十七、帰り道
衝撃の事実から一夜明け、学校へは苧環の送迎で通う手はずとなっていた。ところが桜子は歩きたいと主張する。さほど遠い距離ではないと聞いていたし、自動車は楽だがそれよりも自分の足で歩くことを望んだ。
「初めまして、あたしは委員長の紺田聡子。先生に聞いたわ。今まで病気で学校に通えなかったんですってね。もう大丈夫なの? でも無理をしては駄目よ。何かあったら、いつでも言ってちょうだい!」
「ありがとうございます」
仕方ないとはいえ、ここでも病弱設定にされているようだ。
「宵闇さん、大変だったのね」
「――え?」
それが自分の名だと認識するのに数秒かかった。まだ慣れていないどころか、まるで自分のことではないように感じてしまう。
「あの、出来れば名前で呼んでもらえると嬉しいです」
「そう? じゃ、気軽に桜子って呼んじゃうけど、いい?」
「はい、そうしていただけると助かります。あまり、宵闇という苗字に慣れなくて」
「確かに独特な苗字よね。でも綺麗、なんていうか風流! しかも桜子って、名は体を表すというけれど、どちらも美しい名ね。あなたに似合いすぎってくらいよ。そうだ、あたしのことも気軽に聡子と呼んでちょうだいね」
「よろしくお願いします。聡子さん」
「あなた、もしかして緊張してる? そんな畏まらなくていいのよ。敬語も止めてちょうだい。友達なんだから」
初めての友達は三つ網に、大きな瞳が印象的な子。屈託のない物言いが好ましく、それでいて人慣れしていない桜子を気遣い丁寧に接してくれた。
ひと段落したところで、見守っていた女子たちも話の輪に加わる。途中入学者という扱いは、どうしても注目の的になるようだ。
「ねえ、ときに桜子さん」
にじり寄ってきた学友に桜子は首を傾げる。
「あの素敵な男性はどなた?」
素敵な男性という表現に、誰のことか全く思い浮かばなかった。
「入学案内をもらいにいらした人よ! 先生方の間でも素敵だと話題になっていたわ! お兄様かしら? でも、あまり似ていないのね」
ようやく誰のことか思い至る。桜子ですら妖と知らなければ兄と解釈していただろう。
「いいえ。一応、父です」
一応と付けてしまったのは未だに自分でも不安なので仕方ない。むしろ義理の兄とか、そういう設定の方がまだ現実味があるのに。いかんせん、見た目が若すぎるのだ。
嵐の前の静けさとはこのことで。静まり返った後、女学生たちの怒涛な叫び声の嵐が過ぎ去った。誰しも思うところは同じようで、あんな若くて見目麗しい男性が父親なんて反則らしい。こうして桜子は質問攻めにされた。
手続きや校則の説明があり、桜子は夕暮時まで残されてしまう。待っていると申し出てくれた聡子には悪いが遠慮させてもらった。いつまでかかるとも知れないのに、待たせるわけにはいかない。実際、聡子に別れの挨拶を告げてから随分時が経っている。
「早く帰ろう」
そう思ったはずが、足が止まっていた。門まではまだ距離がある。
(帰る……? あそこへ、帰るの?)
家に帰るのは自然なこと。ただ、あそこを自分の家と認めてしまうのが躊躇われた。それは宵闇桜子だと認めるということで、もう日ノ宮桜子ではいられない。
宵闇家で暮らしてから敷地の外に出るのは初めてだった。簡単に外出も認めてくれる。ましてや学校に通わせてくれる。あの男は桜子が逃げる心配などしていない。それが優しさなのか甘さなのか、はては余裕なのかも窺い知れない。
後ろめたさを感じるのは日ノ宮家への未練があるから。戻れる日は来ないのかと、どこかで望んでいるのだ。本当の父や、母、兄に会いたいと。
暗くなるに従って、桜子の心にも闇が広がっていく。一人取り残されてしまったような、居場所がなくなる心細さが襲う。
宵闇家への道筋は知っていて、朝も迷うことはなかった。それなのに足が動くことを拒絶している。
「桜子」
はじかれるように顔を上げると、門の傍らには無月が立っていた。
「どう、して……」
動こうとしない桜子に焦れたのか、無月は自ら距離を縮めた。どうしてここにと問うことも忘れてしまう。
「帰りが遅い。迷ったのかと、迎えに来た」
無月は立ち尽くす桜子の手を引く。まるで、いや明らかに心配したと言われているのだ。
「わたくし、そんなに子どもではありません」
「俺から見れば――」
「人など皆、赤子同然? まったく、過保護な方」
桜子は諦めたように笑っていた。
(迎えに来るなんて、どれだけ過保護なの)
無月までこの場に立ちつくさせるわけにはいかない。桜子は緩く引かれた腕に倣った。
「帰りま、しょうか」
自ら切り出していた。
未練を捨て切ることは出来ないけれど、帰ることが許されている。それはなんて胸が温かいのだろう。満たされたせいか、当然のように口にしていたのだ。
この喜びは、おそらく無月に伝わっていない。彼は妖というけれど、心が読めるわけではない。だから伝えたければ言葉にするしかないのだ。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
率直な感謝を告げれば無月は目を丸くする。
「な、どうしてそこで驚くの!」
「いや、お前から感謝を告げられるのは……初めてだろう」
「そうかしら?」
「そうだ。俺がお前との会話を一言一句忘れるはずがない」
それもどうかと思うが、桜子がもっとどうかと反省したのは自分の行いだ。
学校に通わせてくれたことや、迎えに来てくれただけではない。服や、食事だって、もっと感謝を告げるべき場面はたくさんあったはずだ。それを今まで綺麗さっぱり忘れ去っていたなんて、人として失格だと己を戒める。
「お父様。今までのこと、たくさん、ありがとうございます」
直ぐにでも告げなければという使命に駆られていた。
「改まってどうした? そう素直になられると、気持ち悪い」
「失礼な!」
言うに事欠いて気持ち悪いとは酷い。喧嘩を売っているとしか思えない。一転して怒った桜子だが、無月は至極楽しそうだった。これは喧嘩ではなく、ただの文句。
帰路に立ち、桜子はちらりと隣を窺う。何かを話せと、あれ以来無理強いされることはなくなった。けれど今は、無性に話したい気持ちが押さえきれない。
「お父様、わたくし友達が出来たの」
強要されたわけでもないのに自然と話しかけていた。無月は黙って耳を傾け、ひとしきり感激を語り終えた頃合いで「それはよかったな」と共に喜んでくれた。
(こういうのが、家族なのかしら)
夕日に照らされた影は二つ、見た目だけなら仲の良い親子……にはどうあっても見えないけれど。
それでも優しくて、まるで家族のような帰り道だった。




