第18夜 狂気の薬
昼。
とある拘置所。
面会室。
一人の男が、ガラス越しに座っていた。
VALONの元ボス。
かつて街の裏社会で名を知られた男だった。
その前に座るのは、一人の弁護士。
黒いスーツ。
整えられた髪。
落ち着いた表情。
男の名は――
神谷大地。
犯罪者の弁護ばかりを担当することで、警察の間では有名な弁護士だった。
そして――
彼には、もう一つの顔がある。
ブラックレジデンスの幹部。
神谷は資料を閉じる。
「では、そろそろ本題に入りましょう」
VALONのボスは苛立ったように身を乗り出した。
「いつ出られそうだ?」
「……」
「早く出してくれ。俺にはここは窮屈なんだ」
神谷は微笑む。
「まあ、そう焦らないでください」
「俺をここから出すんだろ?」
「もちろんです」
神谷は眼鏡を直す。
「ただし……あなたをここから出した報酬は?」
男が眉をひそめる。
「いくらがいい?」
「お金ではありません」
「……じゃあ、なんだ?」
神谷は静かに答える。
「我々の組織、ブラックレジデンスに入っていただきたい」
「……ブラックレジデンス?」
「ええ」
神谷は椅子に深く腰掛ける。
「我々の組織は、まだ小さい」
「……」
「ですが、成長途中です」
神谷の口元に笑みが浮かぶ。
「これから、もっと大きくなる」
「……」
「ビジネスも拡大していかなければならない」
神谷は男を見つめる。
「だからこそ、あなたの組織にいろいろと託したい」
「どうです?」
そして――
「悪くないでしょう?」
VALONのボスはしばらく黙っていた。
やがて、鼻で笑う。
「そうか……」
神谷を見る。
「だがな、若造」
「……」
「俺は、どこの馬の骨かも知らない奴に従うつもりも、組むつもりもないんでな」
男は笑う。
「金ならいくらでも払ってやる」
そして立ち上がる。
「だから、さっさと俺をここから出せ」
神谷はしばらく男を見つめていた。
「……そうですか」
笑顔が消える。
「それは残念だ」
神谷は、ゆっくりと立ち上がる。
そして――
懐から白いマスクを取り出した。
悪魔を思わせる、不気味なデザイン。
神谷はそれを顔に装着する。
「な、なんだ……?」
神谷は無言のまま、ポケットから小型のスプレーを取り出す。
そして、ガラスの下にわずかに開いた隙間へスプレーのノズルを差し込む。
――シュッ!
薬が男の顔に吹きかけられる。
「うわぁぁぁぁぁ!」
男が顔を押さえる。
「何をしやがった……!」
男の身体が震え始める。
「やめろ……!」
「……」
神谷は何も答えない。
男の目が見開かれる。
「……あれ?」
誰もいない場所を見つめる。
「おい……誰だ……?」
そして――
笑い始める。
「ハ……」
「ハハ……」
「ハハハハハハハハハ!」
男は突然立ち上がり、面会室の壁を叩き始める。
「いる……!」
「そこにいるぞ!」
「やめろ! 来るなぁぁぁ!」
警備員たちが駆けつける。
「どうしました!」
男は暴れ続ける。
「俺を殺す気かぁぁぁ!」
神谷は静かに立ち上がる。
そして、警備員へ向かって頭を下げた。
「申し訳ありません」
「……?」
神谷は困ったような表情を浮かべる。
「獄中生活で、あの人は頭がおかしくなっているようです」
「話し合いにもなりませんでした」
「危険ですので……精神科の受診をおすすめします」
警備員が男を押さえる。
「待て……!」
「お前……!」
「俺は……!」
神谷は振り返らない。
静かに面会室を出ていった。
廊下を歩きながら――
神谷の口元が、わずかに歪む。
「……残念でしたね」




