十九、炎の中で
「どこ、どこに――」
焦る声は炎に掻き消されていく。
煙が充満し、視界が悪い中では迷路のようだった。袖で口元を覆い、煙を吸わないように姿勢を低くする。早く脱出しなければという焦り、身を焼かれる熱さもあいまって汗が伝った。
「おと――」
言いかけて躊躇う。すぐに迷っている暇はないと覚悟を決めた桜子は大きく叫んだ。
「お父様!」
火の粉混じりの煙が舞い、喉が痛い。肌に感じる熱は体から気力を奪っていく。
「お父様、返事をしてください!」
焼け焦げて脆い足場が、奥へ進もうとする足を鈍らせる。けれど桜子は懸命に進み続けた。
(立ち止まってはいけない!)
ここで逃げ出せば一生自分を赦すことが出来ず、一生後悔しながら生きていくことになる。
「どうか、返事をしてください! どこに――」
書斎、寝室、居間。どこを探しても姿を見つけることはできなかった。
まさかもう火に――
頭によぎった不吉な想像を即座に否定する。
「母屋はどこも探した……。まさか!」
楓の言葉が本当ならば、あそこにいる可能性が高いかもしれない。
(本当に、わたくしのために死ぬおつもりですか? そんなの、いつわたくしが望みましたか?)
どうか間にあってほしい。そう願うのに運命は残酷だ。嘲笑われるかのように熱で弱った床板を踏み抜いてしまった。むき出しの木が容赦なく足に傷をつける。
「痛っ!」
折れてはいない、まだ動く。諦めてはいない。
けれど炎は待ってくれず、ただ残酷に命の終へと追いつめるのだ。
頭上した軋む音に面を上げると、天井に入った亀裂が増していく――
「ああああああっ!」
天井が落ちた。
そこら中に漂う物の焼ける臭い。すぐ近くで感じるのは臭いだけではなく、背に押し当てられる高熱は肌が爛れ大きな火傷を負った証だろう。それでも先に進まなければと己を叱咤する。
(こんな所で、わたくしが死んだら意味がない。お父様も助けられず、人生も幕引きなんて冗談でしょう!?)
足は動かない。けれど胸は大きな音を立てている。
(まだ、死にたくない!)
血が湧き立つような熱さが体内をめぐる。それは肌を焼く外の熱とは明らかに異質で、内側から湧きたつような感覚が支配した。
(熱い――)
熱に浮かされ視界が揺れた。それが動力となるかのように身体を動かしてくれる。諦めかけていた足はまだ頑張れるようだ。
あと少しで離れ――
「返事をして、お父様!」
「さくら、こ?」
かすれた声が耳に届いた。それは注意していなければ見失いそうに小さい。
そこは桜子の部屋として与えられた場所、瓦礫に足を挟まれ壁にもたれる姿を目に留めた。
「今、助けます!」
やっと見つけた安堵を噛みしめる間もなく、傍らに膝をつく。
火の熱で瓦礫は熱くなり、重量も軽くはないだろう。けれど桜子は手の心配など気にも留めず、必死でどかそうと試みた。
「お前……。ああ、そうか。私も直ぐ、同じ所へ行くよ。妖に食われて、さぞ苦しかったろう。痛かったろう。済まない、お前になんと言って詫びればいいか……」
ものすごく悟ったような表情で、加えて諦めたような物言いだった。
「お父様?」
「お前が地獄に連れていってくれるのか? こうして共に過ごすのは初めてだな……。最初で最後になってしまったが、せめて少しでも共に歩もう。家族として過ごす時間がこのようなものになるとは――」
「ちょっと、お父様! なんですか、その諦め。わたくし生きています。この足をご覧になって、実態もございます!」
ドンと足踏み手を握ると、紀仁の顔はみるみる強張っていく。目は驚きに見開かれ、その中には桜子の姿がはっきり映っていた。
「お前――、私は、てっきり食い殺されたとばかり……」
「わたくしも食われるものと思っていたので、勘違いを責められませんが。あの方、わたくしを食うつもりではないようです。なんでも娘にしたいのだとか。おかしくて、笑ってしまいますよね」
こんな状況にもかかわらず、本当に小さく笑みがこぼれた。
「笑うな」
すると頭上からあり得ない声が降る。次いで桜子が肩に羽織らされたのは黒いコート、それもまた紛れもなく彼のものだ。
「どう、して?」
この場にいる理由を問えば、無月は怪訝な顔を浮かべていた。
「お前が言ったのだろう」
「何を――」
言いかけて固まった。『家族を助けるのに、理由なんて必要ない!』それは紛れもなく自分が言い放ったもの。確かにそう啖呵を切って飛び出してきたが。
(本気で……。本当に、わたくしと家族のつもりでいる!?)
あんなの、その場の勢いで口から出た言葉なのに。それを律儀に信じて、危険を冒してまで追いかけてくれた。
嬉しい? 嬉しくないわけがない!
