずは一つ目の約束を果たしたよ」




