第1夜 黒い羽
前作『悪の剣』を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
本作『ノワールナイト』は、『悪の剣』と同じ世界を舞台にした新たな物語です。
前作を読んでいなくても楽しめる内容になっていますので、初めての方も安心して読んでいただければ幸いです。
正義とは何か。
悪とは何か。
これは、一人の青年が闇の中で答えを探し続ける物語です。
どうぞ最後までお付き合いください。
――その夜も、悪が一つ消えた。
夜。
冷たい雨が、港湾倉庫街を静かに濡らしていた。
人気のないコンテナ置き場。
一人の男が地面へ投げ飛ばされる。
「ぐあっ……!」
男は四十代ほどの会社員だった。
スーツは泥だらけ。
顔には殴られた跡が残っている。
周囲を十数人の男たちが囲んでいた。
「もう一度聞く。」
リーダー格の男がしゃがみ込み、男の髪を掴んで顔を上げさせる。
「警察に喋ったのは、お前か?」
「ち、違う……!」
「私は何も……!」
バキッ!
拳が頬にめり込む。
男は血を吐きながら倒れた。
「娘さん、小学生だったよな?」
リーダーはスマホを取り出す。
画面にはランドセル姿の少女。
男の表情が凍りつく。
「やめてくれ……!」
「娘だけは関係ない!」
「頼む!」
男たちは笑う。
「安心しろ。」
「親子で仲良く海に沈めてやる。」
その時だった。
カツン。
乾いた足音。
男たちの笑いが止まる。
街灯の下。
一人の男が立っていた。
黒いロングコート。
黒いスーツ。
漆黒のマスク。
雨粒が肩から静かに落ちる。
誰も顔は見えない。
「……誰だ?」
返事はない。
黒い男はゆっくり歩き出す。
コツ……。
一歩。
コツ……。
また一歩。
なぜか。
その場にいた全員が息をのんだ。
リーダーが鉄パイプを肩に担ぐ。
「おい。」
「何しに来た。」
黒い男は静かに止まる。
そして短く言った。
「最後の警告だ。」
「その人から離れろ。」
男たちは顔を見合わせる。
そして大笑いした。
「映画のヒーローか?」
「一人で何ができる!」
「やれ!!」
十数人が一斉に走り出す。
その瞬間。
黒い男が消えた。
「なっ——」
ドゴォッ!!
先頭の男が吹き飛ぶ。
続けて。
バキッ!
ゴッ!
ドンッ!
拳。
肘。
蹴り。
一切の無駄がない。
武術だけで男たちを圧倒していく。
「囲め!」
「後ろだ!」
ナイフを持った男が背後から迫る。
しかし。
黒い男の腕がわずかに動く。
シュッ!
黒い羽のような刃が夜を裂く。
キィン!!
ナイフだけが弾き飛ばされた。
「なっ!?」
男の腕に浅い傷が走る。
数秒後。
「う……。」
膝をつく。
「身体が……動かねぇ……。」
黒い男は静かに言った。
「麻酔だ。」
「安心しろ。」
「命は取らない。」
男たちの顔から笑みが消えた。
「化け物……。」
「こいつ……!」
リーダーが懐から拳銃を抜く。
会社員の男の頭へ突きつける。
「動くな!」
「一歩でも近づけば撃つ!」
「ブランに逆らった時点で終わりなんだよ。」
黒い男は止まる。
静寂。
雨音だけが響く。
そして小さく口を開く。
「お前は勘違いしている。」
「……あ?」
「俺が見ているのは、お前じゃない。」
次の瞬間。
シュッ!!
フェザーブレードが飛ぶ。
狙ったのは拳銃ではない。
男の後ろにあった投光器。
バァン!!
ガラスが砕ける。
辺りが闇に包まれた。
「見えねぇ!」
「どこだ!」
混乱。
その一瞬。
黒い影が闇を走る。
ドゴッ!!
