猫の日2024『白猫の憂鬱』
2024年に書いた猫の日のお話。ジャンヌとライル、ちょっとだけエルミニア。
階段を降りるとすぐにダイニングキッチンに繋がるリビングが目に入る。自分より先に起きていたらしい少女は何をするでもなく、まるでそこにあるのが自然なぬいぐるみの様にソファに沈み込んでいた。寝癖のおかげでいつもより些か癖の強くなった黒髪をかき上げた青年は少女と脚が触れ合う距離に腰をおろした。
「相変わらず早いなライルは」
ライルと呼ばれた少女はまだ少し瞼に残った眠気を数回瞬きをして払った。
「おはようございますジャンヌ。朝食にしますか?」
短く肯定の返事をする。白い綿のような髪を指で軽くすきながら撫でるついで、引き寄せた顔に張り付いた薄い唇をそっと舐めるだけのキスをする。抵抗はなかった。いつ、どのような場面で、機嫌を損ねずに触れることができるのはどこまでか、ジャンヌにとってそれを測ることはもはや習慣になっていた。
*
「パンは切らしてしまってて、あるのは小麦粉とバター、卵、牛乳……スコーンかパンケーキにしましょうか。あっ頂き物のお米もありますね、炊いてみます?」
「いや……今朝はパンケーキの気分かな」
「ふふふ、実は私もです」
冷蔵庫の扉を両手で閉めて、ライルは笑った。
2人並んで作業台の前で手を動かしていた。ライルがパンケーキを担当し、ジャンヌはトッピングの準備を担当する。数分前にジャンケンで決めた。
サワークリームと生クリームを合わせたものを空気を含ませながら撹拌する。ハンドミキサーを使えば早いのだが、朝からあの壮絶な機械音と削られるボウルの悲鳴に鼓膜を攻撃されるのは御免被る。そして少しでも力仕事であるならぜひ自分に任せて欲しい。腕力についての言及は我々にとって全く意味はないが、可能な限り頼られる機会を増やしたい。甘やかさせろ。
すぐ隣で狐色の満月を量産しているライルの手はまるで短い動画をループ再生しているかの如く正確で淡々としていた。
重ねられた薄めのパンケーキ、クリーム、果物、蜂蜜、昨日の残りのスープを食べ終わり、後片付けをするライルの横でジャンヌは牛乳と砂糖をたっぷり入れたコーヒーを淹れていた。
「ありがとうございます」
ひと段落したころを見計らってカップを渡し、テーブルではなくソファの方に着席を促した。ライルは甘いコーヒーを少しずつ、少しずつ、息を吹きながら、火傷をしないようゆっくりと口に運んでいた。その様子をジャンヌは頬杖をつきながら目を細めて見守っていた。
「さて、じゃあずっと気になってたことについて聞かせて貰おうか」
ライルは半分ほどまで減ったカップを置くと、姿勢を正して真っ直ぐジャンヌの目を見た。
「その、頭の、猫耳と尻尾、どうした??」
ずっと気になってたこと。今朝彼女を一目見たときからずっと。ソファの背もたれからぴょこんとはみ出す2つの白い三角形。ライルが笑うたびゆらゆら揺れる長い尻尾。彼女の調子があまりにもいつも通りだったために幻覚かと思って確認のため頭に触れたが、柔らかな毛並みの感触があった。何かと障害物の多いソファの上、尻尾はクッションを避けてすとんと収まっている。触れる。実在がある。なんだこれ。なんなんだこれ。
数秒の沈黙。困ったようにこてんと首を倒すライルはなんとか笑顔を取り繕った。
「そ、ですか……やっぱりこれ見えてますか。私の幻覚じゃないんですね……そっか……」
ライルが自身の猫耳を触る。指先に反応してぴこぴこと動く。尻尾は不安げに彼女の太腿に寄り添っている。
「な」
「な?」
「は」
「は?」
「う……ぎゃ、わあああああああああああああああ!!!!!!!!! なんなんですかコレはあああああああああああああああ!?!?!!?!??!!?!」
晴天の白昼にネコミミ吸血鬼の絶叫が響き渡った。
*
「落ち着いたか?」
「ううう……はい……なんとか」
