第2夜 正義を忘れるな
夕方。
相馬モータース地下工房。
カン。 カン。
工具の音が静かに響いていた。
黒崎蓮は壁に飾られた古い写真を見つめていた。
幼い自分。
父・黒崎恒一。
そして若い頃の相馬修司。
三人とも笑っている。
蓮は小さく笑った。
「親父、若いな。」
相馬は工具を回しながら答える。
「お前も小さい。」
「うるさい。」
「今でも中身はそんな変わらん。」
「それは否定できない。」
二人は少し笑った。
しばらくして相馬が工具を置く。
「おい。」
「ん?」
「今日はまだ鍛えてない。」
蓮の顔が少し引きつる。
「仕事終わりなんだけど。」
「言い訳か?」
「違う。」
「じゃあ来い。」
「はいはい。」
地下工房の奥。
そこには小さな訓練場があった。
木刀。
サンドバッグ。
トレーニング器具。
誰も知らない秘密の道場。
蓮は木刀を握る。
相馬も一本取った。
「始めるぞ。」
「お願いします。」
次の瞬間。
バシッ!
「痛っ!」
開始一秒。
蓮の額に木刀が直撃した。
「何すんだよ!」
「構えが甘い。」
「いきなり!?」
「敵は待ってくれん。」
蓮は額を押さえる。
相馬は真顔だった。
「もう一回。」
「鬼かよ。」
「まだ優しい方だ。」
蓮はため息を吐いた。
だが構え直す。
次の瞬間。
踏み込む。
木刀がぶつかる。
バチィッ!
衝撃。
すぐに二撃目。
三撃目。
四撃目。
蓮は必死に食らいつく。
だが。
バシッ!
「いてっ!」
また額だった。
「だから構えが甘い。」
「親父も同じこと言ってたな。」
その言葉に。
相馬の動きが少しだけ止まる。
「当たり前だ。」
「お前の親父に教わったからな。」
蓮は少し驚いた。
「そうなのか?」
「警察学校の頃にな。」
相馬は木刀を肩に担ぐ。
「俺が何回ぶっ飛ばされたと思ってる。」
「想像つかないな。」
「今のお前より弱かった。」
「マジか。」
「マジだ。」
二人は笑った。
その瞬間。
蓮の頭に昔の記憶がよみがえる。
――十年前。
黒崎家。
「ただいまー!」
ランドセルを放り投げる。
テレビがついていた。
ニュース速報。
アナウンサーの声が響く。
『昨夜、市内で大規模な殺人事件が発生しました。』
幼い蓮はテレビを見る。
パトカー。
救急車。
規制線。
画面には大きく映し出される文字。
【黒影社壊滅】
『暴力団組織・黒影社の本部および関連施設で多数の遺体が発見されました。』
『確認された死者は三百名を超えています。』
『現場には銃器による発砲痕も確認されています。』
『しかし死因の多くは刀のような鋭利な斬撃によるものでした。』
『警察は複数犯による犯行とみて捜査していますが、現場の状況からは説明できない点も多く――』
蓮の目が大きくなる。
「さんびゃく?」
子供には想像もできない数字だった。
テレビでは専門家たちが騒いでいる。
『あり得ません!』
『三百人ですよ!?』
『軍隊でも投入されたんじゃないですか!?』
『警察は単独犯の可能性も捨てていません。』
蓮は首を傾げる。
『現場の遺体には共通点があり、多くが刃物のような鋭利な傷によって死亡していました。』
『警察は同一人物による犯行の可能性も含めて捜査を進めています。』
「一人で?」
蓮は思わず呟いた。
その時。
玄関が開く。
父が帰ってきた。
「ただいま。」
「お父さん!」
蓮は駆け寄る。
そしてテレビを指差した。
「これ!」
「見た?」
恒一はニュースを見る。
その瞬間だけ。
ほんの少し表情が変わった。
だがすぐにいつもの顔へ戻る。
「見たよ。」
蓮は聞く。
「黒影社って悪い人たち?」
「ああ。」
「すごく悪い人たちだ。」
蓮はテレビを見る。
人身売買。
薬物。
恐喝。
殺人。
様々な犯罪が紹介されていた。
蓮は真っ直ぐ言った。
「じゃあ。」
「やっつけた人ってヒーローじゃん。」