鈍い音。
明かりが戻る。
リーダーは地面に倒れていた。
拳銃は遠くへ転がっている。
会社員の男は無事だった。
黒い男は静かに背を向ける。
誰も追えない。
誰も立ち上がれない。
雨の中。
黒いコートだけが遠ざかっていく。
その場に残ったのは——
黒い羽が一枚。
パトカーの赤色灯が、雨に濡れた港を照らしていた。
「救急隊、こちらです!」
「負傷者は全員意識あり!」
警察官たちが慌ただしく現場を駆け回る。
若い刑事が倒れている男たちを見て目を丸くした。
「全員……生きてる。」
「しかも骨折はあるが、致命傷はない。」
「これ、本当に一人でやったのか……?」
その横を、一人のベテラン刑事が静かに歩いていく。
視線は現場ではなく、地面へ向いていた。
ふと足を止める。
しゃがみ込み、雨に濡れた"黒い羽"を拾い上げる。
若い刑事が首をかしげた。
「それは?」
ベテラン刑事は羽についた雨粒を指で払う。
「……また残していったか。」
「知ってるんですか?」
しばらく沈黙が続く。
やがてベテラン刑事は小さく息を吐いた。
「悪人だけが裁かれる事件。」
「現場には必ず、この黒い羽が一枚。」
「都市伝説みたいな話だが……。」
羽を証拠袋へ入れ、静かにつぶやく。
「ノワールナイト。」
その名前だけが、静かな港に溶けていった。
翌朝。
午前六時三十分。
目覚まし時計が鳴る。
ピピピピッ。
布団から伸びた手がアラームを止めた。
「……朝か。」
昨夜とは違う、少し眠そうな声。
ベッドから起き上がった青年は、鏡の前に立つ。
黒崎蓮、二十五歳。
頬には昨夜についた小さな擦り傷。
「また怒られるな……。」
苦笑いしながら絆創膏を貼る。
スーツに着替え、ネクタイを締める。
テレビをつけると、ニュースが流れていた。
「昨夜、港湾倉庫で暴力団関係者十数人が倒れているのが発見されました。」
「全員命に別状はなく、警察は事件との関連を調べています。」
蓮は黙ってテレビを消した。
コーヒーを一口飲み、静かに家を出る。
夕方。
仕事を終えた蓮は、駅とは反対方向へ歩いていた。
古びた看板。
相馬モータース。
シャッターを開ける。
ガラガラ……
工具の音が響く。
作業着姿の男が振り返った。
「おう。」
相馬修司だった。
蓮は少し笑う。
「ただいま。」
相馬も笑い返す。
「おかえり。」
少し間を置いて、蓮の顔を見る。
「……傷、増えたな。」
「少しだけ。」
「その"少し"が毎回高くつくんだ。」
蓮は肩をすくめる。
相馬は工具を置き、奥へ歩き出した。
「飯はまだだろ。」
「地下で食うぞ。」
蓮は静かにうなずく。
工場の奥。
工具棚がゆっくり横へ動く。
その先に広がる秘密工房。
黒いスーツ。
ナイトブレード。
フェザーブレード。
整備中のナイトバイク。
そして壁には、一枚の古い写真。
幼い蓮。
父・黒崎恒一。
そして若い頃の相馬。
蓮は写真の前で立ち止まる。
相馬は何も言わない。
ただ、蓮の横に立つ。
静かな地下工房に、工具の金属音だけが響いていた。
その部屋の奥には、一つだけ鍵のかかった机がある。
十年間。
誰も開けていない引き出し。
蓮は一瞬だけ視線を向ける。
しかし、すぐに目をそらした。
相馬は静かに言う。
「……まだ開けないか。」
蓮は小さくうなずく。
「まだ、その資格はない。」
相馬も、それ以上は何も聞かなかった。
地下工房の照明が静かに落ちる。
この街の誰も知らない。
昼は平凡な会社員。
夜は、悪だけを狩る黒い騎士であることを。
――その夜も、悪が一つ消える。
黒い羽だけを残して。