絶叫から半刻ほど、比喩抜きに全身の毛を逆立てて錯乱するライルをなんとか宥めることに成功した。当の本人は頭から毛布を被りネコミミシルエットのてるてる坊主と化している。
「まず原因に心当たりは?どんな些細なことでもいい」
時折ぴこぴこするネコミミ坊主を触りたい欲望を噛み殺しつつ、探偵タイムを開始する。
「ないです。いつも通りジゼルさんのとこにお邪魔して、帰ってからはあなたと一緒でした」
「だよな」
しょんぼりするネコミミ坊主。それを見ないようにしつつジャンヌは顎に手を当てる。
「あの、エルミニアさんにご相談してもいいでしょうか? 昨日も帰り際に何かあったらいつでも頼れと言ってくださいました」
「ん? 待てあいつに会ったのか?」
「あ、はい。そうでした。昨日お店にいらしてたんでした」
どうして忘れてたんでしょ? とネコミミは続ける。
「カンザンの有名な茶葉が手に入ったからって、ジゼルさんに。ちょうど休憩中だったので同伴されてたカスタニエさんも一緒に4人でお茶をいただきました……あの、どうしたんですかジャンヌ」
ネコミミが心配そうに傾く。俯いた黒髪が片手で顔を覆いながら肩を震わせていた。
「……ふ、ふ、ふ。あっはっはっはっはっはっはっ!!!!!!」
突然立ち上がったジャンヌにネコミミと尻尾がビクリと震える。今の2人はまさに主人の急な乱心にわたわたと慌てる飼い猫のそれである。
ひとしきり笑い、息を整えたジャンヌの顔に表情はなかった。
「……行くぞ。犯人が分かった」
*
「おや、おふたりさん。いらっしゃ」
「いじゃないんだよヤブ医者ァ!!!!!! 貴様今度は何をしでかした!?!!??!!?」
鍵も結界も招かれざる者の制約も全スルーして実験室の扉を蹴破ったジャンヌは白衣姿のエルミニア女医に詰め寄った。
「ええー? しでかしたとは人聞きが悪いな。最高に可愛いだろう?」
「よしやはりお前の仕業だな一体どんな了見で他人の所有物に持ち主の許可なく得体の知れない薬を盛った」
長い前髪をかき上げたエルミニアは煌めく硫酸鉄の双眸で涼やかに言った。
「猫耳を生やすのは得意なんだ」
「ドヤ顔で語る内容じゃないし返答になっていないッ!!」
2人のやり取りを遠巻きに眺めていたネコミミもといライル。正直なところ一刻も早くこの落ち着かない耳と尻尾から解放されたいので戯れあってないでさっさと戻る方法を聞き出してもらいたい。が、今ネコミミ被害者張本人である自分が横槍を入れたところでネコミミいじりが始まるだけだろう。話がまとまるまで静かに待つことに
「まず一言俺に許可を取れと言っているんだ!! でないとせっかくこんな面白いことになってるのに原因探しのせいで素直に楽しめないだろうが!!!!」
「いや怒るポイントそこなんですか!?!?」
できなかった。ツッコミを入れてしまった。珍しくまともに声を荒げていると思ったらコレだった。彼の享楽主義は出会った頃から変わらないし好ましい点でもある。が、やはり慣れない。というか永遠に慣れそうにない。諦め半分にネコミミごと項垂れたライルは長いため息をついた。
*
「つ、疲れました……!」
帰宅して早々、上着も脱がないままライルは巨大クッションにダイブした。こちら少し前に世界全土で爆発的にヒットした人をダメにするアレである。今じゃどこのご家庭にも一台はある。外出したついでにと、ジャンヌに色々な店に連れ回されて体力が尽きかけていた。……見間違いじゃなければ首輪とか猫用のおもちゃとか買ってたなこの人。
エルミニア曰く明日目が覚める頃には勝手に耳と尻尾は消えるらしい。念の為に用意されていた元に戻る薬をジャンヌが受け取り、2人はエルミニアの実験室を後にした。去り際、エルミニアとジャンヌが親指を立て合っていたのを見てライルはさらに深くため息をついた。
「ライル」