音を立て屋敷の柱が軋みだす。もう限界が近いのだろう。
無月は瓦礫に銀の銃を向け、一発撃っただけで瓦礫は粉々に霧散した。恐ろしい威力の銃、けれど桜子はもう、それを扱う無月を恐ろしいと思っていなかった。
無月は紀仁を担ぎ、桜子も反対の肩に担がれた。恥ずかしくて暴れたかったけれど、そんな場合でないことは承知している。大人しく無月の負担にならぬように努めた。
人間二人を抱え、無月は軽々庭に舞い降りる。正面の門はもう通れないので塀を乗り越えて外に出た。
まず紀仁を降ろしたが、若干放り投げたと表現した方が正しいかもしれない。野次馬をかきぬけて紀仁の元に家族が終結していた。
紀仁の周りは人が多く鬱陶しいと、桜子は数歩離れた場所に降ろされる。こちらは地に足を付けさせてからゆっくりとだった。
「良かった……」
駆け寄るでもなく、桜子は自分の抜けた家族の輪を眺めている。
「ありがとう、おとう――」
言いかけて桜子は口を噤んだ。「お父様を助けてくれて」そう告げようとして自分はこの男の娘なのだと思い直す。
「あの人を助けてくれて、ありがとう。本当に、感謝しています」
「行かないのか?」
そっけない視線を追うと、真っ直ぐに紀仁たちを示している。けれど桜子は首を振った。
「行かない。だって行ってしまったら……」
ギュッと、羽織ったままのコートを握る。だって、帰りたくなってしまう。けれど叶わないことならば、黙って立ち去るのが互いのためにも一番良い。
「もう、帰りましょう」
これ以上は見ていたくない。未練を断ち切り懐かしさに背を向ける。
それで終わるはずだったのに、背後に荒々しい足音を感じたかと思えば八重に抱きつかれていた。
「うわっ!」
前のめりに倒れそうになっては慌てて踏ん張る。
「桜子! さっきはごめんね、本当にごめんなさい! 娘を見て倒れるなんて、私どうかしていたわ。生きていてくれて、嬉しい!」
「お、お母様?」
淑やかで滅多に声を荒げない人が、ぎゅっと力強く抱きしめている。力の限り、まさに遠慮なんてなかった。
「あ、あの!」
「ああ、よく顔を見せてちょうだい!」
背から離れた八重は、娘の頬を両手で包みこんだ。
「私、あなたに怨まれていると思ったの。だって、あなたを閉じ込めておく夫が間違っていると分かっていたのに、怖くて何も言えなかったのよ。こんな臆病な母親、嫌われて……いいえ、怨まれて当然だと思っていたわ」
だからあんなに取り乱していたのかと納得だ。まあ、普通に死んだと聞かされた人間が生きていれば大騒ぎにもなるが。
「私、あなたに会うのが怖かったの。そうしているうちに、あなたが死んだと聞かされて、心臓が止まる思いだった。よかった、生きていて本当に。臆病な母親でごめんね、本当にごめんね!」
泣き喚く八重の肩に楓の手が置かれる。
「俺も同罪だ。ずっと間違いに意見しなかった。お前は俺たち家族を怨んでいると思ったが……父様を助けてくれてありがとう」
「お兄様まで……」
また会えて嬉しい。どう頑張っても誤魔化しは効かず、取り繕おうと溢れだす喜びは消えてくれない。伝えても許されるだろうか、そう伝えようとした時――
「あ――」
視界が揺らぐ。目を開けているはずなのに立っていられなず、桜子は膝から崩れ落ちた。
「桜子!」
いち早く無月が抱きとめる。意識はないが、命にかかわる怪我は負っていないはずだ。コートごと包むように桜子を抱き上げる。
「待って、私の娘をどこへ連れて行くの!」
八重はいずこかへ行ってしまいそうな無月を制止する。
「そうだ、妹をどこへ連れて行く気だ!」
ようやく再会できた家族を守るように二人は追いすがった。
「八重、楓。止めろ」
それを止めたのは意外にも紀仁だった。家族はおろか、無月すらも怪訝な顔を浮かべた。
「紀仁様、何故です!?」
窘める夫が信じられず、八重にしては珍しい反論を口にする。
「大丈夫、彼は私の恩人だ。お前たちにはずっと黙っていて申し訳ないと思っている。いや、それは桜子にも同じだったな。全て話そう。だから桜子のことも、彼に任せておけば間違いない。……そうだろう?」
返答を求められた無月は言われるまでもないと頷いた。
早く桜子を休ませたい。こんな騒々しい場には長いは無用だと、火事を見物しようと押し寄せる人波をすり抜ける。
無月は腕の中で眠る娘を気遣った。おそらく煙の吸い過ぎで倒れたのだろう。本来白い肌は煤で汚れ、手には小さなすり傷も見受けられる。何より酷いのは屋敷の中で見つけた桜子の着物は背が大きく破れていた。
早く怪我がないか確かめたい。なんて脆い存在だろうと不安に駆られてしまう。この小さな存在が愛おしいなど狂っているのだろうか。今日まで、そんな風に桜子を意識したことはなかった。
あの時、理由なんて必要ないと振りきった娘を止めることが出来なかった。その気になれば力ずくで止められたのに何故そうしなかったのか。理由は簡単だ、凛と見上げる強い瞳に見惚れてしまった。たかが人間に見惚れるなどあり得ない。別段初めて見る物でもないのに何故――その答えはまだ出ていない。
この閉じた瞳は何を映しているのだろう……。そう考えていると、また愛しさが込み上げてくる。これが娘という存在、心地よいものだとかつてない感情に無月の唇は弧を描いていた。
途中で火事現場に向かう新聞記者とすれ違う。
お互い目先の事象に気を取られ全く気付いていなかったが、それは十六年ぶりに偶然のすれ違いだった。