恒一は少し困った顔をした。
「どうしてそう思う?」
「だって悪い人を倒したんだよ?」
「じゃあヒーローじゃん。」
しばらく沈黙。
やがて恒一は蓮の頭を撫でた。
「世の中はそんな簡単じゃない。」
「え?」
「悪を倒したから正義。」
「人を殺したから悪。」
「そんなふうに簡単には決められない。」
蓮には難しかった。
だけど。
ニュースの向こう側にいる誰か。
顔も名前も知らない誰か。
その人は。
なぜか格好良く見えた。
その夜。
布団の中。
蓮は天井を見つめる。
そして呟いた。
「俺も。」
「悪い人をやっつけるヒーローになりたい。」
――数年後。
恒一が亡くなった後。
相馬モータース。
夕暮れ。
工場の裏。
高校生になった蓮は木刀を振っていた。
何度も。
何度も。
汗を流しながら。
相馬はそれを黙って見ていた。
やがて口を開く。
「やめろ。」
蓮は止まらない。
「聞いてるのか。」
「聞いてる。」
木刀が止まる。
蓮は振り返る。
「俺は戦う。」
相馬は即座に否定した。
「やめろ。」
「お前の父親はその道で死んだ。」
「だから何だ。」
「だから同じ道を歩くな。」
蓮の目は真っ直ぐだった。
「悪を見て見ぬふりなんてできない。」
「俺は親父が守ろうとしたものを守る。」
「悪と戦う。」
相馬は言葉を失う。
その目が。
昔の恒一と重なった。
何度倒れても立ち上がる男。
正義を曲げなかった親友。
相馬は苦しそうに目を閉じる。
「……似てるな。」
「え?」
「本当に。」
「お前はあいつに似てる。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて相馬は工房の奥へ歩き出す。
重い扉の鍵を外す。
ガコン。
薄暗い部屋の照明が点いた。
そこにあったのは――
黒いスーツ。
黒いマスク。
特殊装備。
未完成のバイク。
蓮は息を呑んだ。
「これは……。」
相馬は苦笑した。
「お前の父親に無理やり頼まれてな。」
「警察を辞めてから、こっそり準備してたんだ。」
「法律で裁けない悪と戦うためにな。」
蓮は言葉を失う。
相馬は続けた。
「本当は渡したくなかった。」
「お前には普通に生きてほしかった。」
「恒一とも約束した。」
「息子を守るってな。」
蓮は静かに答える。
「守られてるだけじゃ終われない。」
相馬は長く息を吐いた。
そして言う。
「……分かった。」
「なら俺がお前を鍛える。」
蓮の目が見開かれる。
「本当か?」
「ああ。」
「ただし。」
相馬は木刀を蓮に投げる。
「死ぬほど鍛える。」
「覚悟しろ。」
蓮は笑った。
「お願いします。」
――現在。
地下道場。
蓮はゆっくり目を開いた。
相馬が木刀を構えている。
「どうした。」
「いや。」
蓮は苦笑した。
「親父を思い出した。」
相馬は少し笑う。
「説教か?」
「説教だ。」
「それなら安心だな。」
「なんでだよ。」
「お前の親父は説教が長かった。」
「それは分かる。」
二人は笑った。
だが次の瞬間。
バシッ!
「いてぇ!」
「よそ見するな。」
「今の絶対卑怯だろ!」
「敵は待ってくれん。」
「またそれか!」
蓮は文句を言いながら立ち上がる。
それでも木刀は離さない。
相馬はそんな姿を見ながら言う。
「強くなりたいか。」
蓮は即答した。
「ああ。」
迷いはなかった。
相馬は静かにうなずく。
「なら立て。」
蓮は木刀を握り直す。
「はい。」
夕陽が差し込む地下道場。
木刀がぶつかる音が響く。
バチィッ!
何度倒れても。
何度打たれても。
蓮は立ち上がる。
あの日憧れたヒーローの背中。
父から教わった正義。
相馬から受け継いだ覚悟。
その全てが――
黒崎蓮をノワールナイトにした。
だから黒崎蓮は立ち上がる。
誰かを守るために。
正義を忘れないために。
――ノワールナイトとして。