名前を呼ばれた白猫が顔を上げると、彼女の主人が上から覗き込んでいた。束ねた黒髪と耳飾りが垂れ下がり、ゆらゆらと揺れていた。
「ビーズクッションに猫は禁忌。休むのはいいが場所を変えよう」
まさに猫を撫でるような口調にライルはむっと唇を尖らせた。
「心配しなくても引っ掻いて壊したりしません。爪も別に尖ってませんし。猫扱いしないでください」
「ははは、そうか。それじゃあこの手は一体どうしたんだろうな?」
え? と、そこで初めて自分の両手に意識を向けたライルの顔面が一瞬で赤く染まった。ふわりふわりと揺れるジャンヌの黒髪。ライルの右手は必死にそれを捕まえようと忙しなく動いていた。
「あ、や、待ってくださいこれは違っ……」
行き場をなくした右手にジャンヌの指が絡む。そのまま抱き起こされたライルはジャンヌの寝室に強制連行された。
ジャンヌが寝室として使っている部屋にはこの家で1番大きいキングサイズのベッドがある。ここなら戯れて暴れて転んでも安心だと、ジャンヌは自分の寝台の上にライルを下ろした。
「いいですわざわざこんなことしなくて! 元に戻る薬貰ってるんですよね? それを早く下さい!」
「そう焦るなよ。ほら、欲しいのはこれか?」
言いながらジャンヌは褐色の香水瓶のような容器に入った液体をライルの眼前に差し出す。それを受け取ろうと伸ばしたライルの右手が空を切った。
「なに、なんのつもりですか」
嫌な予感がしたライルはジャンヌを睨んだ。そこにはやはり、もはや見慣れた底意地の悪い笑顔が張り付いていた。
「せっかくだから少し遊ぼう。これが欲しいんだろ? なら好きに奪ったらいい」
遊ぼう、という言葉にライルの尻尾がぴくりと動いた。
「上等です」
*
正面から真っ直ぐ、僅かに死角になる右側から、フェイントをかけて、姿勢崩したフリをして受け止めようとしてきたところをカウンターで、ライルはありとあらゆる手を使って薬を奪おうとするが、対するジャンヌもありとあらゆる手を使ってのらりくらりと攻撃を躱す。ひとしきり戯れあった終いに、ジャンヌは薬を片手に高く掲げてしまった。こうされてしまってはジャンヌより背の低いライルにはなす術が無い。
「どうした? ほら、このまま俺の勝ち逃げで終わるか?」
あからさますぎる挑発。いつものライルならあえて取り合わずに明日の朝まで自室に引きこもることを選ぶだろう。だが今は、この煩わしい耳と尻尾のせいか、気持ちの抑えが効かなかった。いいだろう。そんなに遊びたいと言うならお気に召すまま、猫らしくとことん遊んでやろう。ライルは両脚にぐっと力を込めた。
——ジャンヌとの攻防に夢中になっていたライルは忘れているが、ここはベッドの上である。
「え。ちょっと待ったライルストップ——!」
そんな場所で思いきり跳躍などすれば、飛びかかった方も受け止める方もただでは済まない。ジャンヌが静止の声をかけるも時すでに遅し。案の定バランスを崩した2人はベッドに倒れ込んだ。
「痛……くはないな。無事か?」
広いベッドの上、ジャンヌはライルに押し倒させれる形で倒れていた。
「大丈夫です……ってそうじゃないです! ご、ごめんなさいジャンヌ! すぐに退きますから!」
頭が冷えたライルはネコミミをしょんぼりさせながら慌てて離れようとするが、絡み合ったお互いの指がそれを許さない。
「いや構わないよ。それよりほら、お前の勝ちだ」
ジャンヌの視線が促す方に目をやると、彼の右手とライルの左手の間に、褐色の香水瓶があった。
「どうした? 奪ってみろと言ったのは俺だ」
「う、で、ですが」
確かにそういう約束ではあった。が、頭に血が上って乱暴な行動に出てしまったこと、あと少し場所が悪ければ怪我をさせてしまっていたかもしれないこと。罪悪感と後悔が、ライルに素直に薬を受け取ることを躊躇わせていた。
そんな彼女の心情を察したジャンヌはふっと軽く息を吹いて笑った。上体を起こし、しょんぼり白猫を両脚の間に座らせる。ぺたんとしおれた猫耳ごと頭を撫で、そのまま顎の下まで指を這わせる。ライルの喉から普段は鳴ることがない音が聞こえた。気恥ずかしさより心地よさが勝ったらしいライルはやはり頬を赤くしながらも大人しく撫でられていた。
不意に愛撫をやめたジャンヌは薬の瓶を開け、中の液体を自身の口に含んだ。思いの外量は少なく、とろりとして甘い。
「な、何してるんですか!」
驚くライルに対しジャンヌは笑みを崩さない。そして細長い人差し指でとんとん、と自身の唇を叩いて見せた。その行為の意図するところを察したライルは赤い頬をさらに赤くするが、もはや彼女は彼に逆らえなかった。
せめて目を閉じていて欲しいというライルの切願通り、ジャンヌは目蓋を降ろしている。緊張に指先を震わせながら彼女はゆっくりと彼の頬に触れ、そっと唇を重ねた。拙い舌がジャンヌの唇を開くと、蜂蜜のような甘さと彼の舌がライルの口内に滑り込んできた。薬は受け取ったのだからもう離れよう、そう思ったライルだが顔が動かせない。いつのまにかうなじに回っていたジャンヌの手が逃がしてはくれなかった。今度は先ほどとは逆に、ジャンヌがライルを押し倒す形に倒れ込んだ。
ストップの意を込めてジャンヌの背中を叩くライルだったがジャンヌはそれを全く意に介さず、解放してやる様子は微塵もない。唾液を絡ませ、舌を弄ぶ。いつものライルとは違うざらざらとした感触にああここも猫なのかと感心した。中々に鋭利な凹凸だが絡み付く粘性の唾液のおかげで痛みはなく、新鮮で心地良い。口の端から溢れそうになる唾液を舐め取り出来る限りライルの口へ。薬を飲ませる意図は忘れていないらしく時折りこくりと喉が鳴った。——牙が疼く。元々そのつもりは無かったが、どうやら好きな相手の血液ほど美味に感じるという俗説は本当らしいとジャンヌは内心苦笑した。ライルに深く触れていると、どうにも喉が渇くのだ。既に抵抗しなくなった猫の舌を吸い上げて片方の牙を突き立てた。一瞬ライルの身体が強張ったが、すぐに毒が回り痛みは消え、再び弱々しく蕩けてしまった。噛み跡から溢れた血を啜りながら、小さな口を征服していく。甘ったるい薬と、お互いの唾液、血液、毒、2人の間を満たす液体は何が混ざり合ってできているのか、もう何も分からなかった。
*
ようやく解放された頃、ライルは失血と全身に及ぶ痛覚の麻痺、それからあらゆる感覚に過敏になってしまった神経のために起き上がることもままならなくなってしまっていた。まともにジャンヌの顔を見ることができない。
「薬の効果が出るまでは時間がかかるらしいし、今日は色々あって疲れたろうから少し眠るといい」
誰のせいですか、と言う悪態ももはや頭に浮かびすらしない。ライルは素直に礼を言うとなんとかジャンヌの方に顔を向けた。——相変わらず涼しい顔をしているな、この男は。
ジャンヌがライルの目蓋をそっと閉じ、キスをひとつ落とすと、彼女はすぐに静かな寝息を立て始めた。吸血鬼が己の眷属へ敷く支配は絶対的だ。意図的に意識を奪うことなど造作もない。
「おやすみ」
誰にも聞こえない囁きをひとつ残したジャンヌは寝室を後にし、エルミニアとの会話を思い出していた。
「まず、ライルちゃんに飲ませた猫耳と尻尾が生える薬だな。これは服用から約10〜12時間で効果が現れ、24時間継続する」
「そんでさっき渡したのが元に戻す薬。こっちは服用してから効果が出るまで、約16〜18時間かかる」
「待て、それほとんどの場合意味がないんじゃ」
「ああ。この薬は"飲ませても飲ませなくても結果は変わらない"」
「上手く使えよ? ジャンヌ」
窓の外にはまだオレンジ色の太陽が半分顔を出している。"今日"はまだ長い。白猫が目を覚ます前に、それらしい言い訳と、やりたい事の順番を考えておかなければ。




